単に、珍しい物を見て興味が引かれたのだと思っていた。
実際、最初はそうだった。
厳格な父である総一郎からして「自慢の息子とかわいい娘」と言い放ち、あの月でさえ妹の話になると柔和な表情になる。
そんな影響を与える少女に興味を持つのは普通だと思っていた。
それに、同じ家庭・環境で育ちながら、明らかに月とは異なる性格を持つ少女。
面白いものだと思っていた。
だから、実際に自分の目で見て、何が違えばこうも異なる人格が生まれるものなのか、確かめたいと思った。
そして、それが自分の感情を呼び覚ますことになるとも、Lでさえ推測しきれなかった。
静かな図書館の一角で、カタリと鈍い音を立たせて椅子を引くと、粧裕が頭を上げた。
「こんにちは」
にこりと笑って挨拶をすると、粧裕は再びノートに視線を落とした。
見ず知らずの人間がたまたま向かい側に座ったというだけで、挨拶をするという行動は、Lの予測にはなかった。けれども、それでも粧裕ならありえるとも思える。
彼はいつものように椅子に両足を上げて座り、彼女を凝視し続ける。
粧裕は数学の問題にてこずっているようで、ノートにシャーペンの芯が点々と印をつけていくばかりで、一向に問題は進まない。
「2次関数ですか」
Lが聞くと、粧裕は口をへの字に曲げて答えた。
「いつもはお兄ちゃんが教えてくれるんですけど、最近あんまり家に居ないから」
教えてくれる人がいなくて寂しいのだ、と言外に伝わる彼女の気持ち。
月が妹のことを話題にするときの表情を考えれば、いかに彼が妹を可愛がり、妹もまたどれだけ兄を慕っているのかも憶測できる。
そう思うと、胸に針をチクリと刺されたような痛みを感じる。それを無視して、彼は彼女に申し出る。
「私が教えましょうか?」
「ホント?」
嬉しそうにそう言う彼女に、彼はまたも痛みを覚えた。
年頃の娘であれば、他人の、しかも初めて会ったばかりの名前も知らない男に勉強を教えてもらうなど、考えもしないし、教えようといわれても、警戒するのが当然だ。それを彼女は一片の疑いも見せずに受け入れる。
「あなた、バカですか?」
「ぎゃっ」
思わず出た言葉に、粧裕が反応を示す。
「よく言われます、ハイ。人を信用しすぎでバカだって友達に……」
肩を落として声のトーンがどんどん小さくなっていく様子にLは笑いを漏らさずにいられない。
「まあ、いいですが。それより、この問題ですか」
机の向こう側からLが腕を伸ばして参考書を指でつまみあげる。汚いものを触るようなその手つきに粧裕は首を傾げるだけで、何も言わない。
「あなたのレベルだと、こっちの問題を解いてからの方がいいですね」
粧裕に別のページの問題を指して見せ、粧裕がうなづいた。
彼女の理解するスピードに合わせて彼が説明していくと、彼女は時々うなづいては、彼を見上げて微笑む。
自分は天才だと呼ばれてきたし、自身でも天才だと思っていた。けれど、彼女を見て、彼は彼女こそが天才なのだと感じる。
高い知能の上に思考のトレーニングを重ねた天才など、才能の一端でしかない。彼女のように、知能など関係なく、人を信じ、まっすぐに人を見る、それがどんな状況にあってもそうする人間。
それこそが、持って生まれた才能であり、望んでも得られない、訓練ではなしえない天才なのだと、彼は感じる。
「お? おお?! わかります!」
嬉しそうに彼を見た彼女の視線に彼は心を温かくする。
そんなことなど今まで無かった。
育った施設で一番を取れば、褒められてきた。それでも、彼を温めるような言葉など一度もなかった。それなのに、彼女が解けなかった問題が解けたというだけで、自分のこと以上に嬉しくなる。
なるほど、これが恋心というものか。
知性で自分の感情を知るという、自分の行動も、彼女の前ではなんだか矮小な気さえしてくる。
「そういえば、まだ自己紹介してませんでした。ごめんなさい。わたし、夜神粧裕です」
今更、と思ったものの、自分だけが彼女の名前も素性も知っているとは、彼も言えないし、言ってはいけない秘密の一つでもある。
「粧裕さん。私は流河早樹です」
「え? あのアイドルの?」
はい、と答えれば、彼女がうーんと唸ってから、もう一度笑みを見せる。
「同姓同名ってあるんですね」
そんな名前などありえないだろうと思うのだが、彼が何も言わずにいると、彼女が再び口を開く。
「もう一つだけ問題解いて、今の解き方覚えてしまいたいんだけど、いいですか?」
人を気遣ってそう聞く彼女がバカなわけはない。
温かな家庭で、温かな愛情を受けて育った少女。裕福な家庭にありがちな鼻持ちならない態度もない。優秀な兄と比較されて育った様子もない。なんて幸せな少女。
問題に取り掛かる彼女の長い睫が揺れるのが見えるだけで、彼からは彼女の表情は見えない。
それでも、真剣に口をきゅっと引き締めて考えているのが手に取るようにわかる。
そんな少女を守りたいと、今のままで居て欲しいと、願わないはずが無い。
「保護欲って言うんでしょうか」
ぽつりと呟いた彼の言葉は彼女には届かない。彼は、膝を胸にあてたまま、親指を噛みながら彼女を見続ける。
「できました!」
やった、と小さくガッツポーズをとる少女に、彼が笑みを向け、伸ばした手で、彼女の頭を撫でる。
「よくできました」
彼からの褒美に彼女は柔らかな頬をわずかに上気させながら、その感触に嬉しさを覚える。
兄から受ける褒美とは違う、同じように撫でられる感触なのに、違うものが沸き起こる。
「アリガトウゴザイマス」
小さく呟いて、彼女は上目遣いに伸ばされた腕を見た。
そして、引っ込められる手が離れていくことに、彼女は寂しさを感じる。
「あの……」
言葉に出そうとして、彼女は一度躊躇った。
彼が何も言わずそのまま立ち去ろうとするのを見て、彼女はもう一度声に出した。
「あの、明日も、わたし、ここに居ますから」
だからなんだ、と自分で言いたいが、これ以上は言葉に出来なかった。
「では、明日も」
