今は夏休みであるが、高校3年生にとって楽しく過ごせる休みではない。
普段のように、ほぼ毎日学校がある。
補習と云う名の授業であるが。
昼までで終わるものの、長期休みの感覚はないのである。
ある日の夏の午後、3年生になった瑞穂高校男子バスケ部キャプテン、
高階トウヤは1人教室で物思いに耽っていた。
高校最後のインターハイ出場はしたものの、2回戦敗退。
ライバルとされていた湘南大相模高校にも、県大会であっさりと負けてしまったのである。
新入生で期待される部員が入っては来たが、アウトサイド攻撃を獲得した湘南に取っては、
赤子の手を捻るようなものであった。
バタバタと慌しい足音が聞こえる。
―ガラッ―
「…居た」
少しばかり息の上がった声で、短く声を掛けてきたのは、
同じ男子バスケ部所属のマネージャー、杏崎沙斗未である。
「…おー杏崎、どーしたの?」
驚いた様子もなく、だが何か浮かない顔をして高階は言う。
「どーしたの?じゃないよ。それはこっちのセリフ。
今日の補習終わったのに部活に顔出してないから、探しに来たんだよ」
インターハイが終われば3年生バスケ部員は、学業に専念するはずなのだが。
一応はまだ国体と選抜と云う、2つの試合が残っている。
それらが終わって、やっと引退するのである。
「ははっ…悪りぃ。ちょっと、考え事してた…」
いつものヘラヘラした高階とはまるで別人だ。
笑顔ではあるが、どこか弱々しい。
「考え事?」
反復するように質問する。
だが、質問に答えようとはしない。
「…大丈夫?どこか、体調悪いとか?夏バテ?
…まさか勉強のし過ぎってことじゃ…ないよね?」
その言葉を聞いてやっと口を開く。
「まさか…いや、それもあるんかな?なんつって」
冗談っぽくは言っているが、やはり何かが違う。
「何か…悩んでる?インターハイが終わってからトーヤ君、どこか様子が違うから」
心配するように近づき、自分とは逆方向を向いている高階の隣の席に腰を降ろす。
「…杏崎ってさ…大学行ってもバスケに関わってくんだよな?」
いきなりの相手からの質問に、一瞬言葉が詰まる。
「う、うん。そのつもりだけど…将来はバスケット関連の記者になりたいって思ってるし…」
少しの間を置いて、高階は静かに口を開く。
「…オレってさ…結局なんもかもが中途半端なんだよね…今でも先のことを考えきれてないし。
一応は大学行くつもりだけど、何をするか、
バスケも続けるかどうかも分からないし…多分、1年ぐらい前に言ったと思うけど」
1年前のインターハイ直前、バスケをする為だけに高校に進学したわけじゃない。
いつかバスケを辞める時が来る。
そんな話をしたのを思い出した。
「でも…将来なんてまだまだ先のことじゃない。大学で何かやりたいこと見つかるかもしれないし…
ゆっくり考えることも重要なことだよ?今、焦って答えを出さなくてもいいと思う…」
うまい言葉が見つからず、在り来たりの言葉しか掛けてやれない。
だが、相手を思いやる気持ちは伝わってくる。
その言葉に静かに振り返る。
「杏崎って…やっぱり優しいなぁ…オレって意外に弱いからなぁ…」
痛々しいほどに、か弱い笑顔。
普段の高階からは想像が付かない程に。
「1年間、バスケから離れてた理由ってのが…
これも去年のインハイの湘南戦ときに話したと思うけど、布施の言葉からなんだよね」
―普段どんなにうまくても、勝負を決めるクラッチシュートを落とす奴なんて、意味ないと思うぜ―
「あの言葉でムカついて…でも、案外プライド傷ついたっつーか…トラウマでさ。
なんであんな基本に忠実なつまんねープレイスタイルに負けなきゃなんないんだって。
そんで意地張っちゃってさ。唯のバスケなのにっ…て。
今までやってきたバスケがすげー無駄に思えて、1年間逃げてた。
この学校にバスケ部が無かったてのは…言い訳に過ぎなくて…
去年はインハイで湘南に勝ったわけだけど、
結局あいつらはそのバスケスタイル崩して今回臨んで来たわけじゃん?
