部活から帰ると、家の中は不気味に静まり返っていた。  
出迎える声の不在は、母の外出を物語っている。  
玄関にスニーカーが丁寧に揃えられている所を見ると、月は帰ってきているようだ。おそらく自室にこもっているのだろう。  
誰にとも無く小声で「ただいま。」と言うと、粧裕は居間の扉を肩で開け、電気をつけた。  
鞄をソファの上に投げ出し、食卓を覗き込む。  
テーブルの上には、サランラップで包まれた食事とメモがあった。  
読むと、「粧裕へ 父さんに着替えを届けてきます。先に食べておいて下さい。」と簡潔に書いてある。母の字だった。  
用意された食事は一人分だった。月の分はない。  
粧裕一人の分しか作っていない、という事実に粧裕は思わず首を傾げた。  
 
お兄ちゃんはどっかで食べてきたのかな・・。その事をお母さんは知っていた?  
 
それとも、逆だろうか。母が不在だという事を知っていたからこそ、月は外食で済ませたのかもしれない。  
粧裕は鞄から携帯を取り出した。友人からの、特に内容の無いメールが入っているだけで、家族からのメールは届いていない。  
 
変なの・・・・。  
 
変といえば、わざわざこんな夕食時に父に着替えを届けにいくというのも何やらおかしな話である。その不自然さに、粧裕は微かに眉を顰めた。  
最近、こういう、奇妙な事が多い様な気がする。  
自分を取り巻く世界が、ゆっくりと、だが確実に変わってゆく。  
しかも月も父も母も竜崎も、何かをしっているのに、粧裕に教えようとしない。  
粧裕が月への恋心を自覚した途端、まるでそれを待っていたかのように、今までの日常とは違う何かを展開している様に思える。  
奇妙な化け物の夢。兄のきまぐれな口付け。突然現れた、謎の男竜崎。  
一連の出来事に何かつながりがあるのだとしたら、それは兄の月の存在だ。  
月を中心に何かが動いていて、粧裕はその流れに巻き込まれているのだろうか。  
それとも、月もまた、何かに巻き込まれ翻弄されているのだろうか。  
粧裕はぼんやりとそんな事を考えながら、窓の外を眺める。  
日はとうに暮れていて、電信柱と、庭の木々が暗い影を落としている。  
四月ももうじき終わろうとしている。桜はすでに散り、新緑が木々の枝を覆っていた。  
 
お兄ちゃん・・・か・・・・。  
 
粧裕は月の姿を思い浮かべる。月が何かに翻弄されている姿、というのは想像できない。月はいつだって華やかな笑みを浮かべ、余裕たっぷりに周囲を見下ろしている、そんな印象だ。  
彼が周囲を翻弄させる事こそあれど、何かに翻弄されるなどとあるだろうか。  
もしあるのだとしたら、それは何だろう。  
ありとあらゆる才能に恵まれ、望めば大抵の事は出来てしまう月を、夢中にさせる物があるとしたら、それはなんだろう。  
 
まあ・・・・私じゃないのは確かだなあ・・・。  
 
粧裕は心中そう呟いた後、微かに赤面した。何を馬鹿な事を言っているのだろうか自分は。  
粧裕は頭を振ると、食事をレンジで暖め、麦茶を冷蔵庫から出した。  
一人の食卓はなんとなく寂しく思え、リモコンでTVをつける。  
TVではニュースがやっていた。相変わらずキラ事件について報道している。  
 