そう言った彼の言葉に彼女は満面の笑みを浮かべ、彼は口元をほころばせた。
約束をしたわけはない。けれども、約束以上に確かなもの、そう思える言葉に二人は安堵した。
**
いつものように、いつもの公園のベンチに座る。すぐに流河が姿を現すのを彼女は知っている。まるで、どこかで粧裕がベンチに座るのを待っているかのタイミング。
いや、きっとどこからか見ていて、待っているのだろう。でも、どこから見ているのかはわからない。聞けば答えてくれるかもしれないとも思う。
しかし、彼が話しをしないのなら、聞くこともないし、必要なら彼の方から話すはずだ、と考える。だから、何も聞かずに、毎日会う約束もせずに、ただ、粧裕はベンチに座る。
彼女が腰を落ち着けると、すぐに彼が近づいてくるのがわかる。足は聞こえない。猫みたいに静かに歩いてくる、ちょっと背を曲げて、ポケットに両手をつっこんだ、彼の姿を想像しながら、彼女は彼が来る方向を見た。彼が彼女の隣に座るよりも早く、彼女が彼を呼ぶ。
「座って座って」
彼を急かしながら、彼女は学校のカバンをがさがさとまさぐった。
何を出すのか推測はついているが、粧裕の嬉しそうな顔を見ると、そんなことは言わずにLも黙って彼女が出す物を待った。
「じゃーん」
ピラリと彼の前に出されたのは、返却された数学の回答用紙。赤いインクで93点と書かれている。
「流河さんのおかげで、93点」
にこにこと微笑む彼女とは裏腹に、あれだけ教えてどうして93点なのか、そもそも100点など簡単に取れるテストだろうと彼は思い、つい口に出そうになる。それを喉の奥で飲み込んだ。彼女の点数は彼の予測外だった。
「よくできました」
代わりに出した言葉に、彼女がさらに笑みを深くさせる。
この表情を守るためなら、自分の思ったことなど言わないでおくに限る。
そして、彼女は上目遣いに彼をちらりと見上げる。
彼女が褒めて欲しいときに無意識にする所作。
彼は手を彼女の頭に載せて撫でると、彼女が満足したように目を細めた。決して慣れた手つきの撫で方ではなく、どちらかといえば、おそる恐る恐るのような彼の触れ方は、心地よさを与えるようなものではない。
それでも、彼女は微笑み、それを受け入れる。髪がぐしゃぐしゃになるくらい撫で、彼が手を引こうとした。その手を彼女が見た。
骨ばった彼の手は、優しく撫でる兄の手とは全く違うように見える。その手が離れるのが勿体なくて、彼女は彼の手首を掴んだ。
「どうかしましたか?」
手首を捕まれた彼が彼女を覗き込む。彼女はそこで自分のしたことに気付き、あわてて手を離した。
「ぎゃっ! わ、わ! ナンデモナイです……」
うつむいた彼女の横顔は頬を赤らめ、声は小さい。それだけ、彼女がもっと撫でて欲しがっていることなど彼にはすぐにわかる。それでも、意地悪く言ってしまう。
「もっと撫でて欲しいんですか?」
彼女は俯いたままで頭を横に振る。けれども、彼がもう一度頭に手を載せると、彼女はこくりとうなづいた。それから、再び小さく横に頭を振る。
「撫でて欲しいわけじゃなくって―――」
ただ、手が離れるのが嫌だったのだ、と告げる彼女に愛おしさが増す。
この穏やかな時間が永遠であれば、とありえないことを彼は願ってしまう。そして、自分の中で起こる葛藤に彼はすぐに彼女から手を離した。
いつも傍にいる、手足のように動くワタリがいる。それでも、『傍にいる』と感じたことはない。
彼女だけが『傍』に居て、彼女だけが『傍』に居て欲しい人。そして、彼女だけが、自分の気持ちに一番近くに居る、唯一の人。
失いたくない。名前を偽り、すべてを偽り、それでも彼女と居たい、と。だから、心が痛む。
彼女にすべてを告げたとき、彼女はどうするだろう。彼は何度も頭の中で整理した。
彼女は彼を憎む。彼女は泣いて、彼を詰る。100%間違いない。数字をはじき出す。それでも、彼の僅かな希望が、その数字を打ち消す。彼女はそれでも、彼を好きなのだというかもしれない。
それは一番小さな、小さな確率。ほとんど0に近い。1%未満の数字に、期待する自分。誰かに話せば、笑うかもしれない。それでも、期待せずにはいられない。
そんな小さな希望だけでも、彼女に真実を言わなければいけないときが来る。もし、彼女とこれからも共に居たいと願うなら。
今を失いたくないという気持ちだけがが、真実を告げる時を遅らせている。
遅らせて、どうなるのだろう。希望できる数字は減少することは明瞭だ。それに、彼女に本当のことを話さなければ、自ら彼女の前から消え去る時はやってくる。
どちらを取るか。
捜査ならば、すぐに決断を下せるのに、自分の感情が混じるとそうはいかない歯がゆさに、彼は指を噛んだ。
膝を折りたたみ抱えるようにして座る彼の横で、彼女は彼をじっと見る。彼の考えていることはわからない。わかりたいとは思うが、きっと理解の範疇を超えている。
そう考えると、彼が自らもう一度自分に視線を戻すのを待つか、彼女から声をかけて気付かせる。その二つしか、彼女は思い浮かばない。
けれども、大抵は彼が彼女を見るをじっと待つ。待つ時間さえ、二人の時間であるのが嬉しい。
ふと粧裕を見返したLが口を開いた。
「粧裕さん、あなた、私のことが好きですか?」
「はい」
自然に聞かれ、自然に流れ出た言葉。言葉の意味に気付いてから、粧裕は顔を赤くさせる自分にさらに気付いた。
彼はそれを見て、何も言わずに、いつものように「では」と言って去っていく。
答えたのに。ちゃんと彼を好きだと意思表示したのに。彼は何も言ってくれなかった。不安がふと彼女の心に落ちる。
けれども、「では」は、いつも、明日もまた、というのと同じ意味。
それだけが、今の彼女の不安を取り除く希望。
***
お話があります。そう切り出したLは咥えた指を出し、粧裕をまっすぐに見た。彼女は肩をすくめてくるりと背を向けた。
「じゃあ、家へ来る? 今日、お母さん、家に居ないの」
