リカルドは息を潜めた。
同時に眉を顰め、硬い引き金に約一オンスの圧力を掛けた。
木々に溶け込む茶地の服は上下とも硝煙の匂いを漂わせ、傍を通る獣を警戒させる。
彼は木々の狭間にじっと目を凝らしていた。
ーー歩いている。
枯れ草の茂みを抜ける間だけ小走りになる。
一度辺りを見回す。
軽く呼吸を整え、また走り出す。
立ち止まる。
周囲に怯えた目を遣り、而して大きく息を吸うと何事か、叫ぶ。
あの娘は時折、心細そうに犬の名を呼ぶ。今もそうだ。
(実際の所犬は何度となく弱々しい呼応を返していたのだが、娘は一度としてそれに気付かなかった。)
娘は酷く慌てていた。
幾重にもなった梢の間、草の根、幹の影、何度も視線を走らせながら、
掴めない気配と視線の根源に体を震わせていた。
目に見えて冷静さを欠いていた。
焦燥によって聴覚の感度が衰えているのが分からないのだろうか。
耳を使う事を忘れたのだろうか。
狭まった視野で幾ら虫のように地を這わせようと意味が無い。聾者だ。
それすらも理解していないあれとは、違う。
私は違う。
今本能に宿る五感は明瞭を極めている。
異様なほど冴えているのが分かる。感覚から伝導する全てを感じる。
動脈を泳ぐ血の動きすら、木々の狭間で恐怖するか細い息遣い、娘の抱く焦燥すら。
私は違う。
あれとは違う。全く異なった余裕がある。
風は、至って穏やかだ。
最高の状況を彩る好条件は揃っている。一通り。
今なら手に耳に眼に、与えられる如何な刺激にも反応出来る自信があった。
銃を、今度は強く握る。
目を瞑っていても他の器官で対象者の呼吸を感じられたが、当然そんな真似はしない。
時間の無駄だし、第一つまらない。
再び引き金に圧力、二オンス。
残る四オンスを引き切る前に眼前の光景を目に焼付ける。
獲物が焦れて細い足と足を擦り合わせる様を観察するのは、実に楽しかった。
慌てさせてやりたい。屠ってやりたい。姦してやりたい。
長い間満たされる事のなかった深い枯渇が、漸く充足を手にしようとしている。考えただけで喉が鳴る。
後ろから近寄るよりも前から迫る方が驚くだろうか?どう反応するだろうか?
想像は尽きないが、何れにしろ実行しなければ無意味だとリカルドは思った。
緻密な部分まで描ける想像は、この手で実現し得る想像である。
猛禽類に似た貪欲な双眸が光る。
黄土色の蛾が狂ったように飛び回っている。娘の怯えた挙動、狼狽の表情が彼を興奮させる。
やがて対象の動きが止まる。銃口がそれをゆっくりと追う。
撃て。
いや、撃たない。
引き金に掛けられた指からゆるゆると力が抜けて行く。
この時緊迫したリカルドの脳裏を過る明暗があり、
それは黄土の蛾の背に描かれた狡猾そうな模様と相俟って不気味な冷ややかさを持ち、彼を冷静にさせた。
(撃つ?それは本当に正解か?
下手をすれば逃してしまう。それはいけない、それだけは。
この機会を失くしてはならない。ならない。絶対に。二度とやって来ない好機だ。)
喉を通り抜けて吹く生臭い夜風を嚥下した。
大分落ち着いて来た。と同時に、焦る事はないという確信を得る。
「ヒューイ?…ヒューイ?」
腐った木々のアーチの下で、幾度となく同じ足跡を辿り、元来た道を踏む娘の声。
リカルドには半ば息切れ混じりの、疲弊した調子に聞こえた。
獲物は最高の状態である。緊張と疑心と精神疲労で今にも掻き消えそうな青い目の光輝。
最早あれは足の萎えた子鹿と変わらない。
手を伸ばせば捕獲出来る相手に、わざわざ銃創を作るべきか。否。
そんな事は意味がない。馬鹿げている。愚かだ。
安らかに目を瞑って三秒数え、瞼を開け、獲物の位置を確認し、銃を下ろす。
ゆっくりと忍び寄る。悲痛な犬の鳴き声。大丈夫、あの娘は全く気付いていない。
歩調に合わせて呼吸する。一瞬脈拍が上がったが、直ぐどうにかなった。
彼はもう焦らない。
(あれは貴重だ、替えが利く使用人とは違う。完全な状態で捕獲しろ。出来れば無傷で)
出来るか?
勿論、出来る。
言い聞かせると言うよりは自らに刻み込むようにしながら、腐葉土の安定した部分を踏み締めた。
分解されて間もない湿った木屑と葉の匂いが鼻腔を占める。不快だが邪魔ではない。
標的へあと二米。目で計りつつ、銃を振り上げる。
運良く風の音でも聞こえたのだろうか、娘は金髪を靡かせて振り返った。
しかしそこで息を飲み硬直してくれたのは全く好都合だった。
この方が、寧ろ手っ取り早く事が済む。
華奢な体を突き飛ばし、仰向けに転ばせる。この姿勢で身動きをとる事は不可能だ。
衣を裂くような、引き攣ったような声が細い咽喉下までせり上がったが掻き消された。
銃の柄を一寸余らせて握り直す。
肩を掴んで俯せにし、その上に跨がるようにしてから、持ち手部分で素早く殴った。
硬い感触。次いで短い悲鳴。
二、三度頸部の上を殴打しただけで下敷きにされた体が無抵抗になった。
娘の艶やかな首に手を当てる。しっとりとした弾力を持つ肌は若々しく温かい。
指の腹を押し返すほど力強く脈打つ流れを感じて、フードの下の口角が吊り上がる。
意識の無い少女の体を抱え上げる男の影。低く響く押し殺した笑い声。
羽根の折れた蛾が黒い知的な目で、それを見ている。