『嘘を、ついていました。』  
 
…知ってる…  
 
『私は嘘つきです。――ずっと、貴女を騙してきました。』  
 
名前、も…?  
 
『はい。名前も、です。』  
 
…何で、そんな事教えてくれたの?  
 
『……さぁ、どうしてでしょうか。私自身でも、わかりません。』  
 
そんな事を言いに、会いに来てくれたの…?もう、会えないって、言ってたのに。  
 
『…わかりません。しかし、今度こそ、もう会う事はないでしょう。私の事は……忘れて下さい。』  
 
何で忘れなくちゃいけないの?どうして?  
 
『もう、…無理なんです。私に残された道は、死ぬか――貴女を不幸にするか、どちらか一つです。』  
 
どういう事なの!?わからない、わからないよ!  
何で竜崎さんが死ななくちゃならないの!?そんなの、嫌だよ…!  
竜崎さんが居なきゃ……私は幸せになんてなれない……!  
 
『……何故?私は、ずっと貴女を騙していたのですよ?』  
 
いいの、嘘でも、よかったの……だって、私は……――  
 
 
 
ザァァァァ……――  
 
 
早朝から町全体をけぶるように降っていた冷たい霧雨が、  
夕暮れが近づくにつれ激しいそれへと様相を変える。  
午後五時過ぎには既に日は落ちかけ、雨空であることも手伝い  
すっかり街灯に照らされた、11月。  
気温も低く、街行く人は皆温かそうな上着を羽織い、  
冷たい雨の下家への帰路を急いでいる。  
家に帰りついた者達の、明るい燈が一つ一つ灯る中。  
明りも灯さず、外からほんのりと押し入る、陽炎のように儚げな光を頼りにして。  
薄暗い部屋の中。  
くぐもった声が――どこか艶のある、掠れた声が、少女の唇から紡がれる。  
「ッ……あっ……!」  
そのか細く、儚げな身体をぶるりと震わせ、幾度目かの絶頂を男に伝えた。  
男は常には大きく見開いた目を、その時ばかりは薄っすらと閉じて、  
少女から与えられる痛みにも似た快楽に耐える。  
身体の奥から込み上げる熱をどうにか押さえ込んで、力無く、くたりと  
シーツに沈み込んだ少女の滑らかな首筋を、節だった指先で愛でる。  
既に一度彼女の中に吐き出された白濁が、彼女の腿に刻印を印すようにこびりついている。  
繋がった一点に絡む糸を指先で掬い、舐めてみると口の中に妙な味が広がった。  
それが自分の精液の味だと理解して、自嘲気味に溜め息をついた。  
「…っん……は…ぁ…」  
眉を顰め、焦れるように、少女が僅かに身を揺する。  
未だ自分の中で昂ぶったままの男の熱が。  
もどかしくて。愛しくて。切なくて。やるせなくて。  
哀しげな慟哭にも似た男の鼓動が、再び少女の身体に燈を灯した。  
じくじくと疼く内部が、まるで意思を持っているかのように、  
男を強く、優しく包み込む。  
 
「…粧裕、さん……」  
消え入るような声で、名前を呼んだ。  
途切れがちになる己の情けない声に、心の中で嘲笑う。  
名前を呼ぶと、上気した桃色の顔に薄っすらと幸せそうな笑みを  
浮かべる粧裕に、――初めて、罪悪感が込み上げ、胸がじり、と痛んだ。  
こんな感情は知らない。  
こんな自分は知らない。  
――セックスとは、こんなにも切ないものだったか?――  
湧き上がる激情を振り切るように、粧裕の身体を、再び揺らし始める。  
「…はっ……ぁ、あ……りゅ、ざき…さ…っ…」  
途切れ途切れで呼ぶ声は、もはや男の名をはっきりと示す事も無い。  
いや、喩え粧裕がはっきりとその名を口にしたとしても。  
そんな名前に、意味など無いはずなのに。  
それなのに、何故こうまで。心が、ざわつくのだろう。  
「粧裕さん……」  
少女の白く汗ばんだ喉元に唇を落とし、紅い舌先でねっとりと舐め上げて、耳元で囁く。  
微かな、本当に微かな声で囁かれる睦言に、少女の瞳からしとど零れる涙がシーツを濡らす。  
その涙に、胸を貫かれるような罪を感じた。  
嘘に塗り固められた自分。  
何一つ、本当の事を打ち明ける事の無い自分。  
嘘から始まり、嘘で終わる。  
彼女は、こんなにも素直に、自分に全てを曝け出してくれているというのに。  
曝け出す覚悟を、くれたと言うのに。  
 