親戚のおばさんのお家へ遊びに行ってるの。そう言いながら振り返った彼女は、返事を待たずにすでに歩き始めている。
ズボンのポケットに両手を突っ込み、彼が隣を歩くと、彼女が彼を覗き込むように見て笑う。
数週間前に感じた不安など、彼女にはもうない。あれからも毎日、約束もせずに会っていて、何をどう不安だと思ったの、自分でわからないほどに、彼に会うことに幸福を感じていた。
家に着くと粧裕はすぐにお湯を沸かしに台所へ立った。リビングの広い窓から差し込む光に溶け込むように彼女の白いブラウスが眩しく、Lは珍しく目を細めた。
「紅茶、でいいよね」
聞きながら既にカチャカチャと食器の音を鳴らしている。
紅茶を淹れる慣れた手つきは、彼女が家事を手伝っていることを物語っていた。
「手馴れてますね」
褒めたつもり彼は言ったのだが、彼女は苦笑いを見せた。
「お母さんがいっつも手伝えって言うんだもん」
お手伝い嫌いなのにー、と語尾を延ばして言う彼女は年相応のあどけなさを見せ、彼は目じりを下がらせた。
出されたティーカップを指でつまみ、角砂糖をぽちゃりぽちゃりと放り込んで紅茶に溶け込ませる。スプーンを受け皿に戻して、カップを指でつまみあげた。口元まで持っていき、粧裕を見る。
猫舌らしい彼女はまだ口の手前で紅茶に息を吹きかけ冷まそうと奮闘中。
Lはカップを皿に戻して口を開いた。
「粧裕さん」
「流河さん?」
紅茶の湯気越しに彼女がソファに膝を抱えたように座るLを見た。
「それは私の―――」
「名前じゃない?」
Lの言葉の先を横取りして、粧裕は冷め始めた紅茶を一口啜る。
「わかっていて、私と会い、家にまで入れたのですか?」
「うん。だって、そんな思いっきり作ったアイドルの名前と同じなんて変だもん」
今度はコクリを紅茶を飲み込んだ。
「あなた、やっぱりバカですね」
「ぎゃっ! でも、バカじゃないもん。流河さんの名前が何でも、山田太郎さんでも、流河さんって人間は同じ人だもん」
だから、名前など関係ないのだと言い張る。
「いえ、バカです。名前を偽る人間を信用するなど、バカです」
これほど純真に人を信じるこの少女を、自分がいなければ誰が守るのだろう。月や総一郎が守るには限界がある。いつまでも、娘・妹の傍に居られるわけがない。そう考えると、ついLの言葉が荒くなる。
「この際、言わせていただきますが、バカです。しかも、正真正銘のバカです。もし私がキラだったらどうするんです? 粧裕さんはもう殺されてますよ」
「でも、わたしは犯罪者じゃないし」
「では、私が変質者だったら、今頃あなたは酷く甚振られて、命も落としているはずです」
「でも、流河さんはそんな人じゃないし」
だから、自分がそんな人だったらどうするのだ、と考えつかないのか。いや、考えても、この少女なら、きっとそれでも信じるのだろう。だからこそ、Lは自分が彼女を守りたくなるのだ、と思い至る。戸板に流水のような問答に、彼は肩を落とした。
「……私の名前は流河ではなく、竜崎です」
「それも嘘のお名前?」
あっさり信じるだろうと98%考えていたLは、残りの2%のために用意していた答えを引き出した。
「はい。偽名です」
「ふうん。じゃあ……」
Lは次の彼女の反応を待つ。それによって、話の振り方も考えてある。
「これからは竜崎さんって呼べばいいの?」
どうして彼女はこうも可能性のもっとも低いと推測する答えばかりを出すのだろう。本当に天才だ、と思わず嘆息したくなるのをLはこらえた。
「それで結構です。ですが、私をLと呼ぶ者もいます」
「え……る…・・・」
彼女の手が震えだす。彼女がバカではなく、本当は聡いことを彼は知っている。そう。昨日見せられた英語の小テストの点数は86点だった。
けれど、彼が見たとき、明らかに、教師が赤ペンで丸をつけた回答を上から消して書きなおしている問題があった。それらがなければ、満点。
そんなことをする理由など、彼にはすぐに見て取れた。そんな些細な、たかだかテスト点数だけが、彼女の本当の知性を示すものではないけれども、それは彼女の聡さを証明するに十分だった。
「Lは……わたしがキラだと思って、わたしに近づい……た?」
震えた手でカップをテーブルの上に置いた。彼女の視線は彼を見てはいない。まだ、彼女は考えをまとめている。彼女が答えを出すまで、彼は黙って見ている。彼女はすぐに、答えを導き出す。それは99%の確率だ。
「違う……それなら、Lがわたしに勉強を教えたりしないで……ただ、見張るだけで、十分?」
彼女はもう答えを出している。ただ、口にしないだけ。言葉の代わりに彼女の大きな目から涙が溢れ始める。
「粧裕さんも、最初は容疑者の一人でした」
『も』と強調し、『でした』と過去で言い切るLに粧裕の焦点がようやく合う。
「おにぃ……ちゃ・・・・・・」
最後は涙で途切れた。手の甲で口を押さえ、見開いた瞳を涙で濡らし、彼女は言葉を失った。
少しずつヒントを出し、わざと彼女に答えを導き出せる。考える時間を与えるために。自分が残酷なことをしているのはわかってはいる。
けれども、彼女の思考が終われば、自分は彼女の前を去ることになる。そう思うと、わずかな時間でも、それを先送りにしたい我侭が彼の口からヒントだけを出す結果をもたらした。
「粧裕さん」
Lが彼女の横にストンと腰を下ろす。
彼女はLを見て、悲鳴のような声を出して泣き始めた。
「そのままで聞いてください。粧裕さんと月くんと、どちらかがキラだと私は考えていました」
他にも容疑者はあったのだが、と付け加え、彼は話し続ける。
「家に監視カメラと盗聴器を取り付け、生活を見ました」
信じられないほど汚い物を見たかのように、粧裕が顔を歪ませる。
「勿論、浴室も、トイレも、粧裕さんの部屋も、です。それで、あなたはシロだと断定しました。が、月くんはグレーでした。今も、その推測は変わっていません」
これで彼女は自分を詰って、嫌って、二度と会わなくなるのだ。希望として考えていた1%未満の数字。それはただの希望でしかない。それが今、現実として目の前にある。
