「そうだったーっ!此処、嵐だよっ!たちの悪い黒ばっかじゃんっ…。って、黒に立たちのいい悪いは無いけど…」
目の前の断崖絶壁に向かって叫ぶ彼女。そして大きくため息を吐いた。
「ま、いっか。どうせブラムドだし。こんな足場じゃ対人まずムリだし。あのおじさんの名前教えてもらったら帰ろっと」
愛用のブラムドを肩に担ぐと彼女は、細く暗い階段を下りて行った。そしてナイスガイの前に立ち、彼を見上げて言う。
「そういえば、おじさん。誰だったっけ?冒険者?」
言われたナイスガイは苦笑交じりだ。
「名前を忘れた上に、おじさんだって?お兄さんって言ったら、教えてあげるけど」
「う〜ん…。ギリでお兄さんかな」
「じゃあ、教えない」
「え〜。気になるよ。もう少しで思い出すのに思い出せないっていうの、結構ストレスなのよね〜」
彼女の眉が潜まるが、表情は無垢な少女。彼女の真剣に悩む顔に根負けしたナイスガイは頭を掻き、もう一度自己紹介をした。
「俺は発掘者ブライジ。冒険者とは似ているかもしれないけど、違うよ」
「あーっ!そうそう!発掘者!冒険者はスキルヴィルのおっちゃんだったよ。まだ生身で会った事、無いけど」
彼女の笑顔と言葉に、発掘者ブライジは妙な事を言い出す。
「生身とかソウル体とか、あんたらも大変だな。そうだ。もし奥を目指すんなら、青い体の奴を連れて行くといいぜ」
彼女は疑問に思う。どうしてソウル体と生身を知っているのか。デモンズスレイヤーたちの特徴、特権ではなかったのだろうか。
「どうしてそれを?」
彼女は驚いてブライジに聞いた。
「此処は呪いの巣窟さ。あんたらが人まがいの体になったのも、此処の邪気に当てられたんじゃないかと思ったが、実際そうかもな」
彼女はその言葉に驚きを隠せない。色んな事が一気に起こって、こうなるべき物としか、受け入れるしかなかったのだからだ。
「私の体が、異常じゃないっていうこと?」
そう言う彼女はますます、目を丸くしている。ブライジはふうと、小さく息を吐いた。
「俺は古い歴史に触れてきたからな。始めは単に残虐な拷問を隠すためのカモフラージュとも思っていたが。あんたらを見ていて、
歴史は事実だったって思い始めている。此処はあんたらみたいな体を手に入れようと、権力者たちが人間の命を弄んだ場所なんだ。
だから俺は、あんたらの事は異常とは思っても、変だとは思っていない。むしろ、被害者じゃないかとも、思っているんだ」
ブライジは目の前の少女の肩に、そっと手を置いた。彼女の屈託の無い瞳は、疑問と不安が混じっていた。
だからこそ自身が持つ知識で、その不安だけでも取り除いてやりたいと思ったのだろうか。
「そんな体になりたくてなったんじゃないって事くらい、ボーレタリアの黒い歴史を知ってる奴なら分かっているさ」
本来なら語られる事のない黒い歴史であったとしても、不安に満ちた彼女の瞳は、次第に明るくなる。
「ありがとう、お兄ちゃん。なんか、こう…。いっぱい元気出た!」
彼女のとびっきりの笑顔よりも、「お兄ちゃん」というセリフにぐっとくるブライジは、大いに笑顔だ。
元気を取り戻した彼女は、振り返り奥へと走り出した。
「おいおい!今言ったばかりだろ!青い奴連れてけって!」
と、ブライジに呼び止められて、彼女は足元を見た。青絨毯とまでないかないが、ぽつりぽつりと青いサインが見て取れる。
彼女はそのサインに触れていった。青い幻影が、おぼろげに見える。その中で目に留まったのが、あった。
「オストラヴァ?」
彼女は無意識にそう、小さく言った。
「へぇ〜。何度見ても不思議だねぇ〜」
ブライジがそう声をかけた時は、彼女がサインに触れて少しばかり時間が絶っていた。
出現したファントムは、ホストがいない事を確かめると奥へと走り去る。
だがブライジは、ファントムが出現する所を興味深い視線で見ながら、小さくつぶやいた。
「青い体が床から生えてくるんだもんな。不思議なもんだ。オーラントの奴はひでぇことしやがったが、悪いばかりとは言えねぇか?
