唇が熱い。  
 
お兄ちゃんってば・・・どういうつもりであんな事をしたんだろう・・・。  
 
家路に着くためのバスをまちながら、粧裕はぼんやりとそのことを考える。  
あれから数日たつが、月の様子は以前と変わらない。  
何かにつけあの夜のことを思い出し、その度に赤面している自分とは大違いだ。  
月にとっては本当に『おまじない』以上の意味などなかったのだろう。  
外人同士の軽い挨拶や、ペットやぬいぐるみにキスをするのと同じ感覚で、戯れに粧裕に口付けただけなのかもしれない。  
 
それとも・・・もしかして・・・夢だったのかな・・・。  
 
そうだとすると何処までが夢で何処までが現実なのだろう。  
思い返してみると、月が自分に口付けをするなんて事は、月の部屋に化け物がいた、というのと同じぐらい非現実的な事のように思える。  
だが。  
粧裕は自分の唇をそっと指でなぞる。  
月の唇の感触を、未だに粧裕の唇は覚えている。  
あれは夢じゃない、という奇妙な確信があった。  
 
あれはやっぱり・・・・。でも、じゃあどうして・・。  
 
夢ではないのなら、何故月はあんな事をしたのか。疑問は再び振り出しに戻る。ここ数日、粧裕の頭はずっとこの調子でグルグルと同じ所を回っていた。  
その時、一台の車が粧裕の前に止まった。急な停車に、粧裕の前髪が揺れる。  
あまりに自分の目の前で止まったので、考え事に没頭していた粧裕も思わず驚いて顔を上げた。  
人目で高級とわかる黒塗りの車から、扉が開き、一人の男が現れた。  
ひどく奇妙な男だった。  
ボサボサの髪。病的に白い肌。落ち窪んだ目の下には、不健康そうな深い隈。  
袖丈の足りない白いシャツ。ダブダブの白いズボン。踵の履き潰された白い靴。  
全身白尽くめのその奇妙な男は、頼りない様子で車から降りてきた。  
反射的に身を引く粧裕を生気のない目で見据え、男は小首を傾げて口を開いた。  
 
「夜神粧裕さん、ですよね。」  
 
男は粧裕の返事を待たず、ふむ、と頷くと、おもむろにぐいっと身を乗り出した。  
骨ばった手を顎にあて、粧裕を無遠慮にじろじろと観察し始める。  
その様子は、まるで人間ではなく、植物か絵画でも値踏みしているかの様だ。  
思わず鞄を抱きしめて後退りさる粧裕に、男は平坦な口調でポツリと言った。  
 
「あまりお兄さんには似ていませんね。」  
 
言外に兄程の美形ではない、と言われた気がして粧裕は目を見開いた。  
痛い所を突かれて、瞬間、粧裕の中の恐れが怒りに変わる。  
確かに粧裕は月ほどの頭脳も美貌もありはしない。平凡な子だ。  
目はどんぐり目だし、鼻だって決して高くはない。額には実はニキビもある。  
だけど何故、そんな事を初対面の男にいきなり言われなくてはならないのだ?  
 
「ど、どうせ、私は兄に比べればチンクシャです。」  
「そんな事は言っていません。」  
「言わなくったって、皆そう思っている事は知っています。」  
「そんな事は思っていません。貴女は大変可愛らしい。  
まあ確かに顔立ちの端整さではお兄さんの方が上かもしれませんが、その点に関しては、間違いなく貴女の方が上でしょう。」  
 
そもそも彼は別に可愛らしくないですしね、と男は生真面目に付け加えた。  
その筋が通っている様ないない様な男の反論に、粧裕は思わず言葉を失う。  
 
「あのう・・・あなたは・・・・一体・・・・。」  
「これは失礼。まだ名乗ってませんでしたね。」  
 
男はのんびりした口調でそう言うと、何か考え込むように視線を宙に彷徨わせ、異様に細長い指でトントン、と何度か顎をたたいた。  
 
「私は・・・竜崎、と申します。」  
「・・・・兄の、お友達ですか?」  
「親しくお付き合いさせて頂いてますが、友達かどうかは微妙です。」  
「・・・・よく、わかりません・・・・。」  
「失礼。私はどちらかというと、お兄さんというより、お父様の友人ですね。」  
 
