幸子の両親との初顔合わせの日。  
総一郎は普段よりも一段と恐ろしい顔をして現れた。  
深く眉間に皺が寄り、見えない炎のようなオーラで隣の犬が尻尾を巻いて退散した。  
緊張で鬼のような総一郎に、幸子の品の良い父親と母親は少しだけ驚いた表情をした。  
丁寧に挨拶をし手土産を渡すと、総一郎はまるでそうせねばならないといった決意を感じさせる声で鋭く叫んだ。  
「お嬢さんを僕に下さい!」  
そして勢いをつけて頭を下げ、ゴッと鈍い音を座敷に響かせた。  
総一郎は目測を誤り座卓の角にぶつけ頭から血しぶきを上げた。  
 
大した傷でもないわりに流血がひどかった事は覚えている。  
汚した畳や座布団にまで謝りながら総一郎は家を出た。  
頭をハンカチで押さえ、不思議そうな近所の奥さん連中に見守られながら幸子と一緒に徒歩で病院へ行った。  
その傷は今も総一郎の髪の中に残る。  
あれから傷の見える方向の横分けは出来なくなってしまったので、そのまま後ろに髪を撫でつける事が増えた。  
 
幸子は布団の中で時々確かめるように総一郎の傷跡に触れた。  
後から聞くと「怖い顔の男の人が好き」という酔狂な好みを持っていた。  
あの穏やかで品のいい夫婦と親戚、兄弟姉妹の間からどうしてそのような趣味の女性が育つのか分からない。  
しかし恐ろしげな目つきの男性を見ると胸がきゅんと締め付けられるらしい。  
婚約期間中も盛ったように抱く総一郎の腕の中で、幸子は幸せそうだった。  
「総一郎……さん、みんなに怖がられてたんだよ?」  
「そ、そうか?」  
考え事をしながら道を歩いていると、人混みがさーっと割れる事があった。  
その時は歩きやすくなったなと思いながら人並みの真ん中を歩いた。  
夏場アロハシャツを着ているとチンピラにお辞儀をされたこともあった。  
 
幸子の父親は何故か対抗するように眉間に皺を寄せて恐ろしげな顔を作って総一郎に言った。  
「幸せになってほしいと思って幸子と名付けた。幸せに、いや二人で幸せになってくれ」  
 
警察に入り忙しい総一郎がある日帰ると荷造りの真っ最中だった。  
「おい、何だこれは」  
「あら、おかえりなさい。家を買ったのよ。次からは間違えないで"お家"に帰ってね、お父さん」  
「んね!おとうさん!」  
幸子の足下で小さい月がまとわりついて幸子の声真似をした。  
 
引っ越して家を間違える事も無くなった頃、粧裕が生まれ、仕事はさらに忙しくなった。  
 
 
緩やかに死の淵の端を歩む総一郎の目の前には、  
多くの時間を費やし携わった事件の関係者犯人の顔などよりも、  
少しの時間を過ごした家族との風景がアルバムを急いで繰るように表れては消えた。  
 
目の前で月が泣いている。  
……何だ、男の癖に泣き喚いてみっともない。  
男はそうそう泣くもんじゃないと小学校に上がる前に言っただろう。  
そう言ってやろうとして、口が重くて開かない事に気付いた。  
 
視界がぼやけた。  
記憶が混濁する。  
そうだ、幸子の所に帰らねば。  
 
いつも総一郎を心配して、分からないように染めた髪からは知れないが、かなりの部分が白髪になっている。  
帰った時のほっとした顔、傷を探っては見せる笑顔。  
笑うとエクボが目立って若い頃の可愛らしい顔を彷彿とさせた。  
……ああ、彼女はやはり幸子だ。  
私の惚れたあの可愛らしい彼女だ。  
 
子供はもう一人欲しいと言っていた。  
「月は……いまいち顔が優しいからねえ」  
「そんな理由か?!」  
優しげな面差しの月より総一郎の険悪な容貌を濃く写した息子を目論んだようだが、娘の場合を考えていない。  
が、警察官にするならそれも良いか?  
だが、三人目をもうける暇も取れなかった。  
「早くしないとさ、アガっちゃうのに……んもう……浮気しようかな……」  
寝室でブツブツ言う幸子の声を子守歌にして寝入った事が何度かあった。  
 