彼女の責める言葉を、彼女の横に座って待つ。そして、以前のような生活100%が探偵であることに戻るだけだ。
ただ、手に入れないものを、やはり手に入れられなかっただけのこと。そう思って彼女が泣くのをただ見つめた。
彼女は彼を見上げ、涙を流して、彼の胸をぐっと握り締めた手で叩く。何度も、叩いて、彼を見て、そして言葉になりきらない言葉をほとばしらせ、そして彼を叩く。
長い時間、そうして繰り返し、彼女は自分の両手を握り締めたままで、彼のTシャツを掴み、彼の胸ですすり泣き始めた。
「どうして、今、そんなこと言うの?」
彼女の問いかけに彼は答えず、まだ震えながら泣いている彼女を見下ろした。
伝えなければ、Lがキラに殺されたとき、彼女は彼を待ち続ける。そんなことは、させられない。
仮に、万が一にも、それでも、彼女が彼を受け入れるとしても、真実を言わなければ、彼女との未来はありえない。だから、彼は自身も傷つけるが、彼女には真実を話した。
揺れている彼女の背中を見下ろして、彼は両腕を軽く彼女の背に添える。ビクリと動いた彼女の体に、一瞬腕の力を抜いたが、彼は背に添えた手を離さなかった。
「お兄ちゃんがキラだとしたら、お兄ちゃんは竜崎さんを殺そうとしてるんでしょ?」
胸の中で彼女が問いかけ、彼がうなづいた。
「それでも、わたしのお兄ちゃんなの。大好きなお兄ちゃんなの」
ああ、1%未満はやはり0%だったのだ。彼は目を閉じた。
「それでも、わたしは竜崎さんも好きなの。大好きなの」
おかしいね、と彼女はまだまつ毛を塗らせたままで、彼を見上げた。
「粧裕」
言葉と同時に彼の腕に力がはいり、彼女の体は完全に彼の胸に預けられた。
さん、忘れてる。そう言って彼を見る彼女は、少し笑っていた。
「お兄ちゃんがキラでも、罪はやっぱり償わないと。死刑、とかかなぁ。でも、お兄ちゃんじゃない可能性も、あるんでしょ?」
本当に、まっすぐに、健全に育った精神というのは、こういうものなのだ、とLは改めて目の当たりにした。
「はい。月くんがキラというのは、5%の確率です」
なんだ、小さい確率だ、と彼女が小さく笑う。
その笑みが愛しくて、彼の両手が彼女の頬を覆う。彼が見つめると、彼女は目を閉じた。
頬に触れた指先一本で彼女の柔らかな唇をはじくと、彼女は口を僅かに開いた。そして彼はそのままで唇を合わせていく。
最初は軽く、何度も唇を重ねる。そして徐々に深く、角度を変え、彼女の舌に自分のそれを絡めていく。彼女の口の端からはぁと息が漏れると、それも食い尽くすように、開いた端に唇を被らせる。
キスをしたままで、彼が指を彼女のうなじへ滑らせると、んんっと喉を鳴らせた。
ようやく唇を離して、息の上がった彼女の口角についた唾液を、彼が指で拭き取った。そして力の入らない彼女の体を抱きかかえて2階の彼女の部屋へと行く。
聞かずとも、家の中はもうわかっている。住んでいるかのように、隅々まで覚えている。
ベッドの上に彼女の体を横たえ、自身もベッドの上に膝をついて体重を乗せる。ギシリと鳴ったスプリングに、彼女がうっすらと目を開いた。
潤ませた目で彼を見て、彼女がこくりと頷く。
彼が彼女のブラウスのボタンを一つずつ外していく。外す度にあらわになっていく肌に、その都度そこにキスを落としていく。
「んっ」
彼女の声を聞きながら、壊れ物を触るようにそっと彼女のまだ成長しきっていない胸を隠したブラジャーの中へ指を滑り込ませた。
「ひぁ! んぁ」
指先一本が下着の中で、自分しか触れたことのない乳首を刺激する。その感覚に彼女が体をよじらせた。
彼女の背とベッドにわずかに出来た空間へ、彼は片手をすべりこませ、ブラジャーのホックを外す。そして同時に、まだ彼女の乳首で戯れていた手でブラジャーを彼女から一気に引き剥がした。
一瞬の間を置いて、小さい悲鳴とともに彼女の両腕が胸を隠そうと動いた。が、彼はそれを押しとどめ、舌で転がすように彼女の乳首を刺激した。
「ア……ん」
いやいやと頭を振りながらも、彼の頭を両手で抱えて、彼女の指が彼の伸びかけた髪をくしゃくしゃと乱していく。
色白い喉をのけぞらせたむこうに見える彼女の上気した表情を、ちらりと見て、彼は彼女のスカートを下ろした。
「恥ずかしい」
呟いた彼女の唇を、彼が再び塞いで舌をねじ込む。荒く、深く、キスを繰り返しながら、彼女の小さな布地のショーツ越しに双丘に触れた。
「や」
拒絶の言葉とは裏腹な彼女の甘い声が合図だったように、彼の手はショーツの中へと侵入する。
指先に感じるのは、わずかに濡れた彼女の秘所。指を第一関節まで入れるが、それだけでキツい。少しずつ動し、徐々に潤いをもたらしていく。
「う、ん、やぁん」
ぴちゃりと音を立てたとき、彼女が羞恥と快感に腰を揺らせた。
彼は彼女のショーツをはぎとり、自身も衣服を脱ぎ捨てた。
彼女は彼をうっとりとした目で見上げる。Tシャツの下に隠れていたのは、しっかりと鍛えられた筋肉。
彼女の手を自分の怒張したモノへ誘い、触れさせた。驚いて彼女は一度手をひっこめるが、もう一度触れるとすぐに撫でるように手を動かし始める。
彼は彼女の潤い始めた箇所をかき回すように指を動かす。
「ひゃ、あん」
彼女が甘い声を漏らす。
彼は彼女の下半身へと体をずらして、今度は舌を差し込んだ。
「あああっ」
見られている恥ずかしさと、ほとばしる快感に彼女は漏れる声を防げない。
ぴちゃ、ぴちゃり。
音が彼女の耳に響く。が、それも彼女の快感を高めていく。
「ああっ ダメっ! あ、ああああ」
浅く息を吸い込んで、次に彼女は声をともに初めての絶頂を迎えた。
彼は彼女に休息を与えることはせず、熱を持った自身を迎える準備の整った箇所へとあてがい、ソレを彼女の蜜で濡らした。
「う、くぅ」
熱は彼女に再び官能的な喜びをもたらし始める。
「粧裕さん」
彼は彼女の耳元で呟き、そして一気に彼女を貫いた。
「いやぁぁぁ!」
