キラ事件が終結して、もう一年と二ヶ月が経った。  
終結と言っても、その事実自体は公表されておらず、  
その始終を全て知っているのは俺を含むほんの数人に過ぎないのだが。  
世の中は以前の通り、賑やかで、鬱陶しく、  
悪も善も入り混じる、混沌とした世界に戻っていた。  
月君がキラだったと言う事実は、これまで共に捜査してしてきた  
者たちにこの上ない衝撃を与え、俺などはまだいいが、  
月君と付き合いも長く、彼に好感を持っていた松田などは  
しばらくの間抜け殻のようになっていたかと思えば、  
最近では、奴にしては妙な憶測(いや、むしろ願望とも言うべきか)まで  
考えるようになってしまっている。  
俺にとっても、あんな後味の悪い終結になるとは、予測の範囲を超えていた。  
しかし、本当に俺達などはまだいい方だ。  
俺たちは、こうして普通に警察官としての人生を(何が普通で何が普通じゃない  
かなんてわからないが)過ごしていけるだけ、マシなのだ。  
 
たくさんの大切なものを失ってしまった、彼女達に比べれば。  
 
 
「今日は、伊出さんお一人?」  
にっこりと、微笑む彼女。  
月君が死んだ、――キラに殺された、とだけ伝えられ、悲痛な嗚咽を漏らした母と、  
全てを悟っているかのように表情も変えず、静かに頬を濡らした彼女。  
当時の俺は、彼女のその態度がひどく不自然に思えてならなかった。  
松田にそれを言うと、  
「辛い事が続きすぎて、感情が麻痺してるのかも知れないですよ」  
と返ってきた。  
 
確かに、それも一理あるかも知れないが、俺にはそれ以外の何かがあるのではないかとも思った。  
元々松田は深く物事を考える方ではないので、それっきりその話はしていないが。  
「いつも、ありがとうございます。こんな綺麗な花、持ってきて頂いて……」  
「…いや、それは松田が選んだものなんだ。松田も本当は一緒の予定だったんだが、  
急に他の事件の現場に駆りだされてしまってね。」  
「そうだったんですか。お忙しいんですね、皆さん」  
彼女は、微笑んでいる。けれど、これが彼女の本当の笑顔でない事位、  
以前の彼女を知らない俺でも見て取れる。  
俺たちは、月に何度か――最低一度、彼女の休養する病院に訪れている。  
それは松田がひどく彼女の事を気にかけているからだ。  
未だに社会復帰できず、伏せっている彼女――夜神粧裕。  
マフィアに誘拐・監禁され、その直後父親を亡くし、しばらく後に兄さえも失った彼女。  
確かに、彼女の受けた心の傷を考えれば、それは決して不自然な事ではないのかもしれない。  
しかし、俺が彼女の元へ訪れるのは、やはりあの時の態度が引っかかっているからなのだろうか。  
純粋に彼女を心配している松田と、どこか好奇の目で彼女を見る俺と。  
いつもは二人で彼女を見舞っているのだが、今日は俺一人。  
「…………」  
「…………」  
……いかん、ダメだ、間がもたん。  
誰か助けてくれ。  
いつもはあの賑やかな松田がいるお陰で、こんな気まずい沈黙が訪れる事はまず無い。  
元々女性に対して気の利いた台詞が出てくる方では無いので、俺はすっかり参ってしまった。  
何かを言った方がいいのか、言うとしたらどんな言葉を掛けるべきか。  
……この歳になって、何でこんな事で悩まなくてはならんのだ。  
自分で自分が情けなくなってきた。  
彼女の母親は夕方にならないと戻らないらしいので、完全に二人っきりだ。  
来てからまだ10分経っていないと言うのに。しかしもう限界が…!  
「……じゃ、じゃあ……お大事に…今度は松田を連れて来る…」  
心の中で舌打ちしながら椅子を立ち、ベッドの側から離れようとしたら。  
 
「――伊出さん、お聞きしたい事があるんです。」  
「……?」  
俺が立ち上がるのと、ほぼ同時だった。  
彼女は抱えていた花束を、側の小さなテーブルに置いて、俺を見据えた。  
こんな彼女は初めて見た。  
その目は、まるで何かを決心したかのような、とても心の病に伏せっている  
女性とは思えぬ、力強さを持っていた。  
その目に、射抜かれそうになりながら、俺は彼女にどうにか言い返した。  
「聞きたい、事?それは…」  
兄の、月君の事だろうか。まさか、彼の正体を、キラだと言う事を知っているとか?  
それとも、夜神次長の事か?他には……あー…他には…?  
彼女が聞いてくる可能性があるように思われる、考え付く限りの質問の内容と、  
それに対する答えを必死に頭の中に思い巡らせる。  
こんな時、月君やニアならば、どんな質問をされてもうまくはぐらかし、相手を  
丸め込ませる事が出来るのだろうと思うと、何だが妙にうらやましくなった。  
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか。彼女は、俺に問う。  
それは、俺の推測し得る、どの質問でもなかった。  
「『L』を、知っていますか?」  
「…!?…『L』…?」  
まったくの、予想外の質問だった。『L』……『ニア』の事を言っているのか?  
ニアの事だとすると、これは彼女に伝えていい事ではない。  
以前の『L』がそうであったように、もはやニアは前『L』の後を引き継ぎ、  
正式な『L』としての地位を固めつつある。  
一般の人間に、彼の正体を明かすわけにはいかないのだ。  
「いや…俺は知らない。何故…君が『L』の事を知りたがる?」  
「…そうですか。じゃあ……質問を変えます…。  
『竜崎』を、知っていますか?」  
――何だって?『竜崎』を、知っている?何故、彼女が?  
 