「竜崎…さん…っ……あっ…っ…」  
今度は、はっきりと、彼を呼ぶ。それが偽りの名だとわかっていても。  
呼ばずにはいられなかった。  
胸を蝕む切なさが、狂おしい程の愛しさが。  
込み上げる幾つもの激情に、やり場を無くした手が空を彷徨う。  
男がその華奢な手首を掴み、自らの首へと回させる。  
すると、まるで人の温もりをようやく手に入れた幼子のように、  
安らかな表情で彼にしがみついたのだった。  
粧裕の熱っぽい吐息が男の首筋にかかり、男は込み上げる何かから  
逃れるように、目を伏せる。  
――私は、彼女を愛してしまったとでも言うのだろうか。。  
   自分より、一回り近くも年下の、この少女に?――  
こんなはずでは無かった。こんなはずでは――……  
どれだけ後悔しても、己の罪を憎んでも、もう、何もかも手遅れなのに。  
逃げるな、と。冷静な自分が囁いている。  
――人を試そうとした……これは罰か?  
再び目を開けて、自分の下で喘ぐ少女を思う。  
先程まで、穢れの無かった無垢な少女が。今は自分の手の中で、  
自分の雄を咥え込み、こんなにも、乱れている。  
一度染め上げてしまったものは、二度とは元に戻らない。  
もう、二度と。  
「粧裕…さん……よく、聞いて下さい……」  
「っ…ぁ…な、に…?」  
涙に濡れた粧裕の瞳は、歪んだ自分を映し出し、  
儚げで、それでも確かな情欲の色に染まっている。  
紅色の頬に張り付いた艶のある黒髪を払い、ひそやかに、囁く。  
「一度しか、言いません……――私の…名前は…――――――」  
 
 
ザァァァ――  
 
 
雨は、更に激しさを増す。  
ガラス窓を叩きつけるような雨音が、互いの耳を犯した。  
信じられないものでも見たような表情を浮かべる粧裕に、  
男は心臓を鷲づかみにされたような息苦しさに襲われ、粧裕の肩に己の額を擦り付けた。  
「……え…る…?Lっ…て、言ったの…?  
よく、聞こえない、よ……もう、一度……」  
震える声で、男に哀願する。しかし、男は少女の望みを叶える事は無い。  
「…一度しか、言わないと言った筈です…。これが…私の限界です…。」  
男の、懺悔にも似た呟きは、少女の目に新たな水を湧かせ、絡ませる腕に力が込もる。  
 
「……L…って……名探偵の、名前、みたい……」  
「―――…………」  
 
――否定、しないんだね……――  
 
男の身体の強張りをその身に感じ、受け取って。  
「…そんなわけ、ないよね…」  
泣き笑いに、心に浮かんだ真実を押し隠して、少女は男の全てを。  
許そうと、思った。  
 
自分の肩に顔を埋めている男の耳元で、次々と湧き出る涙を精一杯堪えながら。  
濡れた声で、小さく、呟く。  
「…すき……」  
『L』――と。  
彼にしか届かない。ともすれば、雨音に掻き消されてしまいそうな、つつましい声で。  
 
たった、アルファベットの一文字。  
自分を知っている者達からは、当たり前のように呼ばれ続けた、コードネーム。  
そして――誰にも明かした事の無い、真実の、名前。  
甘美な響きを持った声が、彼――Lを襲い、胸に湧く狂おしいまでの激情が、  
彼を支配した。  
「っ!…ひぁっ…!」  
突如訪れた激しい抽出に、びくり、と少女の身体が跳ねる。  
ベッドのスプリングがギシギシと悲鳴を上げて、その激しさを如実に訴える。  
「ア…っ……っ…うぁ…!え、…っ…んぅ…!」  
その名を、呼ばせまいとするかのように、少女の唇を自らのそれで塞いだ。  
言葉にならないくぐもった響きは、互いの唾液の絡まる音に掻き消され、  
僅かな名残に少女は思わず涙ぐんだ。  
「ん、…んぅ…っ…、ふ…」  
深い口付けを交わす間も、胎内を犯す彼の欲はその激しさを増すばかりで。  
粘膜の擦れ合う卑猥な旋律が、少女の羞恥を煽り、悦楽を誘う。  
その水音は、雨音よりも大きく、雨音よりもいやらしく。  
溢れる蜜は、男の精と混じり合い、真っ白なシーツを艶めかしく汚していく。  
まだ幼さの残る乳房に大きな掌を添えて、ゆっくりと揉みしだくと、  
小さいけれど確かな柔らかさを持つ膨らみは、彼の指の動きに合わせ  
奇妙に形が歪んでいく。  
張り詰めた先端の彩りを人差し指で嬲ると、小さな肩を震わせて、  
苦しそうに眉を顰める。  
唇を解放すると、途端に彼女の淫らな声が、部屋中に響いた。  
「はっ……あ、アっ…  っん…くぅ…!」  
 