・・・・そっか今六時か・・・。この時間って、ニュースばっかりなんだよね。  
粧裕はため息をついた。粧裕は月の様にキラ事件に興味などない。それどころか父や兄を巻き込んでいるキラ事件など見るのも嫌だった。  
しかし、TVを消すのは沈黙が怖い。  
七時台になれば、ドラマや歌番組が始まる。それまで、粧裕は仕方なくニュースを見るとはなしに見ることにした。  
アナウンサーが、キラに殺されたと思われる犯罪者の名前と罪暦を読み上げる。  
連続通り魔殺人、保険金大量毒殺殺人、無差別放火魔、犠牲者達はいずれも、社会的なニュースにさして興味の無い粧裕でも知っている様な凶悪犯人だった。  
ニュースは更に、キラをどう思うか、と街角でのインタビューに場面を変えた。  
キラは正しいと思う、警察は無能だ、冤罪の場合は取り返しがつかないから、やはり死刑はまずい、等無責任かつ素直な意見が飛び交う。  
キラに対しての人々の意見は賛否両論だが、警察への意見は不甲斐ない、とほぼ世間の見解は一致しているようだ。その事実に粧裕は思わず目を伏せた。  
確かに、キラに裁かれている犠牲者達ははっきりって、死んだ方がいいような人間ばかりだと粧裕も思う。  
 
「粧裕、どんな犯罪者でも、その罪を裁くのは法でなければならない。神であらざる人が、人を自分の独断で裁いてはならないんだよ。」  
 
それでもそう言った父を、父の言葉を、粧裕は信じていたし誇りに思っていた。  
 
ニュースは再度場面が変わり、今度は各方面の識者にインタビューをしている。  
通りすがりの一般人ではない分、ものの言い方は比較的慎重だったが、言っている内容はさして変わらない。  
粧裕はうんざりとしながらも、味噌汁をすすった。  
結局、答えなど出ないのだ。  
事態は進展していないのだから、どの番組もいつも同じ様な内容である。  
アナウンサーの難しい問題ですね、と当たり障りの無いコメントで特集は締められていた。最後に、もう一度今日の犠牲者達の顔と名前が画面に映る。  
 
・・・・あれ・・・・?  
 
粧裕は目を細める。犠牲者達の名前に、どこか見覚えのある気がした。  
確かに最近、どこかで、この名前を・・・この字体を見た記憶がある。  
有名な凶悪犯達なのだから、見覚えがあるのも当たり前かもしれない、と思いつつ、粧裕は記憶を辿ってみた。  
音で聞いたのではない。字で見たのだ。でも、どこで?  
粧裕は新聞を読まない。週刊誌も読まない。  
 
誰かが・・・メモに書いていたような・・・・。ううん、メモじゃなくて・・・。  
 
ノ−トの切れ端だ。  
確か丁寧に四つ折されたノートの切れ端に、見覚えのある几帳面な文字で、かこの名前が書かれていたような気がする・・・・・。  
それはどこで拾った?それは誰の字だった?  
粧裕は箸をおいた。頭がガンガンとする。物凄い勢いで、記憶が交差した。  
 
あれは・・・・・。あの字は・・・・。  
 
粧裕は思わず立ち上がった。その勢いに椅子が後ろに音を立てて倒れる。  
確かにあれは月の字だ。だが、あれは夢だ。夢の中の出来事だ。  
 
『所で粧裕さんはお兄さんが好きですか?』  
『最近お家で、何か変わった事はありませんでしたか?』  
『お兄さんはやめておきなさい。あれは貴女の手に負える男ではありません。』  
 
何故かキラ事件の捜査をしているという、竜崎の言葉が粧裕の頭をよぎった。  
 
夢の中で見た月の手書きのメモ。書かれていたのは犯罪者の名前と日付。  
そしてメモの中の日付通りに、名前を書かれた犯罪者達はキラに裁かれていた。  
この事実は一体何を意味しているのか。  
メモはどこから見つかった?そこに書かれているのは誰の文字だった?  
それは夢だよ、と粧裕に言ったのは誰?  
夢の中で化け物と親しげに話していたのは誰?  
 
