抗えなかった。
人を見透かすような目。
人を観察するような目。
人に感情を伝えない目。
漆黒の―― 一点の光さえ宿さぬ目。
抗えなかった。
抗うべきだったのだろう。
抗わなければいけなかったのに。
それでも――あの目が、私を捕らえて、離さなかった。
それでも――私が、抵抗したならば、彼は私を離したのだろう。
それでも――私は、動けなかった。 動けなく、なった。
シャワーの蛇口をひねると、さぁっと冷たい水が、全身に雨のように降り注いだ。
無性に水を浴びたかった。身体の奥に、未だ微かに燻る熱を、取除いてしまいたかった。
それでも――その燻りが消えるのが、何故か名残惜しくて。
「……竜崎…さん………――いいえ……」
彼が誰なのか。とっくに私は気付いていたのに。
私の名前を知っていたあの人。
私の質問をはぐらかしたあの人。
私の身体を……抱いたあの人。
彼が誰なのか。結局聞くことが出来なかった。
私が彼の名前――いえ、コードネームを口にしたならば、彼はどう答えたのだろう。
それも、きっとはぐらかされてしまうのだろうけれど。
それでも、聞けばよかった。
私の予想通り、食えない人だったけれど。
胸が、熱くなる。これではまるで――……いいえ。
これは、愛じゃない。
それならば、恋なのだろうか。――多分違う。
そんな甘い感情では無いと、私自身が感じる。
恋人のレイに酷く罪悪感を感じて、いたたまれない気持ちになった。
しばらくは……会いたくない。
本当は、会う資格もないのだけれど。
彼を好きだと言う気持ちは、今でも変わっていないのに。
――なぜ、こんなにも心がざわめくのだろう。
悪いのは……きっと私自身だ。
私を抱いた彼を、責める気には全くなれなかった。――不思議な程に。
「熱い……」
身体を冷まそうとしているはずなのに。
逆に身体の燻りが、大きくなっていくような錯覚。
忘れなければいけないのに。
忘れなければ――。
「――――」
小さく、彼の最も有名とされる呼び名を呟いた。
それは叩きつけるような水音に掻き消され、私自身の耳にも届かなかった。
*****
「あなたは……本当に『竜崎』と言う名前なのですか?」
「さぁ……どうでしょうね」
「さぁって…!はぐらかさないで下さい。大事な事なんです。
それにあなたは立派な犯罪を犯したんですよ?少しは反省したらどうですか」
出勤途中の彼女に抱きつこうとした彼を、痴漢の現行犯としてオフィスまで
連れて来たものの、午前中は職場復帰の為の事務処理やら
上司への挨拶回りなどで、結局彼の取調べは午後からになってしまった。
その間彼には空いていた取調室で待っていてもらったが、
ようやく彼の所へ戻った時に、コーヒーに砂糖をたっぷりと
注いでいる彼の姿を目撃した。
思わず、それと極めてよく似た光景を思い出し、唖然としてしまった。
「――随分と遅かったですね。流石に待ちくたびれてしまいました。」
言いながら、明らかに砂糖が溶けきっていない(と言うよりも
カップ一杯分のコーヒーに溶ける砂糖の量ではない)であろうコーヒーを啜っていたのだ。
コーヒーを淹れた後は、両膝を抱え込む体勢で椅子に座る。
――似ている。そう思う。
聞きたい事は山ほどあった。けれど。
「――なぜ、本当の事を話してくれないのですか?」
「私は、正直に話しているつもりですが。確かに貴女に抱きつこうとしたのは
悪かったと思っています。しかし未遂に終わったのですから、今回は見逃してもらえませんか?」
悪びれもせず、飄々とそう答える彼に、彼女は頭を抱えた。
質問ははぐらかされてばっかりで、しかも痴漢行為は見逃せと言う。
――……まぁ、確かに…咄嗟に手加減なしの手厳しい罰を与えてしまったのだから、
私自身も頭が上がらない部分があるのだけれど。
でも、それとこれとは話が別だ。
「残念ですけど、それは無理な話です。今回は私だったから未遂に終わっただけで、
普通の女性ならなす術も無くあなたのワイセツ行為の被害にあっていたのですよ?
