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 例えば。この世界が、サイコロを百個同時に振って全部六の目が出るような、そんな  
奇跡の起こる場所だとしたら。  
 サイコロを何度も振り続けたなら、もう一度同じ奇跡だって起こり得るのかもしれない。  
 
 それは希望だ。“二度目”への希望だ。希望あればこそ人は目の揃わないサイコロを  
何度でも何度でも何度でも振ることができる。  
 
 最初の“奇跡”が用意されたもので。  
 二度目への希望も、用意されたものだったとしても。  
 
 
 ──世界とは悲劇だと、かのデーモンは言った。  
 
 
 
 
【XXプラスX周目の世界より】  
 
 楔の神殿に歌が響く。  
 男は王城の要石の前で腰を下ろしていた。ソウル体だ、長時間同じ姿勢でいることは  
苦痛ではない。  
 じっと神殿中央の広場を見つめる男の目が、床の“ゆらぎ”を捉える。黒衣の火防女が  
古い歌を紡いでいる。呪われたボーレタリアの地に、デーモンを殺す者を呼ぶ歌。  
 男はずっと待っていた。  
 神殿の床が水面のように揺れ、そこから一人の女が立ち上がるのを。彼女が静かに頭を  
巡らせ、男を見、視線を逸らし、王城の要石へと歩み寄るのを。  
「よう」  
 男が声をかけると、女はびくりと身を竦ませ。「──」短い逡巡の後、無視して手を  
要石へと伸ばす。男は内心気を悪くした。話す必要もないと思っているのか、余裕がない  
のか。  
 後者、と。女の、黒い髪と黒い布から覗く表情を観察し、そう考える。ならばもう一度  
程度なら試す価値はあるだろう。  
「お前の探してるもの──デーモンのソウルならその先さ。しかしお前、デーモンしか  
いねえクソみたいな場所に、一人で行く気か?」  
 華奢な手が中空で静止する。  
 
 見下ろし向けられる緑の目には、戸惑いと怯え、のようなものがあった。顔は見えないし  
やたら老成した雰囲気だが、この女、案外若いのかもしれない。  
「お前はまだ“死んだ”ことがないようだから教えてやるが」男は言って、生身のままの  
女を眺める。身体のラインをくっきりと浮かび上がらせる防具、奇妙に湾曲した刃の武器。  
どれも使い込まれて彼女にしっくりと馴染んでいる。それでもこの女、瞳の表情が消せて  
いない。「このボーレタリじゃ、ナマの身体は貴重品だ。敵に殺されないよう大事にしな  
きゃならない。死ねば、俺みたいなソウル体になるからな」  
 ならば。  
 交渉の余地はあるだろう、と。男は踏んだ。  
「道案内は要らないか?」  
 微かな。吐息に似た、え、との布越しの声が聞こえた。  
 初めて聞いた彼女の声は誰かに似ているような気がした。  
「なん…で……」  
 尤もな問いだった。男はそう思った。女の声が必要以上に揺らいでいることには気づか  
なかった。  
 
「悪いが、何も親切心で言ってるわけじゃない……ちょっとした落し物がある。そいつを  
拾いに行かなきゃならんが、一人じゃどうにもならなくてな。それで、こうしてお前に声  
を掛けてるってわけだ」  
 落し物、というのは──最後に男が死んだ場所、そこにあるはずのソウルの残滓だ。  
時間が立ち過ぎているが故にまだ残っているかは定かではないが、まあ、無ければ無いで  
諦めもつく。男にとって区切りになる。  
 道はある程度知っている。戦闘も手伝う。だからお前も俺に協力しろ、と。そういう  
提案であった。  
 
「……まあ突然こんな話をされても信用ならん、というのは分かるがな」  
 男は自嘲と苦笑の中間の笑いを洩らし、右手を開き握っていた儚い瞳の石を見る。  
「こいつをお前にやろうと思ってたんだが、必要ないようだからな」  
 手元を覗きこんだ女の目が、それと分かるほど丸くなる。  
「どうして、これ、」  
 次の瞬間。女がぺたりと崩れ落ちた。いや男と目線を合わせるために座っただけなの  
だが、そう、見えた。  
「使わなかったの……なんで……」  
「なんだ。お前、こいつを知ってるのか」  
 此処に来たばかりにしては詳しい。死ぬ前に幾らかボーレタリアを彷徨ったのだろうか。  
 ソウル体に肉体を取り戻させる効果のあるアイテムだ。これで恩を売りつけて交渉を  
有利に運ぼうと皮算用していたのだが、なかなか上手くいかないものだ。  
「せっかくドラゴンの足元かいくぐって拾ったのに、とんだ無駄足だ」  
「え」  
「信じられないか? 残念だが事実だ。この神殿の外ではドラゴンはじめ化け物が山と  
うろついてる。嘘だと思うなら一度見てこいよ」  
 
 それで心折れたら俺との話を考えろ──とまでは言えなかった。  
 相対する彼女が。混乱し、困惑しているのが手に取るように分かったから。  
「それ、って」  
 こんな子どもをいたぶる趣味は流石にない。  
 それに、何故だろう。彼女はあまり泣かせたくない。  
 
