時はランチタイム。粧裕は中庭で同級生の少女達と仲良くお弁当を食べていた。少女達が数人集まれば、話題には事欠かない。  
昨日見たTVドラマ、流行のオシャレ、格好よい芸能人、嫌いな教師の悪口。  
話題は次々と変わり、年頃の少女らしい「好きな異性」へと移っていた。  
 
「粧裕ってば、本当に好きな人いないの?」  
「いないよ。」  
 
同級生達の質問に面倒くさそうにそう答えると、粧裕はお弁当のから揚げを口の中に放り込んだ。  
グループの中で唯一好きな異性がいない粧裕は、こういう話題が出る度に粧裕は質問攻めにあうハメになるので、いい加減うんざりである。  
少女達にとって、「中学生にもなって好きな異性がいない。」というのは、余程信じがたい事のようだ。  
いっくら「いない」といっても信じてくれず、隠しているのではないかと疑われる始末だ。  
 
「・・・だって出会いもないし・・・・。」  
「そりゃうちは女子高だけど、塾や習い事とかあるじゃん。」  
「そうだよ、そういう所で、いいなあ、って思う子はいないの?」  
「うーん・・・・。」  
 
粧裕は脳裏に、塾や習い事で出会う少年達を思い浮かべる。  
粧裕をからかったり、下品な冗談をいったり、厭らしい雑誌を教室で読みふけっていたり、と、とにかくろくな印象が無い。  
 
「・・・・子供っぽくて駄目。好みじゃない。」  
「そりゃ子供だもん。」  
 
眉間に皺をよせて真剣に首を振る粧裕をみて、少女達はドッと笑い声をあげた。  
 
「じゃあ、どういうのが好みなの?」  
「え?」  
「優しいとか面白いとかいろいろあるじゃん。子供っぽいのが駄目なら、大人っぽい人?」  
「好きな人がいなくても、理想の人ぐらいはいるでしょう?」  
 
理想の・・・・男の人かあ・・・・。  
 
粧裕は思わず箸をとめて考え込む。瞬間、一人の青年の顔が脳裏に浮かんだ。  
 
「うーんそうだな・・・・。優しくて、格好良くて、スポーツも万能で、頭も良くて、エッチじゃなくて・・・・清潔で、礼儀正しくて、それから・・・・。」  
 
粧裕の言葉に少女たちは無言で顔を見合わせる。  
その冷たい視線に気がついた粧裕は、喋るのをやめて、周囲を見渡した。  
 
「・・・わたし、なんか変な事言った?」  
「変な事っていうか・・・・。」  
「粧裕って本当にネンネだね・・・。」  
「・・・いないって。そんな奴・・・。」  
「い、いるもん。」  
「へぇ、どこに?」  
「うちに。」  
「へ?」  
「私のお兄ちゃん、優しくて格好いいもん。頭だっていいし、運動神経だっ・・・。」  
 
最後まで粧裕が言い終わらないうちに、爆笑が起こった。  
少女たちがつっぷしながら笑い転げている。  
 
「な、何がおかしいのよ。」  
「さ、粧裕のお兄ちゃんか・・、ああ、あの東大首席のお兄ちゃんね。」  
「そっかー。粧裕の理想はお兄ちゃんかー。そりゃ恋愛なんて無理だね。」  
「そうそ。まずはお兄ちゃん離れからはじめないと。」  
「なっ・・・・。」  
 