俺はデーモンよりも、あいつらの方がよっぽど興味そそるぜ。此処は危険な場所だが、しばらく観察させてもらおうか」
だが、中にはいるようである。黒い歴史を知る輩たちが。それでも、此度の災悪を望んでいた者が居ないことを願う所だ。
青を呼ぶのは久しぶり。というか、異性の青は初めてかもしれない。奥へと進む彼女はそう思っていた。
それに、本来なら呼ぶつもりはなかった。何度も蒸発したおかげで、攻略そのものには不自由ないくらいでもあったからだ。
だが、あのデーモン戦をまともにできるかどうか不安でもある。胸中複雑だが、ブライジが進めたのが真の理由であろう。
触れたサインの幻影は、見覚えのある装備に身を固めていた。全身フリューテッドにルーンソード、ルーンシールドだ。
今、気になるあいつの装備。だが、名前は違った。その名はOtsu。乙と読むのだろうか。
彼女は「あいつ」と同じかどうかが気になり、その青のサインを呼んでいたのだ。
もし、「あいつ」に似ていなかったなら、はたして、呼んでいただろうか。彼が発した言葉が、今。彼女の枷になっていた。
考え事をしていた彼女の前で、幾度と無くしてやられたカマを持った死神の黒い幻影の指先が光った。
彼女はその瞬間に相手に向かって転がると、足元をなぎ払うようにブラムドを振り回す。そして、死神が仰け反った所に彼女の
大攻撃が入る…はずであったが、半透明の幻影が自身の背後に復活していたのに気付かず、足元を掬われた。
「うわっ…。生身だとリアルに痛いんだよな…」
と、起き上がるのに時間を要した彼女は、指先から放たれた青い光に目を閉じた。だが、その光は自身をつらぬく事はなかった。
ガキィンという金属音が甲高く耳に入っただけである。直後、目の前に見慣れた鋼鉄の鎧がある。
彼女はゆっくりと立ち上がった。立ち上がった時には黒い幻影は消され、莫大なソウルが自身の中へと吸い込まれていく。
「ありがとう。なかなか、やるじゃない」
彼女の声に鋼鉄の鎧は振り返り、一礼をした。彼女も同じく一礼を返した。
青一人いるだけで、こんなにも違うのだ。彼女は幾度と無く通ってきた道を、半分の時間で通り過ぎていく。
道中無言であったが(相手が男でもあったからか)彼女はほとんど手を出すような事がなかったのだ。
ブラムドである。細い足場で振り回せば敵にも当るが、相手にも当たりそうで思うように振り回せない事もあった。
「俺を盾にしたらいい」
相手はそう言うが、いざそうするとなると気が引けるものだ。それに、全身青いソウルに身を包む相手は、個々の色まで見分けがつか
ない。格好は同じでも中身は違うのだ。当たり前だが、なんと言っても頼りがいがあった。ヘタをしなくとも、自身より強いだろう。
だが、その強さが返って彼女には受け入れがたかった。だから余計に「あいつ」が気になってくる。
あいつなら、おそらく自分の後ろで盾ばっかり振るっているだろう。剣を振り回すつもりが、剣に振り回されているのが良く分かる。
だから、人間なんだと思う。自分たちの方が、異常なだけなのだ。と、彼女の足取りは、次第に重くなった。
だからだろうか。黒いソウルが侵入してきたのに、彼女は気付くのが遅れていた。
とっさに青が身構えたが、彼女は単に空を自由に浮遊するエイの針でも防御しているのだろうと思っていた。
直後目の前に炎の柱が立ち上がる。とっさに身構えた青は盾を弾かれ受け切れなかった炎を浴び、後方へ大きく吹き飛んだ。
身構えるのが遅れた彼女は炎の嵐に全身を焼かれて蒸発するはずだったが、自身の周りを囲むように火柱が上がるだけに留まった。
何故?と思うのと同時に、その理由を知る。
「捕まえた」
身の毛がよだつような気持ち悪い声が耳に入る。そして、全身を冷たいものが覆うように自由を奪われた。
自身の後ろから、覆いかぶさるように黒いソウルが抱き付いている。
「おじょうちゃん、かわいいね。年、いくつ?」
「い、いやっ。離してっ!」
抱きついた黒いソウルを振りほどこうと、彼女はもがいた。だが、目の前にあるどす黒い血のような腕に、彼女は身の毛がよだつ。
力の差が大きいわけではないはずだが、ムリに引き剥がそうとすれば、この細い足場。相手もろとも自身も落下するだろう。