俺は、前『L』を知らない。あの頃はまだ捜査に加わっていなかったし、  
『L』を信用してもいなかった。  
けれど、松田や夜神次長から前『L』と行った捜査の内容は聞いているし、  
『L』と月君と弥が手錠で繋がれたビデオを見せてもらった事もある。  
『L』を見た印象は……とてもそんなすごい探偵には見えなかったと言うのが本音だ。  
どちらかと言うとかなりの変人っぽく見えて、思わず首を傾げたものだ。  
彼は、確かに『竜崎』と名乗っていた。  
月君をキラだと、最後まで疑いながら心臓麻痺で死んでしまったそうだ。  
何故、彼女が知っているのだろうか?  
「…どうして、君が『竜崎』を知っている…?!だとしたら、  
さっき君が俺に聞いた『L』というのは……!」  
動揺を孕んだ俺の声を受け止めて、彼女の表情がぱっと明るくなった。  
「!知っているんですね、伊出さん!聞いてみて、よかった…。  
何となく、松田さんには聞きづらくて……ずっと、悩んでたんです。」  
「どうして、前『L』を……もう何年も前の話なはず…!」  
「…『前』…?」  
彼女の表情が、にわかに強張る。笑顔が消え、代わりに凍りつくような空気が彼女を纏う。  
――もしかすると、これこそ、言ってはいけないタブーだったのでないか。  
彼女の持つ張り詰めた空気に、俺は、次の言葉が出てこなかった。  
「…『前』って、事は……じゃあ、やっぱり、竜崎さんは……!」  
彼女の瞳から大粒の涙が零れ、小さな肩を震わせて、シーツをきつく掴む。  
――その様が、あまりにも哀れで。  
知らぬ事だったとは言え、自分がいかに残酷な事実を告げてしまったのかという事を、  
今更ながら思い知る。  
 
「……君は…前『L』を…知っていたのか……」  
「う……ぅ……!」  
嗚咽を漏らす彼女。  
そうだ――これだったのだ。  
俺が彼女に対して抱いた違和感。  
これが、大事な人間を失った者の、当然の行動ではなかったか。  
「………君は……、……。」  
彼女に問いたい事はいくらでもある。  
しかし、問いかける言葉はそれ以上の音を紡がなかった。  
せめて、彼女が泣き止むまでは。そう、思った。  
彼女は、決して、悲しみに麻痺していたわけでは無い。  
感情を失ってしまったわけでも無いのだ。  
けれど、兄を失った悲しみは何かに邪魔――或いは戒められて、  
素直に表現する事が出来なかったのではないか。  
「っ…ごめん…なさい……伊出さん……私……」  
ひとしきり泣き終え、涙がようやく落ち着いた頃、  
目をごしごしと擦りながら、彼女が俺に話しかけてきた。  
真っ赤に腫らした目が、酷く痛々しくて、胸が痛んだ。  
「いや……いいんだ……。それよりも……もう、大丈夫なのか?」  
「はい…」  
涙に潤んだ目を俺に向けて。それでも、そんな表情さえも、  
彼女の美しさを際立たせていた。  
「……私は…『竜崎さん』――『L』の事が好きでした。ずっと前から…」  
「……そうか…」  
もう、今更何を言われても、驚く気がしなかった。  
いやむしろ、さっきの彼女を見ていると、そうとしか思えなかった。  
愛する者を失った絶望に、ひたすら泣く事しか出来ない哀しい女性の姿。  
 
「覚悟はしてたんです……どんな事実を聞いても、大丈夫って思ってたけど…  
やっぱりダメでした…。伊出さん、『L』は……」  
「…ああ。俺が捜査に加わったのは…前『L』が…死んでからだった……」  
彼女の頬に、また涙が伝う。けれど、先程のように嗚咽を漏らす事はなかった。  
これこそ、前に俺が見た、兄を失ったと知った時の、彼女の表情そのものだ。  
「伊出さん、教えてください。伊出さんが、知っている限りの事でいいんです。  
兄は――月は、『キラ』だったんですか?」  
彼女の問いに、俺はその答えを言い惑った。  
しかし、……俺には、彼女にそれを隠す理由が思い至らなかった。  
きっと彼女は、全てを悟った上で、俺に聞いているのだろう。  
彼女なりに掴んだ真実を、確固たるものにするために。  
「…そうだ…。君の兄――月君が…『キラ』だった…」  
「――なら、『L』は……お兄ちゃんに、殺されてしまったのね…?」  
「……多分、そうだと思う……」  
いかに自分が残酷な事実を彼女に告げているのかがよくわかる。  
たった一人の愛する兄に、愛する男を殺されてしまったのだ。  
彼女は異様な程冷静で、気丈に振舞っていたが、まだ二十歳そこそこの  
彼女には、その事実がどれだけの苦痛になっているだろう。  
「伊出さん……こんな事話すの、初めてです。聞いて頂けますか…?」  
「ああ……」  
頷く事しか、俺には出来ない。気の利いた慰めの言葉が出るわけではない。  
こんな俺でよければ、いくらでも。  
そんな、不思議な気持ちになった。  
彼女の瞳は、悲しげで、寂しげで。それなのに。  
何故か、嬉しそうに見えるのは、俺の錯覚だろうか?  
「…もう……いいよね、竜崎さん……ずっと、『約束』、守ってきたから……」  
――私を、自由にしてください。  
 
