朝、部屋でファンデーションをつけていた私に、突然部屋に入ってきたお祖母様が声を掛ける。
「何をやっているのです、叶さん」
「ひっ!?」
咄嗟に、私は両の手を後ろに回す。
「何を隠したのですか。今、後ろ手に持っているものを出しなさい」
「は、はい」
お祖母様が、私が手にしていたコンパクトを没収すると、私に厳しい視線を向ける。
「これは……どういうつもりです」
「お、お祖母様…それは…」
「工藤の家訓、忘れたわけではありませんね?」
家訓。それは、学を勉め強いるべき頃は一切の色恋沙汰は無用…というものである。そのおかげで私は、女として生まれながら、今の今まで男装を強いられている。
そんな私に、ファンデーションなんてものは必要のないものであるはずなのだ。
「それが無くとも、あなたほどの年頃の子にはこのようなものは不要。早く顔を洗ってきなさい。あとこれは処分します。いいですね」
如何な反論をも許さぬ峻厳な態度でお祖母様は私を戒めると、さっと踵を返して、家の奥へと向かっていった。
「……」
私はお祖母様の姿が完全に向こうへ行ったのを悟ると、懐から別のコンパクトをとりだした。
「ふぅ……」
今お祖母様に取り上げられたものは、お洒落に興味を見せ始める頃の小学生が買うような安価なものである。普段はもう少し値の張る、もう少し上等なものを使う。
あの時は、こんなこともあろうかと安い方を懐に忍ばせておいたのを、ファンデーションを後ろ手に隠したときに、咄嗟にすり替えたのであった。
これはお祖母様を騙し、愚弄する行為であることは、重々承知している。
しかし、どうしても、如何に自分が男として生きる身であったとしても、せめて今日みたいな日は、女としての身嗜みを整えておきたかった。
「急がなきゃ……」
今日はとある友人と、図書館にテスト勉強に行く予定である。
無論その友人は、私の秘密を知らない。
本当は、せめてその人だけにでも、己が身の全てを晒してしまいたいのであるが。
待ち合わせの場である図書館の門の前には、まだその人はいない。
「早く来すぎたか」
私は腕時計を睨む。丁度デートの待ち合わせをするときなどは、こんな感じなのだろうか。
「そうでもないよね……」
私は少し、気持ちを苛立たせる。まるで本当に、彼氏を待っているような気分に錯覚してさえいた。
「くーどーおーっ!!」
「っ!!」
突如私の後方から、待ち人の声が響く。私はその声に、少し喫驚してしまった。
「わりい、待たせたか?」
その友人……朝倉純一は、頭をかきながら私に問うた。
「いや、別に……無理に誘ったのは俺の方だし……」
私は「男の」工藤叶を朝倉に見せる。せっかくの二人っきりなのに、どうしても家訓に、お祖母様の言いつけに囚われてしまうのが、我ながら歯痒い。
「そうか……いやまあ、工藤に誘われでもしなきゃ、テスト勉強なんてしねえしな……俺も助かるっちゃあ助かるし……あーあ、テストなんてかったりい……」
朝倉は億劫そうにぼやきながら、図書館の中へと入っていく。「男の」私に対する朝倉の態度は、無論「男の」友人達に見せるものと大差ない。
私はその後を追いながら、もしこれが本当にデートだったら、もし朝倉が女の私とここに来たとしたら、ふと頭に思い描く。
時間に間に合わせようと急いで駆けてきた所為か、息の荒い朝倉が、ばつが悪そうに私に言う。
『はあっ、はあっ…ごめんな叶、待たせただろ?』
『ううん、私も今来たところだから』
『そう?…でも助かるよ。叶が誘ってでもくれなきゃ、俺テスト勉強なんてしねえからさ』
『んもう、しょうがないなあ、朝倉くんは』
『へへへ……あとさ、勉強が終わったら、二人で食事に行こうぜ』
『うん、そうしよう……』
「おい、工藤、工藤?」
突如、朝倉が声を掛けてくる。
「え、な、何?」
「なに、ボーっとしてんだ?」
「な、何でもない、考え事だよ。朝倉には関係ないからな……」
くだらない。そんなこと、あるわけがないのだ。
朝倉の瞳に、あるべき女の工藤叶は映っていないのだから。
映っているのはただ、忌々しい男の工藤叶なのだから。
図書館の中は時期が時期である故か、朝早くにもかかわらず結構な人がいた。
「朝倉がもう少し早く来れば、こう苦労することもなかったんだろうにな」
「悪かったって……あ、あそこ空いてんじゃねえか?」
といって朝倉が指した先には、丁度並んで二人座れるスペースの空いた大机があった。
「あ、あそこ?」
私はどぎまぎする。ここに来た以上あって当然なことだとは思うのだが、朝倉と二人肩を並べて座ると言うことに、無性に嬉しさを感じてしまう。