ますますもって、わけがわからない。父の知り合いが、何故月の話題を持ち出すのだ。  
いくら会話を交わしても、竜崎と名乗るこの男が何者で、何の意図を持って粧裕に話しかけてきたのか、粧裕には皆目見当もつかなかった。  
 
「粧裕さん。よければ家まで送っていきますが、どうですか。」  
 
竜崎は、絶句する粧裕の態度をなんととったか、待機している車を顎で示す。  
粧裕が首をふると、竜崎は眉間にしわを寄せた。  
 
「困りましたね。実は私は日差しが苦手なのです。できればあまり屋外で話したくはないのですが・・・・。」  
「・・・そう言われましても・・・。」  
「まあ、確かに見知らぬ男の車に乗り込むのに用心するのは若い女性として、非常に正しい判断だと思いますが・・・。」  
 
困りましたね、と再度呟くと、竜崎はおもむろにズボンのポケットから携帯電話を取り出した。  
何か汚いものでも掴むかの様な指つきで携帯をもち、素早く画面を操作する。  
その唐突な行動についていけずポカンとしている粧裕に、竜崎は自分の携帯の画面をつきつけた。その様子は、どこか得意げでさえある。  
画面には、どこか疲れた感じの粧裕の父の姿が写っていた。  
 
「昨日撮った写真です。」  
「そうですか・・・・。」  
「これでお父様と知り合いである、という事を信じてもらえましたか?」  
「・・・・・・・え・・?」  
「お兄さんのもありますよ。流石にお母様の写真はありませんけど。」  
「いえ、あの・・・・。」  
「駄目ですか。・・・残念ながら一緒に写っている写真はないんですよ。」  
 
プリクラとやらでも撮っておくべきでした、と竜崎は無念そうに呟く。  
その竜崎の真剣な様子に、粧裕は思わず口を開いた。  
 
「・・・その・・父か、兄と・・・・携帯で話すことは出来ないんでしょうか・・・・。」  
 
竜崎は、粧裕の言葉に数度瞬きをすると、素早く携帯の番号を押した。  
 
「あ、私です。実はですね、先ほどお嬢さんを移動の途中で見かけまして。  
車でお宅までお送りしようと申し出たのですが、中々信じてもらえませんで・・。  
ええ、いいんですよ。どうやら私は怪しく見えるようですからね、信用されないのはある意味自業自得です。あ、ちょっと変わりますね。」  
 
竜崎は平坦な口調でそうまくし立てた後、粧裕に自分の携帯を渡した。  
その急な展開に、粧裕も相当混乱していたが、それは電話越しの父親も同じ事だったらしく、かなり動揺していた。  
それでも竜崎が自分の知り合いである事、そして信用できる人間である事は保証してくれた。  
 
「粧裕、竜崎に何か聞かれたら、正直に答えなさい。それが例え、どんな質問でも・・・。」  
 
最後にそう言うと、父はじゃあな、と云って電話を切った。  
仕事が忙しく、中々帰ってこない父との、久々の会話だった。  
携帯を渡すと、竜崎はじっと粧裕を見つめてくる。  
気は進まないが、父にあそこまで言われてしまっては、断る訳にも行かない。  
戸惑いながら頷くと、竜崎は車の扉を開けた。  
そのまま意外にも優雅な手つきで粧裕を車の中にエスコートする。  
粧裕は仕方なく、案内されるがままに車の中に乗り込んだ。  
 
「ワタリ、出せ。」  
 
粧裕がスカートをそろえていると、竜崎が運転手に指示を出す。  
何気なしに隣をみると、靴を脱いだ竜崎が両膝をそろえて体育座りをしている。  
絶句する粧裕に、癖なものでして、と竜崎は感情の感じられない声で答えた。  
 
「竜崎さんはもしかして・・キラ事件の、捜査をしている方なんですか?」  
「そうです。」  
「だから、父とも知り合いなんですね。」  
「そうです。」  
「じゃあ、何故兄と・・・・?」  
「・・彼には、その類まれな頭脳を見込んで、捜査の協力を要請している所です。」  
「そうですか・・・。」  
 