・・・お兄ちゃん・・・・。  
 
粧裕はその場にへなへなと座り込んだ。謎の中心に、月がいる。月だけがいる。その恐ろしい事実に、粧裕は打ちのめされた。  
 
でも・・・・あれは・・・あれは夢よ・・・。  
 
しかし、そう思う傍から、次々と疑念は沸き起こる。  
あれは夢ではない。夢というにはいささか不自然すぎる。  
近い未来に死ぬ犯罪者の名前と日時を、偶然粧裕が夢に見るなどありえない。夢だと思っていた一連の出来事は現実と考えてまず間違いがないだろう。  
不思議な力で罪人を裁いているキラ。異形の者と親しく会話をしていた月。  
常に操作本部の情報を得ていたというキラ。警察官僚を父親に持つ月。  
月は『キラ』なのか?『キラ』の正体は月なのか?  
粧裕はすぐに頭を振った。導き出された結論は、あまりに恐ろしい。  
月がキラのわけがない。あんなにも優しい月が大量殺人犯などである訳がない。  
あんなにも――。  
粧裕はその瞬間、ある事に思い至り、息を飲んだ。  
ここ数日粧裕はずっと考えていた。月は何故自分に口付けたのか、と。  
単なる気紛れなのだろうと思いながらも、心のどこかで、もしかして月もまた自分と同じ想いなのではないか、と淡い期待を抱いていた。  
だが、月の真意は気紛れでも御呪いでも、勿論妹への想いでも無かったのだ。  
 
お兄ちゃんは・・・・・。  
 
恐怖よりも深い悲しみに粧裕は突っ伏した。顔を覆う両手から嗚咽が漏れる。  
 
メモから、化け物から私の注意を逸らす為に、それだけの為に私にキスをしたんだ・・・・。  
 
しばらくそのままな泣き伏していた粧裕は、やがてヨロヨロと立ち上がると、ぼんやりと天井を――二階――を見上げた。  
濡れた頬を手の甲で拭い、そのままおぼつかない足取りで歩き始める。  
歩きながら、粧裕はとりとめもなく一連の出来事を振り返った。  
そもそも粧裕があの一連の出来事をあっさり夢だと信じたのは、化け物などいない、という固定観念があったからだ。  
勿論、化け物などいない、というのは至極まっとうな考えだ。  
しかし、キラの人の殺し方自体が人間離れしているではないか。  
世界中の犯罪者を心臓麻痺で殺すなど、普通の人間には到底不可能だ。  
キラの能力に関しては、何か人ならざる者の力が働いている、と考える方がむしろ自然だ。  
キラの殺人能力が存在するこの世の中で、化け物などいるわけがない、という理屈は成立しない。  
むしろキラの殺人能力は、あの化け物と関係しているのではないか?  
粧裕は居間の扉を肩で開けると、足を引きずるようにして廊下を歩く。  
長い間座り込んでいたせいで、少し足が痺れており、思うように体が動かない。  
それでも粧裕は手すりに掴まりながら、ゆっくりと階段を上り始めた。  
そもそも『キラ』とは何者なのだろう。  
『人ならざる者』なのか。それとも、『人ならざる力を手に入れた者』なのか。  
もし後者なら、その力を『キラ』に与えたのは矢張り『人ならざる者』という事になる。それがあの化け物だ、とは考えられないか?  
もしかして月は―――。  
粧裕はノロノロと緩慢な足取りで、ようやく階段をのぼりきった。  
そのまま奥まで壁に手を着きながら廊下を進み、月の部屋の扉の前で粧裕は立ち止まった。  
 
この中にお兄ちゃんと・・・・あの化け物がいる・・・・。  
 
恐怖と緊張に、粧裕は思わず息を飲む。  
不気味なまでの静寂と、月の部屋から微かに漏れる明かりが粧裕を怯ませた。  
しばらく扉をじっと見据えていたが、そっと瞳を閉じ、小さく息を吐いた。  
粧裕は何かに耐えるように一瞬だけ顔を歪ませると、静かに瞳を開けた。  
キラがどうやって人々を裁いているのか粧裕にはわからない。粧裕にわかるのは、それが人智を超えた力だという事で、その能力を月に与えたのは、恐らく例の化け物だという事ぐらいだ。  
 