それだけでない。冷たく気色の悪い感触が首筋を伝う。
「ブラムドだって、すごいね。そんなの振り回しちゃうから、ほら。汗、かいてる」
全身をどす黒い血の色に染めたファントムが、腐ったヒルのような舌を出し、彼女の首筋を舐めていたのだ。
「おいしぃ。汗の味もその声も。たまらないよ」
「い、いやぁあっ!!」
身の毛がよだつとは、こんなことだろうか。彼女はその感触と気色悪さに、たまらず悲鳴を上げた。
また、彼女の装備はぼろ布の服。相手の感触が、直に伝わってくるのが分かる。
自身の臀部に当る硬い感触。それが股の間に侵入しているのが、感触として伝わる。
どす黒い血まみれの腕が、自身の胸を弄る。それらの感触が全身に纏わりつく。
「あ、まだ、おっぱい無いんだ。あ〜、おじょうちゃん。もしかして、10代前半?えへへへ。僕の大好物…」
「やめてっ!離してっ!!」
氷のように冷たい感触と硬い感触が全身にめぐり、相手の黒い声が耳に触る。
それらが彼女に恐怖に似た感情を覚えさせ、無意識にもがく。だが、もがけばもがくほど相手の思う壺。
「そんなに激しくしちゃ、僕のムスコが暴れちゃうよ?」
彼女の股下にある硬い感触が、ぼろ布を通して自身の股下を擦る。
「きゃぁーっ!!」
気持ち悪い感覚に、彼女はまた悲鳴を上げた。その時、彼女の全身に突風が突き抜ける。
彼女には単に風が突き抜けた感触しかなかったが、彼女に纏わりついていた黒いソウルは、大きく後方に吹き飛んでいた。
「あ〜?何だお。落っこちたんじゃねぇのかよ。あ〜オストラフル装備かぁ〜。巧い奴多いんだよな。こりゃ、相手が悪いわ…」
後方に飛んだ黒いソウルは更に距離をあけると、辺りの景色に溶け込むように消え去った。
“早く逃げなきゃ”
黒いソウルから開放された彼女はそう思い、行動に移そうとした。だが震える全身を止める事が出来ず、体が動かない。
全身に血を浴びたかのようなソウルに体中を弄られ、過度の拒否反応を起こしているようだ。
「広い足場まで、走れ!」
ようやく体制を整えた青が自身の目の前で叫ぶが、彼女は辛うじて青と視線を合わせるだけ。
単に黒いソウルだけであったなら、此処まで拒否反応は起きなかっただろう。
十分な間合いを取り、お互いの武器でぶつかり合い戦うのであったなら、恐怖心よりも戦闘本能が勝ったであろう。
だが今は、全身に血を浴びたかのような死人のような手足が、自身を取り囲んだのだ。
まるで今まで手にかけてきた者達の、断末魔のように。地獄へと引きずり込む、死にきれぬ者達の憎悪の腕のように。
彼女の自由をうばっていたのだ。
「…どけっ!!」
硬直する彼女に青がしびれをきらせ、彼女の腕をつかんだ。そして彼女の腕を引っ張り上げると同時に、彼女の腹を蹴り上げる。
彼女はその一撃で背中に背負ったブラムドと一緒に、前方に大きく投げ飛ばされた。
「…っ!!っ…」
痛みに声を上げることすらままならない彼女は、全身を激しく打ちつけ呻いた。だが、そこは細い通路を下りた若干の広場。
もし、先ほどの黒いソウルが対峙したとしても、このくらいの広さなら彼女のブラムドが功を立てるだろう。
ただし、震える全身を収める事ができればだが、呻く彼女は辛うじて身を起こし目の前の攻防を見た。
青いソウルが黒い霧を発する。死の雲か、毒の雲。黒いソウルを屠るには、あまりにお粗末なダメージのようだが、
相手の居場所を知らせるにはちょうど良い。黒いソウルが徐々に失われ、赤い血の霧が何も無い空間から時折、漂って見える。
それを見た青いソウルは、一気に走り間合いを詰める。黒いソウルは後退を繰り返し、間合いを取ろうとしていた。
だが、間合いを取ろうとした黒いソウルは相手の武器が入れ替わっていた事に、若干気付くのが遅れていた。
青いソウルが替えた武器は、とてつもなく長い大剣。彼女には見覚えがないようだが、その剣はストームルーラー。
間合いを取ろうと後退した直後、大きく振りかぶった切っ先に黒いソウルの鎧を引っ掛けると、彼女を投げ飛ばしたように
青いソウルは黒いソウルを谷底へと放っていた。黒く莫大な量のソウルが、彼女と青に吸い込まれていく。
そして、青が彼女の下へと戻ってきた。
その時には、青の武器は「あいつ」と同じ、ルーン装備であった。それが、彼女にとって違和感を覚えずにはいられない。