あまりにあからさまな嘲笑に顔を真っ赤にして絶句する粧裕に、少女の一人が  
笑いながら声をかける。  
 
「だってさ、いくら格好よくてもさ、お兄ちゃんじゃ意味ないじゃん。」  
 
 
帰宅後、誰もいない居間のソファに粧裕はドサリと身を投げ出した。  
 
いくら格好良くても、お兄ちゃんじゃ意味無いじゃん・・・か・・・・。  
 
粧裕は昼食時の友人達の言葉を思い返し、思わず粧裕は目を伏せた。  
少女から女へと変わりつつある彼女達の基準は、実に明快だ。  
彼女達にとって、「自分と付き合えるかどうか」が第一のポイントであり、どんなに素敵でどんなに完璧でも、その「対象外」である身内など、異性として問題外なのだ。  
一番身近な――そして好ましい――異性、として兄を見ていた粧裕にとって、友人たちのその意見は新鮮かつ衝撃的だった。  
粧裕は別に、兄と結婚したいとか、つきあいたいと思っていた訳ではない。  
だが、兄がそばにいるから、異性へ興味がいかなかった所はあるように思う。  
粧裕は別にBFや好きな異性がいない事になんの不満も無かった。  
兄がそばにいる、それだけで粧裕は満足だったのだ。  
粧裕にとって兄の月は王子だった。  
月は幼い頃から、常に美しく、賢く、強く、そして誰よりも粧裕に優しかった。  
素敵な兄がいる事は自慢だったし、そんな完璧な兄に愛される我が身の幸運を粧裕は素直に喜んでいた。  
たぶん妹でもなければ、月は自分に目もくれなかった事を、粧裕は知っている。  
粧裕は月のように「特別な子」ではなく、どちらかというと平凡な少女だ。  
人当たりこそいいものの、基本的に他人に興味のない性格である月が、粧裕を気にかけるのは唯一の血を分けた兄妹だからに他ならない。  
その事に自覚があったぶん、だからこそ月から「特別扱い」される「妹」というポジションに自分がいる事が素直に嬉しかった。  
けれど、先程の、少女達の言葉が、粧裕の胸にしこりを残す。  
どんなに素敵でも、それが「兄」であるだけで無意味だという彼女達の意見は、確かに粧裕の痛いところを突いた。  
粧裕は、兄にとって「特別な人間」ではあっても、「最愛の人間」ではない。  
兄にとって粧裕はあくまで妹――何があっても異性としてみる事の無い、世界で唯一の存在――でしかなく、それ以上でも以下でもないのだ。  
素敵な兄がいる事は粧裕の自慢だった。  
 
だが今は、自分が月の妹である事が、月が自分の兄である事が、粧裕には何故か無性に悲しかった。  
 
 
あれ?  
 
粧裕はいつのまにか暗くなった室内を見渡した。  
寝転がって鬱々と考えている間に、どうやら居眠りしてしまったらしい。  
日の落ちた窓の外の景色をみるに、結構な時間眠っていたようだ。  
 
制服・・・皺になっちゃうなあこれじゃ・・・。  
 
溜息をつき、ソファから起き上がると、ドサリと粧裕の体の上に乗っていた何かが音を立てて床に落ちた。  
怪訝に思って拾ってみると、それはベージュのジャケットだった。  
自分のではない、でも非常に見覚えのあるジャケットだ。  
それが誰のものか、そしてその意味する所に思い至り、粧裕は息を呑んだ。  
 
これ、お兄ちゃんの上着だ・・・・。  
 
どうやら月は既に帰ってきているようだ。  
居間で眠る粧裕に気がつき、風邪を引かないように、と自分の上着をかけてやったのだろう。  
そんな月の心遣いを嬉しく思う反面、寝姿を月に見られたという恥ずかしさに、思わず粧裕は頬を染めた。  
居間でスヤスヤと寝こける自分を、月はどうおもっただろう?  
子供っぽいと笑っただろうか。それとも行儀が悪いと呆れただろうか。  
粧裕は自分の迂闊さを呪いながら、ジャケットを手にしたまま立ち尽くす。  
ジャケットは思ったよりも大きく、微かに月の匂いがした。  
思えば、月の物は何であれ、粧裕はろくに触った事がない。  
潔癖症の気がある月は、自分の物も、他人に触れられる事を好まないからだ。  
自分の物は自室以外に決しておかないし、自室の掃除も常に自分で行っている。  
その事を思い出し、粧裕はしげしげと手元にあるジャケットを眺めた。  
 
・・・なんだかんだ言ってもこれって貴重な体験かも・・・・。  
 
粧裕は月のジャケットをそっと羽織ってみる。  
ジャケットは思ったよりも大きく、粧裕が着ると、まるでコートのようだった。  
その温もりと微かに香る月の匂いに、粧裕がドキドキしていると、ふいにポケットから何かが落ちた。  
 
ん・・・?・・何?  
 