そう、呟く彼女を。俺はただ、見詰める事しか出来なかった。  
それから、彼女はぽつりぽつり、と俺に語り始めた。  
どういう経緯で『L』と知り合ったのか。  
どうして、『L』を愛するようになったのか。  
まだ中学生だった彼女が――得体の知れない、幾つも年の離れた男を  
愛すのに、どれだけの覚悟がいった事だろう。  
それを考えると、なぜだか無性に腹が立った。  
彼女にでは無く、前『L』に。  
彼女に、そこまでの傷を与えたまま、死んでいった男が、酷く憎らしく思えた。  
未だに彼女を縛り付けるその男が、羨ましくさえある。  
……おいおい、俺は何を考えてるんだ…。  
「伊出さんは、『L』の本当の名前は知ってますか?」  
「え…?いや、そう言えば聞いたことが無い……  
前『L』に関しては何一つ資料が無いらしいからな…。最初からずっと  
一緒に捜査していた松田でも、それは知らないらしい。」  
「私も、彼の事何にも知らなくて……彼、嘘つきだったから。」  
そう言って、微笑む。  
騙されていたと言うのに、何故あの男をそこまで許せる?  
何故、そこまで愛せる?  
「でも、 一つだけ、教えてくれたの。彼の、『名前』を。」  
……は?何だって?前『L』の、名前を?  
「まさか……」  
当時の段階では、本当の名を誰かに明かすと言う事は、  
この上ない危険を伴う行為だったはず。  
松田や摸木、夜神次長も、偽の警察手帳を持って、捜査にあたっていた位だ。  
それを、『L』が、彼女に?  
「もしかして、それも嘘だったのかも知れないけど……でも、私は本当だと思うんです。」  
そう告げた彼女は、まるで憑き物が取れたかのように、清清しい笑顔を見せた。  
その表情は、ようやく雨が降り止んだ青空のように、綺麗だった。  
 
俺は、それ以上何も言う事が出来なかった。  
彼女に真実の名と深い傷を残し、死んでいった男を思う。  
おそらく、あの状態で彼女に真実の名を告げると言う事は、  
きっと男も、彼女を信じ、愛していたのだろう。  
彼女は、キラである兄を持っていたのだ。彼女の口から、  
月君に本名が知られても、まったく不思議な事ではない。  
それでも、彼女に真実を告げた。  
案外、不器用な男だったのかも知れない。  
今となっては、男の本当の気持ちなど、わかる術など無いのだが。  
「ふぅ……何か、これでやっとすっきりしたぁ……」  
彼女の表情は、先程と違い、ひどく穏やかになっていた。  
もちろん、悲しみが消え去ってしまったわけではないだろうが。  
「私、たとえお兄ちゃんがLを殺したとしても、お兄ちゃんが、キラ  
でも……それでも私は、お兄ちゃんが好き。だって、たった一人のお兄ちゃんですから。  
私には、優しかった。だから…憎むなんて出来ない。  
けど、Lの事も好き……誰かに、聞いて欲しかったの。  
好きな人が出来たって。誰にも教えた事の無い、真実の名前を私だけに  
教えてくれたんだって。誰かに…知ってもらいたかったの。  
やっと、話せた……嬉しい…!」  
彼女の、嬉しそうな笑みに、思わず俺は心臓が高鳴った。  
こんな気持ちは初めてだった。  
何故、彼女が俺にここまで打ち明けてくれたのかはわからない。  
或いは、Lを知っている者になら、誰でもよかったのかも知れない。  
それでも―― 俺を、彼女の大事な秘密を共有する者に選んでくれた  
事が、ひどく誇らしく思えた。  
同時に、この娘を、この笑顔を――守りたい、と思った。  
 
「ありがとう、伊出さん。長話になっちゃった。  
忙しい中お見舞いに来てくれたのに、引き止めてごめんなさい。」  
申し訳なさそうに言う彼女が――ひどく愛しくて。  
「……家には…まだ戻らないのか?」  
もう、彼女はどの位家に帰っていないのだろう。  
本来なら恋人や友達と、楽しい日々を過ごしている年頃だと言うのに。  
真っ白で簡素で、味気ないこの病室は、若く美しい彼女には全く持って似つかわしくない。  
彼女には、もっと……。  
「そう、ですね……なんか、今日は色々と吹っ切れた事が多かったから…  
そろそろ、戻りたいなぁ…」  
精神的な病が、そうそう簡単に癒えるわけではないだろう。  
いや、これは彼女に一生付き纏う闇には違いない。  
しかし、彼女が立ち直ろうとするきっかけにはなっただろうか。  
 
見守りたい。  
彼女が、立ち直れるなら。  
彼女が、笑ってくれるなら。  
俺は、どんな事でも――  
 
「俺では……ダメか?」  
「…?伊出さん……?…や…っ!?」  
訝しげに見る彼女を、俺は思わず、抱きしめていた。  
おい、俺は何をしてる?こんな事して、彼女を怖がらせてどうするんだ?  
 