そう考えると、未遂なのだからなんて甘い事、通じる道理がないでしょう。
被害に合う者の身にもなって下さい!」
「成る程。そう言われれば確かにそうです。非常に残念です。」
コーヒーを啜りながら。全く残念そうにしていないところに、無性に腹が立った。
一体この男は何を考えているのだろうか。
あの『竜崎』よりも、更に一癖二癖ありそうなこの男に、今日は振り回されて
終わってしまうのだろうか……復職一日目から……。
あまりの運の無さに、思わず溜め息を漏らした、その直後。
「――しかし、貴女以外の女性に抱きついても、意味はありません。」
「……え…?」
予想にもしなかった彼の言葉――意味が、よく理解出来ない。
いや――彼の意図が、汲み取れない。
捉え方によっては、告白とも取れる台詞にも聞こえ、思わず心臓が高鳴る。
――しかし、彼の次の言葉で、その可能性は即座に却下された。
「別に貴女が好きだからとか、そう言う意味ではありません。
誤解が無い様に一応言っておきます。」
――……ああ、そうですか…。別にあなたに好かれても嬉しくもなんともないけど……
それならそれでもっと他に言い方というものがあるのではないだろうか。
ほんの僅かにでも心を昂ぶらせた自分が馬鹿馬鹿しくなり、彼をキッと睨み付けた。
「……ならばどういう意味ですか、それは。私でなければ意味が
無いと言うのは、何か他に目的があってという事ですか!?」
「…何もそんなに怖い顔をしなくても。若い女性なのですから、
もう少し笑顔を振りまいた方が可愛らしくてよいかと思います。
怒ってばかりでは男性にもてませんよ?
あ、ちなみにその目的はもう果たしましたので、安心してください。」
……何をどう安心しろと言うのだ、何を。
彼の、あまりに暴虐撫人な態度や言動に、もう一度蹴りを入れてやりたくなった。
こうまで言われて、自分でもよく我慢していると褒めてやりたくなる。
自分はこんなに気が長かっただろうか?
「私が怒ろうが笑おうが、男にもてようがもてまいが、あなたには関係ありません!
それよりも、その目的と言うのは一体なんだったんですか。
ちゃんと答えてください!一歩間違えば私は
あなたの痴漢行為の被害者になっていたのですから。」
口調はかなりきつくなってしまったが、内心では半ば懇願する思いだった。
はぐらかされてばかりで、問えば問うほど、答えが返れば返るほど、
謎も増え、苛々も募るこの状況では、そんな心理になっても当然だろう。
……どうせまたはぐらかされるのだろうけど。
「別に大した目的でもありません。貴女のその『カポエラ』の技には
全く感服しました。すばらしかったです。」
―――……今、彼は何て言った?『カポエラ』……何故私のあの技がカポエラ、だと?
『カポエラ』なんてマイナーな格闘技、知っている人間を探す方が大変だというのに。
「竜崎…さん?何故……」
「――それに貴女は間違いなく正義感が強く、優しい人でした。
被害者の立場に立って物事を考える事が出来る警察官はなかなかいません。
――では、そろそろ帰らせて頂きます。」
飄々とした口調で。それだけ言って、彼は椅子を立った。
のたのたと、力の抜けた足取りで。頭が混乱し、呆然としている彼女の横を、彼が通り過ぎる。
通り過ぎる瞬間、彼は小さく囁いた。
「…お元気で。南空ナオミさん。」
――――どうして?
どうして、私の名前を?
私は、教えていない。教えた覚えが無い。
どうして、知っている?
いや、そうじゃない。――何故、私は気が付かなかった?