破瓜の痛みが彼女を支配し、彼から逃れようと彼女の体がずりあがる。けれど、彼の両腕は彼女の肩をしっかりと抱え、逃げることなど許さない。
「粧裕、力を抜いてください。粧裕?」
彼女が涙に滲んだ目を開くと、彼女を慈しむ優しいまなざしが向けられている。
彼女は息を吐いて、体を精一杯リラックスさせた。
彼は彼女の首筋に顔をうずめて、彼女が準備できるまでそのままで待った。彼の呼吸が彼女の耳朶に触れ、彼女がゆっくりと、彼の背に両手を添える。
「竜崎さん……」
彼女の小さな呼びかけで、彼はゆっくりと動き始める。彼女の名前を呼び続け、彼女はそれに答えるように背に回した手に力を込めていく。
彼女の中で、痛みより、もどかしいような感覚が膨れ始める。それは次第に彼女を支配していき、快感へと変わっていった。
彼女が再び甘い吐息を吐き始め、彼は彼女の耳に、唇に、首へと舌を這わせる。彼女の右手を自分の背中から取り、握り合う。もう片方の手で彼女の頬を撫で続ける。
「ふぁ」
彼が激しく動くと、彼女が嬌声を上げる。
「粧裕、粧裕」
「やぁ、ああっ、ダメ! 変になっちゃう」
すすり泣くように彼女が懇願した。
彼は一層彼女を突き上げた。
「あああっ はぁ」
彼の背中をかきむしる彼女の左手を取り、シーツの上に流れた彼女の黒髪の上で、両手をふたりで繋いだ。
「粧裕、いきますよ」
自身にも突きあがる快感に彼は目を細めて彼女を見た。そして、彼の動きが大きくなる。
「ひぁぁ ああああああ んんんっ」
彼女の腰が浮き上がり、そして二度目の絶頂を彼と同時に迎えた。
意識を失ったように目を瞑ったままの粧裕の頬を撫で、Lは彼女を両腕に納めてベッドの上に体を横たえた。
目を閉じると彼もまた、意識を眠りの底へと落とした。
先に目を覚ましたのはLだった。
窓に目をやると、既に外は暗くなっているらしく、カーテン越しに街灯がちらちらと光って見える。
彼女の額を指でなで上げ、落ちている前髪を押し上げた。
「ん……」
ゆっくりと開けようとした彼女の瞼に、彼が口付けすると、彼女の意識は完全に覚醒した。すぐ前にある彼の笑った顔に、彼女は耳まで真っ赤にさせる。
「一杯泣かされちゃった」
目をこすりながら、彼女は恥ずかしさから逃れようと、彼の胸を押しやった。彼は名残おしげに彼女の背をひと撫でして、腕の力を緩める。
「瞼、真っ赤です」
「ぎゃっ! 見ないで」
「お風呂で胸が小さいと呟いてるのも見ました」
指を咥えて、にやりと笑いながら彼が言うと、粧裕は唇を尖らせた。
「捜査の一環でのことを私生活に持ち込まない。事件捜査の鉄則でしょ?」
総一郎の口癖をそのままLに言う。
「そうでした」
悪びれず、彼が言うと粧裕は指を彼に突きつけた。
「泣かされたお詫びしてクダサイ」
「なんですか? 本名を言えというのは無しです。私はまだ殺されたくありませんから」
どこで名前が漏れてキラに殺されるかなど、わからない。それは避けねばならない。それこそ、私情を挟んではいけない、今は最上の鉄則。
「言いませーん」
鼻をすんっと啜ると、彼女はシーツを体にまきつけてベッドから起き上がった。床に散らばったスカートのポケットに手をつっこみ、携帯電話を取り出す。
「じゃーん! これ、聞いて」
彼女がボタンを押すと流れだした着メロに、彼は体をかくすこともせずにベッドの上に座ると、彼女の方が目のやり場に困って視線を泳がせた。そして、意を決したように、もう一度彼を見た。
「携帯の番号教えてクダサイ」
「はい?」
「我侭、一つだけ聞いて、ね?」
首をかしげて言う彼女に、彼が逆らえるはずはない。Lであり、彼女が慕う兄を断罪するかもしれない者であり、彼女の生活を覗き見した。その彼をなおも受け入れ、傍に居ていいと言う彼女の一つだけの我侭。聞かないわけにはいかない。
「アリガトウ」
小さく呟くような感謝の言葉と、彼女の満面の微笑みは、彼にも笑みをもたらした。が、彼はすぐに笑みを消し、彼女の手の中の携帯電話を摘まみあげた。
「ですが、どうしてそのダースベーダーのテーマが私の番号の着メロ指定になるんですか?」
「いいの、いいの」
いや、よくないです、と彼が言うのと、彼女が携帯を奪い取るのは同時。
「粧裕さん、本当は私のこと嫌いなんですか?」
指を咥えて彼女を見る。
「エエ、嫌イデス」
わざと片言で言う彼女を彼は再び腕の中に閉じ込める。
「そういえば、英語の小テストですが、わざと点数を落としましたね?」
彼女の体が彼の腕の中で強張る。
「推理しましょう。前の小テストでは、72点でした。今回は86点です。粧裕さんが回答用紙が戻ってきてから答えを書き直さなければ、100点でした。つまり、わざと100点を取らなかったのです」
「そんな推理しなくていいの! そんなの探偵の仕事じゃないよ」
彼の腕から逃れようと、僅かに抵抗する。が、本気ではないらしく、そのままで彼の温かい胸に額をくっつけた。
「72点から86点への伸びは褒められるものです。100点ではもっと褒められるものでしょう。ですが、100点では、次に点数を伸ばしてもっと褒められることはないですね」
つまるところ、小刻みに点数を伸ばし、彼に勉強を見続けてもらうことが目的なのだ、と彼が推理してみせる。
「だって……」
言い訳しようとする言葉が彼の推理を断定へと変える。
「やっぱりバカです。そんなことをしなくても、いくらでも褒めてあげます」
唇を尖らせた彼女の頭をゆっくりと、彼の指が撫でながら、彼女の耳に口を近づける。
「私なら、最初から間違えた答えを書きます。やっぱり、粧裕さんはバカです」
耳元に囁くと、彼女が再びぎゃっと短く悲鳴を上げた。
彼が帰った後、痛む腰と体の中心と、心地良いけだるさの中、彼女はシーツを取り替え洗濯をした。
けれども、彼の汗を吸った枕カバーはそのままにして、抱きかかえて部屋の中央に座る。
「ん。竜崎さんの匂い。一緒にいるみたい」
枕に頬をすり寄せ、彼女は枕をぎゅぅと抱きしめた。