己を叱咤しながらも、それに反して俺の腕は彼女を捕まえて放さなかった。  
「や、嫌っ…!伊出さんっ…!何…?!」  
俺の腕から、彼女は身を揺すって逃れようとする。  
彼女の身体は小さく、か細く、ほんの少し力を込めれば、  
簡単に折れてしまうのではないかと思った。  
 
――こんな小さい身体で、耐えてきたのか。  
 
愛しさが込み上げ、もがく彼女をなだめる様に、静かに囁いた。  
「聞いてくれ…。俺では、君を助けられないか?  
俺は……Lの代わりにはなれないだろう。松田のように、君に気の利いた言葉を  
掛けてやる事も出来ない。しかし……」  
彼女の身体から、徐々に力が抜け落ちていくのを感じた。  
俺の思いが、彼女に少しでも届いてくれるなら。  
「俺は……君の力になりたい。君に――幸せに、なって欲しい。」  
「――……」  
彼女の身体が強張る。俺の言っている事に、おそらく戸惑っているのだろう。  
彼女を離し、細い両肩に手を置いて、彼女の顔と向き合う。  
彼女はまた涙を浮かべ、しかし真っ直ぐに俺を見詰め返してきた。  
「…でも…私はLやお兄ちゃんを…忘れる事なんて……」  
「無理に忘れる必要なんてない。愛した人を無理して忘れる事が、  
幸せの形では無いと俺は思う。だが、探せばきっと、違う形で、  
幸せになる方法が見つかるだろう。――俺も、力を貸すから…」  
「伊出さん……」  
ぽろぽろと涙を流す彼女を、俺はもう一度抱き締めた。  
自分よりも、はるかに年下の女性に、こんな気持ちになるとは思ってもいなかった。  
……一体いくつ違うんだ?数えるのが怖いんだが…。  
 
「粧裕さん……」  
今度は、何の抵抗も感じなかった。  
俺の腕の中に、すっぽりと収まっている彼女の名を、初めて呼んだ。  
彼女の呼吸が俺の首筋にかかり、それがひどく愛おしくて。  
「伊出さん……」  
彼女の俺を呼ぶ声に、俺の理性は呆気なく焼き切れてしまった。  
彼女の濡れた唇に、俺は自分のそれを、静かに重ねた。  
「んっ…!」  
驚いたような表情は最初だけで、俺が舌を差し伸ばすと、  
彼女は目を伏せてそれを迎え入れてくれた。  
それを見て、思わず目頭が熱くなり、夢中で彼女の唇を吸った。  
深く深く、彼女の口内に侵入し、彼女の舌に絡ませた。  
「……んっ……」  
彼女の熱が、俺の思考を狂わせていく。  
唾液の混ざり合う濡れた音が病室に響き、時折漏れる苦しげな吐息が切なくて。  
「は……」  
唇を離すと、唾液の筋が互いの唇を伝う。  
上気した彼女の顔が、目の前にあった。  
それは、先程の健康的な美しさではなく、どこか魅惑的で、  
扇情的な美しさが張り付いていた。  
「伊出…さん……」  
「…すまない。俺は不器用で……Lのようには、いかないかも知れないが…  
出来るだけ、…優しくする…」  
……馬鹿か俺は。何予め他の男と比べるような事を口走ってるんだ。  
しかし経験不足だけはどうにも否めない。  
最後に女性と付き合ったのは、大学の頃にまで遡ってしまう。  
それっきりだ。  
 
彼女に苦痛を与えたくは無いが、万が一与えてしまった場合の免罪符  
の様な台詞に、心の中で涙した。  
「ふふっ……」  
そんな心が彼女に伝わったのか、彼女が突然くすくすと笑い始めたのだ。  
俺は思わず、顔が熱くなっていくのを感じた。  
彼女を傷つけるどころか、俺の方が余裕が無い位だ。…情けない。  
「そんなに、気負わなくてもいいのに……私だって…その…  
たったの一回だけだったし……」  
顔を赤らめながら言う彼女が、まるで少女のように可愛く見えて。いかん…重症だ、俺は。  
「でも、…Lは、Lだから……きっと、誰も、彼の代わりなんて出来ないから……  
――お兄ちゃんの代わりも……お父さんの代わりも……  
他の誰にも、きっと出来ないのよ……だから……」  
耳元で囁かれた言葉が、俺の神経を刺激する。  
「伊出さんの代わりも――誰にも、出来ないの……」  
その優しさにすがりつくように、俺は彼女をベッドに押し倒し、彼女の上にかぶさった。  
 
 
 