泣きそうな、切なそうな、喜んでいるような、壊れてしまいそうな……  
そんな、声を上げる。  
その声に溺れながら、深く、深く、粧裕の胎内を突き上げた。  
少女のざらついた奥壁に先端が当たり、自身がきゅんと締め付けられ、  
追いつめられていく自分の持続時間に、下唇を噛んで耐える。  
「は…ぁっ……」  
肌にかかる男の熱い吐息に、もどかしげな声を上げて、思わず身をよじる。  
やるせない思いが胸を締め付け、男の背を掻き抱いた。  
「粧裕……」  
「っ…は……」  
 
――私が貴女の兄を死刑台に送れば、貴女は私を憎むだろうか――  
 
「ひぅっ…あ、アッ!ああっ…!」  
 
心で問うてみたところで、答えなど返りはしないのはわかっている。  
けれど。  
「はっ、あ…!あっ…あッ!L……Lっ…!」  
 
――嘘をも真実をも、全て受け入れて、許してくれるなら――  
 
内部への律動が一際強いものへと変わり、少女は涙に濡れた目をきつく瞑って衝撃に耐える。  
下腹の奥から響く快感が、身体全体へと伝わり、少女の一つ一つの神経が悦びに打ち震え  
粧裕、と彼の苦しげな声を受け取って、少女は高らかな嬌声を上げながら、背を引き攣らせた。  
「あぁぁぁっ…!」  
「っ…!」  
 
自らの熱が迸る感覚に、少女の身体を、きつく掻き抱いた。  
彼の熱をその身に宿し、びくびくと小さな身体を震わせる少女が、  
――あまりにもいじらしくて、愛しくて。  
「…っ…粧…裕……!」  
「ぁっ……あっ……!」  
――あまりにも稚拙で、刹那的で。  
 
自分の全てを――生きた証を、彼女の中に注ぎ込む。  
目が眩むような快感と共に、微かに不安が頭を過ぎったけれど。  
それでも。  
身の内に巣食う切なさに、互いの熱だけが、凍えた心を満たしてくれて。  
薄れゆく意識の中で、少女の自分を呼ぶ声が、雨音に混じり微かに耳に残った。  
 
互いの秘め事を押し隠すように降り続いていた雨は、  
押し迫る夜の闇と共に、静けさを取り戻し、やがて止んでしまうのだろう。  
それが互いの別れの刻だと、心に誓いながら――  
 
 
*****  
 
 
――思い返してみれば、何てたくさんのヒントがあった事だろう。  
これが、兄や竜崎ならば、僅かなヒントを手掛かりに、答えを導き出せたのだろうか。  
彼の言葉の節々に、彼さえも気が付かないヒントを、私に与えてくれていたのに。  
否、本当はわざとだったのかもしれないけれど。  
今はもう、わからない。聞くことも出来ない。  
 
珍しくその日提出のレポートを忘れたと言う兄の知らせで、  
折角創立記念で休みだった 私がしぶしぶ足を運んだ東応のキャンバスで。  
あまりの広さと人の多さに戸惑い、講義の最中か電話もメールも繋がらない兄を責めながら、  
一人立ち尽くしていた講堂前で、突然声を掛けられた。  
『――どうかしましたか?』  
少し怖くて、何でも無いと言ったのだけれど。  
しつこく聞いてくるのに、兄の名前とレポートを届けに来たのだと言うと。  
『月君なら知っています。私が渡しておいてあげます。』  
そう言って、私の持ってきたレポートを、まるで汚いものでも触るかのような手つきで  
ひょいと摘み上げて、持って行ってしまった。  
しばらくは唖然と彼の猫背がかった後ろ姿を眺めていたのだけれど、  
後になって自分の失態に気付き、慌てて兄に電話を掛けると、  
どうやらちゃんと渡してくれていたようで、安心したのだ。  
 