「――ま、待って!!ダメ!!」
ガタンと派手な音と共に、椅子を跳ね除けるように立ち上がり、
ドアノブに手を掛ける彼の腕を、強く掴む。
自然と、ドアの前で、彼と向かい合う体勢になった。
何故、今まで気が付かなかったのだろう。
真実はこんなにも、あからさまで、わかりやすくて。
答えはあまりにも、簡単で、すぐ側にあったのに。
何故――?
「――やはり、見逃してはもらえませんか…困りましたね。」
掴まれていない方の手の親指の爪を噛み、考え込むような仕草を見せる。
彼女は、確信する。せざるを、得ない。
彼は――
「竜崎さん……あなたは…まさか……っ…!?」
突然、彼が人差し指を立て、彼女の顔の前に突き出した。
黙れ、と言っているのか。彼女は思わず言葉を失い、息を呑んだ。
「あまり大きな声を出さない方がいいですよ、南空さん。
先程から思っていましたが、この部屋は案外外まで声が筒抜けです。
外の廊下を誰かが通るたび、話し声も聞こえてきます。
大事な話はしないに限る。」
…大事な話をする為の取調室ではないのか。そう突っ込みを
いれたくなったが、今はそんな事を言ってる場合では無い事位、
彼女にもわかっていた。
しかし、彼女は、本当の事が知りたかった。彼の口から。
「で、も……そうとしか、思えない……あなた、は……――」
――見なければ、よかったのかも知れない。
先程までは、彼の風貌だとか、仕草だとか、言動だとか。
そんなものに囚われすぎて、――初めて、彼の目を見た。こんなに間近で。
人を見透かすような目。
人を観察するような目。
人に感情を伝えない目。
漆黒の―― 一点の光さえ宿さぬ目。
――引き込まれていく。
目の前に差し出された彼の手が。彼女の顎に添えられて。
絶句した彼女の唇に、彼の唇が、重なった。
どくんっ――心臓が、高鳴る。
口付けを交わしても、お互いに目は合わせたままで。
彼は少し目を細めていたけれど。
それは、官能を求め合う事のない、触れるだけの口付けだった。
――それはほんの数秒の事だったに違いない。
しかし、彼女には今まで感じた事の無い程、長い数秒に思えた。
心拍数の乱れと共に、額から汗が吹き上がる。身体が。熱くなる。
何の抵抗もしない彼女から、彼が唇をそっと離す。
そして、相変わらず動けないでいる彼女に、静かに囁いた。
「――今度は、抵抗しないんですね。何故?」
――それはこっちが聞きたい位だ。いつもの私ならば、こんな事許すはずが無いのに。
脳裏に、恋人の姿が浮かんだ。罪悪感に、打ちひしがれる思いがする。
それなのに。
抗えない。
抗うべきなのに。
抗わなければいけないのに。
それでも――この目が、私を捕らえて、離さない。
それでも――私が、抵抗したならば、彼は私を離してくれるだろう。
それでも――私は、動けない。 動けなく、なった―――
「―――っ、ぁ…ふ…ぅ…!」
――それは、獣のような交わりだった。
「ん、ぁ……っ…あ…!」
互いの身体が発散する熱気が、狭い室内に篭る。
彼女は決して広いとは言えないデスクに両手をついて頭を垂れ、かろうじて自分の体を支えていた。
がくがくと揺すぶられ、支える手は覚束なく。
気を抜けば、崩れ落ちそうになる不安を抱えたまま。
上の服は身につけたままで、穿いていた皮のズボンを下着ごと腿まで下げられて。
それは互いの性器を繋げる為の、最低限の露出でしかなかった。