*****  
 
 
彼に突然抱きすくめられた私は、恐怖と――何よりも、Lや家族以外の男の人に  
触れられた嫌悪感とで、胸が張り裂けそうになった。  
力強く私の背中に手を回され、私は彼の腕から何とか逃れようと躍起になる。  
夢中で抵抗する私の耳に、彼の言葉が降ってきた。  
小さな、声で。  
まるで、『L』があの時私に囁きかけてくれた、  
そぼ降る雨の囁きのような、静かで、心地良い声で。  
その声を――彼の真摯な言葉を聞かされるうちに、  
私は自分の中で、何かが変わりつつあるのを感じた。  
彼の口付けを受けた時にも、確かに恐怖は拭えなかったが、  
何故か、先程までの嫌悪感は感じなかった。  
口付けを終えて、私が目を開けて彼を見ると、  
彼の顔は真っ赤で、必死で。  
その上、ひどくLを意識したような言葉を口にするものだから、  
私は思わず、失礼かなと思いながらも、どうしようもなく笑いが込み上げてきてしまった。  
そんな彼の必死な様は、私に微かな余裕さえも与えてくれた。  
本当は、怖いはずなのに。  
怖くて怖くて、どうしようもないはずなのに。  
それでも、彼ならば、そんな私を変えてくれるのではないか――と。  
 
彼は一度私から離れ、電気を消して、病室のカーテンを閉めてくれると、  
まだ昼とは言え病室はひどく薄暗くなった。  
それに安堵した私に、彼はベッドを軋ませながら、再び覆いかぶさってくる。  
「は、伊出…さん……」  
私の上の彼は、全く余裕を欠いていた。  
唇を何度も重ねてくるのに、私は精一杯それに応えた。  
最初はかさりとしていた彼の唇はやがて潤い、私の唇と同じ温度になる。  
遠慮がちに唇の隙間から僅かに舌を差し入れてきたけれど、  
戸惑うように私の歯列のあたりを彷徨っている。  
……何だか、彼の方が困っているみたい。  
もしかしたら、私が怖がってる場合じゃないのかも……。  
心の中でそんな事を思いながら、思い切って私は自分から舌を彼に絡ませてみた。  
すると、彼の方が驚いたように、一瞬動きが止まる。  
そんな彼の些細な動作や表情が、何だかかわいく見えた。  
一度触れ合う事で、互いの緊張が僅かにほぐれ、彼の舌を私の口腔で  
受け入れて、粘り気のある水音を立てながら互いを貪る。  
うねうね、うねうねと私の口腔を舐めまわす彼のシャツをぎゅうと掴み、  
息苦しさに思わずくぐもった声が漏れた。  
それが合図となって、淫猥な口付けを終えると唾液の筋がとろりと  
途切れ、そのまま彼の唇は私の首筋へと降りていく。  
私は覚悟を決めて、きつく目を閉じる。  
首筋を舌でなぞられ、くすぐったさに思わず身を強張らせた。  
そんな私の様子を心配してか、彼が私を不安げな顔で覗き込む。  
「怖い…か?粧裕さん……」  
「いいえ……大丈夫、です……心配しないで…」  
怖くないと言えば嘘になる。でも今は、その恐怖を越える何かを手に入れたかった。  
彼の優しさにすがれば、何かがつかめるのではないかと思った。  
だから、私は彼の愛撫を促すように、微笑んで見せた。  
 
彼の安心したような表情を受け取って、私はまた目を伏せる。  
彼は私の首筋から鎖骨へと唇を滑らせていくと、私の身体を包むワンピース型の  
寝巻が、彼の愛撫を妨げていた。  
彼は私の寝巻のボタンを一つ一つ丁寧に外していき、前を広げると、  
下着越しに私の胸に触れてきた。  
「あ…!」  
私は触れられた部分から電流が走ったように、全身が総毛だった。  
思わず身体を強張らせる私の髪を、まるでよしよししてくれるように  
撫ぜてくれて。  
…小さかった頃、よくお父さんが私によしよししてくれてたなぁ。  
そう思うと、不思議と緊張が解れていった。  
よく考えたらお父さんって呼んでもおかしく無い年齢差なんだな、と妙に納得する。  
私から力が抜けると、大きな手が再び私の胸を弄る。  
「んっ……」  
下着越しの感触に、私の身体はにわかに熱くなる。  
何だかもどかしくて、じれったくて。私の心臓の音が彼の掌を通して伝わって  
いるのではないかと思うほど、息が苦しくなる。  
「は、ぁっ……伊出…さん……」  
それは苦しげで、けれど自分でもわかる程、甘い響きが混ざっていた。  
私の声を聞いた彼は、私のハシタナイ意図を汲み取ったのか、  
一つ息を呑んで、私の身体を僅かに浮かせ、背に手を回す。  
ブラのホックに指先を掛けて、戸惑いながらも意外と簡単にそれは外された。  
同時に胸を押し隠していたものを剥ぎ取られ、私の胸が彼に晒される。  
「あ……」  
見られている羞恥に思わず目を伏せて、溜め息を漏らした。  
彼は私の胸をじっと見詰めているのか、視線がひどく痛い。  
すごく、恥ずかしい…。  
 