たかだか大学生に捜査の協力を仰ぐとは、普通では考えられない話だが、粧裕はすんなりとその言葉を信じた。  
月は普通ではなかった。今まで何度か月の助言で解決した事件もあったというし、その実績を買われたのだろう。  
だがそれは同時に、月が優秀である、という事だけでなく、それだけキラ事件が行き詰まっている、という事も示していた。  
兄がその優秀さを認められ、協力を請われている、という事実は粧裕にとっては嬉しく、誇らしい話だ。  
だが、一介の大学生にまで協力を要請する程、父達捜査本部が追い詰められている、という事実にはやるせない物を感じた。  
自分の身の安全を優先して、辞職した刑事が後を立たなかった、と聞く。  
極秘に捜査していたFBI捜査官達まで命を奪われたのだ。無理もない。  
そんな危険な任務に励む父を尊敬しつつ、心配でたまらない。  
その上、父だけでなく、月までそんな危ない世界に身を投じるのかと思うと、粧裕の胸は痛んだ。  
 
「心配ですか?」  
「はい、少し・・・・。」  
「まあ、そうでしょうね・・・。所で粧裕さんはお兄さんが好きですか?」  
「えっ・・・!?」  
 
突然の話題の転換に、不意を突かれて粧裕は頬をパッと赤らめた。  
その粧裕の動揺ぶりに、竜崎は不思議そうに首を傾げた。  
 
「何か、変な事を聞きましたか?」  
「い、いえ・・・。その、急に聞かれたから吃驚しちゃって・・・。」  
「・・・・。」  
「勿論、好きです。たった一人の、兄ですし・・・。」  
「そうですか。」  
 
竜崎はため息をつくと、粧裕から視線をそらし、憂鬱そうに呟いた。  
 
「確かに、彼は魅力にあふれている。女性ならなお、彼の魅力には抗えないでしょうね。・・・例え、妹であっても。」  
 
意味深な言葉に、思わず本心を見透かされたように思えて粧裕は焦ったが、竜崎はその後一切月の名前を出さなかった。  
 
 
家に着くまでの間、竜崎は、キラをどう思うか、キラの話を家や学校でよくするか、父親の職業を周囲は知っているか、等の他愛の無い質問をしてきた。  
その意図は粧裕にはよく解らなかったが、父の言葉を思い出し、素直に答えた。  
竜崎は、粧裕の答えに、そうですか、とか、なるほど、とか、短い相槌を打つ。  
そうこうしている内に、車の窓から見える風景が段々見覚えのある物に変わっていき、やがて見慣れた家の前で車が止まった。  
竜崎はゴソゴソと白いスニーカーをつっかけると、扉をあけ、車から先に降りて粧裕の手をとる。  
竜崎の手をかりて車外に下りた粧裕は、自宅を見上げると、大きな深呼吸した。  
 
「・・・送っていただいて、どうもありがとうございました。」  
「こちらこそ。楽しかったです。・・・最後に、一つ、いいですか?」  
「何でしょう・・・?」  
「最近お家で、何か変わった事はありませんでしたか?どんな些細な事でもいいです。」  
 
粧裕は目を伏せた。最近起こった変わった事、と言われて思い出すのは、化け物が出てきた奇妙な夢と、月がしてくれた『おまじない』ぐらいのものだった。  
 
「あえて言うのなら、最近林檎の減りが早いです。」  
 
冗談めかしてそういうと、竜崎がギョロリと目を動かし、林檎、と繰り返した。  
 
「はい。居間にいつも置いてあるんですよ、蜜柑や林檎が。」  
「蜜柑は減らないんですね。」  
「減りますけど、林檎ほどハイペースに減りません。」  
「・・・単なる比喩かと思っていたが・・・・。」  
「?」  
「いえ、何でもありません。ありがとう、粧裕さん。」  
 