慌てて拾うと、それは月の通学定期だった。  
自宅からの最寄り駅名と、東応大への最寄り駅名を結ぶ線、そして夜神月 18歳、の文字を、粧裕は眩しくみつめた。  
誇らしさと愛しさに、思わずそっと月の名前を指でなぞってみる。  
 
・・・あれ?  
 
その時、定期の中央部分がわずかに盛り上がっている事に気がつき、粧裕は指を止めた。  
何か、メモのような物が入っているようだ。  
定期の口から、微かにノートの切れ端めいた物がのぞいている。  
 
・・なんだろう。  
 
思わず反射的に、粧裕は定期入れからそれを取り出した。  
中から出てきたのは、綺麗に四つ折にされたノートの切れ端だ。  
開いてみると、何人かの人の名前とその後に時刻が、几帳面な文字で丁寧に書かれている。  
 
お兄ちゃんの字だよね・・。でも、誰だろう、これ。  
 
これが女性の名前なら、デートの約束かも、と勘ぐる所だが、書かれている名前は全て男性名だった。  
その事実にどこかほっとしつつも、書かれている人名に聞き覚えがあるような気がして、粧裕は首をかしげる。  
 
あ、でも・・・もしかして、これ見ちゃいけないのかも。  
 
急にその事に思い至り、今までその事に全く思い至らなかった自身の鈍さ、迂闊さを呪いながら、粧裕は慌ててメモと元通りたたんだ。  
そのまま定期をそっとポケットに滑り込ませ、ジャケットを脱いだ。  
そして、月がいるであろう二階の方を見上げ、粧裕は微かに頬を染めた。  
 
お兄ちゃんに返さなきゃ。・・・・そして、お礼、言わなきゃ。  
 
 
それにしても、最近随分と仲がいいじゃないか。  
 
階段を上がり月の部屋の前まで粧裕が近づいた時の事だった。  
明らかに月の物ではない、低くくぐもった声音が月の部屋から響いてくる。  
驚きあまり、粧裕は、思わずノックしようと伸ばした手を一旦引っ込めた。  
会話のように思えるが、対する月の返事は粧裕には聞こえてこないかった。  
 
確かにあいつは中々面白い奴ではあるがな。他の奴とは明らかに違う。  
月も案外気に入ったんじゃないか?傍からみていると、楽しそうだぜ、お前ら。  
 
ククク、という不気味な笑い声に生理的嫌悪を感じ、粧裕は眉をしかめた。  
TVか何かの声かと最初は思ったが、声の主ははっきり月の名を呼んでいる。  
という事は当然、月と向かい合って話している誰か、という事になる。  
月の声が聞こえないのは、声が小さいから――というより、相手の声が人一倍でかいのだろう。(何せ扉をしめた状態で、廊下にまで聞こえているのだ。)  
どうやら月の友人のようだ、という結論にいきつき、瞬間粧裕は動揺した。  
 
もしかして・・・・私、お兄ちゃんだけじゃなく、お客さんにまで寝ている所を見られちゃったのかしら・・・・。  
 
自分の想像に思わず粧裕は青ざめて立ちすくむ。男の声は更に続いた。  
 
そうは言うけど、最近のお前達はいつも一緒じゃないか。  
大学にいる間中いっつもつるんでいやがる。正直気味悪いぜ。  
 
からかっているような、それでいてどこか苛立っているような口調だった。  
羞恥のあまりその場を離れて部屋に戻ろうとしていた粧裕だったが、男のその言葉に、ふと興味をひかれた。  
この声の主は何者だろう。随分と遠慮が無いが、月と余程親しいのだろうか?  
そして、その男のいう、「月といつもつるんでいる相手」というのも何者だろう。  
月が誰かと常に行動をともにする、など粧裕には想像がつかなかった。  
月は人当たりはいいが、人と慣れあうのを好まない。  
その月が大学にいる間中、最近常に一緒に行動している相手がいるという。  
その人はどんな男性なのだろうか。――それとも女性なのだろうか。  
 
「なんだ、妬いているのか?」  
 
扉に耳を押し当てると、月の愉快そうな声が聞こえてきた。  
そのくだけた口調に、粧裕は再び驚く。  
どうやら月と話している相手は、相当月と仲が良いようだ。  
身内以外の人物にそこまで月が打ち解けて話す様を、粧裕はかつて聞いた事がなかった。  
 