「や、見ないで、下さい……」  
「……綺麗だ……すごく……」  
彼の感嘆したような溜め息と共に、そんな言葉が耳に注がれる。  
綺麗だと言われて嬉しくないわけではないけれど、それよりも  
羞恥心の方が先立って、視線から逃れるようにきつくきつく目を閉じた。  
見計らうように、私の左胸に、彼の掌が直に触れる。  
「あっ…ん…!」  
左胸をやわやわと揉まれ、右胸の先端を軽く吸われて、甘く痺れるような感覚に、  
思わず声が漏れた。  
「っあ、ふ……」  
彼は私の突起を優しく食みながら、舌先でころころとそれを転がす。  
その感覚に私の身体は打ち震えた。  
彼の愛撫はたどたどしく、ぎこちなく、けれど確かに熱い体温が――  
優しい温もりが、私に彼の想いを伝えてくれた。  
それが下腹部へ直結しているかのように。  
身体の芯が、熱くなっていく。  
「あ、は…ぁっ……」  
身体の奥が疼き始めるのがわかる。  
この感覚を、私は知っている。  
じわりと液体が下着を湿らせていく感覚に、ゾクリと震えた。  
「んっ…っ…!」  
彼の手は私の胸の感触を確かめながら、舌先は尖った先端から  
膨らんだ曲線をなぞりながら降りていき、腹部の窪みを通り越して下腹部へと移動する。  
 
ねっとりとざらついた感触が、私の身体を侵食していく。  
「粧裕さん……いいか?」  
彼の舌が辿りついた先は、まだ彼の目に晒されていない場所。  
ワンピースのボタンはまだ腹部から下は外されていない。  
彼は、まだ繋がったままのボタンに手を掛け、私を心配げに見詰めてくる。  
私は口元で笑みを作って、小さく頷いてみせた。  
すると彼はぎこちない手つきで、そのまま私の最後のボタンまでを外していった。  
全て外し終えると、それは自然にはらりと私の身体から滑り落ちた。  
たちまち私の肌が露わになって、思わず固まった。  
「やっ…!」  
ショーツは既に湿っていて、彼の愛撫で私の身体の奥からは絶え間なく  
愛液が滲み出ていた。  
それがひどくはしたないように思えて、目をぎゅう、と瞑った。  
彼の顔が直視出来ない。  
たったあれだけで、まだ其処には触れられてもいないのに、  
もうこんなに乱れているなんて。  
「…すごい、な……もう…こんな……」  
下着越しに、私の濡れた其処を指先で押さえてくる。  
「っぁ…!」  
びくっと身体を震わせる私を見て、彼は僅かに微笑んだ……気がした。  
私は彼の顔を見ていないけれど、何となくそんな気配がしたのだ。  
私の事を淫乱な女と思っただろうか。  
確かにそう思われても仕方が無いかも知れないけど……自分ではどうしようもないのだから。  
思い出してしまう。あの時の事を。たったあの時一度だけだったのに、  
彼は私の身体に深い記憶を残していった。  
快楽も、痛みも、その儚さも。  
 
「伊出…さん……」  
目を開けると、そこには優しげに微笑む彼の顔があった。  
私が目を開けるまで待っていたのだろうか。  
恥ずかしさと不安で、私はまた目が潤んできた。  
「大丈夫か…?粧裕さん…嫌だったら止めても……」  
そう言う彼の下腹部が、私の腿に僅かに当たっていた。  
彼の昂ぶりが直に感じ取れて、また顔が熱くなる。  
ああ、本当に優しい人。  
本当は、自分だって大変なはずなのに。  
その優しさを知っておきながら、止めて、なんて言えるはずも無い。  
「大丈夫……です…」  
照れるように私が言うと、彼は私のショーツの両端に手を掛けて、  
するすると脱がしていく。  
濡れた其処が外気に触れることで、私は自分の濡れた其処が  
彼の目に晒されていることを悟る。  
恥ずかしくて、また目を瞑ってそれに耐える。  
すると、衣擦れのような音が、私の耳に落ちてくる。  
薄っすらと目を開けると、それは彼が自分の服を脱ぐ音だったみたいで。  
上着を脱ぎ捨て、ネクタイを解き、シャツのボタンに手を掛けた所で  
私は慌ててもう一度きつく目を瞑った。  
男の人の着替え…この場合脱いでいるのだけれど、それを見るのは  
何となく気恥ずかしくて、気が引ける。  
衣擦れの音がしなくなったと同時に、彼の私を呼ぶ声が聞こえた。  
薄暗いとは言え、カーテンの薄衣越しに外の光が入り込んでくるのに、  
彼の身体がそれに照らされはっきりと見て取れる。  
背中にシャツを羽織っていたものの、男らしい体つきは私の目を奪い、  
直に伝わる体温が温かかった。  
 
