幻術によって隠匿された地下通路には、かび臭く冷たい空気と、乾いた血の香りが蔓延しており、あたりに死の気配をまき散らしていた。  
通路にもたれかかって息を引き取っている屍を眼にするたびに、つい最悪の結末を想像してしまって、胸が詰まりそうになる。  
二股に分かれた通路の左は、地上に通じている道と矢を掃射する古い罠があるだけで、とくに探索する必要はない。  
俺たちが目指している場所は、分かれ道のもう一方、右の方角にある。発掘者のブライジが、自らが投獄されていた場所だと伝えてくれたのだ。  
浸水によって床が水浸しになってしまっているその牢獄には、死体が二つ転がっているだけで、生者の気配は感ぜられなかった。  
まさか……!  
体中の血液が沸騰した。水が跳ねてレザーにしみこむのも気にせず駆け寄り、錆びてぼろぼろになった鉄格子にとりついて、顔を確認する。  
しかし、その二つの死体は、ともに男のものだった。一つは簡素な鎧を身につけた男で、もう一方は軽装をしている。  
体中の力がため息と共に抜け出ていった。狼狽したのも束の間だったが、安堵感はすぐにかき消され、ふたたび不安感に胸中を支配される。  
「ウルスラはいないようだな」  
背後から現れた神経質そうな剃髪の男――俺の親友であるモルダーは、力なくうなだれる俺の肩に手を置き、激励するようになんどか叩いた。  
「ここらの死体はあらかた調べ終わった。投獄されている気配もない。まだ奥に大規模な施設があるようだが……、  
 しかし、祭祀場のどこかにいることは分かっているんだ。お前はすこし気張りすぎている。一度戻って休息を取ろう、アルバート」  
モルダーの言うとおりだった。俺は、俺たちは、もう何日もぶっ続けで彼女を捜索している。  
ろくな休息も取らず、素早い動きで翻弄する骸骨剣士を相手にし、怪しい場所があればそこを探索し、死体を見れば人相を確認する。  
それだけだというのならまだしも、俺たちは強く焦燥感に追われていた。大事な仲間が、よりにもよってウルスラが、危険な目に遭っているのかもしれない。  
そう思えば思うほど、火急で捜索をしなければならないという使命感が燃え、食事をするときですら、時間の浪費がもどかしくて仕方がないのである。  
肩にのせられたモルダーの手を取り、ふらふらと立ち上がった。立ちくらみがして、思わず足がもつれてしまう。  
「おい、大丈夫かよ」  
モルダーに体を支えられ、俺はようやくしっかりと地に足をつけることができた。なおも視界はもやもやとして気分が悪く、まるで先行きの見えないこの探索行のようである。  
「ウルスラは、もう死んでしまったのだろうか」  
無意識で、そうつぶやいていた。心の奥底でその可能性に気づいていながらも、意図的に目を背けてきた結論の一つだった。  
俺を支えるモルダーの体がこわばった気がする。彼女が既に亡くなっているのかもしれないという可能性は、微々たるものではあるが、ないとも言い切れない。  
俺とモルダー、そしてウルスラの三人は、全員が楔の循環によって神殿に囚われた、ソウルを失わない限り生き続ける不死の戦士である。  
心が折れて、ソウルをただ浪費するだけの存在となってしまえば、いずれは思考力を失ってこの世界から消失してしまうのだが、ソウルを得る機会があるのなら、死ぬことはない。  
現に、俺たちだって道場での闘いで、何度も殺されているではないか。そう、ちょうどこの間のように……。  
不意に、あの男の残像が脳内で力強く実を結んだ。真っ黒なローブに身を包み、身の丈ほどはある特大剣を、魔法を駆使しつつ悠々と振り回す、  
暴力の権化のような、あの男。負け際にはっきりと見えたその顔はイメージにそぐわぬ秀麗なものだったが、終始張り付けられた笑みは、狂気そのものである。  
敗れた俺の後に続いたモルダーですら、男に痛手を負わせることなく敗北したというのだから、あの男の強さは本物なのだろう。  
そしてそのことを意識すると、俺たちのいなくなった閑散とした崖っぷちで、あの男にたった一人で対峙した彼女のことを、強く想わざるを得ないのである。  
「大丈夫、大丈夫さ……」  
モルダーも同じことを思い出しているようだった。俺の肩を強く握り、言い聞かせるように、つぶやく。  
彼女は、おそらくは敗れた。あの崖に残されていた彼女の鎧と、一振りの打刀、暗銀の盾が、それを証明している。  
ウルスラ、きみはいったいどこにいるんだ。あの男に、なにをされたんだ。  
 
俺とモルダーは騎士修練所からの幼なじみで、なにをするにも常に一緒だった。  
最初に話しかけたのは俺だったと思う。あの頃のモルダーは髪なんか剃っていなくて、幼年学校の誰とも喋らない、無口な子供だった。  
誰とも接しようとせず、休憩時間の間は静かに本を読んでいるだけのこの男は、悪い意味で注目されがちであり、それに目をつける連中も、少なからずいた。  
意地の悪いガキ大将というのは、どんな学校にでもいるものであり、誰とも話さず、黙々と読書にのめり込んでいるモルダーをガリ勉と評した当時のガキ大将――名前は忘れた。  
ともかく、その高慢ちきでぶくぶくと肥え太ったガキ大将が、取り巻きに命令してモルダーの筆記具をちょろめかそうとしていた。  
俺はというとその取り巻きから距離を取った、これまた普通のグループにいた。いわゆる傍観者グループという奴だ。  
周りは触らぬ神にたたりなしといった風で、仲間内のほとんどはガキ大将に寄りつかなかったが、俺はちょっと違った。  
ちょっと家柄がお高いってだけで、自分もそのくらい価値があるんだと思い込んでいるその抜けっぷりが俺には鼻持ちならず、  
乗馬の訓練でちょっとよろけた振りをしてモルダーに近づき、奴の計画を耳打ちしてやったのである。  
「おい、お前聞け。あのデブの馬鹿知ってるだろ? 奴はお前のことを気に入らないみたいで、筆記具をちょろまかそうとしているぞ」  
モルダーは俺のたれ込みを聞くと、怪訝そうな顔で、こう訊ねてきた。  
「デブって……あの、髪がくるくるしてる奴のことか? おれが、なにかしたのかな」  
思えば、モルダーの声をはっきりと聞いたのはこれが初めてだった。俺は自分のことのように憤慨して、こう付け加えた。  
「奴らみたいに自分が偉いと思っている連中は、媚びずに目立っている奴が気に入らなくて仕方ないんだよ!」  
「目立っている? おれがか?」  
あきれ果てた。この神経質で無口そうな男は、人と接するのが苦手だとか、耳が聞こえないだとか、知恵遅れだとか、そういう理由があって孤立していたのではない。  
ただ単に周りの状況にまったく囚われず、自分のやりたいことだけをやっていただけだったのだ。  
この男は驚いたことに、自分の置かれている学校での立場をまったく理解しておらず、どこのどいつがガキ大将なのかすら知らなかったのである!  
「とにかくよ、早いとこなんか策でも打たないと、やられっぱなしになっちゃうぞ」  
「どうでもいいが、あんたずいぶんと自分のことのように構ってくれるね。なんでだい?」  
「俺はああいう家柄を鼻にかけてる奴が大ッ嫌いなんだよ!」  
 
どうにかデブの鼻をあかそうと躍起になっていたのは俺だけであって、モルダーとガキ大将の問題は、あきれるほど簡単に収束へ向かった。  
刀剣術の講義で、ガキ大将の取り巻きグループの一人である、クラス一番の大男と取り組みになったモルダーは、  
くすくすと密かな笑い声があがる中、あっけなくその大男を演習用の直剣で打ちのめしてしまったのである。  
つまりはこういうことだ。モルダーは剣術において、無駄に天才的だった。  
ガキ大将連中を一瞬にして凍り付かせたモルダーは、それ以降意地の悪い連中に狙われることはなくなり、いつも通り平和な読書を満喫できるようになった。  
ただ、その隣には俺がいた。それだけが、後と先での違いだろう。  
 
それから何年も経って、修練所もとっくの昔におさらばして、騎士として叙任を受ける年頃になったくらいに、とてつもなく重大な事件が起きた。  
俺が生まれるずっと前から騒がれていた、色のない濃霧に覆われてしまったボーレタリアに、まさしくこの俺が派遣されることとなってしまったのだ。  
もちろん俺は親父に反対した。ボーレタリアに送り込まれるなんて、死にに行けと言われているようなものだ。  
親父が長年企んでいたもくろみを、俺はようやく理解した。それと同時に、年老いてもなお夢見続ける腐りきった野心に、反吐が出るような気分を味わった。  
我が家系は騎士のものではあるが、そこらの平々凡々の騎士階級となんら変わらず、むしろ取り立てたところもない、地味な家柄である。  
この頃の家名を上げる常套手段は、色のない濃霧に包まれた危険極まりないあの場所へ一族の者を送り込むことであり、  
半ば売名のための生贄といった形で、俺のような悲劇的な人間が、何人も送り込まれては消息を絶っていた。  
俺には、血が半分しか繋がっていない兄が二人いる。父親は長男と次男を溺愛しており、二人で家名を受け継いでもらいたいと思っているようだった。  
父はその昔、妾を複数召し抱えていた。そして、その享楽の末に生まれた子供が俺だった。要するに、俺は兄たちとは異母兄弟なのだ。  
ずっと昔から不思議に思っていた。父はやたらと俺を邪険に扱っていたが、どういうわけか修練所に行かせてくれたり、各種武器の修行をさせたりと、騎士らしいことは学ばせてくれていた。  
血が繋がっているとはいえ妾の子供だから、正当な跡取り息子である兄たちの手前、わざと邪険に扱っているのではないかと夢想したこともあったが、  
20歳も手前という年頃になって、親父が俺を騎士として育て上げた本当の意味を知ることとなった。  
俺が妾腹から生まれたとき、彼の地ボーレタリアへ送り込まれることは、既に父によって決められていたのである。  
俺は、父の野心の生贄としてこの世に生を受けたのだ。邪険に扱いつつも、騎士の家系として育ててくれた理由はただの一つ、そういうことだったのだ。  
親父は、押し問答の末に、唾を飛ばしながら言い放った。  
「いいか、ここまで育ててやった恩を忘れるな。逃げ出そうだなどと思うなよ。ボーレタリアへ向かい、世界を救うか死ぬか、どちらかを成し遂げてこい」  
実際、死ねと言われているようなものだった。俺のような人間には、従者の一人も付かない。一人で行って、野垂れ死ぬだけだ。  
 
モルダーが剃髪にしたのは、ちょうどその頃だ。モルダーとは今でも密接な交流があった。  
というよりは、暇ならだいたい一緒にいたと言い切っていい。俺とモルダーは、沈黙が苦にならない程に仲が良かった。  
ボーレタリアに送られる前の今生の別れとして、せめて最後に挨拶でもしておこうと、モルダーをいつもの広場へ呼び出した日のことだ。  
自分の目が、死を目前にして狂ってしまったのではないのだろうかと思ったほどだった。なぜか、モルダーの淡い茶色の髪が、頭の形に沿ってすっかりなくなっていたのである。  
俺は自分のことも忘れて、ざらざらとした手触りのゴリン頭になっていたモルダーに詰め寄り、抑えることの出来ない笑い声で訊ねた。  
「な、なんだよその髪! なにがどうなってそうなったんだよ! 聖職者にでもなっちまったのか!?」  
「この間、両親が死んだんだ」モルダーは不機嫌そうな声でこういった。  
「えっ、そ、そうか。悪い、なんにも知らなかった」モルダーの不幸を笑ってしまった自分に心中で悪態をつきつつ、しかし、疑問が解消されていないことに気づいた。  
「じゃあその髪は神職に鞍替えしたとかじゃなくて、喪に服しているってことなのか?」  
「そうなるな」とモルダーが顎髭を右手で擦る。  
意味が分からなかった。神職者はその敬虔さの表れを剃髪で示すらしいが、喪に服す遺族が剃髪するなど、聞いたことがない。  
「なんで喪に服すと剃髪するんだ?」  
「なんとなく、こうするといい気がしたんだ」  
モルダーは今でもこういうところがあった。慣習だとか常識に囚われず、自分のやりたいことをやる。子供のころからそういう奴だった。  
「なにか話があったんじゃないのか?」  
モルダーにそういわれて、俺はようやく自分の置かれた状況を思い出した。体が不安によって支えを失うのが分かる。これから俺は死にに行くのだ。悪夢のボーレタリアへ……。  
モルダーは、自分から話そうとしない限り、人の詮索などしない男だった。だから俺も奴の家柄の詮索などしなかったし、俺もモルダーもそういうところで気が楽だった。  
俺は初めて、自分の家庭のことや、妾腹の騎士だということ、父の野心の生贄のために、ボーレタリアへ送り込まれることになったことを、他人に話した。  
モルダーはその間いつものように気むずかしそうな顔をしており、ときどき相づちを入れ、聞きに徹していた。  
話に横やりを入れてきたのは、俺がたった一人でボーレタリアに送り込まれることを話している最中だった。  
「一人でボーレタリアに行くのか? 逃げ出せばいいじゃないか」  
「これでもさ、親父には感謝しているんだよ。初めからこうなることは決められていたんだろうけど、それでもひどい生活をさせられた訳ではなかったんだ。  
 お前と会えたのだって、ある意味修練所に通わせてくれた親父のおかげでもある。逃げ出して俺一人楽になって、汚名をぶっかける訳にもいかないんだ」  
「それでも一人じゃ死にに行くようなもんだ。アル、お前には自殺願望でもあったのか?」  
「あるわけないだろ! 俺だって本当は死ぬのは嫌さ! でも、逃げ出したくもないんだよ!」  
声を荒げた俺の眼をまじまじと見つめていたモルダーは、やがて、落ち着き払った声でこういった。  
「なら、俺が同行しよう」  
「は?」なにを言っているのか分からなかった。  
「同行してやると言っているんだ」  
つまりはこうだった。モルダーの家は彼一人しか子供がおらず、また両親も他界してしまったため、とくに今やることもなく、暇だったというのだ。  
そしてモルダーは、この場では頼もしい限りの無頓着な性格のおかげで、残された家名などに執着しておらず、ただ一人の友のために、危険なボーレタリア行に同行してやるというのだ。  
まさに馬鹿だった。頭は悪くないが、モルダーはまさしく馬鹿に間違いなかった。あまりの馬鹿馬鹿しさに涙を流して抱きついた俺の背中を、「気にするな、親友だろ」と彼は優しく叩いた。  
 