そんなわけないだろ。気持ち悪い事をいうな。  
「ははは、冗談だよ。」  
月の冗談はわかりにく―――。  
 
月と話している男の声がふいに途切れる。  
その急な沈黙と、どうした、とい訝しげな月の声に、粧裕は慌てて身を引いた。  
これではまるで盗み聞きだ、と自分の行為に粧裕は思わず赤面する。  
一瞬の沈黙の後、低い男の声が、扉越しに廊下に冷たく響き渡った。  
 
月、扉の前に誰かいるぞ。  
 
その声のあまりの禍々しさに、粧裕は思わず鳥肌が立った。  
瞬間逃げ出したい衝動に駆られたが、足が動かない。  
粧裕が固まっていると、ガチャリと鍵を開ける音がし、目の前の扉がゆっくりと開いた。  
扉の隙間から、月が顔をみせる。  
月は粧裕の顔をみると、なんだ、というようにほっとした顔をした。  
そんな月の様子に、粧裕も止めていた息をようやく吐いた。  
 
「どうした?」  
「あ・・・・あの、これ、ありがとう・・・・。」  
 
粧裕がおずおずと持っているジャケットを差し出すと、月は目を細めた。  
 
「どういたしまして。昼寝は制服を脱いでから、部屋でしろよ。風邪引くぞ。」  
「ね、寝るつもりはなかったんだもん・・・。」  
 
唇を尖らせて言い訳する粧裕の様子に、月は薄く笑った。  
その笑顔があまりにも優しそうだったので、粧裕は先程、言いようのない恐怖を感じた事が、なんだか馬鹿らしく思えてきた。  
この優しい兄がそばにいるというのに、一体何を不安がる事があるだろう?  
 
「お兄ちゃん、お友達来ているの?」  
「友達?いや、一人だよ。」  
「え?・・・でも声がしたけど・・・・。」  
 
粧裕が驚くと、月は一瞬奇妙な表情を見せたが、すぐにニッコリと笑った。  
 
「・・・・僕の声だよ。さっきまで携帯で友人と話していたから。」  
「でも、お兄ちゃんの声じゃなか――。」  
 
粧裕は最後までいう事ができなかった。  
月のすぐ後ろに、黒い靄がうごめいている。  
それは不気味にしばらく蠢いていたが、次第にはっきりとした形を取り出し始めた。  
 
何・・・あれ・・・・。  
 
その様子を、粧裕は食い入るように凝視する。目を背けたくても、逸らすことは出来なかった。  
一方、いきなり無言になった粧裕の顔を、月はどうした、と言って怪訝そうに覗き込む。  
先程まで黒い靄だったモノは、今、月のすぐ後ろに、真っ黒な異形のモノとして佇んでいる。。  
落ち窪んだ丸い眼球、潰れた鼻梁、避けた口。身なりは黒いが、肌は青かった。  
明らかに人間の容貌とはかけ離れたソレは、月の真似をするように、興味深そうに粧裕の顔を覗き込んできた。  
 
ん?もしかして、お前は俺が見えるのか?  
 
粧裕の視線を感じたか、ギョロリと大きな眼球を動かし、粧裕を見下ろしてソレが不思議そうに呟く。  
口を開くと、鮫のように恐ろしいまでに尖った歯が裂けた口から覗いた。  
粧裕はその瞬間、意識を手放した。  
 
化け物の声は、先程廊下で聞いた声とそっくりだった。  
 
 
崩れ落ちる粧裕を抱きとめ、自分のベッドの上に横たえながら、月は素早く頭を巡らせた。  
粧裕はリュークの声を聞き、リュークの姿を認識した。彼女がデスノートを触ったのは間違いない。だが、いつ、どこで?  
頬にうちかかる髪の毛を優しく手で払ってやりながら、月は視線を机――デスノートがしまってある――に走らせた。  
小火は起きていない。部屋に入った形跡もない。  
少なくとも、粧裕が触れたのはデスノートの本体ではない。  
となると、財布と定期にそれぞれ入れられたノートの切れ端しか考えられない。  
 