露わになった彼女の白い双丘は後ろから抱えられ、その下の濡れそぼった秘裂は
彼の昂ぶったペニスで一杯に満たされている。
双丘の片側を摘んで寛げると、彼の肉棒が彼女の陰唇にズッポリと咥え込まれている様がよく見えた。
――何て、はしたなくて、淫らで、滑稽な姿だろう。
「ぁ、ぅあ、ああっ…っ…んっ…」
「はっ…南空さん……あまり大きな声を出すと……外に聞こえてしまいますよ……
…別に、私は構いませんが……」
――意地悪く、彼女の耳元で囁く。彼女は口について出る自分の淫らな喘ぎ声を
どうにか押し殺そうと躍起になった。
本当に、聞こえてしまったら。もし、誰かが通りかかりでもしたら――
「ん、んぅ……っ……っ…!!」
いやだ、こんな――
突き上げられる度にしなる身体を右手だけで支え、左の掌で口元を押さえた。
「っ、んぁ…、ぅ…っ…!」
知られたくない。見られたくない。誰にも、誰にも――
そんな彼女の思いと裏腹に、彼の鋼のように硬い肉塊が、容赦なく奥をえぐる。
――いや、芯は硬いくせに表面はなめらかで、中を擦られる感覚がたまらなく気持ちよくて。
繋がった一点から伝わる痺れるような快楽の波に、自分を見失ってしまいそうで。
――こわく、なった。
「や、ぁ…っ…ア、…だ、めっ…!いや…ぁ…!」
「何故…?貴女の身体は…、相当悦んでいる、みたいですが……」
わかるでしょう?
こんなに、奥まで咥え込んで。
こんなに、いやらしく絡み付いて。
こんなに、淫乱な液いっぱい垂れ流して。
何が、だめなんです?
卑猥な言葉を、何度も彼女の耳元で囁いてやる。
降り注ぐ淫蕩な言葉に、彼女は嫌々をするように激しく頭を振る。
眉を顰めて、きつく唇を噛んで……
その仕草が。その気の強い態度が。
「――わかってないですね……南空さん…」
ますます、彼の嗜虐心を、刺激していく。
「んぁ、ぅあああ…!」
貫かれるような衝撃に、もはや気持ちいいのか苦しいのかすら、彼女には分からなくなっていた。
抑え切れず漏れ出た声は、甘い嬌声ではなく。
まるで獣の咆哮にも似た、低く呻くような、掠れた声。
彼は、それ以上何も言わなかった。
声を、上げる事も無く。
代わりに、篭った熱を分散させるように、彼女の白いうなじに荒い息を吐きかける。
ゾクリ、と彼女の身体が総毛立った。
途端、きゅう、と吸い付くように窄まる内部の動きに目を細め、彼女の首筋にキスを落とす。
そんな僅かな刺激でさえも、今では互いの快感を高める媚薬にしかならず。
ニチュ、グチュ…ぬちゅ、ぬちゅっ…ずちゅっ…
昂ぶる情欲のままに。濡れた音を立てながら、太い肉茎が彼女の膣襞を擦り上げた。
突き上げては、彼女の熱い肉が彼にねっとりと絡みつき、
引き抜かれては、名残惜しいとでも言うように粘膜がめくれ、彼自身に追いすがった。
その度に、ごぷりと派手な糸を引いて愛液が溢れ、彼の精と交じり合う。
「うあっ…ああ……っ!」
彼女の腰から片手を離し、唾液に濡れ、半開きになった彼女の口元を塞いだ。
高らかになりつつあった彼女の嬌声が、たちまちくぐもった呻きへと質を変える。
「んぅ、ん、…ん…っ…!!」
苦しげに眉根を寄せ、紅潮し、汗ばんだ顔に彼女の長く艶やかな黒髪が張り付き、
常には無い女の妖艶さを醸し出していた。
段々と激しさを増す彼の動きに、自らの身体を支えきれずに肘をついて。
デスクに頬を擦り付け、涙で霞んだ目で見上げた先には、相変わらずの彼の顔が見える。
彼と、目が合った。