事実、モルダーが加勢してくれたことで、俺の旅はより楽に、より頼もしくなるはずだった。  
子供の頃から頭角を現していた彼の刀剣術における腕前は、年を経るごとにその鋭さを増していくばかりである。  
いつぞやは、どこどこの闘技場で優勝した経験を持ついかにもな感じの筋骨隆々な刀剣士が、どういう経緯で聞きつけたのか、  
「ここに神童が在ると聞いて参上つかまつった」とモルダー邸を訪れ、半ば強制的にモルダーとの対決を取り付けたのだ。  
神童とはいってもその頃の俺たちはすでに16歳である。その時たまたまモルダーの家の前を通りかかった俺が見届け人となり、刀剣試合は開始された。  
モルダーは終始面倒くさそうだった。こちらが恥ずかしくなるくらい暑苦しく燃えたぎっている刀剣士との落差は天と地ほど離れていたが、  
二人の技前は、騎士としてまだまだ未熟な俺の目線ではあるが、拮抗しているように見えた。  
最終的に、この場は引き分けということで収まりが付いた。  
刀剣士がモルダーの腹を打ち据えようとしており、モルダーは、刀剣士の首を刎ねようとしていたところで、二人の動きが止まったのである。  
「これは参った。老いたとはいえ、よもやかくも若い青年に首を取られようとは」  
「老いたなどとは滅相もない。このまま果たし合いが継続していたのなら、臓物をぶちまけて無残な姿をさらしていたのは私の方だったでしょう」  
刀剣士はへりくだったモルダーの物言いに満足して帰って行った。俺はモルダーに駆け寄った。  
「すげえなモルダー! あんなオッサンだが、あれでも闘技場の優勝者だぜ? それを相手に引き分けなんてよ」  
体中が上気しているようだった。刹那ごとに命を奪いかねない斬撃が応酬されたその刀剣試合は、男として奮い上がらせられるなにかがあった。  
「ああ、あれな。面倒くさいからそういうことにした」  
当のモルダーの反応は、ずいぶんと冷め切ったものだった。汗でぐしょぐしょになったヘルムを外すと、さも疲れたいわんばかりにどっかりと座り込む。  
「考えてもみろよ。勝ったら勝ったで後腐れが悪そうだし、わざと負けるのも、どうも俺の性にはあわない。  
 ああいう手合いは、引き分けということにしておけば、満足して帰っていってくれるんだ。あんな大振りの剣が、俺に当たるわけないだろう」  
その発言が、引き分けにおさまってしまったことへの言い訳なのか、それとも真実のことなのかは、今でも自分には分からない。  
ただ、モルダーが闘技場優勝者の刀剣士を相手にそこまでの闘いっぷりをすることは事実であり、そのことが、自分のことのように輝かしく思えたのも、事実である。  
モルダーがいてくれるのなら、不帰の地と恐れられるボーレタリアでも生き延びることができるかもしれない。  
誰でもない、この頼もしい親友がいてくれるのなら、まさしく百人力なのである。  
 
色のない濃霧に覆われたボーレタリアは、不帰の地と恐れられるだけの由縁と、少しでも油断すれば命を落としかねない危険性をはらんでいた。  
一歩前に進んだ足の踏み場を保証することもできないほど、この地は命を落とすに足る罠と凶悪な亡者に溢れており、かくいう俺たちも、実は何回も死んでいる。  
死ぬことが恐怖でなくなったのはいつの頃だっただろうか。子供の声に導かれるままに足を踏み入れた、亡者どもで溢れる神殿へ至る道の最奥、  
そこに待ち受けていた、体中が筋肉で構成されているのではないかと疑うほどゴツゴツとした、俺たちの身の丈三倍はあろうかという羽の生えた灰色のデーモンに、  
巨大な斧の一撃で、二人仲良くすりつぶされてしまったのが、最初の死亡経験である。  
要の神殿で目覚めた俺たち二人は、たしかに死んだはずだというのに、足音すらしない不可思議な体で蘇ったことを、雷雨の中走り回る犬のように驚いた。  
火防女……目を蝋でふさがれた、黒衣を身に纏った女性は、俺たちは楔に囚われたのだと説明したが、その話は曖昧模糊としてつかめず、いまだにどういう意味なのかよく分かっていない。  
とりあえず分かっていることは、ソウルを失わない限りは俺たちが死ぬことがなくなったということだ。この楔の縛環がある限りは……。  
 
それから俺たちは、何度も何度も、それこそ10から先は数えなくなったくらいに、死んでは覚え、死んでは強くなりを繰り返した。  
俺たちは常に一緒だった。盾が前面に張り付いた、古来のスパルタ兵が用いたファランクスの陣形をとる気色の悪いスライムたちの塊も分担して倒したし、  
ストーンファング坑道の炭鉱へと続く道に立ちふさがる化け物蜘蛛も、俺が攻撃を引き寄せている間にモルダーが討ち取った。  
俺たちが一緒なら、どんな困難な相手にだって勝てる。この暗雲たれ込むボーレタリアだろうと、生き延びることができるのだ。  
俺たちの旅路は、きっと神によって祝福されているんだ。本気でそう思っていた。  
一時は神だって恨んだ。この恐ろしい地――色のない濃霧に覆われたこの場所に、生まれたときから赴くように仕組まれていたということは、俺が神を不信とたらしめるのに十分な効果があった。  
だがしかし、実際はどうだ? 俺はいま、一緒にいて一番気持ちのいい奴、我が人生において最高のパートナーである親友と共に旅をしている。  
親父が売名のために俺を産ませたことが事実なら、他ならぬその事実のおかげで、このかけがえのない友人と俺は出会うことができたんだ。  
そして何よりも彼女の存在だ。俺は、ボーレタリアに送り込まれなければ、素晴らしい精神を持ったこの女性と、邂逅することすらできなかった。  
ウルスラ、君のことだ。今だったらはっきり言える、俺は、君のことが好きなんだ。  
 
ソウルを奪われ亡者と成り果てた囚人たちのうめき声、苦悶の声を上げ、助けを請いながら格子を揺する小オーラントに、蛸のような頭をした気味の悪い看守……。  
ウルスラと出会ったのは、およそ美しい彼女となんの関連性も見いだせない、拷問用具に満たされたラトリアの一角だった。  
暗闇の先を注意しながら進んだ先にあった、自動的に矢を精製しては、近づく者に掃射するバリスタの領域近くに、彼女はたたずんでいた。  
見た瞬間、俺は彼女が魑魅魍魎のたぐいなのではないかと疑った。薄暗闇のなか、ほの白く光る彼女の美しい肌は、この世のものならざる妖艶な雰囲気を醸し出していたからだ。  
敵なのか味方なのか逡巡していた俺たちの気配に気づいた彼女は、後ろに纏めたポニーテールの髪を揺らしながら、こちらに近づいて清らかな声をあげた。  
「ああ、貴方たちは正気を保っておられるようですね。この地をご覧になりましたか? なんとも痛ましいことです」  
そう言って彼女は俺たちに、「ウルスラ・クロードと申します。以後お見知りおきを」と深々頭を下げた。  
俺も彼女につられて頭を下げ自己紹介したが、しぶしぶ名乗っていたモルダーは、まだ彼女を信用に足る人物かどうか品定めしている様子だった。  
実に彼女は、この世にここまで公明正大な人物がいたのかと認識を改めてしまうほど、胡散臭いくらいに勇ましい人物だったからである。  
俺自身、売名のために捨て駒でこの地に送られた経験を持っていたし、実際ボーレタリアには欲深い盗人かソウルに溺れつつある賢者、信心深すぎる神の信徒、  
それか命からがら逃げ出してきた一般人しか存在していないときたものだから、夢物語で語られるような「勇者」が存在するとは、まさしく夢にも思っていなかった。  
俺たちが生き延びるために戦っているとしたならば、彼女はこの世を救うためだけに命を投げ捨てて戦っている。  
彼女がボーレタリアにやってきた理由はこれだ。「一国が荒廃の危機にあるというのに、安全な場所でぬくぬくと暮らしていることができようか」。  
ウルスラは、取り立てた功績を残したこともない、弱小貴族の生まれらしい。しかし彼女の家族と彼女自身の志はどこまでも清くどこまでも誇り高く、  
北の小国の危機にいても立っても居られず、家を離れると言い出し危険に身を置こうとする彼女を、両親は力強く後押ししたのだという。  
そんな書物の上だけに存在するような、気高く高貴な貴族がいまだ在ること自体、眉唾ものの話だが、  
その「物語上の人物のような」ウルスラの人となりを知れば、そんな疑念は雲散霧消の彼方へと消え去ってしまうだろう。  
彼女がラトリアにいた理由を想像できるだろうか。彼女は、少なからず縁のある投獄された貴族たちを牢から放とうと、単身ここまでやってきていたのである。  
この地に投獄されている亡者たちは、もともとこの地を統べていた王女のもとで使えていた貴族たちが大半であり、彼女ともつながりのある者がいた。  
実際つながりがなかったとしても彼女のことなら全員助けていたのだろうが、しかし彼女の望みは叶えられそうもなかった。  
ここにいる元・貴族たちは既にソウルを奪われ尽くされており、もはや元のように戻る見込みはない。  
せめて元凶から解き放とうと、危険な道中を進んだ先にあったバリスタの領域で、どうしたものかと立ち往生していたところを、俺たちと出会ったのだという。  
同じ旅人であり、なおかつ正気を保った楔の戦士同士というだけで、俺たち三人が仲間として結びつくのは容易なことだった。  
裏から回り込むことでバリスタを停止し、何度も蘇る偶像の罠を見破った俺たちは、危なげもなくラトリアの上層に侵入したのである。  
 
要の神殿に三人そろって帰還した際、俺はウルスラの顔を見てひどくぶったまげたのを覚えている。  
彼女は、きわめて美しい女性だった。後ろに束ねた長い茶色の髪と、白い肌をベースに配置された青い双眼は海のように透き通り、鼻筋は高く通っている。  
唇は少し薄いようだが、ささやかな紅は好ましく、まさに彼女は眉目秀麗そのものであり、果敢にデーモンに挑んだ屈強なイメージとは、まったくかけ離れていた。  
数瞬、石のように固まってしまった俺は、モルダーに肘で軽く小突かれて正気に戻った。  
「なにか顔に付いていますか?」彼女は、俺がその美貌に見とれてしまっていたとは判断しなかったようだ。  
慌てて否定する赤面した顔を怪訝そうに覗き込まれ、子供のように純粋な瞳を向けられれば、どんな男でも……モルダーは例外だったが、コロリときてしまうのが人情だろう。  
それにも増して、彼女の美しさが、外見のみに留まらないということが、俺の心を大いに揺さぶった。  
こうまで美しいというだけでも器量よしの逸材だというのに、彼女はどこまでも勇敢で、高貴なのである。  
父の野心の生贄としていやいやボーレタリアにやってきた俺とは違い、望んで世界を救うためにこの地に降り立っていることが、その証明だ。  
まさしく、彼女はどこまでも優秀な人間だった。こういった手合いの、「できた人間」と出会うのは、初めてのことだった。  
 