 女は。緑色をした目で、男を見上げて。  
「外に、行ったのか」  
「それが何だよ」  
「……貴方は、こっ、恐く、ない、の」  
 恐くないのか。死ぬことが? 殺すことが? 殺されることが? 一人でいることが?  
 XXをひとりで行かせてしまうことが──「嫌に決まってるだろうが」  
 
「だからお前に“協力しないか”って言っているんだよ」  
 
 死ぬのは嫌だ。痛い思いをするのも嫌だ。負けることも、もう嫌だ。  
 だから逃げた。逃げて、いた。  
 けれど。もっと嫌なことを、知ってしまったから。  
 何時のかは知らない何処でかは知らない何故かも、知らない。けれど。記憶が、ある。  
 
 名前も知らない誰かに。腕の中で震える、黒い髪の、緑の瞳の──“偶然”か。目の前  
の女と同じだ──デーモンの長を殺せるほどに強いのにたった一度きりが忘れられない  
弱いXXに置いていかれる方が。XXを置いて救われてしまう方が辛い。と。  
 彼は、そう記憶してしまったのだから。  
 
「それで。お前はどうす」  
 絶句。  
 突如ぼろぼろ泣き出す女を前に。男は、勝手に泣き出した女への鬱陶しさと、面倒臭い  
のに話を持ち掛けてしまったという後悔と、思い切り抱き締めて泣き顔を自分以外の誰にも  
見せないようにしたいという衝動と──まあ大体そんなもので胸中わやくちゃになって  
動けなくなってしまう。  
「……っめ、な、……」  
 女が何か言っている。なにか、必死で、彼に。  
「ご、めん、な、さい……!」  
 謝罪だった。  
 何に対しての。突然泣いたことへの。申し出を断ることへの? それとも、別の。  
「行かないのか」  
 女が激しく首を横に振る。否定。  
「それじゃあ」  
 
「……っ、き、たい」  
 覆い布の下から声が零れる。彼女の声。言葉。魂から絞り出す、叫び。  
「貴方と、いきたい……!」  
 
 ──仕方ないだろ。  
 男は自分に言い訳をする。確かに知らない女だ。会ったばかりの、利害が一致するかも  
まだ不明な、しかも面倒臭い女だ。でも、こんな風に泣かれたら、  
 抱き締めて、しがみつかせてやって、背中でも撫でてやるしかないじゃないか。  
 
 
 
 
 ごめんなさい。ごめんなさい。謝罪を繰り返す。あれほど誓ったのに。彼を救うのに何  
が必要か、もう、知っているはずなのに。ごめんなさい。ごめんなさい。謝罪を幾度も  
繰り返す。誰が? 彼女が。誰に? 彼に。過去と未来の彼に。過去に救えなかった“彼”  
へ。この先、言葉を交わして、触れて、──好きになって。また奪ってしまうかもしれない  
“彼”の未来に対して。  
 それでも。  
 それでも──今、抱く腕の温かさがいちばん欲しいものだったから。  
 
 彼女はまた、小さな希望に縋りついた。  
 
 
“だったらここに座ってりゃいい”  
 奇跡は既に起こった。数十万分の、数百万分の一の奇跡が。  
 ならば。例えば、折れた剣が蘇るような奇跡だって、起こらないとは言い切れない。  
 
 そんな希望に縋る人間がいても不思議ではない。  
 
 
 
 
 それから、時間に直して数日後。  
「あ。」  
「あ。」  
 男の目の前で彼女は奈落へと落ちていった。驚いたような、申し訳なさそうな緑の目が  
狭い視界のなか焼きついた。  
「こ──の」ソウル体であるにも関わらず全身の血が逆流する。轟々と、耳鳴り。嘲笑  
めいた地響き──「バカが! 足踏み外すとか、素人かよ──?!」  
 
 思わず怒鳴る男の耳に、腐れ谷の汚泥に落ちる、ぼちゃん、という音が届く。  
 眼下のデーモン──“ヒル溜まり”が哂った気がした。  
 男は弓を手に歯噛みする。相手の直接攻撃範囲外から狙撃する手筈だったのが、ヒル団子  
ぶん投げられてバランス失い足場から落下とは、間抜けにもほどがある!  
 自身も無数のヒルにたかられつつ、男は悪態を吐きながらも弓に火矢を番える。ヒルが  
ずるずるねとねと身体じゅうを這い回り襟足やら手袋と袖の間やらから入り込もうとして  
死ぬほど気色悪い上どろどろの粘液で手も滑りそうになるが、文句を言う暇はない。。毒気  
対策に顔を布で覆っているのだけが救いか。  
 落ちた女が無事なのは確かめるまでもない。落下死する高さではないし、ソウルの消える  
気配もなかった。  
 デーモンの背を──無数のヒル、に似た何かの集合体であるデーモンに腹も背中もない  
が──狙い、矢を放つ。  
 ヒル溜まりが身震いする。犬が体を振るって水滴を払うが如く、ヒルが雨霰となって  
周囲に飛び散る。なかなかに胸の悪くなる眺めだった。  
 手袋の中に汗が滲む。  
 