 
二度目の会合。  
父の着替えや生活用具を入れたバッグを警視庁に届けに行くと、  
また、後ろから声を掛けられたのだ。  
『夜神粧裕さん?』  
何故、私の名前を、と聞けば、返って来る答えは『月君から聞きました。』で。  
何となく、そのまま素通りできない雰囲気で、父の荷物を持ってきたのだと言うと、  
『キラ事件の捜査をしているんですね』と。  
驚いて、何故知っているのかと問うと、返って来る答えはまた『月君から聞きました。』だった。  
まさかあの兄が、友達にそこまでの話をしているなんて。  
それは驚きと共に、私にどこか安心感をもたらし、警戒をほぐして彼と話した。  
父である総一郎が、長い間キラ事件の捜査の為に家に居ない寂しさと、  
それによるキラに対しての嫌悪感。兄に彼女が出来て、前のように  
家に居る機会が愕然と減ってしまった事。  
積もりに積もった不満を、どこからどう見ても普通には見えないあの人に、  
まるで誘導されるように話してしまったのだ。  
彼は興味深そうに相槌を打ってくれて、私はまるで兄と話をしているような  
気持ちで、そんな事を打ち明けたのだ。  
しばらく経って、はっと時計を見ると、随分長い間警察庁のロビーのソファを  
陣取っていた事に気がついて、私は慌てて立ち上がろうとしたら。  
『一つだけ、聞かせて欲しい事があります。』  
そう言われ、私は、何を?と問い返した。  
『先程からの貴女の話を聞いていると、キラに対する憎しみは、  
全て貴女の父親への気遣いや寂しさからきているものでした。  
では、もし貴女が警察官の父親を持っていなかったら、貴女はキラを認めますか?』  
 
突然、彼がそんな事を真剣に問いかけてくるので、私は戸惑った。  
まるで、人を試すような口振りだったのが気になったけれど。  
でも、もし本当にそうだったなら、と思いなおし、彼に告げた。  
認めない、と。  
キラによる一方的な粛清なんて、やっぱり間違っていると思うし、  
犯罪者とは言え、人間を虫けらのように殺し続ける事が出来る  
キラの心理が、元々私にはわからなかったからだ。  
殺された犯罪者の中には、きっと自らの犯した罪を悔いている人たちだっていただろうに。  
そんな事を、しどろもどろに告げると、彼はにっこりと――優しく微笑んで。  
『成る程。貴女は優しい人ですね』  
と、私に言ってくれた。ソファから立ち上がり、私の前から去ろうとした彼に、  
私は咄嗟に、また会って欲しい、と願った。  
自分でも何故そんな気持ちになったのかわからない。  
彼との話は確かに楽しかったし、久しぶりに色んな事が吹っ切れたような気分にもなった。  
それでも、この、心から湧き上がる感情は、まるで。  
『――そうですね。では、またいずれ。それともう一つ。  
私とこうして話したこと、私に会った事。月君にも他の家族の人にも、誰にも言わないで下さい。  
月君は貴女をひどく可愛がっているようです。もしこうして貴女に近づいた事が  
ばれてしまうと、月君に殺されかねませんからね。』  
それを聞いて、私は思わず笑ってしまったけれど。  
でも、今なら、わかる気がする。  
彼が、『L』だと知ってしまった今なら。  
私に近づいたのも、最初は捜査の一環だったのかもしれない。  
警察やLが、どんな捜査をしているかなんて、私にはわからないし、わかる術も無い。  
いくら考えたところで、私が推測できる範囲なんて知れているし、  
真実を知らされる事も無いのだろうから。  
 