モルダーと一緒であり、基本的に不死の存在と化しても、吐き気のするような理由でボーレタリアに送り込まれたという事実は、鎖となって深く俺の体を締め付けていた。  
刀剣の天才であるモルダーとともに戦っているとはいえ、奥地に進むほどデーモンは力を増す一方で、二人がかりで戦いを挑んでも、苦戦、ともすれば敗北することが目立つようになっていた。  
この地においても生き延びることはできる。しかし、俺に世界を救うことなどという大業が成せるのだろうか?  
ボーレタリアに送り込まれたとき、親父から示された選択肢は二つだけだった。世界を救うか、それとも死ぬか。  
俺の旅が終わるのは、日増しに強大化していくデーモンどもをすべて狩り尽くしたときか、心が折れてこの世界から消滅したときだけなのだ。  
不安だった。モルダーの手前、そんなことを語ることはできなかったが、今後も心が折られることなくデーモンどもに挑戦する自信が、次第になくなりつつあった。  
一時は、「俺たちの旅路は神に祝福されている」とまで思い込んでいたというのに。  
この精神的な地盤の緩さが、この地獄のようなボーレタリア行で、世界を救うだなどという大仰な偉業を成し遂げられるはずがないという結論を、無意識のうちではじき出していた。  
俺には、ボーレタリアで今後も戦い続けることのできる、確固たる信念が俺にはなかったのである。  
しかし、彼女は――ウルスラは、このボーレタリアの行く末を憂い、他にもたくさんの選択肢があっただろうに、どんな貴族よりも貴族らしい高潔な志に導かれ、この険しい旅路を選んだのだ。  
彼女は俺の真逆だった。強制された俺と、志願したウルスラ。自然と、相反する感情を持ってこの地にやってきた彼女を、俺は憧れるようになっていた。  
彼女へのあこがれは、日増しに強くなっていった。それと比例して、世界を救うことに対する不安感が薄れていくのも感じていた。  
モルダーと一緒ならば、少なくとも生き延びることはできたが、世界を救うというと、それに関してはてんで自信がなかった。  
しかし、モルダーだけでなく、ウルスラとも旅することとなった俺は、このボーレタリアの地でデーモンを狩ることに、一種の自信を持つようになった。  
彼女の力になりたい。この心身ともに美しい女性のためならば、命を擲つことだって恐ろしくはない。彼女のために戦えるという事実が、俺を熟練の戦士のように奮い立たせるのである。  
いつしか俺は、魔女の大釜をひっくり返したようなこの場所であろうと、三人一緒ならどうにか救えるのではないかと思えるようになっていたのだ。  
まったくもって単純極まりない男だとは重々承知している。美しい女に触発されてやる気になったというのは、客観的に見て情けないことのように思えるだろう。  
だがしかし、足の踏み場もない危険な地において、確固たる信念を持って戦えるということは、とても幸せなことである。  
とくに理由もなく、宿命から逃げ出したくないという意地だけでボーレタリアに留まっていることと、望んでこの地に留まっていられることは、まったく性質が違う。  
心折れたときが、俺の死ぬときなのだ。  
望んでこの地に残存することができるようになった俺は、少なくとも心が折れるということはなくなった。それだけでも、二つの性質の違いが理解できるというものだろう。  
 
だからこそ、俺にとっては彼女がとても大切なのだ。必ずウルスラを助け出さなくてはならない。ウルスラを失うわけにはいかない。  
世界を救いたいと願う彼女だけでなく、他ならぬ俺のためにも。  
 
黄色くぶよぶよと肥え太った、異形なるデーモンの要石を抜けた先は、目もくらむような断崖絶壁だった。両端に設置された、海風でぼろぼろになった階段を下りると、小さな踊り場があり、  
一方は切り立った崖っぷち、もう一方は祭祀場へと続いている。崖に目を向けると、視界の端までぬるぬるとした薄ら暗い海が広がっており、潮風が崖下から生ぬるい空気を運んでいる。  
風が強い。長い尾を引き連れた嵐の獣が、断崖へ誘うように空を泳いでいた。いつまでも物見遊山の気分でいては、彼らの脊髄に体を貫かれかねないので、急いで祭祀場へと続く通路へ向かう。  
通路は静かだった。このあたりは透明の巨人を使役する不気味な死神の化け物が現れるが、この日に限っては奴の発する魔王のような低い笑い声も聞こえない。  
誰かが始末したのだ。そして、あの死神を始末できるような人間は、俺たちを除けば数えるほどしかいない。つまり、誰か俺たちのような戦士がいるのだ。そう、もしかしたらウルスラかもしれない。  
つるっと禿げあがり、媚びるような話し方をする、あの下卑た男の言葉が思い浮かんだ。  
奴の名前はパッチといった。通称、ハイエナのパッチ。要の神殿でときどき顔を出しては、割と良心的な値段で物資を都合してくれる盗賊の男だ。  
その怪しげな出自にもかかわらず、奴は友好的な態度を崩さないが、その眼の奥からは常に人を勘定するような気味の悪い光が放たれている。信頼を置けるのかというと、そうでもなかった。  
しかし、今はその信憑性に欠ける情報にだって飛びつかざるを得ない。奴は、「あんたらの仲間を祭祀場の奥で見たぜ」と俺たちに漏らしたのだ。  
どういう理由があってこの祭祀場に出入りしているのかは知らないが、この胡散臭い男曰く、ウルスラを今俺たちがいる祭祀場のあたりで見かけたのだという。  
これが本当の話なら、足跡すら存在しない、あてのない不安な探索行はここで終了ということとなる。  
モルダーは終始胡散臭がっていたが、結局は「少しでも探索の手助けになるのなら」と、祭祀場内奥部の探索を了承してくれた。  
しばらく歩くと、通路が開けて広い吹き抜けに出た。まるで空中に浮かんでいるかのような頼りのない通路が左右に分かれ、階下には祭壇が見える。  
祭祀場内はひどく暗く、眼が慣れるまで時間がかかったが、祭祀場ないの所々に偏在する水溜まりは神秘的な光を放っており、一寸先も見えないということはない。  
 
「アル」  
モルダーがかがみ込み、通路から階下を指さした。その先には、鎌を持ったまま絶命している死神の死体がある。「死神」の「死体」というのも妙な話だが……。  
「よく見ろ。なにかおかしくないか?」  
よく目を凝らすと、たしかに死神の死体には奇妙なところがあった。死神の死体が、なぜか小さかった。いや違う、死神の体は「ひしゃげたように」潰れていた。  
「ウルスラは、そういう武器を用いないはずだ。なにか妙だぞ」  
モルダーはそう言って眼を細め、俺のほうへ視線を向けた。その険しい目線が、注意の必要アリと物語っている。  
俺たちはウルスラがここにいると信じて探索している。ここにウルスラ以外の誰かがいるということには、否応にも不安を煽られざるを得ない。  
いま俺の脳裏では、黒いローブを纏ったあの男が像を結んでいる。モルダーも俺と同じような想像をしたに違いない。俺たちが道場をしていたときにやってきた、あの恐ろしく強い男だ。  
奴の特大剣なら、死神の体をひしゃぐことなど容易いに違いない。そして、奴を最後に見たのは、ウルスラがたった一人で対峙することになったあの断崖なのだ。  
奴に敗北し、結果捕らえられてしまったウルスラが、その男に連れ回されている。そんな想像が頭の中にひらめき、心臓をわしづかみにされるような感覚に陥った。  
自然と呼吸が荒くなる。あの危険な男に、ウルスラが捕らえられてでもいようものなら、彼女がなにをされるか分からない。頭中に思い浮かんだのは、男に蹂躙される彼女の図だった。  
「アル」  
モルダーがこちらを見ずに立ち上がる。こちらがうわのそらで生返事をすると、モルダーは天井を見上げて目の頭を揉んだ。  
「俺はな、お前がウルスラと出会ってよかったと思っているんだ」  
いったいなにを言い出すのか。思わず見上げたモルダーの顔には、わずかに笑みが浮かんでいる。  
「ウルスラと出会ってから、お前、けっこう見違えたよ。やる気というか、なんというかな。  
 二人だけで戦ってた頃とは違って、いまのお前には自信がついているように感じるんだ」  
こちらを振り向いたモルダーには、珍しく柔らかい表情が浮かんでいる。この男には、無意識に不機嫌そうな表情をする癖があった。それだけに、俺は目を丸くしてしまった。  
「俺はそれが嬉しいんだ。いまのお前からは、生き残るという意思だけでなく、世界を救おうとする意識すら感じる。  
 こんな所に送られて落ち込んでいたお前が、そんな風に考えられるようになったんだ。あのお嬢さんは大したタマだよ」  
それからモルダーは一呼吸置いて、堰を切るように語り出した。  
「俺はお前のことが心配だった。どうやったらお前が昔のように明るくなるのか、考えたこともあった。  
 しかしあのお嬢さんは、俺が頭を悩ませていたその課題をいとも簡単に解いてしまったんだ。  
 お前をこうまで成長させてくれたあのお嬢さんは、俺の恩人でもある。俺がお前の探索を手助けをするには、上等な理由だよ」  
顔が紅潮してくる気配を感じた。モルダーは決して口には出さないが、俺がウルスラに対して仲間以上の好意を抱いていることに気づいている節があった。  
要の神殿にいる間、なにかと俺とウルスラを二人にするように取りはからってくれたり(お陰でウルスラ自身はモルダーに嫌われていると誤解していたが)、  
ウルスラがいる間は、女性を不快にさせるような、若い男にありがちな軽口を俺とは交わさないようにしていた。ウルスラの俺に対する印象を下げないための配慮だ。  
俺はそれに気づいていた。そしてそのたびに、モルダーが唯一無二の大親友であるという認識を、さらに高めていたのだ。  
「いったいなにを言い出すのかと思えば、そんなことかよ」  
俺もニヤニヤしながら立ち上がる。立ちくらみはしない。俺には頼りになる親友であるこいつがいた。こいつがいる限り、俺は地に足が付くような安心感を得ることができるのだ。  
「うるせえよ。ウルスラのこと好きなんだろうが。ここで気張れよ、相棒」  
モルダーも口元に手を当ててニタニタしている。堪えきれなくなって、二人で声を上げて笑いだした。  
「さっさと探し出して連れて帰ろうぜ。白馬の王子様役はきっちりお前にゆずってやるからよ」  
さらに可笑しく感じて、二人で笑いあった。祭祀場内に、俺たちの笑い声が響いている。  
 
楽観した心持ちも、ここで打ち止めとなった。  
祭祀場内には、化け物たちの気配がまったくなかった。階下へ降りた瞬間からなにごとか感じ取ったモルダーは直剣を抜き身にして警戒し、俺もそれに倣ってハルバードを構えている。  
階下で透明な巨人を使役するあの死神だけでなく、幻術によって隠匿された隠し通路の先にいる黒い英霊の骸骨でさえ、粉々になって息絶えていた。  
ずいぶんと気合いの入った処理である。そう、まるであらかじめ人払いをされていたかのような薄ら寒い空気が、薄暗闇の中に漂っている。  
モルダーほど敏感な戦場の勘を持たない俺でもはっきりと理解できた。俺たちは、間違いなくここに誘い込まれた。  
ウルスラに? まさか、そうではない。俺たちは既に確信していた。間違いなくあの男である。道場に現れた、あの恐ろしく強い男……!  
ハルバードを握る手が自然に強くなる。汗がしみこみ始めたグローブの感覚が気持ち悪い。モルダーも、額に汗を垂らしていた。  
俺たちは奴に勝てるのだろうか。なによりもまず、あの男がモルダーを下したという事実がなによりも増して恐ろしい。  
モルダーが負けることなど、長いつきあいがある俺でも見たことがなかった。先発で俺があの男に挑んだのだから、実際に見たわけではないが、  
神殿で静かに敗北の沈痛に耐えているモルダーの姿は、俺の背筋をして、いとも容易くゾッと凍り付かせる効果があった。  
闘技場優勝経験者と引き分けかあるいはそれ以上の勝負をするモルダーが、幼い頃から天才と呼ばれたこのモルダーが、「敗北」したのだ。  
これが恐怖でなくてなんであろうか。モルダーを下すような傑物がこのボーレタリアを跋扈しており、なおかつ俺たちと同じ、「楔に囚われた不死の」戦士なのである。  
――しかし、今度は道場ではない。ハルバードの柄を強く握り直す。死体がごろごろと散らばっている地下壕に足を踏み入れた。腐敗臭が鼻につき、思わず顔をしかめてしまう。  
足下に、いくつかの石が転がっていた。瞳の石に、きらきらと輝く見たこともない鉱石だ。きっと値打ちがあるのだろうが、今の俺にそれを拾おうとする心の余裕はない。  
なにを俺は怖がっているんだ。今度は道場ではない。そう、道場ではないのだ。  
奴と遭遇し、俺たちが想像していたような手段でウルスラに危害を加えていた場合は、手段を選ばず二人で襲い、ウルスラを奪還する予定を立てている。  
だが……。  
それでもなにか、心の奥底で冷えたものがゴロリと横たわっているのを感じる。いかな相手といえども、二対一ではこちらが圧倒的に有利なはず。それだというのに。  
「誰だ!」  
モルダーが不意に叫んだ。驚いてモルダーの向く方へ視線を走らせると、ちょうど誰かが、俺たちが通ってきた扉の奥へ逃げ出すところだった。  
俺は目を疑った。俺たちから逃げ出した人間は、ちょうど女の子供のように見えたからだ。しかも、その顔はまるで……。  
「! アルバート、逃げろッ!」  
思索はモルダーの叫び声によって打ち切られた。  
モルダーが俺の首根っこをつかんで地面に飛び込んだのだ。突然のことに顎をしたたか打ち付けたが、戦場の顔になっているモルダーを見ると怒る気持ちも収まった。  
さっきまで俺たちが立っていた場所には、黒い雲のようなものが渦を巻いていた。鼻をわずかに刺激するこの臭いは、確実に危ないものである。  
「これは、いったい」  
「もたもたするな! こんな狭い場所じゃすぐに部屋中いっぱいになるぞ!」  
モルダーは既に立ち上がり、扉の前で俺に手を振り仰いでいた。迷うことなく駆け出す。階段まで駆け抜けたところで、モルダーが扉を打ち付けた。  
これで雲を吸うことはないだろう。しかし、それでも隙間から溢れてくる可能性がある。俺たちは早急にその場を離れ、階段を上り、踊り場へと向かった。  
「逃げられたか」  
盾を構えたままのモルダーが、鋭い目つきを左右に走らせている。俺はというと、さっきまでいた地下壕へと続く穴を、かがみ込んで見ていた。  
中では例の黒い雲が充満しており、散乱していた死体を一つ残らず包み隠している。下方でよどんでいる辺り、上に昇ってくる気配はないようだ。  
「ここから雲を放ったんだ」モルダーに促すと、かれも同じように穴の下をのぞき見た。くそったれ、と毒づいて苦いものをはき出すように唾を飛ばす。  
「関係があると思うか?」  
「関係もなにも」モルダーは鼻白んだ。こちらを疑うような目線を投げかけてくる。「あいつに間違いないだろう。あの男」  
「そうじゃなくて、さっきの子供だ」思わず語勢が強くなってしまう。モルダーはきまりが悪そうな顔をした。  
「お前の言いたいことは分かるよ」  
「ウルスラによく似ていた」言葉がモルダーと重なった。やはり彼も同じように感じたようだった。  
 