 ──落ち着け、落ち着け。間合いの利は此方にある。手を休めず攻めればヒル溜まりの  
自己回復も上回る打撃を与えられる。  
 
 デーモンがその巨体からは想像もつかぬ俊敏さで腕もしくは腕を模した身体の一部を  
沼に叩きつける。びしゃりと汚らしい音を立て男の足に汚泥の飛沫がへばりつく。  
 悲鳴を堪える。悲鳴を上げて逃げ出すのを堪える。  
 どうせ逃げ場はない。死ぬかデーモンを殺すかするまで、この場所からは逃げられない。  
 加えて。  
 彼女が。あの、馬鹿がまだ下にいる。置いて逃げるわけにはいかない。  
 彼女だって、まだ、生きている。其処にいる。そのはずだ。  
 
 ──それじゃあ。  
 ──降りて、助けにいってやったらどうだ?  
 
 汗で、手が滑る。ヒルがのたくる。身体を這い回る。呼吸を止めようと粘りつく。  
 此方には弓がある。下に降りる必要はない。必要はない? 降りれば、降りて自分も  
デーモンの標的になれば、今現在狙われている女の手助けにはなるかもしれないのに?  
 足を止める。否。(──畜生)  
 足 が 竦 ん で 動けない。  
「畜生が……!」  
 吐き出す呪いの言葉。この身はもう折れてはいないのに。それとも。“折れていない”  
と思ったのは──XXと──思考が混線する。自分ではない別の記憶が滑り込む。違う  
方法を、──と思ったのは──  
 
 炎が爆ぜた。  
 
 轟音。世界が白く染まる。炎によって生まれたハレーションと蒸気とが視界を塞ぐ。  
ヒル溜まりが大きく仰け反る。再度の爆発。熱風。どろついた沼の表面が焦げる臭い。  
 魔法。“火の玉”。沼に転げ落ちデーモンと相対することになった彼女の、反撃の一打。  
 デーモンが腕を振るう。汚泥とヒルとが飛び散る。先とほとんど変わらぬ場所から炎が  
放たれる。沼の足回りは最悪だ、彼女は回避を捨て正面から押し切る道を選んだらしい。  
削り合い。先に体力の無くなった方が負け。  
 理解した瞬間。ようやっと身体が動いた。  
 ヒルが絡みついたままの腕を叱咤し火矢を番え打つ。打つ。打つ。撃てばそれだけデーモン  
の体力を削れる。生き延びる確率が上がる。だから打つ、打つ、打つ。  
 自己嫌悪の念も、経験にない記憶も、頭から消えていた。  
 なに、簡単なことだ。  
 生き残る。生き残らせる。この大きな目的で頭をいっぱいにしてしまえば、余計なこと  
は考えずに済むというものだ──今は。  
 
 当初の姿を留めていられなくなったデーモンに、最後の火の玉がまともに当たる。  
 濁った咆哮を上げ。腐れ谷のデーモンはぐずぐずとその巨体を崩壊させていった。  
 
 デーモンを倒したことにより失った生身が戻る。途端、ソウル体では鈍化されていた  
嗅覚が悪臭を捉え一瞬気が遠くなりかけた。  
 吐き気を堪え、細い足場を伝い下へと降りる。広がる沼地は男の膝辺りまでの深さで、  
動きにくいことこの上ない。しかも臭いし重い。そんな泥水をかき分け歩く。探す。あの  
女の姿を探す。生きていればそこら辺にいるはずだ。生きていれば。  
「……あ」  
 果たして彼女は要石の脇でしょぼくれた様子で立っていた。  
 男が近づくと、気づいてびくりと顔を上げる。顔を覆う黒布の隙間から、曇った色合い  
の緑眼が覗いていた。  
 彼女が次に何を言うのか男には予想がついた。  
「ごめん」  
 全く。この女は、すぐ謝る。当然の理由でも。男には分からない理由でも。  
 
 
 彼と彼女が組んでからというもの、倒したデーモンの数は片手に余るまでになった。  
 最初の内、彼は思ったものだ──この女、自分の手助けなぞ要らないくらいに強いのに、  
何故に協力の申し出を受けたのやら。と。  
 或いは自分への同情かと腐ったのだが、日が経つにつれ考えを改めた。  
 彼女は確かに強い。強いが、肝心かなめのところでミスをやる。足場から落ちる、罠に  
嵌まる、敵の攻撃をパリィし損ねる。失敗をあげつらえばキリがない。根性だけは認める  
が、死んでソウル体になっても楔の神殿に戻っての立て直しをせず探索を続けるという  
のは無茶が過ぎる。  
 
 そいつを指摘すると、彼女は妙に間の抜けた「ああ」という声を洩らし、「……そうか。  
そう、だった。もう、戻っても、平気なんだった」という独り言を呟いて、男を見て。  
その次からは神殿に戻るようになった。何が彼女を楔の神殿から遠ざけていたのか。男に  
知る術はない。  
 一人で往けぬほど弱くはないが、一人で往かすには危なっかしい。  
 “探し物”を見つけた男がまだ彼女と行動を共にするのは、そういう理由もあってのこと  
だ。いや、彼女は少なくとも彼よりは強いのだが。  
 もしかしたら。話はもっと単純で。  
 彼が“探し物”を見つけたとき。正確に言えば、自分が死んだ場所にソウルがもはや  
残ってはいないのを確認したときに。悔恨や、寂寥感や、一区切りついたような清々しさ  
や、そんなもので言葉を失う彼の隣に、彼女が──誰かの体温があったのが、有難かった  
から。そんな理由なのかもしれない。  
 彼女は。よく謝って、よく死にかけて、鬱陶しくて。それでも、触れたこともないのに  
温かかったから。  
 