「おい、どうしたよ。早く座ろうぜ」
「わ、わかってるよ。ちょっと待ってくれよ」
隣同士座るなんて、別に恋人同士でなくてもあることだ。大したことではないではないか。何を浮かれているのか。
だがしかし、学園で朝倉が女の子と肩を並べて和気藹々と談笑する様を見て、堪えきれない嫉妬の念に駆られたことは数知れない。
どうにも平常心でいられない自分をなんとか律すると、私は朝倉の横の席に腰を降ろした。
「ん?どうした工藤、俯いたりして。風邪か?」
「ち、ち、違うよ。そんなんじゃないんだ」
「何だね工藤くん。悩みがあるのならばいつでも私に相談してくれたまえよ、な!」
そういって朝倉は、私の肩に手を回し、耳の間近とも言える距離から私に問いかける。私の鼓動は更に加速し、私から正常な思考を奪う。
「まあ金の工面とかの相談はされても困るが…」
「や、やめてよ!!」
顔を真っ赤にして朝倉を振り払った私に、朝倉は怪訝そうな顔を見せた。その表情に焦った私は、慌てて平静を取り繕う。
「何でもない。さ、さ、始めよう。時間が勿体ない。朝倉もそんな悠長にしてていいの?次変な点を取ったらお小遣いが減るんじゃなかったっけ」
「あ、そうだ。ああくそ音夢の奴、変なこと言いやがって……」
その約束の言出屁である妹さんのことを呪いながら、朝倉はやっと机の前の本に向かい始める。
「……」
朝倉は「悩みは相談しろ」と言ったが、もし私が「朝倉のことで悩んでいる」と言ったら、朝倉はどんな顔をするのだろうか。そしてその時、私はどんな気持ちでいるのだろうか。
そうして二人、並んで机に向かう。
「…………」
「……あぁ、何だよバーター貿易って……ブツブツ……」
「…………」
「……『既に発売した商品の成分を再構成したり、付加要素を付けたりしたものを発売することを何商法というか』……ん゛ー、ん゛ー……」
「…………」
朝倉は、机に向かって勉強するという慣れない行為に集中できないでいるようだが、私は朝倉の隣という状況下に未だ慣れずに、勉強に集中できないでいた。
幾度も朝倉の方を向いては、正面に向き直るということを繰り返す。
そうしている内に、ふと、朝倉と目があった。
「あ、あっ」
「……ん?どうかしたか?」
「い、いやあ、な、な、何でもない」
「あ、でさ工藤、バーター貿易って何だ?」
朝倉が私のほうに身を乗り出すようにして尋ねてくる。
「そ、それはね、二国間の、輸入と輸出の差が同じ貿易……かな」
「あぁ……そうなんだ、なるほど。サンキュー」
普通に知っていることなのに、なぜかしどろもどろになってしまった。
そもそも朝倉が「何だよバーター貿易って……」と唸っていた時点で、「あ、それはね……」と声をかけて教えてあげることもできたはずだった。
しかし普段、朝倉と面と向かって話しているだけでドキドキするのに、まさかこんな状況下では、自らが思うままに振る舞うことなんかできない。
そしてそのまま、こんな調子で勉強を続けていると、
「ん゛〜……あぁ、かったりぃな畜生……っ」
余程勉強は疲れるのか、朝倉はいつもの口癖と共に大きく伸びをすると、机の上に置いてあった携帯を覗いた。
「おわ……もうこんな時間かよ」
「ん?」
「ほら、もう十二時前だぜ」
その朝倉の言葉に、慌てて自分の腕時計を覗いてみると、確かに針はその辺りを指していた。
「いつの間に……」
しかし、そんな長い時間勉強をしていたとは思えない。それほどまでに自分は舞い上がっていたのか……と思っていると、唐突に朝倉が、私の肩を叩いた。
「なあ工藤」
「ん……ん?」
「飯にしないか?」
「え゛、ええ!?」
『へへへ……あとさ、勉強が終わったら、二人で食事に行こうぜ』
『うん、そうしよう……』
────朝方の妄想が、急に思い起こされる。
まさか、いや、そんな、いやいや、でも食事の誘いであることには違いないし、いやでもそんな関係じゃないし、いやまさか……脳裏で様々な考えがかき混ざって渦を作り、私の心臓を激動させた。
「おいどうした?まだ腹減ってないのか?」
「あ、いや。う、うん、そうしよう……」
必死に自分を落ち着けて、私は朝倉の後ろについていった。
図書館を出たところで、私は朝倉に尋ねる。
「で、ど、どこにいくの?」
「ん────……」
朝倉は、そういうことは考えていなかったらしい。そこで私は、
「そういえばさ、ちょっと歩けばロイヤルコストがあるっけか……そこが、いい……かな?」
