また今日も机に向かいノートに怒りと苛立ちを込めて書き殴る。  
これは特別なノートだった。  
彼女にとって矜持ともいえるべき特別なもの。  
 
 
「......瀬、奈瀬明日美」  
「っは、はい」  
 つい呆けていた。  
自分の名が点呼されているのも気がつかなかった。  
 ―昨日、なかなか寝就けなかったからなぁ......  
 
明日美が東応大に入学してまもなく、まだ五月の青々とした葉々も  
それを撫でる爽やかな風も迎えぬうちに、  
つまりまだ4月になったばかりだというのに  
明日美は完璧に五月病に侵されていた。  
しかしこうなることは明日美にもわかっていた。  
鶏口牛後、この大学においては自分はまさに『牛後』で  
多分尻尾の先の一筋の毛、一番最後尾ではなかろうか?  
これを想像すると酷く双肩が重くなった。  
しかしこの大学では誰もが必ず一度はそれを想像する事でもあった。  
例外はただ二人のみ。  
 
夜神月、  
流河秀樹のただ二人のみ。  
 
首席合格。真逆の性質。二人に注目しないものは居なかった。  
勿論明日美も。  
特に夜神月、  
彼は本当に人間なのだろうかと思わせるほど何事にも端正な人間だった。  
だからこそ明日美は彼が好きになれなかった。  
しかし夜神を目で追ううちにある考えが脳裏をよぎった。  
それは普段の明日美にしてはあまりに大胆すぎる考えであったが、  
どうにも笑殺できずに脳裏で燻り続けていた。  
それを実行に移そうと決意したのが昨夜。  
空は薄曇り月はぼんやりとしか見えない夜だった。  
 
 
思わぬ好機を得た。  
いや失敗なのか。  
さっきまで裏庭のベンチで詰め碁集を読んでいた明日美だったが  
つい置き忘れてそこを離れてしまい  
気がついて取りに戻ったときには月がそれに目を落としていた。  
「......」  
話しかけようにも言葉が出なかった。  
楽しそうに読んでいるようにも見えた。  
その姿は昔の想い人を連想させた。  
「伊す...あ......」  
明日美は出そうになった名前に気がつき口をつぐんだ。  
 ―いいえ、似てない。......何、あたしまだ未練たらたらな訳?  
そのうち気配に気付いたのか揺らぐ影に気付いたのか月が顔を上げた。  
 
目が合った。明日美の手のひらや背筋がじっとりと汗ばんでくる。  
「これ、君の?」  
「......そう、置き忘れちゃって、ぁ...の夜神くん、だったっけ?」  
「ああ、君は?」  
「同じ1年の奈瀬、奈瀬明日美」  
「囲碁好きなのかい?」  
「えっ、あ、うん、まあ...ね」  
いつものようには上手く言葉がつむげなかった。  
気圧されているのだろうか?  
それとも――夜神をアイツと重ねたせいだろうか?  
そんな考えが頭の中を渦巻き、支配する。  
 ―駄目、しっかりしなきゃ。あたしらしくもない。  
 あの計画を実行するチャンスなんだから。  
 けれどどうしたら夜神月に近づける?  
 
明日美は何も言えず双眸は下を向いたままだった。  
が次の瞬間、月は意外な台詞を吐いた。  
「最近君によく見られてる気がするんだけど...気のせいかな?」  
そう言うと、  
自意識過剰だったかな?と笑って付け足し明日美に微笑んだ。  
「......気のせいじゃないわ。見てたもの」  
「どうして?」  
明日美がそう言うと間髪いれずに月の言葉返ってきた。  
この男はあたしをからかっている。  
自分に好意を持っている眼だったとでも言いたげに微笑んでいる。  
「あなた、私の昔の恋人にどこか似てるの」  
「恋人?ははっ、そう、てっきりぼくを見てたかと思ったよ。  
 恋人だったのか、恥ずかしいな、とんだ勘違いだ」  
そう月はおどけて言った。  
明日美はその予想外の反応に驚きと少しの怯えの感情を抱いた。  
 ―けれど演じなければ。強気な人間を、恋愛慣れした人間を。  
ゆっくり息を吸い込んで  
平静を装い自分でも嫌悪を抱く台詞を言い放つ。  
「わたしとセフレになって」  
 