 彼女と共にあるわけ。単純な理由。  
 こんな化け物のうろつく土地で得た知己を、手放したくなかったから。先に進むのに  
彼女の力は役に立つから。彼女が女で、自分が男で、つまりはそういう欲もあったから。  
 総括すると。  
 彼女が、欲しい。  
 
 だから。  
 ……しかし。  
 
 一緒に風呂に入らないか、と持ちかけたのは流石に焦り過ぎだった。  
 
「え」  
 女は案の定目を丸くしている。男も女もヒル溜まり戦から戻ったばかりでずるずるの  
ぐちょぐちょだ。怪我その他は神殿に帰還した時点で治っているとしても、着替えたいのも  
肌に残る感触を綺麗に落としたいのも人情、そのための風呂。しかし“一緒に入る”という  
選択肢が女にあろうはずもない。  
「他意はねえよ。お互いこの有様だ、順番待ちも面倒臭いし、とっとと入ってとっとと  
流すのも手だろ?」  
 他意がないなぞ大嘘、ありまくりだ。  
 下心を見抜けぬほど女も子どもではない。そのはず。証拠になにやら耳朶を赤く染め  
俯いている。適当に流すか断ればいいものを、反応が意外と初心でこっちが困惑する。  
いっそ冗談ということにしてしまおうか──早くも撤退を考える男の耳に、  
「──うん」  
 返答。受諾。許可?  
 
 いや、それはない。いや“あわよくば”を考えないではなかったが──彼女の行動の  
端々には──実は見当違いかとも思っていたのだが──男への好意があって、男も彼女も  
真っ当で──多分──健康な普通の──おそらく──人間で、欲も当然ながらあって、  
欲を満たしたい願望も当然あって、  
「冗談、なのか」  
 思考のループが切断される。  
 泣きそうな声の女の腕を把る。  
 冗談で終わらせてはならない、と思った。誤魔化せばきっとまた彼女を泣かせてしまう  
から。  
 
 
 楔の神殿の端も端に入浴場を作ったのはボールドウィンだった。元々あった水場のひとつ  
に地下から汲み上げた熱水を流し入れるだけの、製作者曰く手慰み程度の風呂ではあるが、  
この地の人間の心身を癒やすのに絶大な効果を発揮している。  
 なのだが。  
 今日に限って言えば、男は風呂で全く寛げずにいた。  
 自業自得である。一人で浸かるには十二分な広さの湯船で足を伸ばせないのも、横に  
裸の女がいるのも、その女を気にしなければならないのも、全て身から出た錆である。  
「──」  
「──」  
 沈黙。  
 ぱちゃん、と湯に水滴が落ちる。女がびくりと身を縮こまらせる。  
 正直。背中を流してもらったりこのふっくら張り詰めたおっぱいが押しつけられたりと  
いった素敵な出来事を期待しないでもなかったのだが、本気で何もない。単に一緒の湯船  
に浸かっているだけである。  
 残念なのと、期待させるなよという逆恨みと、悪いことをしてしまったという後悔とが  
胸中を苦く浸す。  
 女の背中は傷だらけだった。服を脱ぐ際僅かながら躊躇った理由はこれか。なんかもう  
取る行動取る行動全てが裏目に出ている気がして頭を抱えたくなる。  
 抱える代わりに。  
 男は、女の背に手を伸ばした。  
 触れる。女がびくんと震える。動かない。拒絶がない。温かい湯に浸かってそれでも  
震えているというのに、男の、傷痕を撫ぜる手を止めるそぶりすらない。  
「痛むか」問い。  
「……ううん」微かに首を横に振る気配。否定。「もう、治ったから」  
 沈黙。  
「……痛かったか」再度の問い。  
「……」微かに、首を縦に振る気配。肯定。「すこし」肯定に混じる嘘。少しだけの嘘。  
 湯に濡れた背中を撫ぜる。痛くない力加減を知っている気がした。  
「──悪かった」  
 
 謝罪の言葉は危惧したより滑らかに出た。女が顔を男へと向ける。濡れた黒髪の下で緑  
の目が潤んでいる。幼い造形の唇が微かに開いている。  
「さっき、腐れ谷で。助けに行かなくて、悪かったな」  
 嘘。小さな嘘。“行かなかった”ではなく“行けなかった”。足が竦んで、死ぬのが  
恐くて。この女の“死”を見るかもしれないのが恐くて。  
「うん」  
 離した手がおずおずと握られる。揺らぐ湯の中で指と指とが絡む。  
「ありがとう」  
 囁き。  
 女の肌が赤く染まっている。湯に当てられたか。男の頭がぐらつく。湯に当たったか。  
心臓が速い。  
 