彼女は手に、白石を握り締めていた。
「白石で俺を帰すくらいなら、今すぐ崖から飛び降りてソウル体に戻れ」
白石を握り締めていた彼女に、青が上から言い捨てる。彼女は身を起こしたが、立ち上がれるほど力を戻せてはいないようだ。
「俺を帰しただけでは、あの黒を追い払う事はできないだろ?」
そう言う青は、手を伸ばして彼女の手を取る。彼女はその手を払いのけ、青を睨んだ。
何かを言ってやろうと思ったが、うまい言葉が出てこない。それどころか、声すら…。
だが、相手が伸ばした手を払いどける事ができた。それでようやく彼女の振るえが止まり、立ち上がった。
そのまま青を素通りしようとしたが、再び青の手が彼女を止めた。
黒いソウルが纏っていた血まみれの腕とは違う。青い、大空のような色。深い、大海原のような色。
よく見上げる、見慣れた瞳と同じ色だった。その色に彼女の心はホッとした。何故か、安堵したのだ。
「これ、あんたにやる」
青い手が握り締めていたのは、見慣れぬ小刀。それは致命の隠密短刀。最上にまで鍛え上げられたものであった。
「何?これで相手の命を奪えって?そうよね!密着していたら、これくらいの小さい剣の方が役に立つもんね!!」
彼女は怒りに任せ、相手の手を再度振り払った。だが相手は、さらに彼女の前に剣を押し付けた。
「違う。これは、自決用だ」
そう言いながら青は、彼女の手に握らせるように短刀を渡す。
自決。彼女には意味が分からない。自分で自分を殺すような事か…。彼女は目を丸くし青を見上げたが。
「いずれ、分かる。いや、分からない方がいい」
青はそうつぶやくと、彼女に視線すら合わせず先へと進んだ。
その淡々とした態度に彼女は嫌悪感を覚える。これが、自身と同じデモンズスレイヤーなのだと思うと余計に。
かといって、ソウル体に戻るにもオストラヴァの一言が心に刺さる。だから余計に、相手にも。相手と同じ、自分にも。
“こんなの、嫌だ。こんなの…”
白石を握ったまま、渡された小刀を放り出す事も出来ずに彼女は走り出した。
青を素通りし、目の前の細い通路を走り出す。胸中の違和感を払いのける事もできずに。
“会いたい。皆に会いたい…”
嫌だ嫌だと嫌悪したところで、現実は変わらないのだ。そう思えば思うほど、彼女の嫌悪は増していく。
“オストラヴァに…会いたい。…人に…。人間に会いたい…”
自分たちはもう、人ではないのだろうと思えてくる。思わずには、いられない。そうであろうと、確信すら覚えて。
目の前の影人が蒸発しようが、浮遊する白い光に触れ爆発に巻き込まれようが、彼女はただ真っ直ぐにデーモンへと向かった。
必死になって、自分を人として接してくれる皆の顔を思い出しては、溢れそうになった涙を拭いながら。
「気になるかい?彼女の事」
「え?」
ぼーっとしていたオストラヴァの耳に、トマスの声が入ってきた。耳には入ったが、その意味を処理するには時間を要する。
「彼女の後姿をずっと見つめていたものだからさ」
「あ、いや、別に。ぼーっとしていただけで」
トマスの言葉にオストラヴァは素直にそう答えたが、大人なトマスには、ちょっとだけ素直には受け取れなかったようだ。
「彼女の事、好きなのかい?」
若干茶化すような言い回しだったようだが、本当にぼーっとしていたのだろう。オストラヴァは素直に答えた。
「ええ。好きですよ。彼女はとても、いい人ですから」
その素直な所が、素直じゃない相手には素直に通じただろうかはさておき。
「そうかい!それはいい事だ!」
と、トマスは喜んでいた。その喜ぶ顔にオストラヴァは首を傾げたが、近くに居たボールドウィンも同じように言った。
「お前さんは嬢ちゃんと年が近い。しっかり彼女の力になってやれよ」
と、深い一言を伝えたが、深すぎたのか若い彼には違う意味に捉えられた。
「そんな!彼女の方が断然強いですよ。私は彼女に何度も助けられたんですから」
また、自分は足手まといでしかないと、およそ謙遜とは捉えられない事実をつぶやくオストラヴァ。
その言葉に、二人の大人は大きくため息を吐いた。
「確かに嬢ちゃんは強い。あのデーモンを倒すほどだからのう。だが、力というのは単に強さだけを言うもんじゃないぞ」