 
それから何度か、私達は時々会って、  
話をしたり、お茶を飲んだり、時には勉強を教えてもらったりして、  
次第にそれが当たり前のようになっていった。  
彼はかなりの甘党で、私以上に甘いものを平らげるものだから、  
最初は驚いたけれど、段々とその光景にも慣れていった。  
彼に対する想いが何であるかを自覚するのに、時間はかからなかった。  
けれど。  
『もう、今日限りで貴女と会う事はありません。』  
突如告げられた別れの言葉に、私は目の前が真っ白になった。  
何故?という思いばかりが頭の中を倒錯し、取り乱して彼に問うた。  
私は彼に何かをしただろうか?彼との約束だってちゃんと守っている。  
誰にも言った事など無い。  
それなのに。  
『貴女のせいではありません。全て私の勝手な都合です。  
これ以上貴女と居ると、決心が鈍ってしまいそうなのです。』  
淡々とした口振りだったけれど、いつもは感情を映さない彼の漆黒の目は、  
その時ばかりはなぜか酷く揺らいで見えて。  
その目を見ると、私は何も言えず、ただ立ち竦み、彼の背を見送った。  
それは初めて会った時の後姿と同じはずなのに。  
涙で霞んだ私の目には、それがひどく、哀しげに映った。  
 
母は、その日は実家に用事があるとかで、明日まで戻らないとの事だった。  
それは全くの、偶然だったのだ。  
11月の始め、冷たい雨がそぼ降る中、もう何ヶ月も会っていない――  
いや、もう会う事も無い彼を想いながら、一人家への帰り道を歩いていた。  
私は何も知らなかった。彼の事を何一つ理解してはいなかった。  
確かなものを、何一つ持ってはいなかったのだ。  
東大のキャンパスに足を運び、尋ねてみても、『竜崎』という生徒は  
存在さえしていなかった。  
彼が私の前から姿を消してから間もなくして、  
兄も彼女と同棲するとかで姿を眩ませてしまった。  
いえ、例え兄が家に居たとしても、多分私は聞かなかっただろう。  
彼との約束が、ずっと私を縛り付けていて。  
口に出してしまえば、本当に全てが終わってしまう気がした。  
『竜崎』……本当の名前かどうかも、疑わしい。  
名前は日本の名字のようなのに、私の目には、彼の顔立ちは  
どこか日本人離れしているようにも見えた。  
もう、考えても仕方のない事なのに。  
忘れようとすればするほど、無意識に想うのは彼の事ばかりで。  
昇華出来ない寂しさをどうすればいいのか、途方に暮れていたその時。  
私の家の前で――彼は私を待っていた。  
激しさを増す雨の中で、傘も差さずに――  
 
*****  
 
「痛ッ…!」  
身体のあちこちが痛む。苦痛に眉を顰め、ベッドからゆっくり上半身を起こし時計を見ると、  
既に時間は真夜中の十二時を指していた。  
雨はとうに止み、窓からは薄っすらと月の光が射して、  
電気もつけていないというのに妙に明るくて。  
部屋を見渡したが、彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。  
互いの体液で汚れ、皺だらけになったシーツだけが、彼の名残を伝えてくれる。  
もともと覚悟をしていた事ではあったけれど。  
いざその時が来てしまえば、想像以上の喪失感が、彼女の胸の内を凍えさせる。  
空虚な心のまま、無意識に身体を起こした時。  
彼女の胎内から、彼の生が、腿を伝って流れ落ちた。  
「あ……」  
自身の中に留まる彼の名残をかばうように、彼女は立ち上がる事を拒み、  
そのままぺたりと座り込む。  
震える指で、自身の腿を伝うものにそっと触れた。  
彼女の中でようやく保つ事の出来た彼の熱が、外気の冷たい空気に触れ、  
その温度を急激に失っていく。  
あまりにも刹那的で――儚くて、切なくて、愛しくて。  
 
――恋が、終わる。  
 
  嘘でも、よかったのに。  
  嘘でもいいから、側にいて欲しかったのに。  
 
「ふっ……ぅ……!」  
紡がれた真珠のような涙が、  
乾いてしまったシーツの上で千切れ、新たな染みを作った。  
 
  貴方なしの、幸せなんて、私にあるのかな?  
 
「竜…崎さん……」  
 
――だって…私は、貴方の事が好きなのに――  
 
『私は、……貴女が好きで一緒に居たわけではありません』  
 
自身の中に残る彼を失うまいとするかのように、自分の身体を抱きしめながら。  
小さく、微かな声で、祈るように、呟いた。  
「嘘つき」、と。  
 
  でも、そんな嘘つきの貴方が  どうしようもなく、好きでした。  
  だから。  
 
       ――生きて、下さい――  
 
  せめて、この想いが、月明りの下の貴方に届きますように。  
  せめて、貴方をずっと好きでいる事だけは許してもらえますように。  
 
 
――貴方が居ない寂しさを、断ち切る事が出来るその日まで。  
 
END.  
 
 
 

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