惨敗したオレはお手上げ。
あんなに固執してたスタイルを崩してまでも、前進してるって思ったら、
バスケだけに関わらず、オレ何してんだろって…思って…」
伏せ目がちになり、言葉がどんどん詰まっていく。
「オレだけ…なんも、先に進めてないって…なんかそう思ったら、すっげー情けなく…て」
歯切れが悪く会話が終わると思った時、絶対に人前で泣くことがないだろうと思われていた高階の目から、
涙が零れ落ちた。
突然の涙に驚いた杏崎だが、まだ何か話そうとしている高階に声を掛けず、じっと見つめていた。
「…杏崎や…布施や、卒業してった…先輩たちはそれぞれの道を見つけてて…
先が、見えてないオレは…オレだけ、置いてかれてるって…それが、なんか寂しくて…」
出来る限り涙を抑えようとしているのか、
震える唇を隠すかのように、口に手を当てながら話す。
「…じゃあ…またそこで逃げるの?」
叱咤とも思える言葉が投げかけられるが、反応を示さずにその言葉に耳を傾ける。
「1年間バスケから逃げてたとしても、最終的に戻ってきたよね?
それが前進してるって思えない?
このまま考えることから逃げてたら、それこそ同じことの繰り返しになるよ。
やりたい事はその時々によって違うかもしれないけど…
それでも去年は、またバスケやりたかったから戻って来たわけでしょ?
大学に行ってバスケ続けたいなら続ければいいし、他にしたいことあれば、それはそれでいいと思う。
他の人が、ただバスケって道を選んだわけで…三浦さんや土橋さんは違う道選んじゃったけど。
そうやって置いてかれてるとか、中途半端だからとかで悩んでる時間のほうが無駄だと思うか、ら…」
最後まで言わせずに、高階は杏崎を抱きしめてきた。
「ト、トーヤ君?」
いきなりの出来事で訳が分からない。
「…今は、こうしてたい…」
高階の身体は震えている。
まだ、泣いているのだろうか。
窓の外から蝉の声が鳴り響いているが、それ以上に杏崎の動悸は高鳴っていた。
普段はヘラヘラしてはいるが、実はもの凄くプライドが高い男。
その男の見せる、心の弱さ。
杏崎は胸がいたたまれなくなり、そっと背中に手を回す。
「…大丈夫だよ…誰もトーヤ君のこと、中途半端だなんて思ってない」
言葉は返ってこない。
「トーヤ君が入って来てくれたお蔭で、今の瑞穂があるんだよ。
一時、凄く険悪なムードあったの覚えてる?
あの時にトーヤ君が居てくれたから、立ち直れたんだって…
ホント、感謝してる…ありがと」
背中をぽんぽんと、赤子をあやすかのように軽く叩く。
高階の震えていた身体は、もう落ち着いている。
だが、体勢はそのままで。
長い時間が過ぎていく。
グラウンドから、野球部や陸上部の掛け声が聞こえる。
それ以外には何も聞こえない、寄り添った2人だけが居る静かな教室。
静寂な空間を断ち切るように、高階が言う。
「杏崎…好きだ」
唐突な言葉に、意味を把握しようとするが、出来ない。
己の胸の鼓動だけが、その意味を理解した。
高鳴る相手の鼓動を感じ取るが、抱きしめたまま。
幾分か腕に力が篭ってくる。
「今、こんなこと言うのはお門違いかもしれないけど…けど、なんか言いたくなった…」
動悸が更に高鳴る。
そんな話してたんじゃない…
そう思うが、口から出てこない。
「哀川さんもそうだったけど…杏崎も同じように、本音が言える…
なんか…1人じゃないって思える。感謝するのはオレのほう」
抱きしめていた腕を解き、顔を上げる。
泣いていた痕跡、目頭が少し赤くなっているのが分かる。
その目でじっと見つめられ、視線が逸らせない。
「ずっと…オレの側に居て?」
告白、と取っていいのだろうか。
それすら分からなくなってくる、真っ直ぐな視線。
「まだどうなるか分からないけど…なんか、見つかるような気がする、オレの進むべき道が。
今言えることは、オレにとっては杏崎が必要ってこと」
だから、とそう言いながら顔を寄せ、唇を重ねる。
甘く切ない口付け。
先のことなんて誰にも分からない。
けど、今はこの時間に身を任せてみようと思う。
―人は独りで生きていけるものじゃない―
終わり。