暗い部屋の中、寝台の上で姫は一人泣いていた。
「お姫様、可愛らしいお姫様。何を泣いているのですか?」
振り返ると、一匹の蛙が、チョコンと座り込んで粧裕を見上げている。
姫はそっと小さな手の甲で涙を拭うと、悲しそうに蛙に語りかけた。
「とても悲しいからよ。どうして悲しいかは言えないわ。」
「お姫様、私は一介の蛙ですよ。安心して下さい。誰にも何も言いやしません。どうか私を信用して、貴女の悲しみの理由を教えてください。」
「・・・・今日、この城ではパーティーが開かれているの。」
蛙はチラリと視線を扉に走らせた。なるほど、扉の外から華やかな宮廷の音楽と、人々の楽しそうな談笑が聞こえてくる。
「ああ、この国の王子の花嫁探しのパーティーですね。めでたい事です。」
「ええ、めでたい事ね。でも、私にとっては悲しい事だわ。」
「何故ですか?王子様が嫌いなのですか?」
「嫌い?いいえ逆よ。好きよ。好きなの。・・・でも、私は・・・私だけは絶対花嫁になれないわ。だからとても悲しいのよ。」
姫の大きな目から涙が再びあふれ、頬を伝った。
その姫の深い悲しみの様子に、蛙は首を傾げる。
「何故そう思うのですか?貴女は大変可憐で愛らしい。」
「ありがとう、でも本当に絶対無理なの。・・・私は王子の実の妹だから・・。」
「妹・・・・。貴女がこの国の王女様でいらっしゃいましたか。」
「ええ、この国でお兄様と決して結ばれることのない唯一の女性が私なの。
この国中の、どんな村娘にもどんな灰かぶりにも与えられているチャンスが、私にだけは絶対に与えられないのよ。」
姫はそういうと、再び寝台につっぷし、声を押し殺して泣き始めた。
「ああお姫様、お願いです。どうか泣かないでください。」
「泣かずにはいられないわ。だって今夜、お兄様の花嫁が決まるのよ。
今まで私のものだったお兄様は、その人のものになってしまうのよ。」
「・・・・姫、いずれ貴女に相応しい相手が現れます。」
「いらないわ、そんなの。お兄様がいいの。お兄様じゃなきゃ嫌なのよ。」
「王子は確かに、女性を惹きつける魅力にあふれた方です。
けれど、王子程の美貌や身分を持ち合わせていないかもしれませんが、姫を心から愛してくれる、姫だけの騎士が今にきっと現れますよ。」
「・・・判っていないのね。蛙さん。私はお兄様の顔や身分が好きなのではないわ。
お兄様自身が好きなのよ。例えお兄様が王子じゃなくても、醜い容姿でも構わないの。・・・いいえ、いっそそうだったらいいのにとさえ思うわ。そうしたら、私だけのお兄様として、独占する事ができるもの・・・・。」
泣きじゃくる姫を持て余したのか、蛙はしばし無言だったが、しばらくして不意に声を掛けてきた。
「・・・・顔を上げてください、姫。」
その心配そうな声音に、姫をしゃくりあげながら振り返った。
しかし、そこに先程までの蛙の姿はなかった。代わりに、白いローブをまとった猫背の青年が、姫を無表情に見下ろしている。
「あ、あなたは・・・。」
「一介の、通りすがりの蛙です。」
「蛙って・・・・で、でも・・・。」
「この国の姫を探していたのですが貴女だったのですね。手間が省けました。」
確かに、青年のやや離れた両目と大きな口はどこか蛙を思わせた。
驚きのあまり目を見開いて固まっている姫にむかって、青年は抑揚のない声で淡々とつげる。
「貴女に助けて頂きたい思っていたのですが、どうも思っていたより難しそうだ。」
「助ける?私があなたを?・・・・何から?」
「勿論、邪悪な魔王からです。」
「魔王・・・・。」
「ええ。姫様はきいた事がありませんか?今この国を騒がせている魔王の噂を。」
「聞いたことはあります・・・・。不思議な魔術で人を殺めるという・・・。」
「そうです。しかも誰もその魔王の正体を知らない。謎に包まれた存在です。」
「我が父王も、その者を捕らえようと力を尽くしているとききます。」
「私は魔王を追うものです。」
「・・・魔王は悪魔の化身だとか。人の身で追い詰める事など可能でしょうか。」
「魔王は悪魔ではありません。悪魔と契約を交わし、禍々しい力を得てはいても、所詮は人間です。どこかで何食わぬ顔で生活しているに違いないのです。」
そう言う青年のほうこそ、姫にはとてもではないが人間には見えなかった。
大体蛙から人間に姿を変えるこの青年は、一体何者なのだろう?
