電車のドアが開いて、人の流れに押し出されるようにしてホームに立った。
東京は思っていた以上に忙しい街だった。とにかく人が多い上に歩くのも皆早い。
厚底の靴で階段を降りるのは割と労力が必要だった。ましてこんな混雑している駅ならなおさらだ。
バランスをとって一歩一歩進む。その脇を、数人のサラリーマンが迷惑そうに早足で抜かしていった。
(東京って結構疲れるかも…)
ため息を吐く。
ミサが東京で一人暮らしを始めてから、まだ一週間も経っていない。
新居はまだ実家から送った段ボールが積まれているだけの状態で、寒々しい殺風景な部屋だった。
ようやく階段を最後まで降りて改札を出る。
JR新宿駅東口。
すぐにバッグから雑誌の切り抜きを取り出して、小さく書かれた簡略地図を確認する。
「今日は何しに来たんだ?お前人間が沢山いる場所が好きなんだな」
すぐ右上から囁かれる言葉に振り向かないまま答えた。
「別に好きな訳じゃないんだけどねー。今日は部屋に置くもの買いにきたの。あと服」
呟きは街の雑音にかき消され、端から見れば独り言を言っているように見えるだろうミサを怪しむものはいない。
それに無関心なのだ。いい意味でも、悪い意味でも。
そういうところはミサにとっては都合がよかった。
「んー、新宿ってわかりにくいなぁ」
困っている様をただ見ているだけの死神に唇を尖らせ訴えた。
「ねぇ、ちょっとは協力してよ」
「協力するって?」
上目使いに見上げて言う。
「例えばさ、その目でこの店がどこにあるか霊視するとか」
「それは無理だ」
間髪入れずに答えれば、「なんだー。使えない」と怒ったように言って、再び切り抜きに目を落とした。
俯くと頬に掛かる金色の髪がうざったくて、何度も頭を振った。
死神はといえば、使えないなどと言われながら別段気にした様子もなくミサの頭上に漂っている。
「どうしよう…」
ミサは何気なく、ロータリーに目を泳がせた。
平日の昼間だというのに溢れかえる人混みに眩暈がした。
ミサが上京したのは、キラのためだ。ただ一人、顔もわからない殺人犯、キラのため。
テレビでキラの存在を知った時から、一度はキラを見たい、いや、会いたい。会って話がしたいと焦がれていた。
まるで恋のそれに似た感情。毎日キラを想った。
そして、舞い降りてきた死神。
運命だと思った。自分がまさかキラと同じ、それ以上の能力を手に入れられるなんて。
東京に来ることに迷いはなかった。
「きゃっ」
すれ違い様に肩をぶつけられ、我に返る。ぶつかった拍子にバッグも落としてしまっていた。
「もー。ぶつかったら謝れっての」
ブツブツと文句を言いながらバッグを拾いあげる。
「ん?」
その時一人の男が目についた。
たった今、東口に出る階段を上ってきた男。
背広を片手に持って、Yシャツを肘までたくし上げて、暑そうに空を見上げて顔を顰めている。
どこにでも居そうな、平凡な男。
髪の毛は無造作に伸びて耳まで覆い隠していたが、むさ苦しい感じではない。
どちらかと言えば、初で気弱な空気を纏っていた。
ミサは、その平凡な男に無性に声を掛けたくなった。
ただ道を聞くだけでいい。聞くならあの人がいい。
日陰を選んで南口方面に歩き出した背を慌てて追う。
「ちょっとすみませーん」
「はい?」
そう言えば、男は素直に振り向き、そしてミサの全身をジロジロと眺めた。
まるで珍しい生き物を見るような目つきだ。たまらずミサは吹き出した。こういう事は慣れているが、この男の表情がいちいち楽しくて堪らない。
「そんなに珍しいかなぁ…この格好」
笑いながら言うと、はっとした顔をして謝ってくる。
「す、すみません。別にそういう訳じゃ…」
…可愛いじゃん。
頭に手をやりながら申し訳なさそうにするその表情。
結構…タイプかも。