家の灯りが見える。  
今日は間違えずに”お家”に帰ったぞ。  
月と粧裕に自慢してやらないと。  
何故か体が少し痛む。  
 
……今は昭和何年だったろう?  
天皇崩御があったから、もう平成か。  
玄関ポーチの少しの段差が嫌に高い。  
足を引きずって登りインターホンに手を伸ばす。  
腕が上がりにくいが何とか押した。  
もう年だからな、四十肩五十肩は仕方がない。  
警察官として近年にない危険な仕事を負っていた。  
無事な姿を見せることが何よりの土産だ。  
早く。  
パタパタとスリッパの足音が聞こえる。  
なぜか月の泣き声が聞こえた。  
粧裕は学習教材の付録が組み立てられないと言っては箱を開けただけで放り出したのに対し、  
月はいつもきっちり作り、粧裕の分まで教えながら作り、年末には全部きっちり捨てた。  
プロレスごっこと称してまた粧裕に股間を蹴られたのかもしれない。  
急所を蹴るなと厳しく言っておかなくては。  
長子らしい月と次子らしいちゃっかり者の粧裕と、幸子。  
そこへ、何百回も何十回でも望む限り何度でも家に帰れると思っていた。  
幸せにする、いや幸せに四人でなるはずだった家へ。  
 
まだアイドルに熱を上げていた粧裕に幸子が聞いたそうだ。  
「こんな子が好みなの?つきあうの?」  
つきあえる訳が無いと、粧裕が吹き出した。  
「だってカッコイイじゃん。でも結婚するなら、ちょっと顔の怖い人がいいな。便利じゃん?」  
強面の警官が親父が番犬がわりに良いという言外の意味を汲まず総一郎は内心驚喜した。  
幸子の難解な好みの遺伝子は確実に受け継がれている。  
 
川向こうで手を振るのは誰だろう?……幸子の両親だ。  
高齢だった彼らが相次いで亡くなった時も、なかなか幸子の側に居てやれなかった。  
温厚そうな父親は末っ子の幸子を嫁に出すつもりはないと出生時に病院で叫んだらしい。  
お母さんが元気がない、好きだったテレビのファミリードラマを見ないと兄妹の拙い手紙が、警察の総一郎宛で届いた。。  
詰めっきりだった現場から無理に帰ってみると、驚いた表情の幸子の頬がげっそりとこけていた。  
幸せにすると義両親の墓前に誓った筈なのに……鼻の奥がツーンとなったのを風呂に入って誤魔化した。  
あれから何とかそれも乗り切って幸子も元のようにふっくらとした。  
 
 
「お父さん?おかえりなさーい」  
また確かめもしないでチェーンを外している。  
だが、別に間違いでも無し。  
今日ぐらいは良いか。  
鍵の開く音、ドアのノブを回す音が奇妙な感じに、ひどくゆっくり聞こえる。  
ああ、帰って来た。  
幸子。  
――――あなたに、会いたかった。  
 
 
総一郎の意識は途切れた。  
 
 
「父さん!」  
目の前で息子が泣いている。  
バカだな、何度言えば分かるんだ。  
男はそうそう泣くもんじゃない。  
そのでかい図体でもう粧裕に虐められたんでもないだろう。  
言ってやりたいのに、口が開かない。  
口も手も体中が重い。  
少し眠って起きたら又相手をしてやろう。  
たしか先々週キャッチボールの約束をしたはずだ。  
今度こそ約束通りに。  
 
 
総一郎の意識はそこで深い闇に飲まれた。  
 
 
「お帰りなさい!」  
玄関まで走って飛び出した幸子は、何もない夕暮れの通りを見て一瞬呆けたように立ち尽くした。  
「お母さん?」  
奧から粧裕が出てくる。  
最近は賑やかしに粧裕の友人を夕食に招くことも多いが、今日は二人ばかり。  
冷たい風が吹き込んだ。  
よく確かめてからドアを開けろと言われていたのを思い出し、慌てて戸を閉めた。  
「なんだか、お父さんが帰って来たような気がして」  
「やっだなー、ボケちゃ」  
二人とも不安に少しの胸の痛みを感じながら明るく話す。  
今は、月も父も家に居ない。  
さっき物音がしてインターホンが鳴ったような気がした。  
粧裕は聞こえなかったという。  
「ほれはー、お向かいの家じゃないの?」  
口一杯に粉吹き芋を頬張ったまま粧裕が言う。  
「そうね」  
女二人は膨れ上がる胸騒ぎを大量の湯豆腐に置き換えた。  
 
『総一郎絶命』完  
 
 

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