竜崎はそういうと、粧裕の手をとり、そっとその甲に唇を押し当てた。  
 
「お兄さんはやめておきなさい。あれは貴女の手に負える男ではありません。」  
 
驚きのあまり固まる粧裕の耳元に、そう囁くと、竜崎は何事もなかったかのように踵を返し、車に乗り込んだ。  
 
 
月、面白くない。  
「TVが?」  
違う!!  
「じゃあ何?」  
何もかも、だ。  
「もっと具体的に言ってくれないと対処の仕様がないよ、リューク。」  
 
ベッドの上でTVを見ながら、不機嫌そうな声を上げる死神に、ぞんざいな言葉を返す。  
机上のPCを何やら熱心に操作している月は、死神の方を振り向きもしなかった。  
そのそっけない対応に、死神はむっとした様に身を起こした。  
その巨体に似合わぬ身軽さで宙を移動すると、月の顔を上から逆さに覗きこむ。  
不意に頭上から降ってきた死神に、月はようやく視線を動かした。  
喰らいつかんばかりに真上から自分を見下ろす死神を、月は静かに見上げる。  
しばし二人はそのまま微動だにせずに互いの目を見詰め合っていたが、やがて月は諦めたように、キーボードから手を離した。  
 
「あまり見ていて楽しい顔ではないね。リュークの逆さまのドアップは。」  
 
溜息と同時に暴言を吐く。月は腕組みをしながら死神を見上げ、再び問うた。  
 
「で、何が不満なんだ?リューク。」  
お前は本当に、一生妹の目から俺を隠せると思っているのか?  
「ああ、その事か。」  
俺はもう、お前の妹と鉢合わせないように身を縮こまらせるのはうんざりだ。  
 
不機嫌そうな死神の声に、月は笑いを噛み殺す。  
死神はデスノートの所持者のそばに常にいなければならない。  
動き回れる範囲は、およそ半径100m程だという。  
この数日、その移動範囲を最大限に利用して、死神は粧裕の目から隠れていた。  
当然、声もいつ聞かれるのか判らないので、粧裕が自宅にいる時はろくに月と喋る事もできない。  
根っからのお喋りな死神には、かなり辛い数日だったに違いない。  
 
「勿論、粧裕にずっとリュークの事を隠せるとは思っていないよ。」  
 
・・・・・じゃあ、何故俺は身を隠さなければならないんだ?  
「ちょっと最近色々と忙しかったから、少し時間が欲しかったんだ。」  
その、『れぽーと』とやらの事か?  
 
死神は、その死んだ魚のような新円の目を、ギョロリとパソコンの方へ動かす。  
つられて月も首を傾げたまま、視線だけ机上のパソコンに向けた。  
 
「・・・まあ、これも含まれているかもね。」  
・・・月、一つだけ聞く。一体、いつまで続くんだ?このかくれんぼは。  
「もうすぐだ。じきに隠れなくてよくなるよ、リューク。」  
それならいいが・・・ん!?・・。  
「どうした?リューク・・・。」  
 
不意に死神は視線を窓の外に移す。その鋭い聴覚で何か聞き取ったらしい。  
月は返事を待たずに窓辺に身を乗り出し、そこから見える景色を見下ろした。  
夕暮れ時という事もあって、辺りは既に橙色にそまっている。  
覗き込んだその視線の先に、非常に見覚えのあるリムジンの姿を認め、月は微かに眉間に皴を寄せた。月にならい、死神も窓から身を乗り出す。  
 
ん?あれは・・・アイツの車じゃないか。・・・月に何か用でもあるのかな。  
「・・・学校で散々あっているんだから、正直家にまで来て欲しくないね・・・。」  
 
車から出てきた男は、中にいる誰かに手を貸して車外へエスコートしている。  
その様子を用心深く眺めていた月は、その中の人物が車外に降り立った瞬間、驚きに目を見張った。  
制服のスカートがゆれる。中から出てきた少女は男に丁寧に一礼した。  
二人はしばらく話し合っていたが、別れ際、男はふいに少女の手を取り、その甲に接吻した。  
そのまま何か少女の耳に囁くと、さっさと踵を返して車に乗り込んだ。  
離れていくリムジンを、呆然と少女が見送る。  
その様子を不快気に見下ろす月の顔を、ニヤニヤと愉快そうに死神は覗きこんできた。  
 
・・・いいじゃないか、減るもんじゃあるまいし。  
「・・・・・・減る。」  
 

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