 ―東大主席の男を利用しようとしている。  
 なんて大それたことだろう。  
しかし利用する対象は絶対に『夜神月』でなければならなかった。  
夜神月の精子で無ければ意味が無い。  
そう、夜神月の精子は桁違いの金になる。  
そのことは誰もが容易に予想できた。  
そして奈瀬明日美は多額の金を要した。  
明日美が囲碁を始めたのは今は亡き祖父の影響であった。  
塾の講師をしている両親も、柔軟な思考力が身につくから、  
と始めは賛成していた。  
明日美がプロ棋士を目指すと決める前までは。  
明日美はそんな両親が嫌いだった。  
そして中学に入り、なんとなくわかって来た。  
私は両親の実績を上げるための道具に過ぎない、と。  
テストの点だけが基準の世界だった。  
どれだけ学校行事で活躍しても、  
自分より強い院生に勝っても、褒めてくれなかった。  
打ちのめされても慰めの言葉は無かった。  
ならばあの人たちの望みどおり  
高みである東大に入り、  
今までの養育費、教育費、明日美にかけたすべての費用を返す。  
そして心臓を貫くような一言を浴びせてやる。  
そう決心してキャンパスノートに出納帳をつけ始めた。  
幼稚な考えだったったかもしれないが  
もはや習慣となり結局それは東大に入った今まで続いている。  
両親の手を早く離れたかった。  
 
「んっ、や、夜神!私もうっ...ひうっ!」  
明日美の背が弓なりになり高みへの到達を示す。  
あれから二度、ホテルで体を重ねた。  
意外にも月は明日美の誘いをすんなりOKした。  
勿論互いに愛情を持った素振り、言動は一度も無いが。  
そして明日美は未だ月の『ソレ』を手に入れることができなかった。  
手に入れたところでどこへ持っていけばいいのかもはっきりとしていない。  
考える前に関係を結ぶ機を得てしまった。  
やはりアンダーグラウンドなのだろうか?  
ネットは...危険だよね。  
確か精子は9時間しか生存できないんだったっけ?あれ、9時間...だったかなぁ?  
などと月がシャワーを浴びている間ベッドの中でぼんやり考えていた。  
月とのセックスは気持ちが良い。  
している間は色んなことが忘れられて幸せだった。  
計画のことすら忘れてしまう。  
ふと思いつき明日美は緩慢な動きでベッド脇の屑篭から先刻  
使用していた避妊具を取り出した。  
 
口は固く結ばれていなかった。  
するりと解けて口が開く。  
左手の人差し指と中指とで中の白濁した液体に触れてみた。  
少し粘性があり、しばらく広げたり捏ねたりして指で弄んだ。  
「初めて触った...」  
 ―こんなんで赤ちゃんできるんだよね...  
 へぇ...  
味はどうなんだろうか?  
そんな興味が湧き、おそるおそる指を口に運んだ。  
唇に触れる。おずおずと舌でその指を舐め取る。  
 ―少し苦い  
 
「奈瀬?」  
突然名前を呼ばれ我に返る。  
「夜神...あっ、違っこれは......」  
「何コンドーム開けてるんだよ」  
明日美は恐怖で月の顔を見ることができなかった。  
上から聞こえてくる月の声は侮蔑なのか怒りなのか、はたまた別の感情なのか  
表情を読めない。  
 
明日美はただただ小さく縮こまるしかなかった。  
 ―おどけて遊んでたとか言えば騙されてくれるかもしれないのに  
 どうして言えないんだろう。怖い......。  
「おい、奈瀬、泣かなくても...」  
気がつけば明日美の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。  
「うっく、ひっく...ごめ、ごめ...な...さい」  
 ―この人は頭がいい。  
 瞬時にいろいろなケースが思いつくだろう。  
 あたしのしようとしていた事も。  
 
「謝るってことはやましいことしてました、って言ってるようなもんだよ」  
 

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