「私は独自の調査で、魔王の正体に見当をつけた。その正体は、意外といえば意外、あり得るといえばこれ以上あり得る者もいない、と思われる人物でした。
しかし、それを立証するに事は大変難しい。なぜなら、その人物には、悪魔的な能力だけではない、強力な後ろ盾があるからです。」
「強力な・・・・後ろ盾・・・・。」
「そうです。絶世の美貌、類まれな頭脳、この国でも五指に入ると評判の剣技。
莫大な富と、誰もがひれ伏す高い身分。忌々しいことに、非常に神の恩恵に恵まれた、厄介な相手です。」
「・・・・・・・・・・何が言いたいのです。」
「彼を護る、その強固な堤防を中から揺るがせられたら、と思いましてね。協力者を探していたのですよ。」
「・・・・私に、裏切り者になれというのですが。」
姫はあまりの怒りと恐怖に、唇を戦慄かせて叫んだ。
青年は明言を避けながらも、姫に恐ろしい推理を提示している。
「確かに私は、この国の姫に協力を仰ぐことが出来たら、と思ったのですが・・。どうも、それどころではないご様子。また出直してまいります。」
「・・・・信じません、そんな事っ!!」
「貴女は賢い。そして勇気もある。いずれ、事実を受け入れられるはずです。」
「出て行きなさい。人を呼びますよ。」
「彼を裏切るのではなく、救うと考えてください。このまま罪を重ねさせる事が、果たして本当に彼の為でしょうか。」
絶句する姫に、青年は深々と一礼をすると窓を開け、素早く飛び降りた。
驚いて姫は窓から身を乗り出したが、そこにはもう人の姿はなく、ただ木々が鬱蒼と闇に溶け込んでいた。
扉越しに、まだ外で行われている喧騒が伝わってくる。
宴は夜通し行われ、今夜この城は不夜城となるだろう。
お兄様は今、何をなさっているのかしら・・・・。
既に灯りの消えた部屋の中、姫は寝台の上で寝返りを打ちながら、愛しい兄の事をぼんやりと考えた。
今頃兄は、どこぞの美しい姫君と楽しく踊っているのだろうか。それとも親密にバルコニーで愛でも語らっているのだろうか。
今夜城に集まった国中の娘達の中から、意中の女性をもう見つけたのだろうか。
今までパーティーが開かれると、兄はいつもどの貴婦人よりも先に、一番に姫にダンスを申し込んだ。姫も兄と踊るまで、誰の申し出も受けなかった
だが、これからは違う。兄の隣には常にどこかの美しい貴婦人が座るのだ。
兄はこれからその貴婦人を一番に扱うのだ。
今後はパーティーがあっても、姫より先に、その貴婦人と踊るのだろう。
それは当たり前の事だ。どこの世界に、妻よりも妹を優先する男がいるだろう?
姫はそっと瞼を閉じた。涙が頬を伝って枕を濡らす。
自分の兄への想いは、所詮適わぬ禁断の恋。いずれこういう日がくるのはわかっていたはずなのに、その日がいざくると、こんなにも動揺する自分がいる。
ああ、眠るのが・・・いいえ朝になるのが怖い・・・。
兄の花嫁は今夜決まる。明日どの女性を選んだのか正式な発表があるだろう。
自分は妹として、笑顔で祝福しなければなるまい。できるだろうか?