「……関係があると思うか?」  
モルダーは頭をひねり、曖昧な生返事を漏らした。肯定も否定もしないつもりらしい。それもそうである。ボーレタリアに来て以来、常識というものはまったく通用しない。  
あの男にそういった技術があるのかどうかは分からないが、ソウルの業を用いれば、体を小さくするということもできるのかもしれない。それがどういった利益をもたらすのかは考えもつかないが。  
しばらく思案に暮れたが、俺とモルダーはすぐに頭を切り換えた。どちらにしても、男を見つけて聞き出せばいいだけのことだ。  
その瞬間だった。俺の背後に視線を向けていたモルダーが目を剥いたのを咄嗟に見て取った俺は、そのまま倒れ込むように前に飛び込んだ。  
大重量の鉄塊が頭上をかすめ、鼓膜がびりびりと不快に鳴り響く。かすかな舌打ちの音を耳にして、ようやくそこに例の男が現れたことに気づいた。  
恐怖で息が詰まりそうだった。ごろごろと転がり、なんとかモルダーの足下までたどり着いた俺は、その勢いのまま、急激に立ち上がる。  
「貴様ッ」凶相に顔を歪めたモルダーの剣先には、ひどく整った顔立ちではあるが、狂気そのものの笑みを張り付けた男がたたずんでいた。  
「惜しい。当たったと思ったのだが」男は鷹揚に両手を広げ、悠然と構えた。右手には巨大な剣を担いでいるにもかかわらず、その質量を感じさせないような仕草だった。  
「アルバート、同時に仕掛けるぞ!」凍りかけた背筋を、モルダーの一喝が蹴り飛ばした。手段を選ばず二人で襲う。二人で決めていたことだ。こいつさえ倒せばウルスラを奪還できるはずなのだ。  
男に斬りかかったモルダーに遅れて、ハルバードの刃先を奴の腹部めがけて袈裟懸けに振り下ろす。しかし、モルダーの剣先も、ハルバードの刃先も男には届かなかった。  
グレートソード。その幅広かつ肉厚な長い刀身を一息に翻した男は、剣の重量と見かけによらない怪力を発揮する男の腕力とで、二つの攻撃を同時に遮ぎっていた。  
恐ろしい力だった。いくら奴の剣が大きく重量に富むとは言っても、普通、大の男二人の攻撃を片手で支えるだけで防ぎきることなどできるだろうか?  
しかしそれは現実であった。現に、奴は片手だけで支えたグレートソードのみで、俺たちの攻撃を防ぎきっているのだ。  
俺たちが硬直した瞬間を逃さなかった男は、朗々とした高笑いを響かせながら地面を蹴って後背へと飛び上がった。すると、霧に霞むかの如く、奴の姿が見えなくなったのだ。  
「消えた!?」突然の出来事にうろたえ叫ぶ俺を尻目に、奴の高らかな笑い声と足音はどんどん遠ざかっていく。  
「落ち着け、ソウルの業の一つだ!」モルダーが俺をねじ伏せるように叫ぶ。「ある程度距離が離れると姿が見えなくなるだけだ!」  
「だとしても、追わなきゃまた奇襲を受けるかもしれないぞ!」  
「それはそうだが」モルダーは迷っているようだった。「奴は俺たちが来ることを知っていたんだ。なにも手を打っていないはずがない」  
俺たちの背後で、陶器が破砕したような甲高い音が響いた。とっさに振り向くが、そこには誰もいない。その音は、危なっかしい空中通路へと続く階段の辺りから聞こえた気がした。  
「もうあそこまで移動したというのか? 早すぎる」モルダーが怪訝そうな顔でその方向を見やる。  
俺たちのいるこの空間には、地下壕へと続く階段と穴を中心として、左右に各々祭壇前に出る通路がある。  
あの男はその通路を右に逃げていったのだが、いまさっき聞こえた破砕音は、唯一二階へと続く通路方面の階段から、つまりは左側から聞こえてきた。  
どうにも移動が早すぎる。やつが左側の階段を登ったというのなら、足音が聞こえていてもおかしくはないというのに、そんな気配すらしなかった。  
モルダーのいう通りかもしれない。もしもパッチから聞かされた情報が、奴から流された、いわば誘導としての情報だったとしたら?  
そうだとしたら、俺たちが二人組であることなど承知の上なのだ。そして、いくら奴が自信過剰であったとしても、たった一人で二人を相手にするだろうか?  
モルダーの言うとおりだと考えるべきなのである。奴は確実になにか手を打っているはずだ。たった一人であろうと、二人組を相手に勝ちうるなにかを……。  
すべては可能性にすぎない。しかし、相手はモルダーをして下すような優秀な戦士だ。用心をしすぎて困るということはない。  
現に、奴はすんでの所まで気づかれず、すでに警戒していた俺たちを相手に堂々と奇襲してみせたではないか。生半可な用心は、奴の前では当然のように用をなさない。  
 
「罠だ」モルダーは断じた。「考えてもみろ。奴がうっかり大きな音を立てるようなヘマをすると思うか?」  
モルダーの言は信頼を置くに相応しかった。あれほど周到で狡猾な男が、そんな馬鹿な失敗をするはずがないのだ。そう考えるべきである。  
俺たちは互いの背中を守りながら、部屋を右側から抜け出した。左の階段へは向かわない。その先へ向かえば、おそらくは奴の用意した罠があるはずである。  
ふと、薄暗闇の中によりいっそう深い影が差した。その影が人と巨大な剣によるものだと気づくより早く、俺の体はモルダーに吹き飛ばされていた。  
祭壇の上から飛びかかり、俺たちへ向けて振り下ろされた鉄塊は、にぶい風圧を立てながら吹き飛ばされた俺とモルダーの間を爆砕し、土煙を大いに立ち上らせた。  
「罠を見切ったか。剃髪の男の腕も立つようだな」土煙の中におぼろげな影が浮かび上がる。その姿はゆらゆらと揺らめいて、さながら化け物のように俺の目には映った。  
俺たちが破砕音を罠だと見抜くことすら、罠だったのか? なぜ陶器を破壊したはずの奴が、こんなにも早く、それも俺たちに気づかれずに祭壇の上にいるというのだ?  
疑問が脳内を駆け巡る。しかしその疑問を解く暇などなかったし、俺の頭の中には、ふたたびまんまと奇襲を成功せしめた敵対者への敵意しか存在しなかった。  
「くそっ!」立ち上がりぎわに振り回したハルバードはただむなしく土煙を切り、奴の影はゆらりと揺らめきながら、その姿を消してしまう。  
「そんなに振り回してはお仲間に当たるのではないかな、坊や?」奴の声は隠し通路へと続く階段の方から聞こえる。  
俺はというと奴の言葉にひどく辱められたように思えて、ただ唇をわななかせるしかできなかった。  
「俺の心配はいらん! 追うぞ!」モルダーが土煙から飛び出し、階段を数段飛ばしで駆け上がった。俺もその後を追う。  
ソウルの業により姿を消してはいるものの、奴の足音は隠し通路の先からたしかに聞こえてくる。うかつだ、とは思い至らなかった。通路の先にもまだ逃走経路はあるのだ。  
「こっちだ!」モルダーが隠し通路の先に進入する。奴の足音はすぐ近くから聞こえてくる。おそらくは、もう目と鼻の先にいるはずだ。  
通路の先へ飛び出すと、強風のなか、曇もまばらな空を華麗に遊泳しているエイたちの姿が視界に入った。いままで暗中にあったからか、目がくらんで空を正視できない。  
「いない……?」モルダーが身を乗り出して崖のほうへ向かった。「足音も消えただと?」  
すぐにでも気づくべきだった。しかし俺は明所への進入でくらんだ視界を治すのに必死で、背後からゆっくりと近づきつつある奴の足音に気づくことができなかった。  
右肩から左腰にかけて、斜めに強烈な衝撃が走る。目に映っていた視界が急激に後背へと走り、頭が猛烈な勢いで揺さぶられた。  
奴のグレートソードで吹き飛ばされたと気づく頃には、俺の体は向かいの崖から転落しつつあった。  
回転する視界の中でがむしゃらに伸ばした左手が、かろうじて崖の先を掴んだ。ハルバードを落とさずに済んだのは、騎士としての意地なのかもしれない。  
「アル!」モルダーが駆け寄ってくる気配がした。がんがんと痛む頭を上方に向けると、俺を案じるモルダーの険しい顔が映った。  
しかしその視界は、振り回された頭からきた揺らめきで混濁し、その顔をぐるぐるとかき回してしまう。左腕だけで支えている体重が、ひどく重く感じた。  
モルダーから救いの手は差し伸べられなかった。意図は理解できていた。いま俺を助け出そうとすれば、二人もろとも奴の剣で崖下へと落とされてしまう。  
「不思議だねえ。足音が聞こえなくなったろう?」足音が聞こえてくる。奴の声は笑気をはらんでおり、この状況を楽しんでいる様子がありありと伝わってくる。  
モルダーの雄々しい叫び声が、奴のふざけきった声をかき消した。刹那、剣と剣がぶつかり合うにぶい音が、嵐の崖に響き渡る。  
モルダーが、奴との戦闘を始めたのだ。だとすれば、俺にできることはただ一つ。モルダーが時間稼ぎをしてくれている間、すぐにでもこの崖を登り、体勢を立て直すのだ。  
目の前の崖が少しだけ崩れ、欠片が顔面の前をぱらぱらと落ちていった。それらが行き着く先は、奈落の底である。落ちれば、全身を打ち砕かれて死亡するだろう。  
恐怖が心臓を蹴り飛ばすのを感じながら、ハルバードを握りしめている右手を伸ばした。しかし、崖の上にハルバードを置こうとするが、刃先が崖面にぶつかってうまく乗ってくれない。  
そのたびに体勢が崩れ、全体重がかかっている左手がぎりぎりと締め付けられ、攻撃を受けた背中から全身へ痛みが走る。あまりの苦痛に、苦悶の喘ぎを抑えられない。  
剣戟音が俺の焦りを刺激するなか、うまく動かすことのできない右手がもどかしく感じられた。  
 
なんとかハルバードを崖上にのせることができたとき、近くで爆発音がし、崖を掴む右手が熱風によってあぶられ、手がひきつるのを感じた。  
おそらくは奴の炎魔法だった。あまりの熱に思わず崖から手を離してしまいそうになったが、歯を食いしばってそれに耐える。  
「どうした? ちゃんと守ってやらないと勝手に落ちてしまうぞ」と、奴の煽りが聞こえてくる。  
「貴様!」モルダーの怒声が再び響いた。次いで、速さをよりいっそう増した剣戟音が鳴り響く。  
早く登らなければ。声音から察するに、モルダーはかなり焦っているようだった。きっと、奴に相当追い詰められているに違いない。  
とりあえずは地面に置くことのできたハルバードを手から離し、崖を掴む両手に全霊の力を込める。  
しかし、その作業は今まで以上に苦痛を伴い、遅々としていっこうに進まず、崖を登るまでのほんの少しの距離が、はるか遠方のように感じられた。  
掴んだ崖をただ登るだけなら誰でもできるだろうが、今の俺は二重の苦痛に苦しめられていた。  
一つは鎧からくる重み、もう一つはグレートソードの一撃をもろに受けてしまった背中から来るダメージだ。  
登ろうと腕に力を入れれば入れるほど、痛みは加速度を増して全身に行き渡り、鎧を着込んで重くなった体を崖の下へ引きずり込もうとする。  
ようやく肘を崖の上に引っかけることができたとき、モルダーと男の激闘が視界に飛び込んできた。  
幻覚かなにかを目撃しているのではないかと、まだ少し朦朧とする視界を疑った。  
男は、身の丈ほどもありそうなグレートソードを、さながら棒切れでも振るうかのような軽やかな動作でモルダーへ叩きつけていた。  
その剣圧と剣風に圧倒されるモルダーは、しかし天性のセンスなのかそれらのほとんどを紙一重で避け、時には盾で受け流しながら、直剣を差し込むタイミングを窺っていた。  
嵐のように押し寄せる特大剣を避けるモルダーもそうだが、問題なのは男のほうだった。俺たちは一度やつと戦っているが、その時は、こんなにも軽々と剣を振り回してはいなかった。  
前に戦ったときの緩慢さは演技だったというのか。それにしてもいったい、どのくらい鍛えればあんなにも楽々とあの剣を振れるようになれるのだ!?  
「アルバート、さっさと上がれ!」  
悲鳴じみたモルダーの怒声にうながされ、一息に胸から下を崖上へ引き上げた。崩れ落ちるように地面へ倒れ込むが、目の前をグレートソードの切っ先がかすめ、恐怖で体が自然に飛び上がる。  
「やれやれ、どうも上手くいかないな」男は美顔の上にすらりと伸びる秀麗な眉を不快げに傾け、「ウルスラ、もう一度だ」とつぶやいた。  
『ウルスラ』という単語を聞いた瞬間、俺の体の中で膨大な熱量が体を突き動かすのを感じた。  
背中の痛みも手の痺れも疲労も消耗も忘れ、ハルバードを奴に向かって突き出す。「やはりお前が、お前がウルスラを連れて行ったのか!」  
「いかにも!」滑るような足取りでその一撃をかわした男は、隠し通路に逃げ込み、その姿はまたも霧に霞むように消えてなくなる。  
「待てっ!」次いで通路へ躍り出て男を追いかける。  
「アルバート!」後ろからモルダーの叫び声が聞こえたが、怒り、激高していた俺の耳を素通りする。  
絶対にいま奴を逃がしてはならない。想像通りなのだ。ウルスラはこの男に利用されている。  
魔法、そう。すべては魔法なのだ。奇天烈な場所から聞こえてくる奴の足音、ヘタしたら陶器の破砕音だって、魔法によるものなのかもしれない。  
任意の場所に任意の音を出す。そんな簡単そうな魔法など、素人に、それこそウルスラにだってできそうなものである。ましてや、単純な足音だったらなおさらだ!  
俺が先ほど想像したとおりのシナリオなのだ。ウルスラはおそらく、奴に脅されているかなにかの理由で、協力を強いられているのだ。  
頭がずきずきと痛むのが、男が振り下ろしたグレートソードによるダメージからのものなのか、破裂せんばかりに血管を締め付ける怒りからのものなのか分からなかった。  
――あるいは、その両方か。俺の心中は、ウルスラを弄んだであろう男に対する殺意で満たされていた。  
階段を駆け下り、祭祀場内に飛び込む奴のローブの端が目に映った。  
俺もそれに続いて飛び込み、そして思わずたたらを踏んだ。  
 
