いつか死ぬ為に生きているんだとしたら今逃げている事もこのまま逃げ延びる事も、
非常に無意味な気がして、途端に目眩が押し寄せ思わず溜め息を吐いた。
しかし響き渡った吐息の残響は彼女が全くの無意識だったにも関わらず大きく、
フィオナに身の毛がよだつ思いをさせた。
息を止め、素早く辺りを見回したが彼女が頭に描く恐ろしい狂人など勿論おらず、
ただ其所には気遣うような眼差しをしたヒューイがいて、彼女の手を軽く舐めただけだった。
馬鹿な自分を嘲笑してやりたくなり、代わりに再度嘆息した。
分かっている、本当は誰より理解がある、この事柄に関しては。
そうだ色々と空虚な戯言を巡らせてみた所で、
結局自分は生きたくて生きたくて仕方が無いのだ、と思った。
浅ましい程強い生命への執着。いやこれが普通なのだ。
この城の人間は尽くどうかしている、
ああ、現に今彼女を追い求めて城内を探り歩いている女だってどうかしていた。
(足りないのです。)
縋っているのか羨んでいるのか、妬ましく思っているのか、
物欲しげな目は寂寥と渇望でギラギラ輝いて彼女はフィオナを追った。
思い出すだけで喉の付け根が痛くなる。
自分とはまるで懸け離れた不可思議な、怪物でもない死人でもない、
大人の彼女の表情がまたも意地悪いほど色濃く脳に甦って来た。
吐き気がする、気もする。しかし今は歩けない。洗面所が遠過ぎる。
足が萎えて、膝は死んで、心は縮こまっている。
フィオナは瞳を閉じて、白い犬の剛毛に触れた。
湿った鼻面が頬に近付いて来るのが分かる、心地よい。
若し誰かが許すと言うのなら、このまま眠ってしまいたかった。
全てを捨て去る事が出来たら、この重苦しい胃がどれだけ気楽になるだろう。
今は毛布よりも温かい死が欲しい。(分かってる、こんなのは強がりに過ぎない。分かってる)
ゆっくりと足を伸ばす。
広がって行く快い痺れに身を委ねて、目を瞑ったまま、ヒューイの顎の下を撫でた。
甘えた声が耳に入り鼓膜を震わせて言い様の無い安息を覚えた。
ふと、自分は何かを確かめる為に逃げ隠れしているんだという気がした。
その何かが分からずに昏迷しているのだとしたら、
無気力なこの時間も無駄な物ではないのだろう。
閉じた眼を泳がせて冷たい空間に足を投げ出し、思考を放棄する事だって、浪費ではない。
後から接着した薄っぺらい理由で何もかも正当化しようとする自分に嫌気が差す。
ジイジイと何処かで螻蛄が鳴いていて、
それを少し意識し出した途端に夢現つの頭から霧が逃げて行った。
眦に感じていた温かい吐息も急に感じなくなってしまった事に慌て、
フィオナは犬の名前を呼んだが返事がない。
身を隠していた瓦礫から、彼女が嫌悪する虫のように身を伸縮させて這い出た。
もう一度名前を口にする。
返事は無いーーいや、聞こえた。
確かに耳に触れた声音は彼女がよく知る湿った鳴き声だった。
元気が無い。走って来る気力も無いのだろうか?
まろびつつ、急いで駆け出す。
先刻閉めたはずのドアが開いている。不可解に思って、けれど鳴き声の方に注意が向き、
別段警戒する事もなく錆混じりのノブに手を掛けた。それがいけなかった。
噛付亀のような恐るべき速さと力で、手首を掴まれるのを感じて振り向いた。
歪曲した唇の線が目に飛び込んで来て、少しずつ焦点をずらして行くと
今度は月光を反射する暗い瞳に出会った、瞬間、分かった。
犬の寂し気な鳴き声と相俟って、全てを悟らせた。
(お嬢様)(足りないのです。)
狂気じみた声、声、笑い声。甦って来る。
全てが彼女の呼吸に合わせてゆっくりと、鮮明に映った。
血塗れの掌中に鋭利なガラス、狂気から悦楽へ目紛しく変わる無表情、
螻蛄の鳴き声さえもが彼女の脳と時間軸を共有していた。
振り上げられる、透明の板、
ゆっくりと、けれど静止している訳ではないから何時かは落ちて来る。
確かめたくて仕方なかった物が、今最上の舞台を与えられて目の前に輝いている気がした。
自分を狂った笑みで凝視する顔は唯唯冷たかったが、
胸部に突き付けられたガラス片を見つめる自分の心はそれを凌ぐまでに冷静だった。
こんな場面だと言うのに切迫した雰囲気はまるでなく、
手首を拘束する感触ばかりが現実的で可笑しい。
血が噴き出すのだろうな、
ああ痛いのだろうな、
刺されれば今更のように如何にもならない事を後悔するんだろうな。悠然と思った。
甘い錆の匂いがするが、きっとあの透き通った刃を持つ手からだろう。
切羽詰まった頃になって、
先が読めた物語、或いは既に読み終わってしまった小説の如く、
優しく安堵して眼前の光景を見守る事が出来る。
(これが、私が捕えた私の目が捕えた最後の情景になる。きっと、なるのよ。)
振り返ってみれば、これほど穏やかな心持ちも久方ぶりだ。
何故だろう。
考える暇もなく心の臓目掛けて突き出されるガラスの化身が目に入り、
そうしたら何だかとても安らいだ気分を味わった。
それがフィオナには、滅法寂しかった。