お兄ちゃんを・・・・アイツから・・・あの化け物から・・・助けなきゃ。  
 
勇気を出して、粧裕は月の部屋の扉をノックしてみたが、返事はない。  
 
「・・・お兄ちゃん・・・?」  
 
部屋から明かりが漏れている。居ない訳はないのだが、声に出して呼びかけても、矢張り反応はない。  
更にノックしようとして、粧裕はある事実に気がついた。  
 
・・・あれ・・・開いている・・・。  
 
珍しい事に、いつもは鍵がかけられている扉が、今日に限って開いている。  
粧裕は少し躊躇ったが、意を決してドアノブを勢いよく廻した。  
音のない世界で、ガチャリと扉を開ける音は不気味な程よく響いた。  
扉越しに粧裕が中を覗くと、月が寝台の上に横たわっている姿が見えた。  
寝ているのだろうか。  
粧裕は部屋に入ると、身じろぎ一つせずに寝台の上で静かに目を閉じている月の顔を、そっと見下ろした。  
月は死んだように動かない。整った顔立ちは、どこか青白かった。  
 
「・・・何のようだ?」  
 
まじまじと覗き込んでいると、ふいに月が目を閉じたまま口を開いた。  
月は気だるげに上体を起こすと、驚きのあまり固まる粧裕に視線を向けた。  
 
「あ・・・寝ていたの?」  
「・・・起きていたよ。寝たふりをしていただけだ。」  
 
月はさも面倒臭そうにそう答えた。どうやら、粧裕のノックや声は耳に入っていたが、あえて無視していたらしい。  
粧裕はその事実以上に、それを粧裕にあっさり打ち明ける月の率直さに驚いた。  
 
「今日は疲れているんだ。よければ明日にしてくれないかな。」  
 
そう言う月の様子は、いつになく物憂げで、確かに元気がなかった。  
 
粧裕のイメージの中の月は、常に余裕たっぷりで自信に溢れている。  
だが、今日の月の、彼らしからぬその覇気の無さに、粧裕は少々戸惑った。  
それじゃなくても、こうして現実の月を目の当たりにすると、先ほどまで殆ど確信に近かったキラへの疑惑も、何やら怪しく思えてくる。  
視線を床に落としたまま何も言わない粧裕に、幾分月は口調を和らげた。  
 
「どうした。何かあったのか?」  
 
粧裕は首を振った。月の優しい声音に、何だか泣きたくなってきた。  
自分は何と馬鹿な事を考えているのだろう。月がキラなどと、ある訳がない。  
第一、化け物など何処にもいないではないか。  
なんでも無い、と言いかけて粧裕は途中で言葉を止めた。  
月の机上、半分齧られた状態の林檎が目に入る。  
どうという事はない。只の林檎だ。鋭く抉られたまま、机上に放置されている。  
だがその林檎の豪快な齧られ方に、粧裕は訳もわからずゾッとした。  
たかが林檎に何をそこまで禍々しさを感じるのか、自分でもわからない。  
急に黙り込んだ粧裕の視線の先を、半身を捻って月もまた目で追う。  
齧られた林檎に一瞥くれると、月はゆっくりと振り返った。  
その時、粧裕の視線と月の視線が交差した。  
粧裕の瞳の中に恐怖の色を見て取った月は、次の瞬間目を細めた。  
唇が、ゆっくりと笑みの形を作る。  
その兄の表情の変化を、粧裕は信じられない思いで見上げた。  
 
「・・・・よくわかったな、粧裕。」  
 
何を、とは月は言わなかったし粧裕も聞かなかった。聞かなくても解っていた。  
粧裕が『気がついた』事に、月もまた『気がついてしまった』事を。  
「どうする?粧裕。父さんに言うか?」  
月は寝台の上に腰を掛けながら、粧裕の目をまっすぐ見つめ、楽しげに問う。  
粧裕は月から視線を逸らす事も出来ずに、無言で身を震わせた。  
そんな粧裕の様子に月は薄く笑うと、ふいに真剣な表情で熱っぽく語りかけた。  
 
「粧裕、僕をアイツらに売るのか、それとも・・僕をとるのか・・・選ぶんだ。」  
 

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