男は、俺の目の前で棒立ちしていたのだ。不意打ちのような男の行動に面食らいながらもハルバードを構える。  
「もう逃がさんぞ! ウルスラはどこだ!」胸元に刃先を突きつけながら叫ぶ。唾が飛ぶのも気にしない。  
「そんなことよりも、君はいまどこにいるのか分かっているのかね」明らかに血が上っている俺に対して、男はあくまで柔らかい物腰で聞き返す。  
「何?」  
ここは祭祀場。モルダーは隠し通路の先、どこかにウルスラがいて、そして俺と男は祭祀場内で一触即発のにらみ合いをしている。  
「君は、いま、どこで、なにをしている?」  
ぞくり、とした。朗読でもするかのような奴の美声が、頭の中で反芻する。わざわざ目前の相手を煽るような、湿り気のあるしゃべり方だ。  
間近で相対していまさらながら気づいた。奴の背は高く、決して背の低い方ではない俺が見上げてしまうほど背丈がある。故に遠くで見ると細身のように見えるのだが、しかし実際はそうではないのである。  
奴はおそらく着やせするタイプだ。近くで見れば、右手だけでかついでいるグレートソードを振るうに足る、筋骨隆々な体つきをしていることが分かる。  
ローブから覗く白い衣服で包まれた腕は長く、そしてその表面には凶暴さを具現化したような無駄のない引き締まった筋肉が浮かび、  
腕と同じく長く伸びている脚も、それに倣い凶相そのもののような暴力的な肉体を晒している。  
そして俺は、そんな奴を目の前にし、モルダーの援護も望めないこの状況下で、たった一人で相手をしようとしているのだ。  
背筋の震えが全身に伝播する。勝てるだろうか。一度こいつと刃を交えた際、男はおそらく演技で緩慢に武器を振るっていたというのに、俺は敗北している。  
実際のこいつは、超重量の特大剣を棒切れのように振るうような規格外の男なのだ。こんな相手を、俺一人で……?  
胸元に突きつけたハルバードの刃先が震え、それを目にした男が、にやりと口元を歪めた。  
「君は少し冷静さに欠けるな」  
奴は、腕を鞭のようにしならせただけだった。凄まじい風圧が男の方向から全身を叩きつけてきたかと思うと、視界が急激に上空へと浮かんだ。  
目線が空中廊下と同じくらいの高さにある。凄まじい腕力で上方へ吹き飛ばされたのだと気づくと、腹部から胸部にかけて鋭い熱が走り、口中を鉄の臭いと味が満たすのを感じた。  
それでもなんとか受け身をとろうとしたが、腕がハルバードを掴んだまま、まったく動こうとしない。  
二転、三転とめまぐるしく回転する視界が捕らえたのは、グレートソードの一撃を受け、柄を折られたハルバードを握りしめたまま折れた左腕だった。  
地面が近づく。どうも悪運がいいようだった。上手く動かすことのできない視界は真上を映している。  
背中から地面に激突し、衝撃が全身を突き抜けた。咄嗟に首を守ったために後頭部をぶつけることはなかったが、  
背面から受けたとはいえ、高所から墜落したダメージは甚大である。口の中の血が噴水のように飛び散り、顔を濡らすのが分かる。  
体は硬直してしまったかのように動かず、息をすることもままならない俺の口は、空気を求めてぱくぱくと魚のように開閉するだけだ。  
痛い。呼吸しようとするたびに、心臓が鼓動を一つ数え上げるたびに、身を引き裂かんばかりの激痛が全身を走る。  
視界が急激に萎んでいるのが分かる。その赤く染まった視界に、揺らめき悪魔のような姿に見える男の姿を認められた。  
恐怖で心臓が跳ね上がる。痛みになど構っていられなかった。折れた右腕を使ってでも這いつくばり、必死に男から離れようとする。  
しかし俺の逃亡は、首根っこを掴み上げてきた男によって無残にも断ち切られた。  
 
「君にはまだ用があるんだ。逃げてもらっては困る」  
血のように赤い唇を喜色に歪ませた男の美麗な顔が、目の前にある。柄が折れてはいるものの、刃部にはダメージのないハルバードを奴の腹に突き刺そうとしたが、  
俺の些細な抵抗は、首根っこを掴む男の左手に力がこめられただけで防がれてしまった。  
万力のような強固さで俺の気道を締め付ける男の左手は、復讐に燃える俺をして簡単に無力化せしめるほどの力強さを持ち合わせていた。  
「死にはしないよ。なあに、我が野望の糧となるだけだ」  
いつの間にやら持ち替えたのか、奇妙な形をした男のタリスマンが男の右手にあった。そのタリスマンから、禍々しい色を放つ光が発せられている。  
このまま俺はこの男に殺されてしまうのだろうか。ウルスラを救えず、モルダーになにも告げないまま、ボーレタリアから帰らなかった者の一人として数えられてしまうのだろうか。  
(いいか、ここまで育ててやった恩を忘れるな。逃げ出そうだなどと思うなよ。ボーレタリアへ向かい、世界を救うか死ぬか、どちらかを成し遂げてこい)  
親父の言葉が頭の中で反芻する。所詮は、ただの夢だったのだろうか。モルダーや、ウルスラと、ボーレタリアを救って、そして……。  
もはやここまで、と俺は目を閉じ、せめて親友と愛する人のために祈ろうとした。  
その時だった。ぶつり、と肉を裂くような耳に障る音が聞こえ、いままで力が緩む気配すらなかった男の右腕が、嘘のように力を失った。  
締め付けられていた気道が緩み、咄嗟に男の手中から抜け出した俺は、地面に突っ伏しながら盛大に咳き込んだ。  
涙の膜で覆われた目を開けると、にぶい光を放つ直剣が、ひれ伏した俺の頭上で男の右腕を突き刺しているのが目に映る。  
「貴様……」男の目には怒りの色が浮かび、俺の後方を見据えている。その先にいるのは、振り返らずともわかる人物であろう。  
モルダーが直剣を引き抜き、地面に倒れ込む俺の前に躍り出て男に斬りかかると、男はそれを猫のような俊敏さで翻りながら避け、その勢いで床に刺していたグレートソードを引き抜いた。  
「君は油断できない相手だと思ってはいたが」男は刺された右腕をかばいながら、左手だけでグレートソードを構える。「よもやそこまで気配を殺せるとはな」  
「馬鹿野郎、一人で突っ込みやがって」モルダーが俺の肩を掴み、引き上げる。モルダーの物言いは怒気を孕んでいるようだが、その眼には苦痛が浮かんでいた。  
俺の肩を掴んでいるモルダーの額と首筋には、玉のような汗がびっしりと浮き上がり、モルダーの疲労がありありと窺える。  
当然のことだった。モルダーだって、巨大な剣を棒のように振り回し、狡猾に相手の命を奪おうとする、まさしく化け物のようなこの男と対峙していたのだ。  
一瞬たりとも油断できず、少しでも動きに無駄があれば、それを切り口として一息に叩きつぶされてしまう。  
そんな男を相手取り、モルダーは「友人を守る」という命がけの時間稼ぎを見事にやってのけたのだ。相応の疲労はあってしかるべきである。  
「すまん、俺」涙が浮かびそうになる。怒りに駆られたとはいえ、疲労したモルダーを置いたまま一人で男を追いかけたというのは、あまりにも思慮に欠けた行動だった。  
あと一歩で死んでしまうところを助けられたというのに、俺は男の発した『ウルスラ』という言葉に激高し、モルダーへの気遣いすら忘れてしまっていた。  
だいたい、モルダーでさえ苦戦する相手を、どうやって俺が一人で倒すというのだ。奴を倒すときは必ず二人。これだけは俺たちの間の不文律なのだ。  
「やれるか」  
「もちろん……!」  
正直なところ、満身創痍一歩手前といった状態ではあったが、不思議とさっきまで感じていた痛みは和らいでいた。  
この状況に熱狂してしまっているのだろうか? いままでいたぶられるだけだった俺たちが、ようやくにして一矢報いることができたのだ。  
それも、腕を一本使えなくするという重傷である。それに加え二対一。いくら化け物のようなこの男であったとしても、どうにかできるのではないか。  
 
上空へ打ち上げられたときに折れた腕は左手。しかし俺の利き腕は右手である。まだ十分戦えるし、武器だって使えなくなってしまったわけではない。  
ハルバードは、竿の先に斧を取り付けたような形状をしている。柄が折られ短くなってはいるが、片手で扱わざるを得ないこの状況では、斧として使えないわけではない。  
利き腕ではないとはいえ、腕が折られた状況で加勢するというのは無茶かもしれない。しかし、男を倒すというのなら、今しかないという確信があった。  
まず、奴の片手も俺と同じく使えない状態になっているということ。奴の右腕は、直剣の刺突により手首を抉られ、とめどなく血が流れ続けている。  
この点において多少はこちらへ有利に働くだろうが、しかし、また逃げられでもしたら、せっかく痛手を加えることができたというのに、魔法かなにかで回復されるかもしれない。  
そうなってしまえば戦いは振り出しに戻るばかりでなく、こちらだけ片割れが負傷しているという事態に陥りかねない。  
この男なら、片手だけでも十分に強いのであろう。だがしかし、潰すならまさしく今以外にして選択肢はないのである。多少の無理を押してでもここで倒しておかなくてはならない。  
「いくぞ、アルバート!」  
「おう!」  
先に仕掛けたのはモルダーだった。風を切るような勢いで一息に男との間合いを詰め、直剣で斬りかかる。  
しかしその斬撃は、左手だけで軽業のように翻されたグレートソードの肉厚な刀身に阻まれた。巨大な鉄塊の回転に攻撃を弾かれたモルダーが、たまらず体勢を崩す。  
「片手だけの私になら勝てるとでも思ったか」男が回転の勢いをそのままに、モルダーの脳天めがけて縦割りを加えようとする。  
それを黙ってみている俺ではなかった。俺は奴の負傷した右腕側に素早く回り込み、ハルバードの刃を横なぎに男めがけて振り切る。  
右腕をかばいながら戦っている男にとって、この位置取りは非常に厄介なはずである。  
「気づいていないとでも!?」  
目の前に、力のこもっていない血塗れの右腕が突き出された。もはやタリスマン一つ握ることができないほどその手は弛緩しているようだが、タリスマンは紐で手首にくくりつけられている。  
瞬間、視界が目映いばかりの朱によって満たされた。タリスマンから放たれた大面積の火壁は、ハルバードを握った俺の左腕に取りついたかと思うと、飛び火して全身へと広がる。  
鎧の中をかけずり回る炎が身を焼き呼吸を妨げ、喉が灼けて締め付けられる。まるで全身を針で刺されたかのようだった。だがしかし、俺はこの苦痛を根性で耐えしのぐ。  
右腕を負傷したとはいっても、奴の場合、片手で巨大な得物を扱うことに抵抗のない規格外の男である。左手での使用にも、なんの支障はない。  
それだけでなく、男は火力超過の炎魔法をも扱う。そして、魔法発動に必要なタリスマンは軽いため、右腕が封じられたとしても、使用するに支障がない。  
右腕側に回り込んだのは、そこまで予想した上での行動だった。そう、男の反撃は、予想の範囲内にある。  
俺の役目は、男の注意を俺に逸らすことだ!  
「アルッ! いけッ!」モルダーが、グレートソードを握る男の腕に組み付いた。  
グレートソードはそもそも切ることを想定しておらず、その重量を持って相手を叩きつぶす武器である。つまるところ、『叩きつぶされなければ、どうということはない』。  
男がグレートソードを愛用するという事実が裏目に出た。刃の研がれた武器ならば、組み付いたモルダーに刃を当てて攻撃を加えることも可能かもしれないが、  
こうやって腕に組み付いて叩きつぶすという行動を奪ってしまえば、グレートソードはただの直剣よりも役に立たない鉄塊になるだけなのだ。  
ハルバードを高く掲げながら叫び声を上げた。まるで鬨の声のようだ、と嗄らさんばかりに振動する喉の震えを感じていた。  
 
