ソウルの業と呼ばれる力で繁栄を得た北の大国ボーレタリア。  
その国を支配する、賢王オーラント。  
老境に至り、憂愁にとらわれた王は、更なる力を求め、最も旧き獣を呼び覚ました。  
獣は色の無い濃霧と数多のデーモンを生み、ボーレタリアを蹂躙する。  
そして禁忌に触れた王の業により、ボーレタリアと呼ばれた北方の大国は滅んだ。  
今やボーレタリアは、悪魔の群れが跳梁跋扈する魔界と化している。  
 
その、ボーレタリアの片隅に地図にも表記されていない谷がある。  
ボーレタリア城下の排水と汚水、ストーンファング坑道から流れ出る廃液等……。  
全ての澱みが流れ着く先、腐敗と汚物に塗れた、世界で最も不浄な穢れの集約地。  
いつしか、その地は人々に“腐れ谷”と呼ばれるようになっていた。  
霧の裂け目より、閉ざされたボーレタリアの内部に侵入した聖職者、“最も真摯な六番目の聖女”と謳われる聖女 アストラエアと、彼女の従者“暗銀の騎士 ガル・ヴィンランド”  
二人は不浄なる忌み地、“腐れ谷”に疫病や障害により、人の世に見放され、追放された人々が留まっている事を知り、彼等を救済せんと彼の地を訪れた。  
そこで二人が見た物は、癒える事の無い病と、デーモンにより奪われ、次第に希薄になっていくソウルの渇きに苦しむ異形と化した人々の姿だった。  
彼等を救おうと、彼女は己が神に祈り、人々に救済を説くが、願えども、彼女が信じる神からの救いは訪れなかった。  
 
「私達の神は……不浄に喘ぐ者達の願いを聞き届けてはくれませんでした……」  
 
届かぬ祈り、死に逝く者が神を呪う怨嗟の声、弱者の嘆きを聞き入れぬ神に絶望し、聖女は嘆く。  
そして、彼女は神を呪い、苦しむ人々から痛みと渇きを取り除く為に、神を捨て悪魔(デーモン)と化した。  
悪魔となり、彼等からソウルを奪う事で、ソウルの渇望がもたらす痛みから解放する……。  
不浄なこの地において、それだけが唯一つの救済の手段だったのだ。  
 
彼女は今、不浄の只中で静謐に祈りを捧げている。  
腐れ谷に集約する、あらゆる不浄も、彼女の神々しさを穢す事は出来ない。  
いや、この不浄な世界だからこそ、彼女の真摯な清らかさは際立つと言えるだろう。  
不意に彼女は瞳を開き、祈りを中断させた。  
静かな世界を怯えのように震わす、侵入者の気配を感じ取ったのだ。  
私は無言で立ち上がると、不浄の澱みの中に足を踏み入れ、かの者を迎え撃つ為に歩き出す。  
 
「すみません、ガル・ヴィンランド……ご無事で」  
 
私は彼女の言葉に無言で応えて歩き続ける。  
私達の間に余計な言葉は不要だ。  
言葉など無くとも、互いの意志は通じているのだから。  
 
 
私は彼女の言葉に無言で応えて歩き続ける。  
私達の間に余計な言葉は不要だ。  
言葉など無くとも、互いの意志は通じているのだから。  
 
「戻ってください、デーモンを殺す者よ……ここは、神に捨てられた者たちが寄り添う場所です……あなたが奪うべき何物も、この地にはありません……お願いです。戻ってください」  
 
歩を進める私の背中から儚い声が響き、不浄な深淵に広がる。  
侵入者へ呼び掛ける彼女だが、その懇願に応える事無く、彼の者はにじり寄る。  
 
「やはり、戻れはしないか……」  
 
達観に近い想いで私は嘆息する。  
デーモンを殺す者(スレイヤー・オブ・デーモン)。  
その者が全身から発する気配は、尋常な人の物では無い。  
数多のデーモンを屠り、その力を手に入れた証。  
それは人の身で有りながら、人を超えた人外の化生。  
彼女と等しく、悪魔のソウルに触れた者だと言うのに……貴様は……貴様は“魔を滅する者”を名乗るのか!?  
真に崇高な使命を帯びた彼女を卑しめ、身内にすら悪魔と罵られる……彼女と同じような存在である筈の貴様は英雄だと言うのか!  
不浄を受け入れ、最も不浄な存在となった彼女だが、清らかな想いは“聖女”の名を少したりとも貶める物では無いというのに。  
それを貴様は……貴様等は―――っ!  
私の憤りが、筋違いな恨みだとは知っている。  
自分達が得られなかった賞賛と、英雄への妬み、それらが生んだ歪んだ憎悪……。  
全ては私の未熟さが生んだ、浅ましい感情だ。  
だが、それは―――。  
 
「……お願いです。戻ってください」  
 
それでも彼女は乞い続ける。  
破魔の戦士に戻れと願う。  
それが例え、自分の命を奪いに来た者であれ、彼女は一切の者を傷付けるつもりはないだろう。  
悪魔に身をやつそうとも、彼女の魂は間違いなく聖女の名に相応しい物なのだ。  
ならば……悪魔と成りきれぬ貴女に代わり、私が悪魔となる。  
殺せぬ貴女に代わり、貴女を脅かす全ての存在を殺す悪魔に!  
卑しめの言葉は全て私が負う。  
貴女は純潔な心のまま、崇高な理想を抱く、聖女であれば良い。  
そう、私が……私こそが、デーモンだ! 貴女を守る為のデーモンなのだ!  
妬み、羨望、憎悪……私の未熟さが生んだ、浅ましい感情。  
だがそれこそ、今の私には相応しい!  
 
『すみません、ガル・ヴィンランド……』  
 
私を送り出す時の彼女の言葉が頭を過ぎる。  
それは、自らの運命に私を巻き込んでしまった事へ赦しを乞う、謝罪の言葉。  
何を言うのです。  
貴女が責任を感じる事は無いのです。  
私は貴女を責めてはいないのだから……。  
むしろ私は感謝しています。  
この地に辿り着き、私は初めて自分の感情に素直になれた気がするのです。  
自戒や規律や抑制を捨てて、今ならはっきりと言える、誓える。  
“酷薄な神”や“悪魔”の為ではなく、貴女の為に闘えると……!  
 
不浄の澱みを乗り越えて、魔を屠る悪鬼がゆっくりと近づいて来る。  
だが、ここから先へは進ませない。  
彼女の傍には一歩たりとも近付かせなはしない。  
 
「どうしても彼女を害そうというのであれば、仕方ない……この地の底で腐り落ちるがいい」  
 
全ての穢れが澱む、この不浄な世界の最奥で、聖女が放つソウルの光を反射し、暗銀の鎧が鈍く光る。  
不浄な世界の中で、己の信念のように曇ることの無い銀の色。  
悪魔の騎士はゆっくりと鎧を軋ませ身構えた―――。  
 
 

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