人を見透かすような目。
人を観察するような目。
人に感情を伝えない目。
漆黒の―― 一点の光さえ宿さぬ目。
――彼は、どんなつもりで私を抱いているのだろう。
――私は、何故彼に抱かれているのだろう。
せめて。彼の目が私を映し出してくれていたなら――
そんな思いが、同道巡りのように幾度も頭を掠めた。
しかし、彼女の思いなど彼から与えられる苦痛にも似た快楽によって、
考えた数だけ掻き消されていく。
それでも、思わずにはいられない。
そうしなければ、本当にどうにかなってしまいそうだった。
自分を、見失ってしまいそうだった。
――全ては無駄な事だと、わかってはいたけれど。
「んぅっ…うぁぁぁ…!」
そんな彼女の思惑を見透かしたように、彼の、腰の動きが一気に早まった。
その瞬間に、彼女の思考はまたも掻き消される。
彼女の突っ伏したデスクが、きしきしとか細い悲鳴をあげた。
彼のペニスが、彼女の中で体積を増して、狭い膣壁をいっぱいに押し広げる。
彼女の背に覆いかぶさり、額から流れる汗が、彼女の濡れた頬に滴り落ちた。
彼の限界も、近い。
「っ…!南空、さん……!」
「うぁ、あ、うぁぁぁっ…!」
――頭の中が、真っ白になった。
獣の咆哮のような、低い叫びと共に。
これまでに無く、彼女の中がきつく彼を締め上げて。
ねじ切られるような胎内の収縮に短く息を詰め、自身を引き抜いて、
淫液で濡れた彼女の白い双丘に、精を放った。
「すいません。」
むせ返るような熱気。
生々しい情交の後の、互いの淫液と汗の匂いが鼻をついた。
べとべとに汚れた身体を拭いて、衣服の乱れを整えても、
艶かしい情事の残り香は消えてくれない。
彼女は、未だ虚脱感から抜け切らない体を持て余すように、
椅子に座ってデスクに突っ伏している。
――もしも、誰かにあの声を聞かれていたら。
そう思うと。
恋人を裏切ってしまった罪悪感も重なって、どうしようもなく、憂鬱な気分になった。
そんな彼女の耳に、彼の謝罪の言葉が降り注いだ。
「これは本当に、予定外の事でした。こんなつもりではなかったのですが…」
…今更…と、彼女は思う。
謝ってもらったところで、時間が戻るわけでも、自分達の行為の事実が消えるわけでもない。
それに、本当に悪いのは――私自身だ。
自分の身は自分で守る。その為の護身術も習った。
その彼女が。
彼の目を見て、動けなくなってしまったなんて、言い訳にしかならないではないか。
無理強いをされたわけでもなく。
彼の手は、振り払おうと思えばすぐにでも振り払える程に、優しくて。
自分を責めてでも、彼を責める気にはなれなかった。
「南空さん。恋人はいますか?」
「……え?」
突然何を言い出すのだろう。けだるさが残る中、顔だけを起こし、訝しげに彼を見る。
「……恋人…ですか?」
居たら、どうだと言うのだろう。
真っ先に、レイ=ペンバーの事が頭に浮かんだが、それを彼に
伝えようか否か――言い惑った。
一体何を言い惑う必要があるのか。自分で自分がわからなくなった。
しかし、結局その事実を口に出す事が出来ず、彼女はただ押し黙ったままだった。
「……別にいてもいなくても私はどっちでも構いませんが…
もし居ないのであれば、すぐにでも恋人を作る事をお勧めします。」
「……?どういう、事ですか…?」
「いえ……先程貴女が、ひどく物欲しそうな顔で私を見ていたものですから…」
………!!!!!?なっ…!!!