「恐いのに。痛いのに。……一緒に行こうって言ってくれて、嬉しかった。いや、今も、  
すごく、嬉しい」  
 
 ──くそったれ。手を繋ぐだけで胸高鳴る時期はとっくに通り過ぎた。口付けの先も  
経験済みだし、股間の分身はいつでもイケるぜと自己主張も甚だしいし、この後どうすれば  
いいかも知っている。知っているのに、  
 手も、足も、声も、ガキみたいに緊張してこんな柔らかい身体をぎこちなくしか抱けない  
なんて、情けないにも程がある。  
 
 結露が水面に落ちて、新しい波紋を作った。  
 
 
 何かもういっぱいいっぱいの男だったが、風呂の中でコトに及ぶ真似だけはかろうじて  
避けた。そんなことしようものなら、ボールドウィンにはどやされトマスには娘を取られた  
父親みたいな目を向けられパッチからは下品なやっかみを十や二十受けることは明白だ。  
 とにかく。動きを阻害する下半身と、キスひとつでぐでぐでになってしまった女とを  
抱えて人のこない物陰に潜り込む。  
 服は着た。念の為。どうせ脱がすとしても、それが人の道というものだ。  
「ん……」  
 潜り込んだと思ったら女から口付けを求めてきて。その、目を伏せ、長い睫毛を揺らす  
様が余りにも色めいてしかも擦り寄る身体というか押しつける格好になる乳房の感触が  
これまた素晴らしかったので、男は至極あっさりこれまでの苦労を水に流してしまった。  
せっかく着けた服は予定よりも早く脱ぐことになるだろう。  
 
 立ったまま、身長差を埋めるように身を屈め、唇を合わせる。やわらかかった。離す。  
声になる寸前の吐息が零れるを聞き、もう一度。今度は深く、舌を使って口内を貪る。女  
が微かに身を震わせる。  
 そこは温かくて、湿っていて、甘かった。生身の感覚はソウル体なぞ及びもつかぬ直接的  
さで神経を波立たせる。  
 
 “甘い”、そんな感覚忘れていた。味蕾に埋め込むように、女の口内を舌でまさぐる。  
控えめに絡んでくる舌に軽く歯を立て吸いたてる。びくんと跳ねる女の肩を抱いて、何度  
も繰り返す。深さを変えて、強さを変えて。口内の熱が増すのを直に味わう。  
 細い両の腕が、男の脇腹を掠めて背中へと回される。彼女の腕では完全には回りきらない  
らしく、所在なさげな手が背中をところどころ撫でてゆく。あえかな、刺激とも呼べない  
感触がぞくぞく来る。  
「……ん、は……っ、あ……」  
 女の上衣裾から手を突っ込み、捲くり上げるようにして侵入させる。上衣といっても布  
一枚、防護には到底使えぬ肌着のような薄いものだ。しかも下着をつけていないせいで  
乳房のかたちはくっきり分かるし、呼吸が速くなるにつれて小刻みに上下するのもしっかり  
見下ろせるし、こうして手を突っ込めばあっという間にやわらかな胸乳に辿り着く。  
 片手で華奢な肩を押さえ、もう片方の手では乳房を堪能する。どちらも吸いつくような  
手触りだった。特に乳房。掴む指を何処までも沈ませ包む甘い温度と柔軟性だけで出来て  
いるのに、男の目を惹きつけてやまぬ豊かな丘陵を保てるのは一体どういうわけだろう。  
 更に力を込めると喘ぎと弾力が返る。成程、そういうわけか。  
 先端は既に硬くなっていた。抓んで布に擦りつけるよう揺すってやると、抱く身体は  
大きく震えた。  
 口を塞がれたままの彼女は、男の背、布越しに爪を立てることで抗議する。痛くも痒くも  
ない。唯々愛らしいだけだ。  
 
 緑の目が潤んでいる。  
 あんなに泣かせたくないと思ってたのに、今はもっと追い詰めたくて仕方がない。  
 
 唇を離し、彼女の首筋に顔を埋める。濡れた黒髪が頬をくすぐる。鼻で息を吸い込むと、  
女がちいさく悲鳴を洩らした。  
「ちょ…やだっ、に、臭うだろ……!」  
 何処が、と返す。  
 汚れを落として湯に浸かっただけなのに、その肌からは乳に似た甘いにおいがする。舌  
を這わせると矢張り甘かった。女がぎゅっと目を瞑ると匂いがより強まった。  
 女は涙目になって震えている。嫌がっているのだろうが、口以外は男を拒絶しようと  
しない。だからつい男も調子に乗ってしまう。  
 肩から手を離し、背中へと滑らせ、下穿きの中に突っ込む。下も着けていなかったよう  
で、しっとりした尻の感触が直ぐにあった。  
 怯えるような吐息が、女から洩れて。「──ッ!」華奢な背が大きく仰け反り反動で  
目の前の男にしがみつく。  
 元凶の男は。「……」驚き戸惑っていた。尻に這わせた指を、動かす。女が身を捩り、  
熱い柔肉に触れる指先に熱い粘液が滴った。  
 女の身体は開いていた。  
 勃起した性器を擦りつける男と同じく、女も、相手を求めて興奮していた。  
 男は呆然とし指だけが本能の赴くまま秘裂をつつく。ちゅぷ、と、粘る水音が生まれる。  
 