「・・・・・!?」
ふいに窓の方から気配を感じ、姫は涙をぬぐって寝台から身を起こした。
慌てて薄物の上着を羽織り、身を乗り出す。
見ると月明かりのカーテン越し、鳥のようなのシルエットが浮き上がっていた。
窓の外で、必死に羽をばたつかせる音が静かな室内に響く。
・・・・もしかして。
咄嗟に先ほどの不思議な青年が姫の脳裏によぎった。
あの青年が、また何か姫に言いに来たのだろうか。
蛙から人に姿を変えられるのなら、他の動物に身を転じる事も可能だろう。
姫はしばらく迷ったが、やがて起き上がると窓辺に近づいた。
兄王子が魔王だ、などという青年の言葉は、あまりにも馬鹿馬鹿しくて信じる気にはなれないが、彼自身にはどこか人の警戒心をとかせるものがあった。
実際最愛の兄に不愉快な仮説を立てた人物だというのに、不思議と姫は青年に悪意を持てなかった。
姫がそっと窓を開けると、小さな突風とともに一匹の蝙蝠が部屋に入ってきた。
素早く、勢いよく飛び込んできたその小さな蝙蝠は、姫の目の前で止まる。
ソレはしばらくせわしなく羽ばたいていたが、やがてゆっくりと羽を伸ばし、クルリと身を反転させた。動きの残像がそのまま燐光になる。
蝙蝠はみるみるうちにその姿を溶かし、やがて一つの生き物に形をとり始めた。
鍔のついた大きな帽子。あどけない顔立ちに、大人びた化粧。金色に輝くツインテール。黒いマントに、肩の出た黒いミニドレスと黒いロングブーツ。
あの蛙さんじゃない・・・。
全身黒尽くめのその人物は、先ほどの青年とは似ても似つかない美少女だった。
蛙男に次ぐ蝙蝠娘の訪問に、姫は思わず目を瞬かせた。
軽くショックを受ける姫に、先ほどまで蝙蝠だった少女は、悪戯っぽく微笑む。
「こんばんは、お姫様。部屋に入れてくれてありがとう。」
「あ・・・貴女は・・・?」
「私は魔女。名前は秘密です。命取りになりますから。」
「魔女・・・・。」
思わず言葉を反芻させ、先ほどの青年との会話を思い出す。
世間で噂される『魔王』の正体は、このようなまだあどけなさの残る少女だったのだろうか。姫は驚きのあまり目の前の少女を凝視した。
「言っておきますが、世間で言うところの魔王は私ではありませんわ。」
少女はからかうようにそう言うと、真っ赤な唇をほころばせる。
その反応に自分の心が読まれている様に思えて、姫は思わず顔を強張らせた。
姫のその表情の変化に、少女は軽やかな笑い声を上げた。
「姫様は非常に判り易い。きっとお心が綺麗なのですね。」
「・・な・・・何をしに来たのですか・・・・。」
姫は内心の怯えを懸命に隠しながら、少女を見据えて気丈に問い詰めた。
少女はその問いに、右手を耳に当てて姫の方に乗り出すと小首を傾げた。
「呼ばれたから来ましたのよ、私。」
「呼ばれた?」
「ええ、そうですわ、姫様がお呼びになったのです。」
「私は貴女を呼んだ覚えはありません。」
「・・・啜り泣きの声が聞こえましたわ。・・・・深い絶望の声が。」
「なっ・・・・。」
「『辛い、苦しい、誰か助けて・・・。』私は声無き悲鳴をききつけて、こちらまで飛んで参りました。」
見る見る青ざめる姫の顔を哀れむ様に覗きこみながら、歌う様に少女は続ける。
「姫様は心中、どうしようもない現実に絶望してらっしゃいました。心当たり、おありでしょう?」
「・・・こ、心当たりなど・・・・。」
「『ああ今夜私のお兄様が花嫁を選んでしまうどうしましょう』」
「・・・・・・や・・やめて・・・。」
