大きいのに華奢なその手が頬をなでて粧裕は目を閉じる。
指が頬から滑り落ちて口元に触れた。
『お兄ちゃん』
甘えた声で呼べば、薄く微笑んでくれて、胸が高鳴った。
そして、ゆっくりと唇が言葉を形作る。
『さゆ、あいしてる』
目を覚ますと、雨が窓を叩いて不規則な音をたてていた。
時計を見るとまだ起きるまでは時間があって、再び目を閉じて枕に顔を埋める。
そのまま、粧裕は少しだけ泣いた。
焼きたてのパンが一枚、それにベーコンエッグにトマト。良い匂いのするコーヒー。
テーブルに置かれたそれをただ眺める。
四つ並んだ椅子のうち、使われているのは一脚だけだった。
「お兄ちゃんは?」
「もう大学に行ったわよ。あなたも早くしなさい」
母が洗い物をする水音を聞きながら、粧裕は朝食に手をつけた。
フォークがカチャカチャと皿にあたって音をたてて、煩わしいと思った。
薄暗いリビングに、キャスターが天気予報を読み上げる声が響く。
今日の空模様は、一日中雨のようです。通勤通学の方は充分お気を付けて…
粧裕は、味のしない食べ物をコーヒーで流し込んで席を立った。
コーヒーは苦くて嫌いだ。
雨空の下で真っ赤な傘を開くと、少し気分が良くなる。傘の端から水滴が落ちて指を濡らした。
湿った匂いに、ふと記憶が蘇る。
それはたった数ヶ月前の事だ。
粧裕は雨の日が好きだった。
雨が降る度に、わざと兄の差す紺色の傘の下に入り込んで一緒に登校した。
『自分のあるだろ』
そういって迷惑そうな顔をする兄は、結局最後には粧裕を傘の下に招き入れる。
道が別れてしまうまでに、粧裕の半身はかなり濡れてしまうのだが、
そっと兄の後ろ姿を見遣れば、彼の半身も同じように濡れていて密かに粧裕は喜んだ。