「クインツ!」  
突如、まだ幼さの残る少女の声が祭祀場内に響いた。見れば隠し通路へ続く通路への入り口で、真っ黒なローブを身に纏った例のウルスラによく似た少女が叫んでいるではないか。  
「ウル、スラ……?」  
「躊躇するなアルバート! どのみち倒すしか方法はない!」  
思わずハルバードを取り落としそうになった俺を、モルダーの叱咤が突き動かす。そうだった。どのみちこの男を倒さなければ、満足にウルスラを救出することすらできないのだ。  
しかし、わずかな時間に起こった多事多端の出来事で沸き立ちそうになっている脳内に、不安にならざるを得ない疑問が強い質量を持って思い浮かんでくる。  
クインツ、とはおそらくこの男の名前だ。そしてその名前を叫んだウルスラは、まるでこの男をこそ案じているような、そんな雰囲気で――。  
全体に力を込めて、嫌な想像を振り払うべく叫んだ。ただの妄想だ。彼女は脅されて協力しているだけだ。きっと、弱みかなにかを握られているのだ。  
掲げた手を男の首めがけて振り下ろす。狙うは一撃必殺。頸椎の切断による即死。  
折れたハルバードが男の体に近づく。男はこの絶対的な危機にもかかわらず、不遜で、なおかつ機嫌の悪そうな顔をして、叫んだウルスラを見つめていた。  
こいつ! 男に対して心の中で罵る。こんな状況なのに、まるで俺たちを歯牙にもかけていない!  
もはや報復に対する思いもなかった。いままで男にやられた奇襲の数々が、ウルスラに対する疑念が、数多の苛立ちが、俺の思考を彼岸の彼方に追いやっていた。  
今すぐこいつを殺して、腹の虫を収めてやる!  
が、しかし、男の体に刃が達する手前で、重く黒い影が俺の右肩部と頭部に覆い被さった。  
突然の妨害に目を回すと、覆い被さったなにかがうめき声を発している。モルダーの声だった。彼は、男の腕に組み付いたまま俺の上にのしかかっている。  
被さったモルダーの体からなんとか這い出ると、そこには目を疑わんばかりの光景が映っていた。  
奴は、「モルダーが組み付いたままの」グレートソードを、俺に対してかぶせていたのだ。  
なんという怪力だろうか。グレートソードより重量を持つであろう、金属鎧を着込んだモルダーごと剣を振り下ろすなど……!  
いよいよもって、怖気とはまた違った感情が胸中を支配しはじめた。恐れではなく、畏れ。  
畏怖という感情を目の前にしたとき、俺はようやくにして「化け物」という言葉を真に理解した。  
この男はあまりにも大きく、そして畏れ多い。あまりにも、強すぎる。  
この男は、「化け物」なのだ。俺たちとは次元の違う、あまりにもかけ離れすぎた存在なのだ。  
「ウルスラ、私のことはご主人様と呼べと言ったはずだが」  
「化け物」らしく、俺たちのことなど歯牙にもかけない様子でウルスラに言及した男は、赤い唇を狂気に歪ませた。  
「アルバート! ウルスラを保護しろ!」叫ぶと同時に、組み付いた腕を軸としたモルダーの両足蹴りが男の横顔に炸裂した。その勢いで組み付いた男から手を離し、後ろに飛び退く。  
しかし男の首筋は、全体重が込められたであろうモルダーの蹴りにびくともせず、その顔をわずかばかり厭わしそうに変化させただけに終わった。  
モルダーがなにを言い出したのか分からなかった。この化け物を倒すなら負傷している今を除いて他はなく、また二人でないと相手にすらならなさそうな奴ではないか。  
「ウルスラを保護して安全な場所に逃げろ! 俺も後から行く!」  
思わずハッとした。凝り固まった思考の湖へ、モルダーの言葉が一石を投じたかのようだった。  
そうだ、何もこの男を倒す必要はないのだ。ウルスラを保護してこの男から逃げ切ることができれば、後顧の憂いは残るものの万事上手くいく。  
こんな化け物を相手取ってまともに戦う理由など、どこにもないのだ。俺たちの目的は、ウルスラの奪還である。  
だがしかし、この男をして出し抜き、逃げ切ることなどできるのだろうか。時間を稼ぎを買って出てくれたモルダーが、はてして逃げ切れるかどうか……。  
「いいから早くしろ! ウルスラが行ってしまうぞ!」  
隠し通路へ続く階段の方を見ると、まさしくウルスラが階段を駆け上ろうとしていた。なぜ彼女は俺たちから逃げるのか。まさか本当に……。  
「すまない、モルダー!」俺も彼女を追って駆けだした。階段の手前で一瞬だけ立ち止まり、振り返る。「絶対に死ぬな! 約束だぞ!」  
心なしかモルダーは、男に直剣を構えながら、俺に向かって微笑んでみせたように見えた。  
「くそっ、モルダー……」階段を駆け上る俺の胸がずきずきと痛む。これが、今生の別れとならなければいいのだが。  
 
「逃がしてやった、というところかな」  
逃げ出したウルスラとアルバートの方向を見やりながら、男は微笑を顔に浮かべた。  
俺は何も答えない。とりあえず今は、アルバートがいつもの強情を捨てて素直に逃げ出してくれたことへ多少の安堵感を覚えていた。  
一拍おいて、ウェーブした美しい金髪をなびかせながら、男がこちらを振り返る。  
怖ろしいまでに整った顔立ちである。くっきりとした目鼻立ちはまるで貴人のそれのようで、男の屈強な体つきとはまるで印象が正反対だ。  
「時間稼ぎをするのだろう?」男がグレートソードを左腕で肩に担いだ。「楽しませてくれ」  
問答は無用だった。地面を蹴って男との距離を詰め、愛剣の刃を男の腹部に撫でつける。  
もちろんその刃は男の体に届かない。揺れる木の葉の如くひらりとかわして俺の側面に躍り出た男が、器用な重心の移動を用いて特大剣を横なぎに振り付ける。  
しかしその動きに対応できないほど、神童と呼ばれた俺が腐っているわけではなかった。  
男の特大剣は、斬りつけた後そのまま倒れ込むように前のめりになっていた俺の頭上を通り抜けた。  
凄まじい剣風である。音速超過の特大剣は辺りの大気を思い切りかき乱し、鼓膜をびりびりと振動させる。  
一時的に真空状態に近くなった特大剣の通り道へ辺りの空気が吹き込み、俺の体ですらそれに巻き込まれて吸い込まれそうになった。  
男の豪腕ぶりに驚くのは、いい加減疲れるというものだ。剣界がいくら広しといえども、ここまで規格外の相手は今まで存在しなかったのではないか?  
前のめりになった体を180度翻し、左足を思い切り地面に叩きつけて当座のバランスと重心を保った俺は、返す腕で男に斬りつける。  
ちょうど、手放しでブリッジをしているような体勢だ。正直な話、こんな状態で相手を斬りつけることができる自分もなかなか化け物じみているかもしれない、と心の奥底で思った。  
得たソウルを火防女に渡し、それを血肉としていく俺やアルバート、ウルスラのような要に縛られた戦士は、膨大なソウルを手に入れデーモンとなった化け物どもと、本質的には同じなのだ。  
大なり小なり違いはあれど、この男に限らず、俺たちだって化け物なのだ。この男の場合、いくらなんでも度が過ぎている気はするが。  
返す腕で斬りつけた剣撃も、男には当たらなかった。特大剣を振り抜いたまま円を描いて踊るように回転した男は、体に追従してまわる特大剣の刀身で直剣の刃を受け止めたのだ。  
剣を弾かれた俺は両足を踏み込んでそのまま思い切り地面を蹴り、空中で一回転しながら両腕を突き出し、それを支点にして後方転回する。  
バックハンドスプリング、というやつだ。着陸して直立姿勢をとれたとき、特大剣の縦割りがちょうど俺の眼前をかすめた。  
回転の勢いを利用して特大剣を上空に跳ね上げた男が、そのままこちらへ振り下ろしたのだ。少しでも回避にてまどっていれば命中していただろう。  
だがしかし、少々よろめいてしまったがダメージはほとんどない。まったく、この男は左腕だけでこれなのだから、心臓に悪いとしか言いようがない。  
改めて認識する。他に仲間がいたからといって、どうにかできる相手ではないのだ。あえて俺が囮になり、逆にアルバートが攻撃するという作戦は、男の怪力によって阻まれた。  
俺が組み付いたままの腕で特大剣を振り下ろすなどという人間離れした所業。正味な話、こいつは片手でも俺とアルバート二人じゃ分が悪い。  
男が「逃がしてやった」とか言っていたが、半分はその通りなのである。こう言っちゃ悪いが、アルバートと二人ではかえってあいつが危ないような気がしたのだ。  
二人がかりだろうと勝つ可能性が低い以上、アルバートに無駄な出血をさせるよりは、さっさとウルスラだけ連れ出して逃げる方がよほど建設的というものだ。  
アルバート。かけがえのない俺の親友。あいつを犠牲にするわけにはいかない。あいつが俺に話しかけてくれたから、俺の世界は大きく視野を広げたのだ。  
口が裂けてもアルバートには言えないことだが、俺はだいぶあいつに感謝している。どんな人間とも、それこそ両親とすら馴染むことのなかった俺が、誰かと親しくなることができたのだ。  
あいつが俺に話しかけてくれたから、俺は人の温かみというものを知ることができた。どんなに感謝してもし尽くすことはできない、無形の財産を俺に与えてくれたのだ。  
明るくて、どんな奴にでも話しかけることができて、バカで、でもいい奴で……。アルバートは、そんな男だ。  
 
「君ほどの逸材を無駄にしてしまうのは、気が引けてしまうな」改めて特大剣を担ぎ直した男がつぶやく。  
「そうかい。その調子で逃がしてくれると嬉しいんだがね」先の激しい剣戟で弾んでしまった呼吸を見せないように、俺はゆっくりと言葉を返した。  
俺の返答に男はくっく、と白い歯を覗かせる。「悪いが、そういうわけにもいかないのでね。君を『無駄』にしてしまうことも、私の目的の一つなのだから」  
「目的! 目的か。ずいぶんとご大層な理由がおありなのだろう」まだだいぶ、時間稼ぎには時間が足りないかもしれない。もっと情報を引き出すか……。  
「そうとも、ここボーレタリアは素晴らしいところだと思わないかね」男が両腕を広げる。相も変わらず、特大剣の重さを感じさせない軽やかな動作だ。  
「ああ素晴らしい。まるで地獄だ。地獄の、それも肥だめのようだ。興奮するね」  
「新たなる人の知恵と技術は、その身に危険を及ぼす窮地から生まれ出るものなのだよ」男は目を閉じ、緩やかに伸ばした腕を下ろした。どこまでも芝居がかった動作だ。  
「食糧問題や照明の問題、外敵からの防衛手段の問題という窮地こそが、我々の文明をここまで押し上げた。  
 古くは石器の発明、火の発見、農業や牧畜、合金、文字、印刷、火薬、新たなる武器。すべては、窮地への対抗から生まれている。  
 飽くなき窮地への対抗こそが人を文明的に進化させ、そして世界を埋め尽くすまでに人類を栄えさせた。そう思わないかね」  
「このボーレタリアこそまさに、貴様の言う『窮地』そのものだと?」極論、いや暴論のたぐいだ。奴は本当に狂ってしまっているのか?  
「そんなものは単なる決めつけにすぎない。こんなくそったれな場所が、なにかを生み出したりなどするものか」  
「はたしてそうと言えるだろうか。君だって充分体感しているはずでは? ここボーレタリアでは常に新しい技術が生まれ続けている」  
「それは……」  
思わず言葉に詰まってしまう。たしかに男の言うとおりだった。新しい鋳造技術や魔法、奇跡などもほとんどはこのボーレタリアから生まれているのが事実だ。  
大概の優れた技術や品物は、ボーレタリアで開発され外に広まっていく。今となってはこんな状態ではあるが、優れたソウルの業があるからこそ、ボーレタリアは大国でいられたのだ。  
「……語りすぎてしまったようだ。だが、時間稼ぎにはなっただろう?」ニヤニヤと、小馬鹿にするような態度で男がグレートソードを構えた。  
――なるほど、お見通しというわけだ。これ以上の時間稼ぎは無理のようだ。だが、アルバートがウルスラの保護に手間取っていたら計画が狂ってしまう。もう一踏ん張りすべきだろう。  
先に仕掛けたのは男の方だった。特大剣の長く肉厚な刀身を利用して前面を庇いながら、こちらに突撃してくる。  
男ほどの怪力の場合、力任せの攻撃というのは単純な行為でなくなる。無理して押し返そうとすれば、男の怪力で押し通されてしまうのが必至だからだ。  
つまり、仕掛けられた人間は避けるという選択肢しかなくなってしまうのだ。もちろん俺もその判断に倣って避ける。  
案の定、男は接近した瞬間横なぎに特大剣を振り切った。受け止めることのできない全方位攻撃への対処は、全力で後退するか屈んで避けるかの二択だ。  
俺は前者を選んだ。屈んで避ければ特大剣を振り切った男の隙をすぐさま衝くことができるが、男ほどの手練れともなると軌道を変えて攻撃することも可能かもしれない。  
俺は相手の攻撃を見計らって後背に飛び退き、すんでのところで男の特大剣を避けきった。剣風の激しさはもはや言うまでもない。鼓膜を破らんばかりの風圧が体を襲う。  
特大剣を振り切ったとはいえ、焦って攻勢に移ってはいけない。この男は軽々と特大剣を振り回すため、攻撃の後隙を狙うような攻め方をしても、逆に迎撃される。  
そう、初めてこの男と刃を交えたときのようにだ。俺はあの時、奴の緩慢な動作――演技に騙され、一息に殺されたのだ。  
あれほど大きな特大剣ならば、攻撃の後隙を狙い、距離を詰めて接近戦を挑むのが常套手段だ。  
俺もあの時はそうしたが、男は特大剣を振り切り隙だらけになったように見せかけて、距離を詰めてきた俺に返す一撃をお見舞いしたのだ。  
もしも奴が演技通りの腕力しか持っていなかったのなら、振り切った特大剣を迅速に返すことなどできない。  
恥ずかしながら俺は、突如本性を現し俺の攻勢を瓦解させた男に対応することができなかった。結果は、俺の敗北だ。  
だが、もうそれは通用しない。男の実力は把握しきっている。もう間違えることはないのだ。  
 