と、こっそりと、自分の希望を言ってみた。
家族とは、ロイヤルコストだとかという所謂“ファミレス”の類は行ったことはなかったが、どういうところであるかは、テレビだとか人の話だとかで既知している。だが別にファミレスに興味がある訳じゃない。
ただ朝倉と、向かい合って食事をしてみたいと思っただけなのだ。
そこでいろんな話がしたい。別に二人のこと、朝倉のことじゃなくてもいい。テストのことでも学校のことでも、何なら朝倉の妹さんやことりの話でもいい。
とにかく、二人っきりで食事なんて、学校じゃなかなかないことなのだ。その機会を、最大限に生かしたい。
けどさっきの様子じゃあ、私は何も話せないかもしれない。よし、今度こそ気を引き締めて、朝倉と普通に話をするんだ────
「えー、別にそこまで行かなくたっていいだろ、かったりい」
「……え゛っ」
朝倉の突然のセリフに、それまで物思いに耽っていた私は思わず腰を抜かしそうになる。
「あそこでいいだろ」
と言う朝倉の指が指す方には、私もよく行くコンビニがあった。
結局そこで、朝倉はカップ麺を、私は弁当を買った。
「で、何処で食べるの?図書館は飲食物持ち込み禁止だし……」
逡巡する私に、
「ここでいいべ」
朝倉はそう言うと、コンビニの前の、ちょうど段になっているところに腰を降ろす。
「そ、そんな、駄目だよ」
「かてえコト言うなよ」
「学校に告げ口されたらどうするんだよ……?」
「そんなくだらねえコト取り合うヒマなんざ、ウチの学校にはねえだろ。もし俺が学校の偉い奴ならそんなことより、学食のメニューの改善に力を入れるね」
「ふ、不満でもあるわけ……?そ、それにおば、いやウチの学校の偉い人は、そういうことにも厳しいと思う、けど……?」
「まあまあ工藤さんや、そうグズグズしてたら、せっかく暖めたお弁当が冷めてまうやおまへんか」
私は渋々、朝倉の隣に腰を降ろした。向かい合っての食事の筈が……これを食事と言えようか、いや言えない。“コシヒカリ100%”と謳う弁当を買ったはずなのに、その御飯はちっとも味がしなかった。
「なあ工藤」
細々と弁当をつつく私に、カップ麺がふやけるのを待っている朝倉が、退屈そうに声をかけてきた。
「ん……?」
「お前普段、どんな飯食ってんの?」
「どんなって……普通だよ。和食が多いけど」
「お……、だから『和風からあげ弁当』を買ったのか……」
別にそんなワケじゃ……と言おうとして、私は朝倉の表情や視線の先から、あることに気づく。
「朝倉……欲しいのか?」
「いや、べ、べ、別にぃ〜……」
そう言う朝倉の目は、明らかに泳いでいる。わかりやすいその態度に、私は吹き出しそうになった。
箸で唐揚げを一つつまみ、朝倉の目の前でそれを泳がせるようにちらつかせると、朝倉の目は明らかにそれを執拗に追いかけていくのが、明らかに見てとれる。
「……」
そうしてさんざ朝倉の視界内を舞わせた唐揚げを、瞬時にその視界から消し去り私の口の中に入れると、朝倉は半開きになった唇を軽く痙攣させながら、この上なく切なそうな瞳を見せた。
「く、工藤君、どうして君はそうも育ち盛りの青少年の純粋さを踏み躙るような真似をしやがりますか……?」
その朝倉の悶えるような表情に、私は可笑しさを堪えられなかった。こんな朝倉を見られただけ、この時間もあながち無為なものではなかったかもしれない。
「はは、欲しいなら欲しいって言えよ」
「ああもう、欲しいよ、くれよ! 唐揚げなんて、滅多に口に出来ないんだよな……!!」
「妹さんは作ってくれないの?」
「ああ、唐揚げと称した消し炭を出してきた事はあったけどな!」
「そうなんだ……あ、お箸はどうしようか?」
「いや、そのまんまでいいって。我が輩は唐揚げを頂けるだけでハッピー、であります」
「そ、そう……? ほらよ」
そうして私は、残っている唐揚げの中から一番大きい奴を箸でつまむと、朝倉が手で掴めるくらいの高さに差し出した。
すると朝倉は、
「恩に着るぜ工藤! 愛してる!」
と言うと、差し出された唐揚げに直接顔を近づけ、そのまま口でつまんでいった。
「!?」
「ん……ん、んめ」
咄嗟の事に言葉も出ない私を尻目に、朝倉は唐揚げを呑気に味わっている。
私は攪拌された頭を、必死に整理した。先程の「愛してる」という言葉はただ単に感謝するという意味で発されたものだろうし、あの取り方も、朝倉が手を伸ばすのを面倒がって行った、そのほかに別段意味なんざ無いものである事は判っている。