・・・・定期か・・・・。  
 
粧裕が手にしていたジャケットを見て、月はそう結論を出した。  
どういう経緯でそうなったか解らないが、粧裕はジャケットの中から定期をとりだし、中のデスノートの切れ端に接触した、と考えて間違いはないだろう。  
己の迂闊さに思い当たり、月は秀麗な顔をしかめた。  
 
おい月、死ななかったぞ。  
 
ふいに背後から勝ち誇ったような声がした。振り返ると死神が得意げに見下ろしている。  
一瞬言葉の意味がわからず、月は目を見開いて瞬きをした。  
 
お前、言ったじゃないか。お前の妹が俺を見たら、顔を見ただけで心臓麻痺を起こして死んじまうって。  
「・・・ああ・・・・。」  
 
月は曖昧に頷く。そういえば以前そんな事を言ったような気がしないでもない。  
 
でも、俺の顔を見ても、お前の妹は心臓麻痺は起こさなかったぞ。  
「・・・・気絶はしたけどね。」  
気絶と心臓麻痺は違う。  
「どのみち、衝撃的な顔である、という事に違いはないと思うけど。」  
月、それは詭弁だ。大人しく負けを認めろ。  
 
生真面目に答える死神の様子に、月は思わず噴出した。  
 
何がおかしい。  
「いや・・・結構気にしていたんだなと思って・・・・。」  
ふん、柄にもなく優しい兄貴の真似なんかするからこんな事になるんだ。  
「不注意は認めるけど、僕はいつだって妹想いの優しい兄だよ。」  
・・・アイツに気をとられすぎて、最近他がちょっとおざなりなんじゃないか?  
 
露骨な嫌味を含んだ死神の言い様に、月は瞬間不快気に眉を顰めた。  
月の機嫌を損ねさせた事が嬉しいらしく、死神はニヤニヤと不気味に笑いながら更に月に意地悪く悪態をつく。  
 
お前の妹もまだ若いのに気の毒なこった。こんな兄貴を持ったばかりになあ。  
兄貴に似ず、素直そうないい娘なのになあ。  
「・・・・リュークは何か、思い違いをしている。」  
 
愉快そうに月と粧裕の顔を交互に覗き込んでいた死神は、月のその一言に一瞬動きを止めた。  
 
どういう事だ?  
「僕は粧裕を殺したりしない。」  
・・・殺らないのか?  
「ああ。」  
俺の姿を見られたのに?その内お前の正体にも気がつくぞ。  
「まあ、何とかするよ。」  
・・・覚悟の上なら俺は口を出さないが・・・。意外だ。月も肉親には甘いんだな。  
「馬鹿だな、リュークは。」  
・・・何!?  
「今僕の周囲で死人がでたら例え心臓麻痺じゃなくても疑いが濃くなるだろ。」  
・・・なるほど・・・。  
「それに、僕は別に肉親に甘いんじゃない。」  
 
月は気を失っている粧裕を愛しげに見下ろし、ついで死神に向かってニヤリと挑発的な笑みを浮かべた。  
 
「粧裕に甘いんだよ。」  
 
 
 
視界に飛び込んできた見慣れた天井に、粧裕は思わずほっとした。  
ああ、夢だったんだ、としばらくそのまま自室の天井をぼんやりと見上げていたが、すぐに慌てて飛び起きた。  
 
夢?違う、これは夢じゃない。  
 
自分は居間で寝ていたはずだが、ここは自室だ。  
粧裕は制服を着ていた筈だ。だが、今の粧裕はパジャマを着ている。  
 
ど、どういう事?  
 
粧裕が動揺のあまりパニック状態になっていると、ふいに扉をノックする音が部屋に響いた。思わず、ギクリとして粧裕は扉のほう視線を泳がせる。  
 
「粧裕?起きたか?」  
 
月の声だった。一瞬安堵のため息を粧裕は漏らしたが、その途端、先程までの事を思い出し、背筋が凍った。  
月の部屋で見た、あの恐ろしい生き物は何なのだ?  
そのうえ、月は部屋でその異形の者と親しげに話していなかったか?  
それともあれは夢なのだろうか?  
粧裕が混乱状態からの結論を出さぬうちに、扉が静かに開いた。  
キィ、という不気味な音に、粧裕は思わずベッドの上で後ずさる。  
 