後隙を狙うのは愚行。だが俺は、あえてその愚行をしてみようと刹那に思った。  
振り切られた特大剣の猛攻を後ろに飛び退いてかわした俺は、三半規管を全力動員し、絶妙なバランスを保ちながら、着地した床を思い切り踏み抜いた。  
男からしてみれば、飛び退いて攻撃をかわしたはずの相手が、直後にこちらへ飛びかかってきたように見えるだろう。  
並の相手ならば虚を衝く完全な奇襲となりえたろうが、この男は並どころか最上の相手であり、そういった奇襲への対抗手段などとうに用意している。  
案の定、男はこちらの奇襲を予想していたらしく、振り抜いた遠心力を利用してそのまま特大剣を高く掲げ、接近する俺の頭上へと振り下ろそうとする。  
初めて男と刃を交えたときの俺ならば、これに対応できずつぶされてしまったであろう。  
だがしかし、今の俺は男のこの反撃手段を知っている。どういうタイミングで攻撃が来るか。どのくらいの速さか。どのような軌道を描くのか。  
知っているからこその、男の後隙を狙うという「愚行」だった。いくら超人じみた攻撃であろうと、来ると分かっている攻撃を避けることほど、楽なものはない!  
頭上から襲来する特大剣の縦割りを、俺は紙一重で男の右半身側に避けた。つまり、「負傷した男の腕側」にだ。  
超至近距離に潜り込み、さらには負傷して使い物にならない腕側に回り込んだことで、特大剣は俺を叩きつぶす手段を失う。俺は次いで、ある部位に狙いを定めて直剣を振る。  
それは、「男の右手首にぶら下がった、タリスマンをくくりつけている紐」だ。  
男は一度、今と同じく右腕側に潜り込んだアルバートに炎魔法を見舞っている。当然の如く、今まさに潜り込んだ俺にも炎魔法が待っているはず。  
俺の行動は迅速だった。タリスマンから火が放たれるより早く、我が直剣の刃は炎魔法を直撃させようと迫る男の腕にくくりつけられた紐を断ち切り、その行為を中断させた。  
紐という支えを失って足下に転がったタリスマンが乾いた音を立てる。これで現時点での奴の攻撃手段はなくなった。  
勝った、とは思わなかった。化け物じみたこの男相手だと、急所に直剣で斬りつけても、殺しきれる自信がない。だがしかし、ひるませることくらいは可能なはずだと思った。  
そう、しっぽを巻いて逃げ出し、アルバート達と合流する時間を稼ぐくらいには、だ。  
紐を断ち切った直剣を返し、俺は男の目を狙う。この距離ならば外しはしない。男も俺の行動に対応できていない。  
さしもの男も俺の先を読み尽くした攻撃が予想外だったのか、俺の顔を見開いた目で見つめている。  
獲ったぞ、アルバート!  
心の中で快哉を叫んだとき、直剣を握る俺の右手首が怖ろしい力で何かに捕まれ、男の眼前で急停止した。  
右腕が万力のような握力で挟み込まれている。肉が張り裂けそうになり、手首の骨がミシミシと悲鳴を上げる。  
あまりの苦痛に俺の握力はゆるみ、思わず手から直剣を取り落としてしまう。  
 
――何が起こった。いったい、何が。  
パニックに陥りつつある俺が見たものは、俺の右腕を掴む、「負傷して使い物にならないはずの」男の右腕だった。  
「まさか。そんな、馬鹿な……!」  
「また騙されてくれたな」狼狽した俺の顔を見やる男が、「目を見開いた」狂気的な笑顔で応える。  
「言ったはずだぞ。時間稼ぎにはなっただろう、と」  
男が左手に握られた特大剣を床に放り投げた。自由となったその腕は俺の首根っこを掴み、気道を締め付ける。  
次いで、男は右腕で掴んだ俺の腕を、左腕で掴んだ首を支点にして、思い切り引き延ばした。  
ぶつり、と体を伝ってなにかが切れる音が聞こえた。瞬間、俺の右腕は力を失い、痛みが全身を伝播する。  
腱を、腱を切られたのか。  
「祝福儀礼が施された私のグレートソードは、時間の経過で少しずつ私の体を癒してくれる。どんな重傷であろうとも、だ。  
 先ほどの時間稼ぎで、ちょうど私の右腕は完治していたのだよ。そしてそれを隠していたのだ。君を捕まえるこの瞬間のために。君が攻めてくるこの時のために」  
男は、腱を引きちぎった俺の腕をもはや用済みとばかりに解放し、床に転がっているタリスマンを器用につま先で蹴り上げ、自由になった右腕でつかみ取った。  
またしても……またしても演技か。俺はまたしても男の演技に騙されてしまった。「男の右腕は使い物にならない」という前提で、動かされてしまっていたのだ。  
まだだ、反撃を! まだ反撃を!  
しかし右腕は惰性でぶらぶらと揺れるばかりで、どんなに動かそうとしても垂れてしまい言うことを聞こうとしない。盾を持っているだけの左手では、男の怪力の前になすすべがない。  
八方塞がり。顔が青ざめ、背筋が震えるのが分かった。なにもできない。俺は、奴に、捕まえられた。  
「惜しい。本当に惜しいよ。ここまで私を追い詰めたのは、君を除いて他にいない。これほどまでにすばらしい逸材なのに、この手で無駄にせねばならないとは」  
男のタリスマンが禍々しい光を放つ。タリスマンを握った手が胸に押し当てられ、ものものしい圧迫感が胸中を満たす。  
「そうだ、最期にいいことを教えてやろうか」深刻そうな顔をしていた男が、打って変わったあっけらかんとした表情で言ってのけた。  
「あの坊やの実力じゃ、今のウルスラには勝てないだろうな。見た目に反して、あの娘はかなり強化してあるからね」  
背筋が凍り付いた。薄々感づいてはいたが、やはりウルスラはこいつに寝返っていたのだろうか。  
男の言葉には、「ウルスラがアルバートに反撃して当然」という意味が含まれているように思える。  
「それと」男が更に付け加えた言葉が、俺を戦慄させた。「君はもう生き返らない。これから私がすることは、そういうものだ」  
アルバート、逃げろ。逃げてくれ。この男は危険すぎる。お前だけでも生き残ってくれ、アルバート……!  
男の右腕が、俺の胸の中へ沈み込む。  
 
生きてくれ、アルバート。俺の……  
 
「ウルスラ、待ってくれ!」階段を駆け上がる少女の姿が、目の前から消える。隠し通路に入ったのだ。  
「どうして逃げるんだ、ウルスラ!」俺もその姿を追って隠し通路に進入する。ちょうど通路先の崖から日が射し込んでおり、逆光になってウルスラの姿が見えづらい。  
「ウルスラ……!」隠し通路出口手前で、俺は思わずたたらを踏んだ。ウルスラが、ちょうど日を見るような形で立ち止まっていたのだ。  
「ウルスラ、一緒に逃げよう。モルダーがあの男を引きつけてくれている今なら、逃げ切れる」逆光で黒い影のように見える小さな後ろ姿に話しかける。  
ウルスラの返事はない。俺の言葉に微動だにしないまま、静寂を守り続けている。  
「ウルスラ、ずっと心配してたんだ」  
不安で胸が張り裂けそうになる。まるであの男をこそ案じているかのようにクインツと名を叫んだウルスラに対する不信感が、腹の奥で鉛のように重くのしかかっていた。  
「あの男が君をそんな体にしてしまったんだね?」それでも、俺は口を噤むことができなかった。不信感よりも、ウルスラに対する思いの方が大きかった。  
美しく、どこまでも気高く、子供のように純粋で、まるで夢物語に登場する勇者のようなウルスラ。そんな彼女に惹かれている俺は、見捨てることなどできるはずもない。  
「なんて惨いことを。さあ、帰ろうウルスラ。もうあの男の影に怯える必要はないんだ」ただでさえ華奢だというのに、子供の体になってより一層細くなった彼女の肩に手を伸ばす。  
「触らないでください!」ウルスラの背中が震えた。その姿は、少しでも手で触れてしまえば崩れてしまいそうなほど儚げに見える。  
俺はおとなしく手を引いた。再び無言の壁が立ちはだかる。焦らずにはいられなかった。こうして逡巡している間も、モルダーはあの男を相手どって絶望的な時間稼ぎをしているのだ。  
「ウルスラ、よく聞いてくれ」唾をゴクリと飲み込んで意を決した俺は、顔が熱くなる気配を感じながら話しかける。  
「俺は、俺は、ウルスラ、君のことが」心臓が高鳴る。手が震え、脚が震え、言葉すらもおぼつかなくなる。  
「君のことが、好きなんだ……」言ってしまった。こんな状況で俺はなにをいっているのか。だがしかし、このくらいしかウルスラを引き留める術を思いつかなかった。  
ウルスラの肩が少し震えたのを俺は見逃さなかった。次いで言葉をつむいでいく。  
「君のお陰で、俺はボーレタリアで戦い続ける気持ちになれたんだ。まだ君には話していなかったね。  
 俺はこの地に無理矢理送られてきたんだ。よくある理由だよ。一族の売名のため、生贄にされたんだ。  
 父がここまで育ててくれたのも、初めからそうやって売名するためだったんだ。モルダーが同行してくれなかったらとっくに死んでいたろうね。  
 だから、俺はずっとこの地で戦う意味を見いだせなかった。生き残ることはできても、生きて帰ることができるとは思えなかった。  
 だけど君と出会ってからすべてが変わった。君のためになら戦えると思えたんだ。君のために戦えるのなら、それが俺の本望なんだ」  
早口でまくしたてる。言葉が無意識に喉を通り抜けていくようだ。それでも、なにか言葉を続けないと、目の前にいるはずのウルスラがすぐにでも消えてしまいそうな気がした。  
「頼む、ウルスラ。俺を見捨てないでくれ。俺と、俺なんかのためにあの男を引きつけてくれているモルダーを、どうか見捨てないでくれ……!」  
ウルスラの肩が再び震えた。しかしその揺動は、意を決したかのようにぴたりと止まる。  
「アルバート……」ウルスラがゆっくりと振り向く。その表情は逆光で判然としないが、子供の体になっても、彼女自身が持つ妖艶な雰囲気は失われていないように思えた。  
「ウルスラ……!」思いが通じてくれたのか! 逸る気持ちを抑えて、振り返る彼女を抱き留めるべくゆっくりと歩み寄った。  
「ごめんなさい」  
「え……?」  
ウルスラがこちらへ振り向ききった瞬間だった。彼女が背負うようにして浴びていた目映いばかりの日光から、五つの小さな光の筋――光芒が、俺に向かって手を伸ばしてきたのだ。  
こちらの目を眩ませる逆光に隠れ、ウルスラを取り囲むようにして鎮座していた光の矢は、各々が自律するような形で飛び出し、俺の体を一瞬で貫き、そして消える。  
不意に下半身がずんと重くなり、自制が効かなくなった。脚の感覚がなくなり、思わず転倒しそうになる。とっさに隠し通路の壁に手をつき、かろうじて転倒を防いだ。  
「う、ぐ、ぁ……」  
下半身の重さがやがて痛みへと変わったところで、光の矢がこしらえたのであろう下腹部の傷から、下半身すべてを覆わんばかりに血が滲み込みつつあることを俺は察した。  
 
