「お兄ちゃん、さっきの人、この前言ってたカノジョ?」
粧裕は、月の部屋に入るなりそう聞いた。まだ部屋にはミサの付けていた香水の匂いが僅かに漂っている。
月は『そう聞いてくると思ってた』といった顔で振り向いた。ドアに凭れ掛かる粧裕の表情は、怒っている様にも、戸惑っている様にも見える。
「…そうだよ、って言ったらどうするんだ?」
わざと、粧裕の気に触るような事を言ってみた。途端に粧裕の顔が赤く上気する。
「べ、別にっっ!ただ、お兄ちゃんの好みっぽくないな、って思っただけだよ!」
慌てた様な笑顔が、無理矢理に作られた表情だとすぐに判った。そう言う健気な明るさが、粧裕の良い所だ、と月は思う。だが反面、素直に感情をぶつけてくれてもいいのに、とも思う。
粧裕は、優しすぎる。
そんな粧裕を世間から守ってやれるのは自分だけだと、月は幼い頃から思っていた。母の「月はお兄ちゃんなんだから、粧裕のこと守ってあげなくちゃいけないのよ」という教育の賜物かもしれない。
「お兄ちゃんが、あの人のこと、す…好きだ、って言うんなら、別に、私の口出しする事じゃ…」
視線を彷徨わせながら言う。そんな粧裕の様子に月はハハ、と笑みを零した。
「違うよ」
「…え…?」
その短い言葉に、粧裕はきょとんとした顔で月を見返した。だから、諭すように優しく言う。
「あの子とは、粧裕が想像してる様な関係じゃないよ。ただの知り合いだ。」
「…ウソばっかり…」
月から、フイッと視線を逸らしてそっぽを向いた。
こういう粧裕は珍しい。いつもならちょっとからかっても、すぐに機嫌を直して甘えてくるのに。
「何だよ、疑ってるのか?」
いつもと違う粧裕に、少し首を傾げながら月は言う。
「だって…!」
粧裕は泣き出しそうになるのを堪えるように、月にしがみついてきた。反動で、粧裕を抱いたまま月はベッドに腰掛ける。粧裕の艶やかな黒髪を撫でながら、月はいつもと違う粧裕に少し戸惑っていた。
「どうしたんだよ、一体…」
「…あの人も、こういう風に抱きしめたの?」
いつもの明るい声とは全く違う、硬い声だった。
「…粧裕?」
驚いて月が下を向くと、見上げる粧裕と目が合う。真っ直ぐに月を見つめるその瞳は、切なげな色を湛えていた。
「あの人の香水の匂い、移ってるよ…?」
「…」
ほんの少し前、確かにこの部屋で月はミサを抱いていた。だがあれはミサに対する儀式の様なもので、今こうして優しい気持ちで粧裕を抱いているのとは全く違う。
「…そんな事で、心配してたのか?」
耳元で、囁く様に言う。粧裕は何も言わずに、月の胸に顔を埋めて心臓の音を聞いていた。
「バカだな…あの子からは悩み事の相談を聞いてやってただけだよ。ちょっと興奮しちゃってたから、落ち着くまで肩を抱いてただけだ。やましい事は、何もしてないよ。」
「…ホントに?」
粧裕が、縋るような瞳で見上げる。月はそんな妹を、素直に可愛いと思った。
「ああ、本当だ。僕が粧裕に嘘ついたことなんてあったか?」
「…ない…と、思う…」
「だろ?さ、これですっきりしただろうから、今日はもう寝るんだ。明日起きれなくなっても知らないぞ?」
月は立ち上がろうと、細い身体を促した。だが粧裕は、しがみついたまま離れない。
「粧裕…」
「今日はお兄ちゃんと一緒に寝る」
溜め息混じりに呟いた月の言葉が終わるのを待たずに、粧裕は強い決意のこもった声で言い放った。しがみつく腕に、力が入る。
「…もう粧裕も子供じゃないんだから、そういう我が侭を言うんじゃない。」
わざと強い口調で告げた。月自身の動揺を悟られない様に。
「…私だってもう子供じゃないから、言ってるんだよ…」
声が少し震えているのが判った。鼓動が大きくなる。それでも月は、冷静さを取り繕おうとしていた。
「判ってるのか、僕達は兄妹なんだ。そんな事したら、父さんも母さんも哀しませる事になるんだぞ…」
「でも、私は…お兄ちゃんが、好き」
消え入りそうな声で…だがはっきりと告げる。堪らなくなって、月は粧裕の細い身体を強く抱いた。
「…本当に、いいのか?」
耳元で、最後通告を囁く。粧裕は少しくすぐったそうに身を捩りながら、小さく頷いた。