「なんだ、起きていたのか。」  
 
扉の隙間から、月が驚いたような表情で顔を覗かせた。  
そのまま肩で扉をあけ、粧裕の部屋に入ってくる。  
粧裕が青ざめながら無言で頷くと、月はそばの椅子を引き寄せ、粧裕の前に座り込んだ。  
 
「まだちょっと顔色が悪いな・・・気分はどうだ?」  
 
心配そうにそういうと、月は粧裕の前髪を優しくかき上げた。  
粧裕はそんな月を恐る恐る凝視する。  
先程の化物はどこにも見当たらなかった。  
 
「熱は無いな・・・・。」  
「お兄ちゃん・・・・私は・・・・。」  
「僕が帰ってきた時、お前は居間のソファで寝ていた。」  
 
それは粧裕の記憶と一致する。そこまでは粧裕も覚えている。  
粧裕が視線で促すと、月は先を続けた。  
 
「最初は昼寝かと思っていたんだけど、顔色は悪いし、ちょっと熱もあるみたいだったから、部屋で寝かせたほうがいいかと思って。」  
「・・・え、お兄ちゃんがここまで運んでくれたの。」  
「ああ。」  
 
粧裕は目を瞬かせた。一連の事は夢だったのだろうか。  
起きたら月のジャケットがかけてあった事も、月の部屋に不気味な生き物が居た事も、全て現実ではなかったのだろうか。  
目の前の月はどこまでも優しそうで、嘘をついているとは思えなかった。  
 
そ、それよりも・・・・ここまでお兄ちゃんが私を運んだってことは・・・。  
 
「あの・・・・お兄ちゃん、このパジャマは・・・。」  
「制服が皺になると思って、僕が着替えさせたよ。」  
「っ!!」  
真っ赤になって絶句する粧裕を見て、月は笑った。  
「嘘だよ。それは母さんがやった。」  
「・・・もう・・・お、脅かさないでよ・・・・・。」  
「ごめん。ところで粧裕、お腹はすいていないか?」  
「あまり・・・。」  
「そうか。夕飯の残り、ちゃんと粧裕の分とっておいてあるからな。」  
「うん・・・ありがとう。」  
「じゃあ、僕はもう行くよ。」  
「え?」  
「薬はここにおいておくよ。お休み、粧裕。」  
 
月はそう言って最後に粧裕の頬をそっと引っ張ると、椅子から立ち上がった。  
 
「ま、待って・・・・お兄ちゃん。」  
「粧裕?」  
「・・・一人にしないで。」  
「どうしたんだ、粧裕。」  
「行っちゃ嫌だ・・・。お願い、行かないで。」  
 
必死に引きとめようとする粧裕の様子に、月が不思議そうに振り返る。  
こんな状態で一人になるのはどうしても嫌だった。  
月はベッドの上に腰掛けると、心配そうに粧裕の顔を覗き込んできた。  
その月の様子があまりに優しそうだったの、粧裕はなんだか泣けてきた。  
自分でも我儘な事を言っているという自覚はあったが、とまらなかった。  
あれはたぶん夢だったのだと思う。でも、なんと鮮明な夢だったのだろう。  
あの時見た化け物の姿を、いまだ粧裕はまざまざと思い描くことができる。  
今眠ったら、またあの化け物の姿を夢で見そうで怖かった。  
月のシャツの裾を掴む粧裕の手は震えていた。  
 
「こ、怖いの・・・ば・・・化け物が・・・・。」  
「化け物?」  
 
月は怪訝そうに一瞬眉をしかめたが、すぐに優しげに微笑むと、子供のように泣きじゃくる粧裕の背中を、ゆっくりとさすってやった。  
 
「粧裕、可哀相に。怖い夢を見たんだね。」  
「・・・怖い。」  
「大丈夫。それは夢だよ。」  
「でも・・・また、夢に出てくるかも・・・・。」  
「じゃあ、おまじないをしてあげるよ。怖い夢を見ないおまじないを。」  
「え?」  
粧裕がキョトンと月を見上げると、月の端正な顔が真近に迫ってきた。  
驚きのあまり半開きになった粧裕の唇を月の唇が塞ぐ。  
粧裕の上唇からした唇を、ゆっくりと優しく味わうと、月はそっと顔を離した。  
 
「おやすみ粧裕。よい夢を。」  

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