「ごめん…な、さい……」  
 女が囁く。  
「おかしい、な……はしたないし……貴方に、さわられてる、だけ、なのに……」  
 熱を増す肉。濃くなる“女”のにおい。震える身体。瞳。声。  
「──きらいに、なる?」  
 その全部が欲しいのに馬鹿な問いをされたものだから、男は黙って口付けて抱き締めて  
指を突き立て掻き回して息も出来ないようにしてやって。それを答えにした。  
 
 
 そこはもう前戯が必要ないくらいに潤っていた。  
 生まれたままの姿で石床に仰向けに転がり“男”を待つ彼女へ、脚をひらかせ先端を  
めり込ませる。柔襞は何の抵抗もなくかたちを変え、たっぷりと蜜を湛えた場所まで迎え  
入れようとする。  
 入り口からの刺激に女の背が大きくしなり──ごん、と、床に後頭部をぶつける鈍い音  
が響いた。男根のくびれまでを呑み込んでいた肉がぎゅうっと絞まり進入が留められる。  
「……」  
「……」  
「……体位、替えるか」  
「……っ、ひ、うくっ……!」抜かれる刺激に女が腰をくねらせる。涙目になっている  
のは、さてどちらの理由やら。  
「い、痛くしてもいいから」  
「いや落ち着けよ」  
 喘ぎながら言われるとそそられるのは事実だが、おっぱい捏ねたりちんこ突っ込んだり  
して痛がらせるならともかく、こういう形での加虐は望んでいない。  
 一応服を下敷きにしてみたが、効果は無いに等しい。だからといってこれから敷布に  
なりそうなものを取りに行く、というのも嫌だ。どちらも早く繋がりたくてとろとろ零して  
いるのに。  
 仕方ねえな──男は呟き、  
「俺が下になって」「いやだ」  
 即行否決、石火の如し。  
「だからってお前が下だとまた頭ぶつけるだろうが──おい、不貞腐れるなって」  
 女はころんと側転しうっすら傷の浮く背中を向けて。  
 その。しなやかな腰が浮く。まるみを帯びた尻が持ち上がり、男の前に慎ましい後孔と  
どろついた秘裂とを晒けだす。  
「これなら、」女の声は震えていた。顔は、床に押しつけられて見えなかった。「頭、  
ぶつけないから──」  
 誘われている。理解した瞬間思考が沸騰する。  
 尻たぶを掴んで広げる。朱く爆ぜた秘裂が露わになり、外気に触れてとろとろ涎を零した。  
 物欲しそうにひくつく肉の合間へ、勃起した男根をねじ込む。先走りを滲ませる先端  
から大きく膨らんだ雁口まではきちきちと周囲の肉を拡げながら進み、くびれはずるりと  
呑み込まれ、幹の部分はず、ず、と柔らかい肉から粘液を削ぎ落しながら沈んでいく。  
 
「ひぐ、う、うあっ、あ、」  
 一気に貫いても良かったのだが、肉の隙間を縫う毎に上がる短い嬌声が突く場所を変える  
度に色を違えるのに夢中になる。  
「あ、んくっ、く、あ──」  
 最後。奥までをすり潰すようにゆっくりと貫くと、長い。溜息に似た喘ぎが零れた。  
男根を包む肉が狭まり、柔らかく、しかし吸いあげるようにきつく絞られる。  
 肌と肌とがひたりと密着する。汗ばむ肌は薄桃色に染まってぐらつくような匂いを放って  
いた。掴む場所はもっと赤く指の痕を滲ませる。  
 引いて、押し込む。  
 肉が肉を打つ高い音と、甘ったるい悲鳴とが混ざり合う。女の、白い傷の散る白い背中  
に黒く濡れた髪が貼りついて、快楽を示すように、内側の肉と連動するように、うねる。  
 彼女の、必死で掲げる腰を抱えて突き入れて、奥を叩いて、それなのに抉れば抉るほど  
深くなるのに驚嘆する。何処までも、男が望むなら何処まででも受け入れる──そんな  
幻想すら抱かせる。  
 
 不意に。嬌声に、苦痛が混じる。  
 当然か。下は石床、身体を預けるには硬過ぎる、冷た過ぎる。膝立ちの男とて痛みを  
感じぬわけではない。  
 考える──濡れた声、肉、ここから苦痛を完全に取り払って快楽一色に染めたらどんな  
反応を示すものだろう──?  
「ふあっ?!」  
 推考の時間は取らない。貫いたまま女の腰を抱きかかえ、床に腰を下ろす──繋がった  
女ごと。  
 