「『今まで私だけのお兄様だったのにああどうして兄妹なのかしら私達お兄様が好きなの大好きなのお兄様じゃなきゃ嫌なのお兄様が誰かのものになるなんて祝福なんてできないわ一生その女性と義姉としてつきあっていかなきゃいけないなんて耐えられないわだって私は・・・・』」
「やめてっ・・・。お願いもうやめて・・・・。」
自分の声音をそっくり真似て壊れた蓄音機の音楽の様に喋りだす少女の言葉の数々に、姫は悲鳴をあげた。その場に両耳を押さえてヘナヘナと座り込む。
「・・・申し訳ありません、姫様。でも私は姫様を苦しめたくてこちらに伺ったわけではありません。」
少女は自らもしゃがみこむと、震える姫の肩を優しく抱きしめ、耳元にそっと優しい口調でそう囁いた。
「私は常に恋する乙女の味方。姫様を助けるためにこちらまで参りましたの。」
「助ける・・・?私を?この状況から・・・?」
「ええ。姫様の願いを、私なら叶えてさし上げることが出来ます。」
「代償は私の魂?」
「そんなものはいりません。失礼ながら姫様の魂など、私には何の役にも立ちませんもの。」
少女はクスクスと忍び笑いを漏らすと、悪戯っ子の様な表情で姫を覗き込む。
「率直に言わせて頂きますと、私が欲しいのは姫様の声です。」
「・・・声?」
「ええ。姫様はとても美しい声をしてらっしゃいますもの。」
「・・・貴女の声の方が綺麗だと思うわ・・・。」
「まあ嬉しいことを。でも私は姫様の声が欲しいのです。」
「・・・この声をあげたら、貴女は私を救ってくださるの?この苦しさから・・。」
「私に声さえ下されば、姫様が愛しい王子様と必ずや添遂げられる事をお約束いたしますわ。」
「お、お兄様と・・・。」
自分の声さえこの魔女に差し出せば、実の兄に焦がれるという罪悪感から、兄に近づく女性達への嫉妬と羨望から、叶う事のない恋への絶望から、そしてそんな自分への自己嫌悪から・・・本当に救ってくれるというのだろうか。
もしそれが本当なら、自分の声など代償としては安いものではないか?
そこまで考えてから、自分がまんまと魔女の誘惑に乗り掛かっている事に気がつき姫は我にかえった。
魔性の者は、人の最も弱い所を目ざとく見つけ出し、巧みに誘惑するという。
今の自分はまさにそうだ。いつのまにか魔女の術中にはまっている。
「・・・やっぱり駄目よ。出来ないわ。」
「・・・何故ですの、姫様。」
「神は魔女と契約してまで、自分の願いを叶えようとする行為をお許しにならないわ。・・・それは、神の教えに反する事よ。恐ろしい。」
「まあ姫様ったら、面白い事を。
それでは実の兄に焦がれる事は、神の教えに反する事ではないとでも?
姫様はとっくにもう、神の恩恵には預かれぬ身なんですのよ。」
楽しげに語る少女の、そのあからさまな揶揄の言葉に、姫は言葉を失った。
「あ・・・。そんな・・・わ、私は・・・・。」
「姫さまの様な不道徳な人間を、神はもうとっくに見捨ていていますのよ。
神は姫様の苦しみを欠片も救ってはくれません。姫様を今救うことが出来るのは私だけです。」
「ああ・・・・。」
「姫様がどうしても嫌だとおっしゃるのなら私はこの場を去りますわ。でもいいんですか?このままいつも通りの朝を向かえて、後悔はしませんか?」
「・・・後悔・・・?」
「ええ。今夜王子が選んだ女性が、明日には王子の選んだ花嫁として披露されるでしょう。姫様は妹姫として、それを受け入れなければなりません。」
「・・・わかっているわ・・・。」
「王子と花嫁の仲睦まじい様を、ずっと傍で見て生きて行く事ができますか?