****
体に残っていた痛みが消えるのを、粧裕はわずかに切なく感じた。けれども、それ以上に感じる幸せがる。
相変わらず約束など一切せずに、毎日会う。会って話し、そして夜には彼からかかってくる電話で短いやりとりをする。それで心が温かくなる。
一人のときにはLがキラに殺される可能性に怯え、キラが兄なら、自分はどうすべきなのか。色々と考えこんでしまう。
そんなときでも、Lの骨ばった手が自分の頭を撫でる感触と、優しく頬に触れた彼の唇を思い出すと、口元をほころばせる。
「ちょっと、聞いてる? 粧裕ってば。何にやにやしてんの?!」
彼のことを思い出して、にやけていた粧裕が驚いて顔をあげると、友人がにひひと笑いながら彼女を見ていた。
「あんた、彼氏でもできたんじゃないのー? で、彼のこと考えてにやけてたんでしょ?」
図星をさされて、粧裕はあわてて両手を振って否定する。
「そんなこと、ないよ。うん、ない」
Lとのことは家族にも秘密にしなければいけない。それは彼をキラから守るためでもあり、そして自分を守るためでもあると納得している。
「ふうん。って、話聞いてなかったでしょ?」
友人がそれ以上の興味を示さなかったことに安堵し、粧裕は両手を合わせて謝った。
「ごめん。何?」
「もう、ほら。あそこに座ってる男の子。カッコよくない?」
指差された方を見ると、見栄えの良い高校生が一人、喫茶店の窓越しに座っている。
粧裕は少し首をかしげてから、友人を見た。
「そう、かな?」
「かなって、粧裕の好みってわかんないー」
「そう?」
自分の好みなんて気にしたことはなかった。そもそも友人が皆誰がカッコイイというのもよくわからない。いや、わかるが、それはアイドルなどのテレビで見る人間に限られてくる。
「そうだよ。どういうタイプが好みなわけ?」
「んーと……」
宙に視線を漂わせてから、もう一度友人を見る。
「背は高いけど、ちょっと猫背、かな。顔は笑うとかわいい感じ。それで、髪の毛なんて気にしてなくてボサボサみたいなんだけど、でも、実は気にしてたりして。
甘い物が好きで、一緒にケーキとか食べてくれる。それから、すごく頭のいい人」
思い浮かぶのは、Lのことだけ。彼を思い浮かべて並べ立てると、それだけで満面の笑みが浮かぶ。
「やけに具体的ね。やっぱり、彼氏、出来たわけ?」
「ち、違うって」
「だって、前は即答で『お兄ちゃんみたいな人』って言ってたわよ」
「そ、そう?」
言われてみれば、以前は兄が理想だった。というよりも、兄が一番好きだったのかもしれない。一番近くにいて、優しく接してくれて、彼女の自慢の兄。好きにならないはずがない。
「でも、お兄ちゃんはお兄ちゃんだもん」
そう呟くよりも、友人の方が先に興味を失ったらしく、ま、いいけどねー、と言われた。
溜息をつくと、友人との分かれ道に差し掛かる。
「また、明日ねー」
手を振る友人に、粧裕も片手を上げて振り帰して、自分の帰路に目を向けた。
「粧裕さん」
唐突に、後ろから声をかけられ、振り返ると、Lが立っている。
「竜崎さん」
嬉しそうに粧裕が呼び返す。
人差し指を咥えた彼が、走っていく友人の背に視線を向け、そして粧裕を見る。
「粧裕さんの好みのタイプは私に似てます」
「ぎゃっ! どこから聞いてるのぉ」
似ているどころか本人です、と言いそうになるのを、彼女はやめて、彼をまじまじと見つめる。
「わたし、怒ってるんですから、話しかけないでくださいねーっだ!」
べーっと舌を突き出した彼女を前にしても、彼は指を咥えたままで、じっと彼女を見つめる。考えを推し量るように見られると、彼女は居心地が悪くなり、俯いた。
「なんですか?」
「昨日、ミサさんと携帯でおしゃべりしたの」
「弥と、ですか」
歩きながら、彼女は彼をちらちらと見る。彼は別に何も彼女を怒らせるに至ることを舌覚えはないらしく、悪びれた様子も見せない。
彼女も本気で怒っているわけではないから、大して気にはならない。が、かといって、一言くらいは言ってやりたい気持ちで一杯。だから、彼女は黙って下を向いたまま歩き続ける。
二人は何も言わずとも、いつも会う公園へと自然と足を向けた。当然のように向かう先は、木の下にあるベンチ。道からは藪にはばまれ隠れたようになっていて、人目が少ない。
ベンチに腰をかけても、二人は黙ったまま。
落ち着かずに話しだしたのは、粧裕だった。
「ミサさんにほっぺにキスされて『好きになりますよ?』って言ったでしょう?」
頬をぷうと膨らませて言う彼女に彼はニンマリと笑う。彼女の考えていることが自分の思った通りだという喜びと、彼女の気持ちを感じた幸福とで、彼は笑いを隠せない。
「ヤキモチですね」
「違うもん!」
唇を突き出して彼女が言うが説得力は全くない。
「ヤキモチじゃなかったら、何ですか?」
「……違うもん」
段々小さくなる声でそう言うと、彼女は彼をキッと睨んだ。これは既に彼の予想とは外れている。本当に彼女といると、自分の推測はあてにならない、と彼は楽しくなる。
それから、彼女の唇が彼の頬に近づいて、一瞬触れて、そして離れた。
「わたしだって、ほっぺにキスしたい……ンデス」
顔を真っ赤にして、恥ずかしさに目を潤ませる彼女の表情に、彼は両腕に抱き込んでいた自分の足を下ろし、彼女を正面に捕らえた。そして、彼女の腕を取る。
彼女の行動に驚きはしたが、すぐにその応酬に出た。
「一回は一回です」
ぐいっと引き寄せ、彼女の額にキスをする。彼女と同じ目線見つめあい、彼女の鼻先に自分の鼻を寄せた。きゅっときつく目を瞑った彼女を見て、彼はゆっくりと腕の力を抜いた。
「なんか、ずるい」
「でも、一回は、一回ですよ」
無理矢理納得させられた気もしたが、困らせるのも、困らせられるのも、嫌である。彼女はうなづいて、額に手を当てた。彼の唇の感触はまだ残っている。
これがなくならなければいいのに。そう願ってしまう。
彼女に笑みが戻るのを見て、Lは再び膝を抱えた。
「粧裕さん」
「竜崎さん?」
「キラを捕らえる一歩手前まできました」
「え? お……にぃ―――」
「月くんではありません」
が、以前のキラではないと考えている、と詳細は省いて彼が説明する。そして、その後の展開予測を彼が語りだす。彼は表情を消し、親指を噛みながら、淡々とした口調で続けていく。
「『今』のキラを捕まえた後、『最初』のキラと私は再び戦うことになります。そして、それが私の最後の戦いになるかもしれません」
「どう、いう……?」
彼は彼女を見た。
「私が死ぬかもしれない、ということです」
「……どうして?」
「あるいは……今度こそキラを捕えるかもしれません。確率が五分五分でしょう」
彼が死ぬという確率が半分もあるという言葉。額にあてた彼女の手が、彼に伸びた。彼のTシャツの袖を弱弱しく掴む。震える指の振動は、彼にも伝わるほど大きい。
彼女が動転することをわかっていながら、話をする自分が嫌いになる。だからこそ、話をしなければいけない。そうも彼は考えた。
「ですから、生き残ったら、私はLを引退しようと思っています。すぐに、とはいかないでしょうが、4年もすれば十分でしょう」
「引退して、どうするの?」
彼を見上げる彼女の瞳は既に涙で濡れている。
また、泣かせてしまった、と思いながらも、こうするしか彼には思い浮かばなかった。
「その後は、自由な時間を持てます」
「でも、そうじゃなかったら……」
竜崎さんはいなくなる、と言いかけた言葉を彼女は飲み込んだ。言葉にするのも怖くなる。一人きりのときに、ぽかりと浮かんだ恐怖が、彼を前にして再び頭を掠める。袖を掴んだ指に力がはいり、白くなる。
竜崎はそれを見て、なおも言葉を続ける。
「粧裕さん、これから外出は出来るだけしないようにします。だから―――」
会えなくなる、と最後まで言う前に、彼女が彼の口を手で覆った。
「わたし、バカだから、わかんないから。だから、キラを捕まえてまた会ってくれるって、約束、して? それしか、わかんないから」
大粒の涙をぽろぽろと零した彼女の手を取り、彼は彼女を抱きしめた。
「あなたはバカじゃありません。私を、周りを幸せにする天才です。ですから、私が戻らなくても―――」
笑っていてください。
泣かないでください。
どうか、幸せに。必ず幸せになってください。
彼女の髪に顔を埋め、囁く。何度も、何度も繰り返した。
「やっ……じゃあ、電話、して、ね?」
鼻を啜りながら懇願した彼女の願いを、彼が僅かに頭を振って拒絶した。
「メール、は?」
喘ぐように浅い呼吸を繰り返して、彼女が聞く。それをも彼はできないと答えた。
「竜崎さんがっ……ちゃんと、無事か、どうか……わかんない、じゃないっ」
彼にしがみついて、泣いて、困らせて。こんなことをして、何が変わるというわけでもないことを知りながら、そうするしか彼女は出来ない。
「一定時間操作しないと粧裕さんにメールが届くようにしておきます。届いたら、私はもう居ないということです」
「そんなっ」
彼を見上げた彼女の額に、彼は口付けし、そして彼女を両腕から離す。
「家まで送りません。どうか、お元気で」
必ず、きっと、幸せになってください。
そう耳元で囁き、いつものようにポケットに両手を入れて、いつもの飄々と歩いて行く。
「幸せなんて、竜崎さんがいないと、ないんだよ!!」
背中に向かって叫んでも、彼は振り向かない。
「ふぇ……」
泣いても、彼は戻ってこない。頭を撫でる指ももうない。いつ戻るのかもわからない。
彼女は携帯を取り出し、彼に電話をする。電話をしたら、戻ってくるかもしれないと期待をして。
それなのに、かけた電話はすでに解約されていた。
「最初から、今日、お話するつもり、だったの……?」
携帯を胸に抱いて、彼女は一人でむせび泣いた。
*****
月がキラである可能性は5%とLは粧裕に言った。が、彼の中では月=キラは90%以上になっている。ただ、それを証明できないから、彼を捜査に加え、そして監視し続けている。
火口を捕獲しようとし、死んだ。キラがやったとしか考えられない。
こうなると、やはりキラは復活し、おそらくは、自分を殺そうとするのは間違いない。そう考えると、粧裕に伝えられるだけを話しておいたのは、やはり正解だった。そう思いながら、今はもう使わない携帯電話を見た。
そして、考え直す。
自分が生き残り、必ず、彼女を守っていく。それが今の願いであり、彼女の笑みが今の希望。
死神などというふざけた存在など、彼には関係ない。キラを捕まえ、そして、彼女と共にある時間を、Lとしてでなく一個人として過ごすこと。それだけだ。
携帯をポケットにつっこんで、彼はノートを指で摘みあげた。
「死神はりんごしか食べませんか?」
目の前にいる死神に、彼は質問を再び投げ始めた。
家に帰ると粧裕はすぐに部屋に入って一人になる。制服のスカートのポケットにいつも入れている携帯電話を取り出して、もう癖になってしまったように、Lの電話番号を押し、繋がらないことにまた落胆する。
けれど、彼と最後に会った日から、彼の言うところの「死の伝言メール」は届いていない。それだけが安堵の溜息をもたらす。
メールが来ないのは、彼が生きている証拠。もしかしたら、今日にでも「キラを捕まえました」と携帯電話に飄々とした口調で連絡がくるかもしれない。そう思うと、夜も電話を握ったままで寝るようになる。
月がキラだった場合、そしてLが月を逮捕した場合の覚悟も、もう出来ている。世間から非難されるだろう。父は辞職するだろう。それで当然だ。
しかし、自分はそんなときこそ、両親を支え、兄を支えることができるんじゃないだろうか。できないか、できるか、ではなく、そうするのが自分なのだ。そう結論に至っていた。
「ねえ、竜崎さん、だから早く、戻ってきて。ね?」
携帯電話に語りかけ、窓の外で傾き始めた夕日を眩しそうに見た。
「どうした、ワタリ?」
向かっていたコンピューターからガシャンという音が聞こえ、Lはワタリに問いかけた。もう一度、何かが壊れる音がスピーカーを通して聞こえ、画面にはデータ消去と表示された。
それは自身に何かがあれば全データを消去しろというLの指示に沿ったワタリの行動。
Lは椅子の上に座りなおし、推理しなおす。そしてすぐに死神へと考えは繋がった。
「皆さん、しにが―――」
急激な心臓への痛みに、彼は体をゆらりとさせた。
目の前が白くなる。
瞬間、思い浮かんだのは、粧裕の笑顔。白い制服のブラウスがまぶしかった。泣き顔も見た。怒った表情も愛しかった。彼の腕の中で喘いだ彼女は、狂おしいほど可愛らしかった。
すべてが、彼女の周りの空気もが、彼女のに優しく、美しかった。
床に倒れこむ瞬間、月が彼の体を受け止めた。
目の焦点が月に一瞬合った。月の浮かべた、口を歪ませ笑む表情を見る。その向こうに、泣き出している粧裕が見える。
やはり、夜神月がキラだったのだ。彼の自己の考えが90%から100%に変わった瞬間。
私は間違っていなかった。が、待っているだろう粧裕をやはり泣かせることになるのだ。
粧裕、どうか、泣かないで。いつまでも笑っていて。どうか、幸せに。私が守れなくても、粧裕なら、きっと幸せになれるから。
ゆっくりと閉じられた瞼の裏には粧裕がまっすぐに彼を見る姿がある。
昨晩から、なんだか胸がざわついて眠れなかった。眠いはずなのに、朝からまた胸がどきどきし、落ち着かない。
こういうのを、嫌な予感というのだろうか。つい悪い方向に考えてしまう、と自分を戒め、授業中にポケットに手を入れ、携帯電話を握り締めた。瞬間、携帯電話が震えた。
まさか。
そう思った。
携帯をこっそり取り出し、立てた教科書を陰でメールを見た。
L went for a burton.
短い一文が表示されている。
彼女は携帯を握り締め、立ち上がった。
「先生、気分が悪いので……早退します」
そして教室を出て、走り出した。
まだ、泣いてはダメ。人のいないところまで、待たなくちゃ。彼とのことは、全部誰にも、家族にも秘密にするよに言われているのに。
そう思いつつ、涙はもう止まらない。
「うっ……くっ……」
走りながらも、彼の笑った顔を思い出した。
「ううっ」
家まで走り続け、鍵を開けて2階の部屋へ走りこむ。
ドアに背をあて、携帯を握り締める。
もう一度見ても、彼の死を告げる言葉がそこにある。
図書館で英語を教えてもらったとき、彼が言った。
「dieというのは直接的な表現で、イギリスだとgo for a burton という俗語があります」
「竜崎さんはイギリスの人?」
「違います」
本当のことを言ったのか、嘘だったのか、今はもう聞くことさえ叶わない。
自身の死を他人のことのように伝えてきた彼のメールは、彼が命を賭してキラと戦っていたのだと物語る。
「りゅぅ……」
声は出ない。涙が出るだけ。
初めて好きになった人。一番自分を泣かせた人。一番心を温かくしてくれた人。初めて自分に触れ、初めて自分が触れた人。一番、大好きな人。
その彼はもういない。
彼の本名も、いつ死んだのかもわからない。どこで、何をして、どうやって死んだのか。
「う……」
息が詰まる。苦しくなる。
背中をドアにつけたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
この苦しさの中で、自分も死ねば、Lに会えるのだろうか。そう思ってしまう。
笑っていてください。
泣かないでください。
どうか、幸せに。必ず幸せになってください。
最後に会ったときの彼の言葉が蘇る。
「竜崎さんがいることが、わたしの幸せなのに? 嘘つき、嘘つき!」
携帯をベッドに投げつけた。
「最後におでこにキスして……一回は、一回だって言ったのは竜崎さんなのに? わたしはまだ、一回返してないのに?」
我侭を言えば、彼から電話がかかってくるような気さえする。けれども、携帯が鳴ることはない。
のろのろと立ち上がり、クローゼットの中に大切にしまいこんだピローケースを取り出す。抱きしめると、まだLの匂いがしてくる気がする。
「竜崎さん……」
自分の涙で布を濡らさないように注意しながら、頬にあてた。
ベッドに腰を下ろし、ピローケースと携帯を膝の上に並べると、彼が笑って「バカですね」と言う声が聞こえるような気がした。
「はい、バカです。だから、竜崎さんがいないとダメなの」
一人で答えを返し、携帯を指でなぞる。
「竜崎さんと繋がるもの、これだけしかないんだ。ホント、バカだね、わたし」
携帯の上にぽたぽたと涙を零しながら、彼女は唇をかみ締め、微笑んだ。
数年後、粧裕は大学生になっていた。いつものように大学に行き、家に帰る。
珍しく、兄と兄の恋人のミサが揃って家に来ていた。
見慣れない顔もある。
「松田さん? でしたよね。お久しぶりです」
腰をかがめてお辞儀した拍子に、バッグの外側に取り付けた携帯電話が落ちた。
「あ」
粧裕より先に松田が携帯電話を拾い上げる。
「はい」
差し出して、松田は彼女の上着のポケットから出ている携帯ストラップに目を留めた。
「粧裕ちゃん、携帯二つ使ってるの?」
「え?」
粧裕が胸のポケットに手を当てた。
「ああ、これはお守りなんです。ずっと、中学の時から、もう……ずっと、一生」
にこりと微笑んで、松田から携帯を受け取った。
話もそこそこにして、リビングを彼女は抜け出した。
自室のドアを閉め、机の引き出しを開けると、ピローケースがきちんと折りたたまれてはいっている。
ピローケースを取り出し、その上に今はもう使われていない携帯電話をポケットから取り出して置く。
いつものように、それらを指で触れ、そして彼の声を思い出す。
笑っていてください。
泣かないでください。
どうか、幸せに。必ず幸せになってください。
「うん。でも、竜崎さんとの幸せ以上があれば、だよね」
机の上の携帯とピローケースを愛しそうに眺めて彼女は答えた。