 崩れた胡坐の上に女が落ちた瞬間。「──ひう、っ、あああ──ッ!」そそり立つ男根  
を加重と勢いで根元まで呑み込んで、悲鳴が迸る。切羽詰まったわななきは、けれど甘い。  
射精を堪え汗を流す男に軋むまでに抱き締められて、女は快楽を逃がすことも叶わず全て  
受け止める破目に陥った。折り畳まれた脚が硬直し、震えたのちに弛緩する。同時に全身  
から力が抜けて背後の男に全部を預ける格好になる。  
「ふ──や、あ──」  
 全部。身体も、自由も、快楽も。  
 身動きもままならぬ身体を揺すられ、女は再び昂ぶってゆく。首を振ったのは懇願か  
意味のない反射か。男を咥える場所は隙間なく絡みつき擦られる度に新しい蜜を垂らして  
悦ぶのに、細い腕はなすがままに揺れるだけ、喉からはかぼそい喘ぎが洩れるだけ。内の  
熱と外の従順さとの落差に、後ろめたい興奮が生まれる。  
 ──しかし。  
 男は女が崩れぬよう、細い腰に腕を回す。ついでに重く揺れる乳房を掴む。跳ねる身体  
の軌道を制御し、どうもがいても繋がりのほどけぬよう支配する。  
 ──おっぱいも、ナカの肉も。こんなにみっしりと甘く重いのに。  
 ──身体がこんな軽いのはどういうわけだ。  
 
 軽く突きあげる。それだけで女は顎を反らして跳ねる。力失い戻ってくると、貫かれる  
場所がより深くなる。最奥のこりこりした門に先端が当たると、全身を引き攣らせて快楽  
を訴えた。  
 この軽さで。  
 この細さで。  
 この、弱さで。ずっと、ひとりで、デーモンを倒してきたのか──。  
 男の側も限界が近いらしい。記憶が、思考が混線する。知らないはずの光景が脳裡に  
焼き付く。今抱く熱を確かにしようと、衝動のままに乳房を結合部を責めたてる。彼女は  
反らした後頭部を男の肩へと預け、与えられる快楽に翻弄されている。  
 大きな胸乳が重く上下した。片手で掴んで、捏ねまわす。収めて収めきれない張り詰めた  
肉が手にひたりと吸いつく。  
 捏ねる手を移動させ、下からすくい上げる──と。  
 指先に。滑らかな肌とは異なる固い感触があった。  
 女が身を震わせる。  
 
 ──傷痕だ、と。  
 見たことも教えられたこともない記憶を思い出した。  
 
「──お前」  
 傷痕を、なぞる。肉欲がほんの一瞬だけ凪いでいた。言葉を伝えられる程度に、心を  
伝えられる程度に。  
「この身体で──よく、頑張って、生きててくれたな」  
 
 あ、と。女が、呻く。  
「あ、ああ、ひ、っく、うあ、ああああ──!」  
 泣きじゃくる女を抱えて犯す。下から突き上げられて、しかし女が発するのは歓喜だけ  
だ。傷痕残る背中を男の胸に預け、ぐちゃぐちゃに蕩けた肉を男に貫かれて、自らの下腹部  
──男の存在する胎の辺りを愛おしげに手で押さえる。肉越しに伝わる圧と熱とに男根が  
膨張する。  
 碧。  
 女の緑眼が男に向いている。必死で首を回し、舌を伸ばす。接吻をねだる。応えて、  
くちづける。互いに貪り合う激しい口戯、貫いて最奥まで呑まれる悦楽。  
 女が。不意に、身を強張らせた。  
 抱き締める。口も、性器も、肌の一部も逃がすまいと、強く。  
 強く、強く、繋がった場所が爆ぜる勢いで痙攣し、根元から奥へと雪崩うつ快楽に、男  
も込み上げる射精感のまま叩きつける。  
 
 女の身体は何度も跳ねて。一度も男から離れることのないまま、静かにその身を委ねて  
きた。  
 
 
 
 寝転がる男は、今度からは敷布を用意してからやろう、と思った。  
「ごめん。腰はまだ痛むか?」  
「全然」  
 心配する女に見栄を張ったはものの、格好が恰好だけに説得力がない。  
 彼女は少しばかり困った顔をして。何も言わず針仕事に戻った。  
「……意外か?」  
「まあな」  
「だろうな。けど、出来ないわけじゃないし」  
 ちくちく。針と糸を器用に操り、女は手元の布を縫ってゆく。元は暗殺者の覆いを引き  
裂いた切れ端だったのが、あっという間に長いリボンへと姿を変える。男はその光景を  
彼女の膝に頭を載せて眺めている。  
「よし、っと」  
 縫い終わり、女は出来たばかりのリボンで自らの髪を結ぶ。長い前髪と後ろの髪をひと  
まとめにして、真直ぐ尻尾のように垂らす。  
 へえ、と男は声を洩らす。「悪くないんじゃないか」  
「そうか?」  
「ああ。目がよく見える」  
「……うん。そうか」  
 女は。隠すもののなくなった顔で晴れ晴れと笑う。  
 澄んだ色合いの緑眼。碧。誰かが南の海の色だと言っていた。  
 
「全部、終わったら」  
 だからというわけでもないのだろうが。男はふとこんなことを口にした。  
「海でも見に行くか。一緒に」  
 女は目をぱちくりさせて。「……うん」はにかむ。  
「あのな。南の海がいい。碧の海なんてものが本当にあるのか、自分で見てみたい」  
「そうだな」  
 女の手が頭を撫ぜる。それが心地好くて、疲れも手伝って瞼が重くなる。  
 