嫉妬と独占欲と絶望を抱えながら、それを隠してずっと笑って付き合っていかなればならないのですよ?一生ですよ。耐えられますか?」
「・・・耐えられないわ・・・・。」
「その女性はもしかして、姫様程王子を愛してないかもしれないのに。王子の身分や美貌にのぼせているだけかもしれないのに、血が繋がっていないというだけで、花嫁に選ばれたその女性を義姉と呼ぶ事が姫様にはできますか?」
「出来ないわ・・・・出来ないわそんな事っ!!」
姫は耐え切れず、大粒の涙を流すとその場に突っ伏した。
ゆっくりと、いたぶる様に姫の髪を撫でながら、少女は猫なで声で話しかける。
「お可哀相な姫様。こんなに一人で苦しんで・・・・。」
「・・・・もう嫌よ、苦しいの。楽になりたいわ、お願い、助けて・・・。」
「ええ勿論。私はその為にこちらに参ったのですもの。」
「声でも何でもあげるわ。だから・・・私を助けて・・・。」
「助けて差し上げますわ、姫様。どうか顔を上げてください。」
姫は涙に濡れた面をあげた。姫は泣き腫らした赤い目と額にはりついた髪の毛に、少女は一瞬哀れむような視線をむけたが、すぐにニッコリと笑った。
「目を閉じてください、姫様。今、助けて差し上げます。」
言われたとおり瞳を閉じた姫の小さな顔に、少女はそっと自分の顔を重ねる。
小さな唇をゆっくりと吸い上げながら、少女はそのまま姫の胸に手を伸ばし、薄布の上からそっと優しく揉み解した。
少女は姫君から顔を離すと、ふう、と大きなため息をついた。
意識を失った姫君の体は支えを失い、そのまま少女の上半身に倒れこむ。
姫の体をそっと床上に横たると、少女はやれやれという様に大きな伸びをした。
「疲れちゃったわ、レム。」
少女が後ろの虚空に向かって話しかけると、薄暗い部屋の中、ぬぅっと白い巨体が浮き上がる。
ヌルヌルとした半透明の髪。異様に長く、以上に大きな腕。骨がむき出しの身体は、動くだびにガシャガシャと不気味な音をさせる。
『ご苦労様』
「敬語でずっと喋るのもしんどかったわー。普段使わないから」
『私も聞いていてヒヤヒヤした。』
「ふふ、でも演技は中々のものだったでしょ?」
『・・・感心したよ。よくもまあ、あそこまでスラスラと嘘が出てくるもんだ。』
「人聞きの悪い事言わないでよ。細かい部分はとにかく、根本の部分は嘘じゃないでしょ。」
少女は胸を張る。レムと呼ばれた異形の者は、複雑そうに少女を見下ろした。
『・・・それにしても、アイツも酷な事を頼んでくるな。』
「あの方の事を悪く言わないで、レム。」
『だって、お前にとってその娘は恋敵じゃないか。無神経だ。』
「あら、そんな事、私はちっとも構わないわ。それだけあの方が私を信用してくれているってことだもの・・・。」
『・・・・恋は盲目とは、よくいったものだ・・・。』
「元々あの方を独占できるなんて思っていないもの。それにこの娘も色々と辛そうで可哀想じゃない?私同様、あの方に救ってもらえばいいのよ。」
「・・・・確かに、その娘は可哀想だな。」
「そうよ。この娘は妹である限り、王子の花嫁には決してなれない。でも・・。」
『契約さえすれば、確かに花嫁になれるな。・・・・最も魔王の花嫁にだが。』
「王子だろうが魔王だろうが同じ事じゃない。恋焦がれている相手には変わりないのだから。」
少女はそういうと、姫君の額に親愛の情をこめて優しく接吻した。
ここは・・・・。
気がつくと、姫は一人寝台に身を横たえていた。
眉を微かに顰め、そっと周囲を見渡す。見慣れた天井、壁、家具。