「ウル、ス、ラ……?」  
「ごめんなさい、ごめんなさい……」日光が雲に隠れたのか、逆光が引いてウルスラの顔を見ることができた。ウルスラは両手を顔に押し当てて泣きじゃくるばかりだ。  
「どうし、て……」下半身の重みが全身へと伝播しはじめる。内蔵が傷ついて血が逆流しているのか、血の味と臭いで口の中がいっぱいだった。痛みと気持ち悪さで、吐きそうになる。  
ついに手で体を支えることもままならなくなり、壁伝いにずるずると倒れ込んだ俺は、うつぶせの状態でかろうじて動かすことのできる首をひねり、目に涙をたくわえた彼女を見上げた。  
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」彼女の嗚咽は止まらない。やはり、やはり彼女はもう、あの男に……?  
「やはりこうなったか」朗々としたよく通る声が、足音とともに背後から響いてきた。「まったく悲劇だ。助けようとした女に手ひどく傷を負わされるとは。それとも喜劇かな」  
スキップでもするかのような軽やかな足取りで俺をまたぐと、泣きじゃくるウルスラの顎に手を添え、顔を上げさせた。  
「よくやったな、ウルスラ。ご褒美が欲しいかな」微笑みを浮かべながらウルスラの目を見つめた男は、そのまま手を頬に当てる。  
「クイ……ご主人様……」ウルスラは男を恍惚とした表情で見上げていた。  
愕然とする。なぜここに男が現れる。モルダーはどうしたんだ。あいつは、どうしてしまったんだ。  
「あの男は、もうダメだな」狼狽する心を読んだように、ニヤニヤと頬を歪ませた男が答えた。「惜しかったよ、あれほどの男を無駄にしてしまうのは。もう神殿で生き返りもしない」  
ああ、モルダー!  
あいつとの思い出が心の中を駆け巡る。修練所で静かに本を読んでいた姿。剣聖ここにありといった佇まいで勇敢に戦う姿。  
普段は誰にも見せない笑顔を、俺だけに見せてくれたときの姿。酒を飲み、肩を組んで語り合った姿……。  
男の口ぶり的に、モルダーはもういない。時間を稼ぐだけ稼いで、そのまま死んでしまった。神経質で、気分屋で、無頓着で。だけど頼りがいのあるモルダーは、もうどこにもいないのだ。  
知らず知らずのうちに食いしばっていたのか、歯がぎしぎしと鳴っていた。  
モルダーを殺したことだけじゃない。ウルスラをも俺から奪い去った男に、身を焼かんばかりの怒りが、大質量で燃えさかっていた。  
許さない、この男だけは絶対に許さない。よくもやってくれた。よくも、よくも俺の大切な人たちを……!  
「よく、も、モルダー、を……! うる、すらを……!」  
この男をこそ案じているかのようなウルスラの言動に感じた不信感は、まぎれもなく正しいものだった。  
彼女の男を見る目は、俺から見ても分かるほど、ただれきった熱を帯びている。完全に情人を見る目だ。想像していた最悪の結末通り、ウルスラは、男に心を奪われていたのだ。  
「この男は、もうダメだ。やりすぎだ。もうじき死んでしまう」男が俺のほうを見やる。言動とは裏腹に、その表情は満足げだ。  
「ご、ごめんなさ……あっ」男との会話の途中で、ウルスラは突如湿っぽい声を上げた。ぴくんと体を震わせ、上気した顔をさらに赤くする。  
見れば、男の手がローブ越しに彼女の股間をまさぐっていた。「こんなに濡らしてしまって。仲間を殺ったのがそんなに興奮したかね」  
「だめ、だめだよぉ、クインツ……見られてる……んっ」  
「ご主人様、だろう?」男の手がローブの中に進入する。まくれあがった裾から、ウルスラの真っ白な脚と、透明な液体を内股に垂らす縦の亀裂が覗いた。  
「ごめんなさい、あっ、んんっ」やがてウルスラは快感に耐えきれなくなったのか、男の腕に掴まって、ぶるぶると体を震わせる。今にも倒れてしまいそうだ。  
ふざけるな。ふざけるな。触れるな、汚れきったその手で、ウルスラに触れるな! いますぐその手を離せ!  
燃えさかる怒りが内奥を支配しはじめる。体の奥底で煮えたぎる熱が全身を支配し、痛みが遠のいていくのが分かる。  
しかし、体は重いままでまったく言うことを聞こうとしなかった。思い通りにならないもどかしさだけが募りに募って、俺はようやく腕だけで体ごと這いずる。  
重傷であるにもかかわらず這いずりだした俺を見て、男は多少驚いたようだった。しかし、それが喜びからくる驚愕だということは、その表情を見れば明らかだった。  
「まだ動けるとはずいぶんと頑張るじゃないか、坊や。どうやら私は君を過小評価していたようだな」  
「さ、わ、るな……! う、るす、らに……、さわ、るな……!」無理に言葉をひり出すと、逆流してきた血が喉を灼いて、ついには口の端から漏れ出すのが分かった。  
「よく聞こえないなあ」そう言うと男はウルスラの背後に回り、彼女の秘所を俺に見せつけるが如く、股の下に差し入れた腕を思い切り広げた。  
 
「やあっ、だめっ……!」言葉で抵抗こそすれど、ウルスラは男の行為をそれ以上拒みはしない。男の膝の上で、羞恥に顔を背けるだけだ。  
彼女の広げられた脚の間にある肉壺からは、とめどなく愛液が流れでている。想像だにしなかった光景が、目の前に広がっていた。  
いつの間にやら脱いだのか、大きく隆起した男の陰茎が、ウルスラの下にあった。情欲をむき出しにした肉棒がぬらぬらと濡れるウルスラのスリットに迫り、入り口に亀頭を押し当てる。  
「やめ、ろ……! やめ、て、くれぇ……!」ついに、腕で這うこともできなくなりつつあった。爪だけが冷たい床石を引っ掻き、少したりとも前進することができない。  
頼む、やめてくれ。俺にこんなものを見せないでくれ。ようやく見つけた心の拠り所なのに。やっと、この地に留まる理由を見つけたのに。  
モルダーを喪って、彼女をも失ってしまえば、俺は、もう――!  
「ッ! アァ――――っ!」  
鋼のような男の肉棒がウルスラの秘裂へ強引に入り込み、彼女は甲高い嬌声をあげた。  
やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれ……! やめてくれぇっ……!  
俺の前で始まった男とウルスラの情事は、動けなくなってしまった俺の視界と聴覚に否応もなく飛び込んでくる。  
「あっ、あっ、あっ、んっ、きもち、いいよぉ、んっ……」  
上下運動に感応してあえぎ声を上げるウルスラは、心ここにあらずといった面持ちで男に絡みつき、自ら腰を振って快感をむさぼっている。  
「すきぃ、すき、だいすきぃ、ご主人様ぁ……」  
どうして。どうしてこんなことになってしまったんだ。どうして……っ!  
目頭が熱くなり、視界が歪んでくる。双眸から涙がこぼれ落ちる気配がした。しかし、動くことのできない俺は、それを拭うことなどできない。  
「悔しいか、親友を殺されて。悔しいか、意中の女を奪われて!」男の高笑いが通路内に響く。その哄笑は、祭祀場にまで届きそうなほどこだましている。  
男の腰の動きが激しくなった。動きに合わせて途切れ途切れの嬌声を上げていたウルスラのペースも、それに比例して早くなる。  
「あっあっあっあっあっあっ、だめぇっ、イっちゃ……!」  
(いいか、ここまで育ててやった恩を忘れるな。逃げ出そうだなどと思うなよ。ボーレタリアへ向かい、世界を救うか死ぬか、どちらかを成し遂げてこい)  
親父の言葉が、不意に頭の中をぐるぐると回り始めた。首を上げる力も失った俺は、床石に頬を冷やされるのを感じながら、自嘲気味に唇を歪ませた。  
モルダーはもういない。ウルスラも、もう男のものになってしまった。世界を救うか。それとも死ぬか。世界を救えると思い込んだあの時が、嘘のようだ。  
モルダー、俺の親友。ウルスラ、俺のすきなひと。もう二人はいない。俺の元から、いなくなってしまった。  
俺がボーレタリアにいる理由が、大切な二人が、失われてしまった。もう、俺なんかがボーレタリアにいても……。  
そう思った瞬間、パキン、と小さな音が聞こえた。音のした方へ目線を動かすと、粉々に砕けた楔の縛環が目に映った。  
そうか、俺はもう、生き返れないのか。それもいい。これ以上生きていたって、俺にはなんの意味もないのだ。  
モルダー、ごめんよ。そしてありがとう。俺も今、そっちに行くから……。  
急激に視界が窄んでいく。目の端に現れた暗闇が徐々に視界を浸食し、やがてはすべてを覆い尽くす。  
視界が暗闇に閉ざされても、男の高笑いだけは響いていた。しかし、やがてはそれすらも遠のいていき、完全なる静寂が訪れる。  
間近に迫った死の気配に、恐怖を感じることはなかった。それよりは安寧を感じ始めていた。死が、しがらみからすべてを解き放ってくれる救世主のように感じられた。  
 
 
 
――――俺は、死んだ。  
 
 
 
この俺にとってみれば、もはやこの祭祀場は自分の庭みたいなもんだ。  
バカみたいにでかい鎌をこともなげに振るい、指先から光の魔法を放つおっかない死神の野郎と、そいつが使役する細長い幽霊はいるが、慣れてしまえばどうというこっちゃない。  
奴らに気づかれないよう、抜き足差し足で階段を下りた俺は、いつものように地下壕へと続く縦穴の元へと歩を進めた。当然奴らには見つからない。さすが俺。  
「死体は増えてないかぁ。ちっ」大穴を覗き込んで中を見渡した俺は、誰に聞かせるわけでもなく毒づいた。  
この大穴は、どうも死体を放り込むゴミ捨て場だったらしい。俺が初めてこの穴を見つけたときには、既に何体かの死体が放り込まれてあった。  
この大穴を利用しようと思いついたあの時の俺は、天才だったんじゃないかと今でも思う。思い出すだけで口元がニヤニヤしてきた。  
要するにこういう筋書きだ。冒険者なら「中にすげえお宝があるぜ、覗いてみろよ!」と促し、中を覗き込んだ無防備な背中を蹴り飛ばして、中に落としてやる。  
聖職者なら「哀れにも中に落ちてしまった信徒がいますぜ! 助けなくていいんですかい!?」と良心に訴える。もちろんその後は中に真っ逆さまだ。  
落としたあとはどうするのかって? 奴が掃除してくれるのさ。この穴の中には、扉を守る黒きファントムがいるのだ。  
目が悪いのか、唯一の出口である扉に近づかない限りは落ちた人間を襲ったりはしないが、やたら強いらしく、そいつに挑んだ人間はことごとく斬り殺されていった。  
挑まない人間は、黒いファントムの影に怯えながら、いつかおとずれる餓死を待ち続けるだけだ。死が早いか遅いか。それだけの違いしかない。  
――まあ、どっちみちその後は俺が身ぐるみをいただくけどよ。一人でニシシと嗤う。まったくボロいもんだ。幸運のパッチ様は、どこまでも運がいい。  
 
「……と、……る、……あ」  
 
俺の耳は鋭い。耳だけじゃないが、俺の感覚は人並み以上に鋭いという自負がある。確かに聞こえた。今にも消え入りそうな、弱々しい人の声だ。  
おっとお、これはもしかして追い剥ぎができる予感? 死体が増えてないときはどうしようかと思ったが、やっぱりどこまでも運がいいぜ、俺って奴はよ!  
聴覚を頼りに、声の出所を探し始める。目を閉じて耳を床に押し当てると、少し離れた場所から、わずかに人の動く音が聞こえた。人外じみてるね、俺。  
声の出所は、ちょうど隠し通路の辺りだ。よし、抜き足差し足。あくまで冷静に、化け物どもに見つからないよう移動しはじめる。  
はたして、そこには二人の人影があった。一つは死体で、もう一つはその死体を揺さぶったまま、呆けたようになにかをつぶやいている。  
「あ、る……ば、と……」死体を揺さぶる剃髪の男は、感情のない濁った瞳を漂わせたまま、休まず手を動かし続けている。  
あちゃー、と俺はつるつるの頭に手を当てた。旦那、やっちゃったのか。せっかくの商売相手だったのに。もったいねえ。  
この二人は、旦那――クインツという、馬鹿みてえに綺麗な顔をした男から、偽の情報を流すよう頼まれた対象者だった。  
流した情報はこうだ。「あんたらの仲間を祭祀場の奥で見たぜ」。たったのこれだけ。  
そのお仲間というのが行方不明になっていたことなんか知らなかったし、まさかこの二人がこんな風にされてしまうとは思ってなかった。  
旦那はよく、こういうことをするらしい。死んでいる方はともかく、「生きているように見える」剃髪の男が哀れだ。  
人がソウルを奪われて思考力を失うと、こんな風に呆けたみたいになるか、人を見ればすぐに襲いかかる化け物になっちまう。  
いまの男の状態は、まさしく前者のそれだった。クインツの旦那は、この男のソウルを奪い尽くしてしまったのだろう。旦那がたまに言っている「無駄にする」って奴だな。  
正直な話気は進まないが、俺だって盗賊で生計を立てている身だ。おとなしく身ぐるみを剥がれてくれないと困る。ちゃちゃっと殺しちまおう。  
そう思って男と死体のほうへ近づく。しかし俺はすぐにその場で立ち止まった。跳ね上がるように伸びた男の腕に握られた直剣が、俺ののど元に突きつけられたのだ。  
「ちょ、ちょっと待て! わかった、わかったよ! あきらめるよ! ちくしょう!」  
剃髪の男は俺が離れたのを確認すると、ふたたび死体を揺さぶる仕事に戻った。腐るまでやってろ、この野郎。  
あーあ、やっぱりついてないぜ。穴に死体は落ちてないし、亡者から身ぐるみも奪えないし。ちくしょー、不運だ! やってられっか!  
 
 

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル