その唐突な申し出に、竜崎は思わず振り返った。  
飲んでいた紅茶を一旦机におき、手錠ごしに繋がった、今やすっかり容疑者兼助手となった青年の方へ体を向けると、意地悪くもう一度聞き返す。  
 
「今、何といいましたか?もう一度言ってください。月君。」  
「・・・・少しの間でいいから・・・手錠を、外して欲しい・・・・・。」  
「できません。私だってしたくてしているわけではありません。」  
「それは何度も聞いたよ。」  
「では何度も言わせないで下さい。手錠は外せません。」  
 
その返事に、月は反論もせずに唇をかみ締めた。  
それは半ば予想していた答えであっただろうが、しかしだからと言って矢張りそうかとすんなり諦める事も出来ないようだ。  
怒ったような、困ったような、何とも微妙な表情で無言で月は俯いている。  
 
「どうしたんですか?急に。月君らしくありませんね。」  
「・・・・僕らしくない?僕はずっとこの手錠を外したくてたまらなかったよ。」  
「見込みもないおねだりをしてくる所が月君らしくないという意味です。」  
 
竜崎が思わず不躾に月の顔を覗きこむと、月は居心地悪そうに視線を逸らす。  
常に堂々としている月らしからぬその煮え切らない態度に、何やら好奇心を刺激され、竜崎は思わず身を乗り出した。口調が自然尋問調になる。  
 
「何か理由があるのでしょう?」  
「・・・お前には言っても無駄だ・・・・。」  
「理由によっては考えますよ。言ってみて下さい。」  
「いい・・・・・・・・。」  
「言えないんですか?」  
「・・・・・・。」  
「言えない様な理由なんですか?」  
 
竜崎が訝しむようにそう言うと、俯いていた月がむっとしたように顔を上げた。  
微かに頬を赤らめ竜崎を睨み付けたまま、憮然とした表情で吐き棄てる。  
 
「・・・・抜きたいんだよ・・・・。」  
 
「・・・それはつまり、自慰がしたいと、そういうことですか?」  
「・・・・・。」  
「恥ずかしがる事はありません。健康的な18歳男子なら普通です。」  
「・・・・じゃあ、手錠を・・・・。」  
「ああ、それは駄目です。そんな理由で手錠は外せません。」  
「・・・竜崎・・・・。」  
「ああ、何も我慢しろとは言いません。私の事は気にせずに処理して下さって結構ですよ。」  
「出来るかっ!!」  
「・・・・出来ませんか?」  
「生憎男に見られながらそういう事をする趣味はないっ!!」  
「・・・・月君も結構我侭ですねえ・・・・。」  
「・・・我侭、だと・・・・?」  
 
あまりに勝手な竜崎の言い草に、羞恥と怒りのあまり月は言葉も出ない。 絶句する月の顔をみながら、竜崎は首を傾げる。  
 
「だって月君は今までだって散々プライバシーを無視されていたじゃないですか。今更そんな事に恥ずかしがるなんて、何だか不思議です。」  
「一応プライバシーを侵害している自覚はあったんだな・・・・。」  
「まあ、一般的には盗撮も監視も拘束監禁も、犯罪スレスレの行為ですからね。」  
「スレスレじゃなくて犯罪だよ。」  
「私だってしたくてしたわけではありません。全てはキラ逮捕の為です。」  
「それはわかっているけど・・・・。」  
「なのに本部の者には引かれるわ、弥にまで変態と言われるわで散々でした。」  
「・・・まあ、そうだろうな。」  
「あ、ひどい。月君までそんな事言うんですか?私は自分の趣味でやっているわけでもないというのに、変態呼ばわりは非常に不本意です。・・・あ。」  
 
ふいに竜崎は言葉をとめて瞬きをした。  
突然宙を見据えたまま動かなくなった竜崎の顔を、月は訝しげに覗きこむ。  
 
「・・・どうした?竜崎。」  
「・・・・妙案を思いつきました。」  
「妙案?」  
「これなら誰もが満足できる。問題も解決する。まさに妙案です。」  
 
「・・・誰もが・・・?」  
 
月は何やらその言葉から不吉な予感を感じ取り、眉をしかめた。  
そんな月の様子などおかまいなしに、竜崎は妙にウキウキと辺りを見渡す。  
テーブルの上に目的のものを発見した竜崎は、素早く室内を移動した。  
つられて月も手錠ごと引っ張られる。  
竜崎は奇妙な手つきで受話器をつかむと、手早く番号を推した。  
 
「もしもし?私です。私たちの部屋まできてください。月君が大変なんです。」  
「なっ・・竜崎・・・・。」  
「セキュリティは解いておきますから、大至急お願いしますよ。」  
 
竜崎は用件だけ告げると、返事も聞かずに一方的に受話器を置く。  
いきなり自分の名前を出された月は、わけもわからず目を瞬かせた。  
 
「・・・今の、松田さん?」  
「いえ、弥です。」  
「ミサ?ミサを呼んだのか?ここに・・・・。」  
 
月は驚きのあまり、思わず聞き返した。竜崎とミサはお世辞にも相性がいいとは言い難く、いつも顔を合わせる度に子供のような口げんかを繰り広げている。  
容疑者という点をさっぴいても、人間的に受け付けないのだろう。  
普段から竜崎はミサとは必要最低限の接触しかせず傍目にも露骨に避けていた。  
そのミサを、竜崎自ら呼び出したというのだから、月が驚くのも無理はない。  
 
「どうしてまた・・・・。」  
「それは勿論、弥がこの計画に必要だからですよ。」  
「・・さっきから気になっていたんだが、その妙案とか計画って一体何なんだ?」  
「・・・・わかりませんか?月君にしては鈍いですね。」  
「買いかぶってくれるのは有難いけど、あいにく僕は常識人なんだ。」  
「何やら引っかかる物言いですが、わからないのなら仕方ないです。弥は月君のお相手として呼びました。」  
「・・・・・は?」  
「月君だって一人で処理するよりも、女性相手に発散する方が良いでしょう?私だってどうせならその方が見ていて楽しいですしね。」  
 
 
全く・・・どうして私があんな奴の呼び出しに応じなきゃいけないのよ。  
 
エレベーターに乗り込みながら、ミサは忌々しげに心中そう吐き捨てた。  
ミサは竜崎が嫌いだった。  
初対面の時に、「ファンです」などと抜け抜けと名乗っておきながら、結局それが全て芝居だったというのがまず気に食わないし、何といっても分けのわからぬまま拘束監禁された恨みもある。  
たまに会えば露骨にミサを邪険にし、ぞんざいに扱うのも許しがたい。  
そして最大に不愉快なのは愛しの月を手錠で24時間拘束している事だ。  
24時間常に月と一緒に居るのである。当然食事もお風呂も寝るのも一緒。  
月と会える時間すら制限されているミサと、何たる違いであろうか。羨ましいやら邪魔で疎ましいやらで何だか泣けてくる。  
この世で最も愛しい男性と最も忌々しい男性がセットになっているというシュールな運命を、ミサは呪わずにはいられなかった。  
 
それにしても・・・一体どうしたんだろう・・・。  
 
ミサは竜崎を嫌っているが、竜崎もまたミサを嫌っていた。  
竜崎は、時々月目当てで二人の部屋へミサが押しかけたりすると、不快気に顔を顰め、露骨に邪魔者扱いするような大人げのない男である。  
その竜崎がミサを誘うだなんて、怪しいとしかいいようがない。  
そもそも月に何かあったのなら竜崎はミサではなく捜査本部に連絡するだろう。ミサに連絡をよこすのは最後なはずだ。いや、連絡すらしないかもしれない。  
全てが解決された後に、実はこんな事があったんですよ、などとお茶でも飲みながら抜け抜けと語る、というのが一番ありえそうな話である。  
どう考えても、竜崎がミサを呼びだすのはおかしい。あの男がミサを当てにするなんて事は決してないはずだ。思わず何か裏があるのでは、と思わずミサが勘繰りたくなるのも無理のない話しである。  
しかし、いくら不審かつ不愉快な呼び出し(説明もなければ返事も聞かない一方的な電話だった。)だからといって、月が大変などと言われては、ミサとしても無視するわけにもいかなかった。  
 
・・・ああもう考えてもしょうがない。  
 
エレベーターが月達の部屋の階で止まる。  
ミサは深呼吸をすると、覚悟を決めて月と竜崎が暮らす部屋を目指した。  
 
決死の覚悟でインターフォンをおしたというのに、室内からは一向に何の反応もなく、しばらくそのまま待っていても、誰も出てこない。  
 
何なのよ一体・・・・。人を呼び出しておいて・・・・。  
 
内心苛々しながら、仕方なくミサはドアノブに手をかける。  
セキュリティは解除しておく、という竜崎の言葉は嘘ではなかったようで、鍵はかかっていなかった。  
 
「お邪魔しま・・・・きゃっ。」  
 
ミサが勢いよく勝手に扉を開けたその瞬間、扉の隙間ごしに誰かと目が合った。  
驚きのあまり後方に引っくり返りそうになったミサの手首を、扉の隙間から伸びてきた骨ばった手が掴み、ぐいっと引き寄せる。  
 
「なっ・・・ちょっ・・・・。」  
「待ってました。さ、中にどうぞ。」  
 
非常に聞き覚えのある声だった。竜崎の声だ。  
ミサがそう認識した瞬間、扉が開き、そのまま強引に中に引き摺りこまれた。  
 
「ちょっと取り込んでおりまして。出迎えが遅れてすみませんでした。」  
 
竜崎はそういうと、ミサの手首を片手でつかんだまま、もう片方の手で中から用心深く扉の鍵を閉めた。  
ミサは竜崎の手を振り払うと、掴まれていた手首を押さえる。  
その乱暴な扱いに抗議をしようと顔を上げたミサだが、隣の竜崎の姿を見た途端言葉を失った。  
 
な・・・・ど・・・どういう事???  
 
竜崎の姿はボロボロだった。髪は乱れ、服は所々破れ、顔や体のあちこちには痛々しい痣がある。その様子は満身創痍といっていい。  
そのうえ、それ以上に驚きなのは、手首に何もしていない事だった。  
手錠をしていないのだ。当然、隣に月もいない。  
驚くミサに、竜崎はニヤリと笑ってみせた。  
 
「なっ・・・竜崎さん一体・・・どう・・・・ラ、月は?」  
「目の前で満身創痍の私より、この場に居ない月君の心配ですか。薄情ですね。」  
「・・・月が大変といって呼び出したのはあなたでしょ?」  
「失礼。あまりにもミサさんの反応が正直なものでつい。」  
 
竜崎はそう言って肩をすくめる。ミサはそんな竜崎を睨みつけた。  
 
「・・・竜崎さん・・・その格好はもしかして月と・・・・。」  
「少々意見の食い違いがありまして・・・。」  
「・・・また喧嘩したのね。」  
「まあ、見も蓋もない言い方をするとそういう事です。月君は外見に似合わず手が早いというか荒っぽいというか・・・・。」  
「・・・月はどこ?」  
「・・・心配せずとも奥の部屋でミサさんを待っていますよ。」  
「もしかして怪我でもして動けないとか?だから私を呼んだの?」  
 
ミサはため息をついた。月も竜崎も、存外に短気で負けず嫌いな面がある。  
殴る蹴るの喧嘩をミサの前でおっぱじめた事も一度や二度ではなかった。  
それに、そう考えると全て納得いく。手錠を外しているのもそのせいだろう。  
しかし竜崎はミサの問いに、惜しい、と言って首を振って見せた。  
 
「微妙に当たってて微妙に外れてますね。月君は怪我はしてませんが、動けない状態ではあります。それに喧嘩はミサさんに電話した後に起こりました。」  
「・・・どういう事?」  
「ミサさん、取引をしませんか?」  
 
竜崎は質問に答えず、身を乗り出してミサの顔を覗きこんできた。  
急に近づいてきた竜崎の顔に、ミサは恐怖を感じて思わず後退る。その拍子に背中が玄関にあたった。  
その時になって初めて、ミサは今自分が、自分の事を快く思っていない、そして目的のためなら女でも容赦しない男と二人きりなのだという事に思い至った。  
玄関に手をつき、警戒して身を強張らせるミサを竜崎は静かに見下ろす。  
その小馬鹿にした表情が癇に障って、ミサは竦みながらも竜崎を睨み付けた。  
壁を背に震えながら虚勢を張るミサの気丈さに、竜崎は思わず笑みを漏らす。  
 
「そう怯えずとも結構です。私は貴女に興味はない。襲ったりはしませんよ。」  
 
「お、怯えてなんか・・・。」  
「賭けをしましょう。貴女が今から月君を見事モノにしたら、今だけでなく、この手錠を外してもいい。」  
「月を・・・モノにする・・・?」  
「貴女にとっても悪い賭けではないでしょう。今の月君なら、一線を越えさえすれば必ず責任をとってくれますよ。」  
「な、何でそんな事あんたに・・・。」  
「いいんですか?今なら月君と私は手錠がはずれているし、ここなら監視カメラで見られる事もない。こんなチャンスは滅多にないですよ?」  
「・・・・・・か、賭けに負けたら・・・・?」  
「ほお。意外です。結構自信ないんですね。」  
「うるさいわね。とっとと言いなさいよ。」  
「態度のでかさが少し癇に障りますが、まあいいでしょう。負けたら、今後月君の事は一切諦めて下さい。デートもなしです。」  
「なっ・・・・何よそれ・・・・ちょっと厳しすぎない?」  
「賭けなんですから、その位のペナルティがなければ面白くないでしょう?」  
「それにしたって・・・・・。」  
「どのみちこの条件下でモノに出来ないのなら、見込みはありませんよ。」  
「・・・・あんた他人事だと思って・・・・。」  
「勿論他人事です。しかし、悪い賭けではないと思いますよ?こう言っては何ですが、月君も禁欲生活が長いですし、たまっているわけです。そこに手錠も監視もない状態で可愛い女性に迫られれば、イチコロだと私は思いますね。」  
「・・・何で竜崎さんはそんな賭けをやろうと思うの?メリットないじゃない。」  
「ミサさんにしては鋭いですね。」  
「またミサを馬鹿にして・・・・。」  
「まあ、あえて言うなら単なる退屈凌ぎですよ。最近どうもつまらないんで。」  
「・・・・キラ事件の捜査すればいいのに・・・・。」  
「その事はいいんですよ。それよりもどうするんですか?」  
 
ミサ思わず目を瞑った。この賭けにのるべきか、のらないべきか。  
確かに上手くいけば美味しい話なのは事実である。誘惑に成功すれば、晴れて月とは恋人同士となれるだけでなく、月と竜崎の邪魔な手錠もとれるのだ。  
しかし、そんなにあっさりとこの竜崎の話に乗ってしまっていいのだろうか?  
だが・・・・実際、これを逃したらこの先こんなチャンスは回ってこないだろう。  
 
「・・・・・わかったわ。その賭け、乗るわ・・・・・。」  
 
竜崎にこちらです、と言って通されたリビングルームを見た途端、あまりの惨状にミサは絶句した。  
部屋の中は凄まじい有様だった。観賞植物は倒れ、鏡は割られ、床の上にはティーカップの破片が散乱し、テーブルはひっくり返っている。高級そうな絨毯はこぼれた紅茶のせいで変色していた。  
 
「相変わらず・・・・男の子同士の喧嘩って凄い破壊力ね・・・・。」  
「月君は全く遠慮がなくて困ります。高かったんですよこの家具一式。」  
「・・・・竜崎さんだって遠慮しなかったんでしょう?」  
「私はいいんですよ。ここの金を出したのは全部私なんですから。」  
 
ミサはコメントを控えた。そんなミサの反応に、竜崎はおかまいなしだ。  
破片に気をつけて下さい、とだけ告げてひょいひょいと大股に奥へ進んでいく。スリッパを履けばいいのに、とミサは竜崎の裸足の足の裏をみながらぼんやりと考えた。  
慎重に破片や泥を避けながら、ミサはゆっくりと竜崎の後を追う。  
リビングを通り過ぎると、廊下にでる。トイレと浴室の扉が並んでいた。  
 
「月はどこにいるの?」  
「この奥にいます。」  
 
竜崎は廊下の奥にある扉を顎で示した。たぶん場所的には寝室だろう。  
この先の寝室に月がいる、そう考えた途端、ミサは頬が赤くなるのを自覚した。  
 
「発情するのはまだ早いですよ。」  
「は、発情ってあんた人を猫みたいに・・・・。」  
「人だって発情はするでしょう。静かにしないと月君が起きてしまいますよ?」  
「さっきから気になっていたんだけど・・・・月は・・・どうしているの?」  
「気を失ったので私がベッドに運びました。」  
「・・・・竜崎さん、月を昏倒させたのね・・・。」  
「そう非難がましい目で見ないで下さいよ。勝負とは非情なものなのです。」  
「月、喧嘩で負けちゃったのね・・・・可哀想・・・・。」  
「月君は確かに強いんですが、武道の試合かなんかと喧嘩を履き違えている節がありますね。正々堂々と戦おうとする青い所がある。それが敗因です。」  
「・・・・・ようするに、竜崎さんは卑怯な手で勝ったんだ・・・・。」  
「喧嘩にルールはないのです。卑怯も糞もありませんよ。」  
 
竜崎とぼそぼそと軽口を叩きながら寝室に一歩足を踏み入れたミサは、リビングの惨状を目の当たりにした時以上の衝撃を受けた。  
ショックのあまり、思わずその場にへなへなと座り込む。  
広い間取り。高級ホテルのような品良く贅をつくした調度品の中、キングサイズのベッドの上に、無造作に月が寝転がっている。  
月の風体も竜崎に負けず劣らず酷いものだった。髪は乱れ、シャツのボタンは吹っ飛び、手足は痣とすり傷だらけだ。切れた口元からは血が滲んでいる。  
しかし何よりもミサを仰天させたのは、ベッドの上で気を失っている月の両手首と両足首が、手錠で拘束されている事だった。  
竜崎は月の後頭部の辺りを手で触りながら、ああやっぱりと一人頷いている。  
 
「コブができていますね。取っ組み合いになって転がった時、頭をTVにぶつけてましたから。気を失ったのもその時です。」  
「りゅ・・・・竜崎さんあなた・・・・・あなたって人は・・・・て、手錠で月を・・・」  
「逃げられたり暴れられたりしたら困りますし。一応彼キラ容疑者なわけで。」  
「へ・・・変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態っ!!」  
「12回も言わないで下さい。私だってしたくてしているわけではありません。」  
「嘘っ!!絶っ対嘘っ!!」  
「人聞きの悪い事を・・・・。大体これはミサさんの為でもあるのですよ?」  
「な、なんで私の為なのよ・・・・。」  
「その方がミサさんにとっても有利かなあと思っただけですよ。月君もあれで結構お堅いですからね。手足でも拘束しておかないと中々難しいかと・・・・。」  
「ひ、人を強姦魔みたいに言わないでよ。大体竜崎さんのその携帯でメールでもするような気軽さ人を拘束しようとする癖どうにかした方がいいよ絶対。」  
「私は携帯でメールはしません。」  
「・・・・よくわかったわ。携帯のメール以上に竜崎さんにとって拘束は気軽な感覚なのね。」  
「私は今まで自分の趣味で人を拘束した事は一度たりとてありませんよ。」  
「趣味かどうかじゃなくて、その抵抗のなさが怖いのよ・・・・。」  
「そんなにご不満なら、月君の拘束を解いても別に構いませんよ。・・・はい。」  
 
竜崎はジーンズのポケットから小さな鍵を二つ取り出すと、ミサに手渡した。  
 
「手錠の鍵です。使うも使わないもどうぞご自由に。」  
「・・・・。」  
「結局使わないんでしょう?」  
「つ、使うわよ。」  
「ではそろそろ始めましょうか?ちなみに制限時間は二時間。それまでに月君をモノに出来たら、ミサさんの勝ちです。」  
「ええー。制限時間があるの?」  
「当然です。これはゲームなんですよ?」  
「わかったわよ・・・。」  
「軽い脳震盪ですから、月君も直に目覚めるでしょう。それまで待ってもよし。寝込みを襲うもよし。そこら辺はミサさんの判断におまかせします。」  
「・・・・・。」  
「では私はこれにて退出しますのでどうぞ頑張ってください。」  
 
そういってニヤリと意味深に笑うと、竜崎は寝室を後にした。  
 
 
竜崎が去った後、だだっ広い寝室にはミサと気を失った月だけが残された。  
その二人っきりという現実を、ミサはしみじみと噛み締める。  
常に月の傍に引っ付いていたあの不愉快な男はもういない。ミサ自身も煩わしい監視を今は解かれている。束の間のプライバシーの復活にミサは思わず心の中で快哉をあげた。人権の尊重は矢張り大切な事だ。  
 
あ、いけない・・・・つい浸ってしまったわ・・・。  
 
小さくガッツポーズを取っていた自分に気がつき、ミサははっと我に帰った。  
時間は限られているのだ。有効に過ごさねば。  
 
まずは・・・手足の拘束をとかなくちゃね・・・・。  
 
ミサはベッドの上に横座りすると、竜崎に手渡された鍵を取り出す。  
先に月を起こすべきか迷ったが、拘束された手足が痛々しいのでまずは手錠の解除を優先させる事にした。  
月の足首を縛っている手錠の鍵穴に入れると、カチャリと小さな音をたててロックは解除される。外れた手錠は鍵ごとそのままベッドの床に投げ捨てた。  
今度は両手首の拘束を解かんと、ミサは身を乗り出した。  
その反動で、微かにベッドが軋み、月の体がシーツの上で揺れる。ミサはベッドに顔を近づけると、月の顔を覗きこんだ。  
生傷だらけ、痣だらけの状態で、月はベッドの上に転がっている。  
そのボロボロな姿に、ミサは改めて怒りを覚えた。竜崎の方も傷を負っていたが、月の方がいたましく見えるのは、恋ゆえの身贔屓か、それとも負けたと知っている故の憐れみだろうか。  
特に唇の端が切れているのが何とも痛々しくて、ミサは思わず涙ぐむ。  
 
待っててね、月。今取ってあげるから・・・・。  
 
両手首は後ろ手に、月の腰の辺りで拘束されている。仰向けに寝ている月の体を、ミサはそっと横向きに反転させた。フカフカのシーツに、月の顔が埋まる。  
ミサが手錠に手を伸ばした瞬間、んん、という声が静かな室内に響いた。  
月から発されたであろう声に、思わずミサは伸ばした手を引っ込める。  
咄嗟に体を捩って顔を覗きこむと、月は微かに眉を顰め、瞼を震わせた。  
それまで死んだように身動ぎ一つしなかた月の体が小さく揺れる。  
あ、起きる、とミサが思ったのと、月の瞳がうっすらと開いたのは、ほぼ同時だった。  
 
キングサイズのベッドの上。両手を拘束された月と、そんな月を見下ろすミサ。  
 
こ、これじゃまるで私が月を襲っているみたいじゃない・・・・。  
 
寝込みを襲うもよし、と確かに竜崎は言っていたがミサの方にそんな気はない。  
動揺のあまりそのまま固まるミサを、月はぼんやりと見上げている。  
どうもまだ意識がはっきりしていないらしい。目の焦点が合っていない。  
 
「・・・・ら・・・月・・・・。」  
「ん・・・・。」  
 
視線を宙に彷徨わせたまま、ミサの声に上の空で返事をした月だが、声を出した事で少し我に帰ったらしい。  
次第に目の焦点が定まり、トロンと半開きだった瞳が大きく見開かれる。  
本来居るはずのないミサの姿を認識した月は、慌てて上体を起こそうと試みたが、バランスを失って再びベッドのシーツに体を沈めた。  
その振動でベッドがきしみ、ミサの上体もつられて揺れる。  
自由にならない両手に驚き、月は慌てて身を捩って自身の背中を覗き込む。  
どうやら自分の両手が後ろ手に拘束されている事を認識すると、月は目を見開いて絶句した。  
 
「月、落ち着いて・・・。」  
「なっ・・・ミサ・・・?これは・・・。」  
「えっと月が気を失っちゃったから、竜崎さんが寝室に月を運んだの。その、一応月はまだ容疑者だから・・取り合えず拘束しておかなきゃって事で・・・。」  
「僕が・・気を・・・失った・・・?」  
 
説明しながらミサ自身混乱してきて口ごもった。当然である。ミサ自身、竜崎の行動原理が理解できていないのだ。ここまでする必要が、果たしてあるのかとミサだって思う。  
一方の月は、ミサの言葉を反芻する内に記憶が戻ってきたらしい。  
何故自分がベッドに転がっているのか、どうして気を失ったかに思い至ったようだ。呆然とした表情が、みるみる険しいそれに変わっていく。  
 
「ようするに・・・僕は・・負けたのか・・・。」  
 
それってそんなに重要なことかなあ・・・問題はソコじゃないと思うんだけど・・・。  
 
悔しくて仕方ない、といった面持ちで憮然と呟く月の顔を、ミサは呆れたように眺めた。竜崎と月を見ていると、どんなに賢くとも、男というのは本当に子供っぽい生き物なのだとつくづくミサは実感する。  
しばらく唇を噛み締めていた月は、ふと何かに気が付いた様に顔をあげた。  
 
「・・・・そういえば・・・竜崎は?手錠がはずれているんだけど・・・。」  
「えっ?ああ・・・・・。」  
「それにどうしてミサがここに・・・・。」  
「・・・・・竜崎さんに呼ばれて・・・・。」  
「竜崎が?・・・・あっ・・・・。」  
 
不意に月は言葉を止めた。竜崎がミサを呼び出した理由に思い当たったようだ。  
急に頬を染めて口ごもる月に、ミサは少し驚いた。  
考えもしなかったが、もしかして、月は竜崎とミサの「賭け」の事を知っているのだろうか?竜崎は月の方にも同じ賭けを持ちかけていたのだろうか?  
だとしたら、その賭けにまんまと乗ったミサの事を、月はどう思うだろうか。  
はしたない、と軽蔑するだろうか。それともミサらしいと呆れるだろうか。  
心中密かに青ざめるミサをよそに、月は竜崎め、と呻く様にはき捨てると、おもむろにミサの方に体を向けた。軽くベッドがきしみ、二人の体が揺れる。  
ベッドの上で正座をし、姿勢を正すと、月は厳しい顔でミサに語りかけた。  
 
「ミサは・・どうしてここに呼ばれたか・・竜崎から・・・聞いている・・・?」  
「・・まあ・・・・。」  
「やっぱり・・・。その・・・ごめん・・・。」  
「あ、あたしは別に・・・・。」  
「そういう理由で呼び出すなんて・・凄く・・・失礼だよね・・・。」  
「え、いや・・・その・・・・。」  
「不愉快な思いをさせたらすまない。その・・・竜崎は少し・・いやだいぶこう常識離れしていて・・・外国暮らしが長かったからかな、日本人が美徳とする、恥じらいとか奥ゆかしさとかその・・・遠慮とかを持ち合わせていないんだ・・・。」  
 
月もだいぶ混乱しているようだ。言葉の選択がどこかおかしい。  
恥らう竜崎とか奥ゆかしい竜崎ってどんなよ、と一瞬突っ込みたい衝撃に駆られたが、結局ミサは何も言わずに頷いておいた。  
 
「竜崎は別に女性を蔑視しているわけではないんだ・・・単にそれが一番理に適っていると思っているらしくて、むしろ気を使ってくれているらしいんだが・・。  
僕達の様な普通の人間はそう合理的に割り切れないって事がどうにも竜崎にはわからないらしくて・・・。実は今回の喧嘩の理由もそれが原因なんだ・・・。  
まあ、勝負はどうやら僕的に不本意な形で終わったみたいけど・・・。」  
 
こうなった経緯を説明しつつ、竜崎の異常さ非常識さを非難しつつ、非難しつつもさり気なく庇い、庇いながらもそんな竜崎と自分が違うという事は強く主張しつつ、  
なおかつ喧嘩で負けた事には未だ悔しさを滲ませる・・・と忙しい事この上ない月の主張に耳を傾けながら、ミサはそっとため息をついた。  
何だか、この一連の出来事の本当の流れがようやく見えてきた様な気がする。  
コトの流れは要するにこうだ。  
何を思ったか竜崎は、長期間禁欲生活を強いられている月の性欲処理の相手と  
してミサを電話で呼び出し、その事でおそらく激昂した月と大乱闘になった。  
そして喧嘩に負けて伸びた月をベッドに運んだ後、ノコノコやってきたミサに、試しに賭けを持ちかけてみた・・・・・と、そんな所だろう。  
 
なるほどねぇ・・・。  
 
ミサは心中呻いた。竜崎の持ち出してきた賭けには、悪乗りとか暇つぶしというだけでは済ませない何かを感じたが、その真意が少し解った気がする。  
自分の親切心から出た提案に、喜ぶ所か怒り狂って鉄拳とともに拒否してきた月への、嫌がらせが多分に含まれていたのではないだろうか。  
賭けに勝ってミサが月をモノにすれば、「散々綺麗事をいっても所詮はやりたかったんじゃないですか。」と月をへこませる事が出来る。  
そして、仮にミサが賭けに負けた場合は、鬱陶しいミサの月へのラブコールを封じる事ができる。  
どっちに転んでも、竜崎にとってはそれなりに美味しい結果になるという訳だ。  
 
・・・・何か・・・・悔しい・・・・・。  
 
ミサは今更ながら、竜崎の傍若無人さに腹が立ってきた。そして、気がつけばそんな竜崎の思惑通りに動いている自分にもやりきれないものを感じる。  
 
「・・・ミサ、聞いている?」  
 
いつのまにか考え事に没頭していたミサは、不審気な月の問いに慌てて頷いた。  
 
「え?ああ聞いているわよ。」  
「ならいいけど・・・・僕はその・・・・・竜崎とは違うから。」  
「え?」  
「だから・・僕は性欲処理の対象として、女性を扱ったりはしないって事だよ。」  
 
頬を微かに紅潮させながらも、月はそうキッパリと言い放つ。  
その青臭くて潔癖な、いかにも月らしいお堅い発言にミサは心中呻いた。  
 
そうよ・・月はこういう男だったわ・・・。まずはこの難関をどうにかしないと・・。  
 
今は竜崎に怒っている場合ではない。それは後回しだ。問題は、目の前の月だ。  
月は真面目でストイックで、以前からミサのモーションにみじんも靡かない。  
そのつれなさは、言いたくは無いが、ホモかインポかと疑いたくなる程だ。  
色々あって危うく忘れかけていたが、その月をおとす事こそが、ミサの今回の最優先ミッションなのだ。  
ミサは一瞬目を閉じて深呼吸をした。落ち着かねば。失敗は許されない。  
ミサはもう賭けに乗ってしまった。今更後戻りは出来ない。今回月をモノにできなかったら、ミサは月を諦めなければならないのだ。  
覚悟を決めると、ミサは閉じた瞳をゆっくり開き、まっすぐ月の目を見つめた。  
小細工や駆け引きは苦手だし、月に通じるとも思えない。だから勝負は直球だ。  
 
「別にいいよ、私は。」  
「え?」  
「ミサは、相手が月なら全然構わないよ・・・月にとっては性欲処理でも。」  
「ばっ・・・な、何を言って・・・・。」  
「・・・月はミサの事嫌い?ミサ全然魅力ない?」  
「僕が言っているのはそういう事じゃなくて・・・・・」  
「もし嫌いじゃないなら・・・ちょっとでも好きと思ってくれているのなら・・。」  
 
月の言葉を遮る様に、ミサは声を荒げた。緊張のあまり語尾が震える。  
涙ぐみながら睨む様にミサは月を見上げ、月はミサを驚いた様に見下ろす。  
二人が無言で見詰め合う中、時計のコチコチという音だけが静寂な寝室内を支配している。 既に竜崎が部屋から去ってから40分が経過していた。  
 
「愛してとはいわないから、ミサを抱いてよ・・・・・。」  
 

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