昨日と何ら変わらない自分の部屋で迎える、いつもと何ら変わらない朝の風景。
だが、この違和感はなんだろう。
姫は何やら不吉な胸騒ぎを感じ、そっと半身を起こした。
・・・・これは・・・・。
姫は驚きのあまり、しげしげと自分の体を見下ろした。薄布の寝具を身に着けていたはずなのに、姫はいつのまにか見たこともないドレスを身に纏っている。
大きく肩のでた漆黒のドレス。紗の黒いヴェール。黒い長手袋。不気味なほど姫は全身黒尽くめだった。
・・・・いつの間に・・・誰が・・・・。
姫は怯えながら周囲をふと見回す。室内は不気味な程静まり返っていた。
いや、室内だけではない。いつも扉の外から聞こえてくる城内の者たちの喧騒も、窓の外で囀っている小鳥の鳴き声も、何も聞こえてこない。
違和感の正体に気がつき、姫は愕然とした。
この城から、生きている者の、一切の物音も気配も途絶えているのだ。
・・・一体・・・どうしたと言うの・・・。
姫は起き上がり、扉に手をかけた。痛いほどの沈黙の中、キィ、という音が不気味に響き渡る。
部屋を出ると、矢張り誰もいなかった。仕方なく姫は異様に長い黒衣の裾をズルズルと引き摺る様な格好で城内の廊下を歩く。
姫は歩きながら周囲を見回す。肖像画も銀の蜀台も壁時計も赤い絨毯も、見覚えのあるはずの物ばかりなのに、不思議と何もかもが不気味に思えた。
これは・・・夢なのかしら・・・。それとも・・・・。
私はあの魔女に騙されたのかしら、と姫は暗澹たる気持ちで心中そっと呟いた。
長い廊下をつきぬけると、大きな扉の前にたどり着いた。王の間である。
いつもなら姫の父王や母后に謁見するために、臣下達がこぞって挨拶の列を作っているはずだが、勿論今は人っ子一人いなかった。
姫は扉を開けようとしたが、頑丈かつ巨大な扉はおしてもビクともしない。
どうすれば・・・と思わず呟いてから。姫は口に手を当てた。
声が・・・・出る・・・・。
ではあの魔女との契約は一体なんだったのだろうか。
あの契約自体、夢なのか。それとも、今現在の状況が夢なのか。あるいはどちらも夢なのだろうか?
もし夢なら、矢張り目が覚めれば王子の婚約披露が待っているのだろうか?
夢であって欲しいのか、夢だと困るのか、自分でもわからない。
混乱のあまり、姫はその場に座り込んだ。
丈の長い漆黒のドレスが黒い薔薇のように床に広がる。
しばらくそうして顔を覆っていると、背後でギィイという物音がした。
驚いて振り返ると、扉が自動的にゆっくりと開き始めた。
両脇の壁に着くまで開くと、そのまま扉は動きを止める。
少し迷ったが、のろのろと起き上がると、姫はそっと王の間に足を踏み入れた。
姫が入室した途端、背後で扉が自動的に閉まったであろう物音がした。
扉から玉座まで続く赤い絨毯。その両脇に飾られた銀の燭台に一斉に火が灯る。
幾つもの小さな炎が、薄暗い室内を微かに明るく照らしだした。
まるで待っていたかのようなその周到な演出に、姫はあたかも自分が罠にかかった獲物のような錯覚を覚えた。
・・・あれは・・・・。
赤い絨毯の先にある豪奢な玉座。
不気味さに思わずその身を抱きしめながら辺りを見廻していたは、その蝋燭が浮かび上がらせたシルエットに一瞬息を止めた。
亜麻色の髪。秀麗な白い顔。黒い甲冑に黒いマント。
玉座の上で長い足を組むその青年は、姫の非常に良く見知った人物だった。
姫の視線に気がついた青年は、玉座で肘をついたまま、楽しそうに微笑む。
「ようこそ。・・・・わが妹にして花嫁よ。」