職人気質のボールドウィンが、仕事道具を置いてオストラヴァを見上げる。普段の彼にとって、珍しい事である。
「優しさも時には必要じゃろう。ましてや、嬢ちゃんのように過酷な日々を送る者にとっては、優しさの方が大事じゃ」
ボールドウィンの言葉に、トマスも続く。
「彼女は笑顔しか見せた事ないんだ。きっと、辛い事いっぱいあるだろうに、俺たちには何一つ言わないんだ。愚痴の一つでも
聞いてやりたいのに、俺たちには心配かけさせたくないんだろう」
ボールドウィンとは違ってトマスはうつむき、手のひらに握り締めたヒスイの髪飾りをしきりに見つめている。
「オストラヴァ君、変に思わないでくれよ。君と彼女のやりとりを見ていると、本当に仲が良いなって思えてね。もしかしたら
君になら、彼女は打ち解けるんじゃないかって、ね。だから、その…。心の支えというか、彼女の力になって欲しいんだ」
握り締めた髪飾りを、見つめたままトマスは彼に言った。オストラヴァは目線を髪飾りに移した。それを見たオストラヴァは
その髪飾りがちょうど彼女に似合うだろうと、感じた。目線こそ合わせないが、トマスの思いは深いのであろうとも思う。
だからトマスが自分に言った言葉が、冗談ではないだろうなと思った。だが、その意を汲んでやる事はできないのだ。
その意を汲めるほど、自身の立場は安易ではない。二人に言われて他人に言われて改めて、自身に言い聞かせる。
オストラヴァはトマスを見下ろし、意を決して言った。
「彼女が私の心の支えとなったとしても、私が彼女の心の支えにはなれない。なっては、いけないんです!」
その声の大きさにオストラヴァ自身驚いた。だからこそ、自身が彼女の事を彼が好いている事が、事実だと感じるのだ。
トマスに茶化されたからではない。自分自身の、確信にも似たもの。
でも、オストラヴァはすぐさま頭を左右に振った。そして小さくも強い口調で、言う。
「私には、やらなくてはいけない使命があるのです。彼女を巻き込むわけにはいかない。それに、彼女は私の命の恩人です。
やましい心で彼女を見る事はできない。だからこそ、最高の友人だと思っています。ただ、それだけです」
彼女の背を見つめても、彼女の背を追ってはいけない。オストラヴァは強くそう思った。そして彼は二人に向かって頭を下げる。
「すみません。もう、行きます。此処に長く居すぎたかもしれません」
頭を下げる彼にボールドウィンはため息を吐き、肩を落とした。だがトマスは立ち上がる。
余計な事を言ったのかもしれないと、罪を感じたのだろう。声をかけ、彼を止める、が…。
「彼女の帰りを、待ってはくれないのかい?」
本当なら、彼の身を案じてやる言葉をかけるはずである。だが、つい出た言葉は彼女の事だ。
彼女が自身の娘と重なる時がある。が、それだけではない。
オストラヴァが神殿に来て、かなりの時間が経っている。それなのに彼は、ただの一度もフルフェイスを取った事がない。
聞いてはいけない事情があるのだろうと、いつかは話してくれるだろうと、あえて問わなかった事が引っかかったから。
トマスの声にオストラヴァは振り返りはしたが、足は止めなかった。
「彼女に会ったらきっと、決意が揺ぐでしょうから」
彼はそう言って、王城の要石の前に立った。
打ち明けられぬ事情を持つ者の全てを受け止められる事など、今此処に居る者たちに、できるだろうか。
だが運命の歯車は、回りつつあった。もし彼女の帰りを待たずに先へ進んでいたならば、悲劇は免れたかもしれない。
もしくは彼が後に言うように、独りよがりで済んでいただろうに。
「いけません!ウルベイン様!!」
二人の大人が子供一人を止める事ができない中、オストラヴァの足を止めたのは悲鳴に近い女性の声だった。
三人は驚き、声の方へ駆けつけた。女性の前には普段祈りを捧げる聖者の姿があるのだが、聖者は祈りを捧げては居なかった。
「皆さんも、ウルベイン様を止めてくださいませ」
駆けつけた三人に、女性がそう言う。状況がつかめない三人は、目の前の聖者を見上げた。
「驚かせてすみません。ただ、備蓄していた食べ物が残り少なくなってきたのです。ですから、食料を調達しに行くだけです」
と、聖者はにこやかに言うのだが、正反対の顔で女性は言った。