「ちょっ…何言って…!!」
「あんな目で見詰められてしまったら、世の中の男の
90%は私と同じ行動を取ったと思います。間違いありません。
ですから、今後は恋人以外にあんな表情は見せない方がいいかと思います。」
「な、な、……それじゃまるで、私が欲求不満みたいじゃないですか!?」
「違うんですか?」
「違います!!変な事言わないで下さい!!今回は貴方が…!」
言いかけて、はっと言葉を呑み込む。
彼の目を見たら動けなくなっただなんて、そんな事は口が裂けても言えない。
それこそ、欲求不満だと言い返されてもおかしくないではないか。
「私は、あの時はまだ何もしていませんでしたが…
もしかして、私の事が好きですか?」
「ち、違います、違います!別にそう言う意味では…!!」
「……そんなにはっきりと否定しなくても。――まぁいいですが。
一応忠告しておきます。先程90%の男が私と同じ行動を取る、と言いました。
そして残りの10%の内の、5%――貴女が、殺される確率です。」
「――あ……」
彼の言葉に、彼女は思わず背筋が粟立った。
そう言われてしまえば、確かに今回の件は、明らかに自分自身の不覚なのだから。
そうなっても、おかしい話ではない。
「相手がもし人の命を何とも思わない殺人鬼ならば、貴女は殺されていました。
確かに、貴女は優秀なFBI捜査官です。勇敢で、正義感も強く、行動力もある。
――しかし、それらが逆に命取りになる事もあります。気をつけた方がいい。
命は大切にしましょう。」
「――!ちょっ……待って……待って下さい!」
言いながら立ち上がり、ポケットに手を突っ込み、けだるい足取りでドアへと向かっていく彼に、
彼女はまたもや待ったを掛ける。
聞きたい事がある。――いや、確かめたい事があった。
これが、最後の質問だと。そう自分を言い聞かせて。
「まだ、何かありますか?……今更逮捕されるのは、嫌ですよ?」
「 一つだけ……答えて下さい。」
耳障りのいい言葉――彼女の価値観を、変えた言葉。
今日FBIへ戻ってきた理由が、そこにはあった。
「――『正義』とは、何だと思いますか?」
彼は、どう答えるだろう?私が求めた答えを、出してくれるのだろうか。
それとも、またはぐらかされてしまうのだろうか。
確かめたかった。
本当は、彼の正体を知ろうとする上では、ひどく不器用な質問だと、わかってはいたけれど。
それでも。
彼は相変わらず表情一つ変えず、のうのうと親指をしゃぶりながら、彼女を見詰めていた。
人を、見透かすような目で。
その『黒』にまた引き込まれそうになるのを耐えながら。
「正義、ですか。意外です。貴女がそんな質問をしてくるとは。」
彼女は、思わず息を呑んだ。
「私を捕まえる時の貴女の目には一点の曇りも無かった。
迷いがある人間に、そんな目は出来ません。
貴女は――とっくに答えを知っているはずです。」
――……ああ、やはり。
見透かされている。
何も映し出していないようで。彼の目は、私の全てを見抜いている。
この質問に込めた意味も。
きっと、見抜かれているのだろう。
うまいはぐらかし方だ。
結局自身の名乗りをしないまま、彼は私からすり抜けていってしまった。
彼が――『L』であるという確かな証拠を残さずに。
思わず心の中で苦笑する彼女に。
彼は、全てを見透かしたように微笑んで、それでも、と言葉を続けた。
「もし、見出せない答えがあるのならば――ひたすらに考えてみるのも
いいかも知れません。甘いものでも食べながら――ただひたすらに――」
*****――バタン……*****
浴室から出て、バスローブを身につけた私はテレビもつけずにベッドに仰向けで倒れこんだ。
身体の火照りは先程よりは治まったものの、思い返せば返すほど、
今日は大変な一日だったと思い知る。
復職一日目ということで、仕事らしい仕事というのは無かったものの、
誰かにあのあられのない声を聞かれてはいないかと、気が気ではなかったのだ。
幸い、あの時間帯はほとんどの捜査官が外出していたようで、
私が取調室から出てきた時には、事務係以外は誰も居なかったのが救いだった。
まぁ、明日からは私も朝礼以外はほとんどオフィスで居る事は無くなるのだろうけど。
恋人のレイは海外出張で、今月中は戻らないとの事だった。
レイには悪いけれど、正直今会っても私はうまく笑う事が出来ないだろう。
後ろめたい気持ちと、ざわつく心のせいで――
戻ってくるのが来月だと言うならば、それまでには……まぁ、何とか、
気持ちの整理も、ついているだろう。
いや、つけなければ、いけない。
けれど。
冷静になればなるほど、ふとした疑問が頭をよぎる。
考えまいとすればするほど、彼の事が頭に浮かぶ。
――もし、見出せない答えがあるのならば――ひたすら考えてみるのも
いいかも知れません。甘いものでも食べながら――ただひたすらに――
……ひたすらに、か。
考えまいとしても考えてしまうのならば、今日はひたすら
考えてしまった方がいいのかもしれない。……甘いもの、あっただろうか?