知らないうちに言葉に出していた。
感情のまま生きる。思い立ったが吉日。これがモットーなのだ。
何人もの男を落としてきた笑顔でいう。
「ね、私としようよ」
次の瞬間、ミサは叱りつけられていた。ありったけの声で。
「君はそんなことして、自分が大事じゃないのか!?」
周りを歩く人たちが、なんだろうと横目でこちらを伺ってくる。若い女を男が怒鳴りつけているのだから人の視線を引かないはずがない。
大半が興味本位の視線だったが、それでも男は気にせず言葉を続ける。
「そういう事をしてたら、きっと後悔するときがくるよ」
顔を真っ赤にして言う男が今にも泣き出しそうな顔をするから、思わずミサは男の頭に手を伸ばして撫でた。
その手首を掴まれ下ろされる。
温かい手だ。そう思った。
「君がどうしてこんな事するのか僕にはわからないけど…」
目をじっと見つめられる。澄んだ黒い瞳をしていた。ミサも男の目を見た。
「本当に好きな人が出来た時を考えなさい」
怒鳴ったりしてごめんね。そう言って男はそっとミサの腕を解放した。
いままでミサが誘って落ちなかった男はいなかったのだ。ましてや叱るなんて。
「…っびっくりした…」
そのまま小さくなっていく背を見ていた。
彼の手の温度が掴まれたところから消えていくのが寂しくて、ミサは腕を撫でた。
その日は結局目当ての店に行く気も無くなってしまって、そのまま家に帰った。
「……君は、」
東南口のエスカレーターを降りたすぐそこで、男は目を丸くしてミサを見た。
「やっと会えた」
ミサはあの日から毎日同じ時間に新宿で彼を待った。
馬鹿馬鹿しい。そう死神は笑った。もしかしたら二度とここには来ないかも知れないじゃないか。
馬鹿馬鹿しいなんてわかってる。でも、馬鹿な私はこうするしか思いつかないんだもん。
そう呟けば、死神は哀れんだようにミサを見た。
日の照りつける駅前に座り込んでは、出てくる人間を一人一人チェックした。
あまりの暑さに倒れそうにもなったが、そんな事は気にしていられなかった。
あの人にもう一度、会いたい。もう一度、あの目で私を見て。
「…会いたかった」
山手線を降りたホームで、遠くに彼の姿を見つけて必死で追った。
人混みを掻き分けて、彼を見失わないように。
南口改札に出る階段を二段抜かしで駆け上って、転んだ。それでも走った。
「一回だけでいい。一回だけでいいから」
…松田さん。
彼の名は声に出せない。
ミサの目には彼の名前と寿命が、今もはっきり見える。
「お願い」
腕にしがみついて懇願すれば、彼は一瞬悲しい顔をした。
「僕が言ったこと、わかってくれなかった…?」
「………」
違う。そう言いたいのに、声が喉に張り付いて言葉が出ない。
好きだから。松田さんが好きなんだもん。
言葉は飲み込まれて、「あ…」と意味を成さない声しか出なかった。
目が合う。
ああ、あの時の目だ。見つめると、彼は何かに気づいたように一瞬目を見張って、それからミサの手を握った。
握った手を口元に運ぶ。
そして言った。
「応えられなくてごめんね」
ミサは一人立っている。
道行く人が、その様子を怪訝に眺めていった。
ミサはただ静かに立っていた。
「…絶対捕まえるから」
呟いて、浮かんでくる涙を、ぐい、と腕で拭う。腕についた水滴が風に吹かれてそこだけ冷たかった。
「やだっ、美白しなくちゃ!」
連日太陽の下で待ってたから、これ日焼けしてるよぉ。
突然元気になったミサに、死神は言った。
「お前、振られたのにずいぶん元気だなー」
じろりと死神を睨みつける。
「なに言ってんの?追う恋の方が楽しいに決まってるじゃん!」
がんばるぞー!と拳を振り上げるのを見て、脱帽する。
……こいつの人生、楽しそうだなぁ。
そう思うと同時に、これからこの乙女にまとわりつかれる男に同情してため息をついた。