「粧裕さん……」  
彼も同じ思いだったのかな。彼の身体を見る私の視線に、照れたような表情を見せる。  
つられて私も照れくさくなって、思わず目を背けて……って、私のほうがよっぽどひどい格好なのに。  
上半身だけとは言え、彼も服を脱いでくれたことが私に微かな余裕を与えてくれた。  
けれど、そんな余裕は次の瞬間にあっさりと消えてしまった。  
彼は私の下腹部を掌で撫ぜると、今まで以上の快感に背筋がぞくっとする。  
「あ……!」  
私の秘所を隠す薄い茂みを掻き分けて、その双丘の間でひっそりと息づく  
濡れた突起を指先で探り当てられ、くにゅ、と押しつぶされる。  
「やぁ…っ!や、だっ……あっ…!」  
思わず口から漏れた拒絶の言葉でさえ、もうその意味をなさない。  
漏れ出る声は甘く、吐息は弾み、言葉に反して身体はその刺激を求めていた。  
溢れる蜜に、彼の舌が絡まる。舐め取るような彼の舌の動きに私は背を引き攣らせた。  
「あっ…はぁ……はっ……いやぁ…っ」  
快楽に身体が耐えられず、何かに縋り付きたい一心で思わず彼の頭を押さえ込んだ。  
それが逆に彼の行為を促す結果になってしまい、粘膜の内側に彼の舌が  
入り込んでくる感覚に頭が真っ白になった。  
舌先で胎内を蹂躙され、水気を帯びた卑猥な音が私の耳に届く。  
留まる事なく溢れ続ける蜜を吸い取りながら、今度は節だった指先を私の内部に  
差し込んでいく。  
「あ、やだ……や……だめっ…」  
舌とは違う、固い感覚に私の身体は強張った。  
痛みは感じなかったけれど、胎内を弄るその動きに身体が翻弄される。  
「ぅ…っ…あ――あぁ……!」  
全身が痙攣を始め、後少しで登りつめるというところで、彼はずる、と指を引き抜いた。  
 
「は……ぁ、あ…伊出さん……」  
身体が熱い。こんなのは嫌。こんなに切なくて、もどかしくて、苦しい。  
「粧裕さん……本当に、いいのか…?」  
良いも悪いも、もうそんな事はどうでもよかった。  
いつの間にか、覚悟はとっくに出来ていたのだ。  
むしろ、彼でよかったとさえ私には思えていた。  
だから、今は。  
「伊出、さん……お願い……」  
はしたなく切望する私に、彼はスーツパンツのジッパーを外し、私の  
泥濘に猛った彼自身をゆっくりと穿っていく。  
「ん、んんっ――は……!」  
「っ……!」  
本当にゆっくりと、少しずつ押し広げるように私の中に侵入してくる。  
圧迫感に息が詰まったけれど、初めての時のような痛みはない。  
私はその事に安堵し、彼を受け入れていった。  
「んっ……はぁ……は……」  
彼が私の最奥まで辿りついた時、熱い彼の感覚に思わず涙ぐんだ。  
「っ……粧裕さん、…すまない…無理、したか…?」  
それを彼は苦痛と受け取ったらしく、心配げに私を見つめてくる。  
「違う…んです……平気です、から……」  
そう言って、私は精一杯微笑んで。彼の首に手を強く絡ませて、小さく息を吐いた。  
彼も私の身体を抱きしめて、ゆるゆると動き出す。  
「あ、あ、はぁ……あ……伊出さ…ん…!」  
「く、…っ……粧裕、さん…」  
 
私の中で彼が差し入れられる度、粘膜の擦れる淫靡な水音が空虚な病室に響いた。  
まるで生の喜びや楽しみからは無縁のように思えていたその一室は、  
今は確かな生の鼓動に満ち溢れ、彼に揺らされながら霞んだ目でテーブルを見ると、  
そこには彼が持ってきてくれた色とりどりの明るい綺麗な花束があった。  
『L』の姿が、頭を過ぎる。相変わらず猫背で、何だか少し悔しそうな、でも微笑んだ『彼』の顔。  
苦しそうな顔でなくてよかった。少し悔しそうなのは嫉妬なのかな?  
でも、『仕様が無いか』って感じの微笑み。  
私はそれに満足して、ようやく私を今抱いている彼の感覚だけに集中する。  
もう余計な事を考える必要は無い。ただ、彼の熱を全身で感じるだけでいい。  
熱い吐息が私のうなじを掠める。私も同等だったのだろう。  
彼の逞しい胸に抱き寄せられながら、下半身は淫らに交わいながら、  
私は甘い声を上げる。  
「はぁ……あ、あぁ――ん………は……」  
「ぅ、っ……く……」  
彼の苦しげな声と私の声、病室のパイプベッドが軋む音が同調し、病室に木霊する。  
交わりあう互いの淫液が、彼の抜き差しの激しさとともに飛び散り、シーツを汚していく。  
もう、これ以上は耐えられそうに無かった。  
「あ、はぁ……伊出、さ……私…私…っ…」  
はしたなく懇願し、彼の背に爪を立てる私の身体をシーツに縫いつけ、彼は抽出の速度を  
あげていく。  
「ああっ……伊出さん…伊出さんっ……あっ――」  
「粧裕さんっ……!」  
彼は私の奥に一際強く穿ち、私は彼を一際強く締め付けた。  
搾り取ろうと収縮を繰り返す私の内部から彼は自身を抜き取り、絶頂の余韻で動けないでいる  
私の腹部に幾度も白濁を降らせた。  
全てを出し尽くした彼が私にぐったりと倒れこんできた。  
けれど体重は掛けないようにしてくれていたのか重みは感じない。  
熱い体温に私は眩暈を覚え、このままずっとこうしていたい、と思いながら目を閉じた。  
 