「──あのな」  
 声が、遠い。優しい。  
「聞いて欲しいことがあるんだ。その内」  
「今じゃないのか」  
「今は……うん、今は、上手く伝えられるか自信がないから」  
 けれど。声は微かに泣きそうで。けれど揺るぎない何かを持って。  
「いつか、必ず。信じられないかもしれないけれど、全部、本当のことを話すから──」  
 だから。  
 一緒に。  
 
 ──いこう、と囁く声を。きっと、ずっと、聞きたかった。  
 
 
 
 
 世界とは悲劇だと、かつて王であったものは言った。  
 
 
 ならばこの“奇跡”も悲劇の一端なのだろう。一人の戦士が何度も傷つき何度も死に  
何度も蘇る、無限の輪廻の始まりに過ぎないのだろう。  
 だから。この物語を、共に歩むべき者が傍らにいる滑稽な二人の悲劇と笑わば笑え。  
 
 世界とは悲劇で。  
 悲劇の中にも希望は生まれ。  
 奇跡は、何時だって何度だって起こり得るのだ。  
 
 
 
 
【世界の涯てにて】  
 
 静かな砂浜と、無音の海とが広がる世界。  
 ここが世界の涯てだった。  
 
 “彼女”は静かに横たわっていた。既にヒトとしての容(かたち)を保てなくなった  
身体には無数の武器が突き刺さっている。剣があった。槍があった。斧があり、矢があり、  
その他名も知らぬ武器があった。  
 ──ああ、でも、“私”を殺すには足りなかったなあ。  
 ──“私”はどうやらデーモンを殺し過ぎたみたいだしなあ。  
 “彼女”はぼんやりと思いを巡らせる。かつて彼女自身が“デーモンを殺す者”であり、  
デーモンを殺しそのソウルを喰らってより強いデーモンを殺す、そんな日々を送っていた  
頃のことを。  
 後悔はしていない。多分。おそらく。  
 けれど。デーモンを殺す内に自らもデーモンに近づき同化してしまったのは、矢張り  
悲しかった。  
 なにしろ。この身体では抱き締めてもらうことも叶わない。  
 
 足音が聞こえる。  
 目を開ける。そこだけは昔のままの、碧の瞳。  
 瞳に映して、“彼女”は笑う。  
 
 ──来ると、思った。  
 ──やっぱり。来てくれた。  
 
 それは希望。最強のデーモンを殺す希望。世界の希望。最後のデーモンを眠らせる希望。  
“彼女”の希望。世界が“彼女”に用意した、最初と最後の希望。  
 
 刃が見える。躊躇わないで、と願う。躊躇えば──自分が、殺してしまうから。  
 
 ごめん。届かない声で囁く。  
 ごめん。こんな役目を背負わせて。こんな辛い思いをさせて。これで最後だから、最後  
にするから、だから。  
 
 痛く、しないでね。  
 
 それは無論意味ある音としては発せられなかったが、“彼女”は静かに感謝する。  
 ありがとう。  
 もう、あまり痛くない。  
 
 そうして。  
 最後のデーモンと最後の要人がいなくなって。  
 世界はまた、繋がれる。  
 
 
 
 
【i周目の世界にて】  
 
 目の痛くなるような真っ白な砂浜。日射し跳ねる波打ち際。鳥。虫。船。汽笛。人──  
海には雑多な音と光とが溢れていた。  
「海……これが、海?」  
 黒髪緑眼の女もそのひとつで、驚愕を越えると途端にはしゃぎだす。  
「海?! これが?! 嘘、本当に碧だ! あと赤と青と蒼! すごい何これ凄い!」  
 ブーツを脱ぎ捨て海に入り、南地方特有の、透き通る海水を掬っては散らす。膝丈の  
スカートはこの時点でびしょ濡れだ。男は溜息を吐き、頭を掻いた。  
「ったく。ガキじゃあるまいに」  
「だってだって!」  
 小声での悪態だったのだが、女の耳にはきっちり届いていたようだ。「だって、本当に  
碧だから! こんなの私見たことない!」  
 海と同じ色の目をした女はそう言ってくるくる回る。見ているこっちが恥ずかしいくらい  
にテンションだだ上がりだ。  
 
「な、な、貴方も」  
 男は断るつもりだったのだが、恋人からとびっきりの笑顔を向けられてはそんな決意は  
日向の砂糖菓子よりも脆い。数分後には靴を脱ぎズボンを捲り上げて水遊びに興じる破目  
になった。  
 
「そういえば」  
 きらきら光る海水を手に、女が言う。  
「夢を見た」  
「どんな」  
「……うん、いい夢と、悪い夢。あ、でも」  
 女が。手を空へと伸ばし、広げる。海水が飛び散り陽を反射してきらきら輝く。  
「どっちも幸せだった」  
「悪い方もか?」  
「うん。だって」  
 
「どっちも、貴方と一緒だったから」  
 
 海の色を瞳に映し、女は微笑む。男も気恥ずかしさに顔をしかめ。でも結局はつられて  
笑う。  
 そして思う。  
 
 ──世界はとても、美しい。  
 
 

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