冷蔵庫の中を覗いても、甘い食べ物らしきものは見当たらない。
仕方なく、私は熱いコーヒーを注ぎ、砂糖をたっぷりと入れてみた。
……もちろん、私が飲める範囲内の甘さには抑えて、だけれど。
それでも普通のジュース等に比べたら、相当な甘ったるさで。
もはやコーヒーとは言えない飲み物を啜りながら、彼の事を思う。
私は、何故気が付かなかったのだろう。
ヒントはたくさんあった。――というより、あまりにもあからさますぎた気がする。
気付かない私がどうかしているのではないかと思う程に。
多分、それはあまりに私の先入観が強すぎた為だろうと、今になって思う。
世の中で、世紀の名探偵とか、正義の名探偵とか、
そんな数限りない賞賛を集めている傍らで、
引きこもり探偵だとか、卑怯だとか、そんな悪態をつく者もいる。
…実際、私自身も最初は彼をあまり良く思ってはいなかった。
考え方が180度変わったのが、この間の事件だったのだから。
しかし、今回の事を考えると、案外彼はあんな風にひょっこりと
事件を共にした人間の前に、姿を現しているのではないだろうか。
ただ、彼も絶対に名乗る事はしないだろうし、
あまりにも自分達の想像とかけ離れすぎているため、誰も気が付かないだけで……。
だって、一体誰が想像できる?
あの世界一の名探偵と呼ばれる彼が、人通りの多い駅に堂々と突っ立って、
その上、痴漢行為を働こうとするなんて、誰が想像出来るだろう?
彼は私に欲求不満だと言ったけれど、案外彼の方がそうだったんじゃないだろうか。
確かに抵抗しなかった私も私だけど、今考えると何だか確信犯のような気がしてならない。
考えすぎかも、知れないけれど。
彼の目を、思い出す。
人を見透かすような目。
人を観察するような目。
人に感情を伝えない目。
漆黒の―― 一点の光さえ宿さぬ目。
あの目に魅了されたように、私は動けなくなってしまった。
彼はいつもあんな目で、人を見るのだろうか。
だとしたら、どんな美辞麗句を並べ立てるより、確実に女性を落とせるに違いない。
……もしかしたら、落とされたのは私だけかも知れないけれど。
嘘つきで、幼稚で、意外と若くて(私より若いかもしれない)、
意地悪で、ふてぶてしくて、多分負けず嫌いで、それでいて――優しくて。
――あんなに、人間臭い一面があったなんて、思ってもいなかった。
「ふ……ふふっ……」
思わず、笑いが込み上げてきた。
こんなこと、一体誰が想像できる?
世界の、ほとんどの人間が知りえない。
まして、今日の事を知っているのは――彼と、私だけ。
「あは……あはは…!」
そして、そんな自分達を笑えるのは――彼と、私だけなのだから。
END.