 
*****  
 
 
全ての行為が終わった後、俺は激しく自分のした事を後悔した。  
俺は何てことをしてしまったんだ……俺は馬鹿か?いやもう絶対だ、間違いない。  
病室で、まして病人のこの娘に。  
行為の間は彼女の事で頭が一杯で、余計な事を考えるゆとりも無かったが、  
取りあえず皺だらけになったYシャツを着込み、はっきりと理性を取り戻した今、  
俺は頭を抱え込みそうになった。  
彼女も意識を取り戻し、代えの寝巻に着替え、身支度を整えている。  
汚れたシーツ、汚れた寝巻、病室に未だ残る生々しい匂い。  
それにこんな事して、余計彼女の傷を深くしてしまったんじゃないだろうか。  
あああああ、俺って奴は…!  
「伊出さん?」  
「え!?あ、…はい?」  
急に声を掛けられ、思わず敬語になってしまった。  
「大丈夫ですか?」  
「あ……ああ……」  
……おい、俺の方が心配されてるんだが。いいのかこんなので。よかったのかこんなので。  
「あの…お願いしていいですか?後でこのシーツ、病院の洗濯室に  
持って行って頂きたいんです。」  
彼女は微笑んでいる。俺に、笑顔を見せてくれている。  
俺はその笑顔を見て、思った。  
 
――強いな。君は。  
 
俺もその笑顔につられるように、ほっと息をついた。  
「それと……伊出さん……」  
「ん?」  
「私、もう大丈夫みたいです。許可が下り次第、退院する事にします。」  
俺はその言葉に面食らって、彼女を呆然と見詰めた。  
「身体はどこも悪くないから、許可が下りるのも時間は掛からないと思います。  
そしたら…」  
彼女が僅かに俯いて、上目遣いで俺を見詰めてくる。  
…可愛い。胸が熱くなった。  
「また、会ってくれますか?」  
心臓が飛び出るかと思うくらい、俺は驚いた。  
まさか彼女の方からその言葉を掛けてくれるとは思ってもいなかった。  
…これは夢じゃないだろうな。  
「――ああ……もちろんだ……俺は…君を……」  
 
ブーブーブー……  
 
突然俺の上着の胸ポケットの中の携帯が振動を始めた。  
病院内につき一応マナーモードにしてあったのだ。  
二人してそこに脱ぎ捨ててあった上着の方に目をやる。  
「…伊出さん?」  
「……すまない。ちょっと待っててくれ…」  
嫌なタイミングだが呼び出しなら困るので、俺は仕方なく電話を取る…と。  
「……松田だ……」  
携帯の背面画面にしっかりと『松田桃太』の名前が浮かび上がっていた。  
よりによって今一番話したくない相手だ……。  
 
「松田さん…?」  
「ああ……」  
俺は一つ息をついて、心を落ち着けて電話を取る。  
『伊出さん!』  
「ああ、松田か…」  
『事件の方はもう解決つきましたよ!今どこにいるんです?』  
「…まだ病院だ」  
『え?そうなんですか?じゃあ俺も今から行きます!待っててください!』  
「い、いや俺は今から帰るとこ…!」  
 
ツーツーツー……  
 
切りやがった…!あいつは全く…!  
「松田さん…今からいらっしゃるんですか?」  
どうも電話の内容が大体わかったらしい。彼女が俺に問いかけてくる。  
「ああ……どうもそうらしい……」  
「そうですか……」  
互いにバツの悪そうな笑みを浮かべ、一気に現実に引き戻された。  
……松田には今日の事は絶対言えない。  
こんな事があいつに知れたら奴はショック死するんじゃないだろうか。  
というか、どんな顔して奴に会えばいいんだ…。  
取りあえずあいつが来る前にこの病室にそぐわぬ有様をどうにかしようと  
シーツを手に取り、カーテンを開け窓を開いた。青空が、目に入る。  
 
ふと、もう一つ疑問が心に浮かんだ。  
まだ彼女に聞いていない事がある事に気が付いたのだ。  
それは何より、俺の個人的興味からくるものだった。  
「もう一つ、聞いていいか?」  
「はい?何ですか?」  
彼女は身辺を整えながら、俺に笑顔を返してくれながらそう言った。  
「『L』は…君に本名を教えてくれたんだろう?  
だったら君は、Lの本名を知る唯一の人間という事になる。」  
「…知りたい、ですか?」  
「……出来たら」  
悪戯っぽく微笑んで、彼女は俺を手招きする。  
俺が彼女の側に近寄ると彼女は共犯者の笑みで俺の耳に手を添えて  
顔を近づけてきた。小さな声で――しかしはっきりとした口調で、囁く。  
 
 
「『L』の本名は―――――」  
 
 
――窓からさぁっとさわやかで心地いい風が吹き込んでくる。  
長かった冬がようやく終わり、春が近づいた三月の午後。  
 
 
END.  
 
 

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