しかしいくら頭を整理しようとも落ち着かない。いくら落ち着こうとしても、体が言うことを聞いてくれない。脈は先程にも増してその勢いを強め、顔は先程にも増して紅潮する。
「あ、もう4分経ってんじゃねえかよ……ん、どうした工藤? また俯いたりして、食わないのか?」
「っだ、だから朝倉には関係ないって言ってるだろう、もう……!!」
「……変なの」
訝しがる朝倉を意識すまいとして、私は箸の上下を入れ替えて、一心に弁当をかっ込む。時間が経ったせいか、先程まではまあまあいけた筈の唐揚げは、何の味もしなくなっていた。
その後二人は午前と同じ席に戻り、勉強を再開した。
相変わらずかったるそうにぼやきながら問題集に向かう朝倉の隣で、私は相変わらず何一言朝倉に話しかけられずに、頭の中を混乱させている。
一心不乱に問題集を解いたり、教科書をノートに書き写したりしてはみるが、全く頭の中に入ってこない。シャーペンの芯も何回も折ったし、消しゴムをかける力を強めすぎてノートに破れ目を入れたことも数知れない。
この胸の苦しみから楽になりたい。
────この身の真実を、朝倉には明かしたい。
何故なら、私は朝倉が好きだから。女として、君を好きって言いたいから。
でもそれには、今この身の、朝倉のみならず全ての人たちについている嘘が邪魔をする。
たとえ己を欺いてでも、嘘をつかざるを得ないのには理由がある。
それは工藤の家訓か。それを支持し厳守するお祖母様か。いくら、一応男同士だからって、いくら何でも鈍すぎる朝倉か。それとも、家訓やら何やらに翻弄され自分に正直になれない私か。
もし家訓を破れば、お祖母様と、一族皆が私に激怒するに違いない。いや、易々と言いつけを破った私に絶望して、お祖母様を泣血させてしまうかもしれない。
打ち明けられた朝倉はどうだろう。男装などという、一般的に考えて訳がわからないことを平然と行っていた私を、不可解さで気持ち悪がるのではあるまいか。そうして皆を欺いていた私を軽蔑するのではあるまいか。
どれもいやだ。結局正直にはなれない。
でもやっぱり、この胸の苦しみから楽になりたい────繰り返し。
「……っ」
ふと、我に返る。あれだけいた人も、幾分かまばら。
窓からの陽光で、辺りは山吹色に染まっている。時計は4時半のあたりを指していた。
「え……」
確かもう1時には席に戻って、勉強を再開したはずだった。あれこれ思案している内に、もうそんな時間になってしまったなんて……と私は、それまで隣で聞こえていた、ぼやきや頭を掻く音が聞こえなくなっていることに気づく。
「朝倉……?」
「すぅ……んんぅん……ん…………」
余程勉強はかったるかったのか、朝倉は机に置いた腕を枕に、こちら側に顔を見せた形で突っ伏して、穏やかな寝息を立てながら眠っていた。
「いい気なもんだよね……」
朝倉のお気楽っぷりを正直憎たらしく思いながら、私は朝倉の寝顔に見入る。その寝顔は全くもって憎たらしいくらいにお気楽で、隙だらけで、可愛かった。
「……」
不意に私は、朝倉の顔に手を伸ばしてみる。そしてその指で、呑気な寝息を漏らして少し開いた朝倉の唇をなぞった。
「んぅ……っぅん………」
寝息を私の指にかける、朝倉の唇。私に対しては、私をどう思うのかさえ教えてくれないこの口。
いつかこの口で、誰かのことを『好きだ』という日が来るのだろう。
その時朝倉は、誰を正面に見据えているのだろう。
そして朝倉はその後、この口で、誰と────
自分で意識することすら出来ないけれど、どうしても止まらないものが、確かに私の中に流れる。
そして私は立ち上がり、未だ夢と戯れる朝倉の顔を眺める。
暫くして自らの顔を近づけ、じっと、朝倉の唇を一点に見つめてみる。
「…………」
少し躊躇った後、私は朝倉のその無防備な頬に、こっそりと口づけた。
朝倉の頬の感触が私の唇に伝わり、やがて確かなものと感じる、その刹那。
今まで私に絡みついていた、家訓がどうとか、お祖母様がどうとか、軽蔑されるのがどうとかといった感情を、私は綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
憶えているのはただ二つ。
朝倉が起きたらどうしようと思いつつ、今朝倉が起きていないのを残念がったりしてみる気持ちと。
朝倉は眠っているけれど、こうして自分の気持ちを行動で朝倉にぶつけられたことで得られた高揚感。
唇を離し、朝倉の肩を揺らす。程なくして、朝倉はその重そうな目蓋を少し開いた。
「…………んだよ、人が折角……あ、工藤…………?」
「朝倉、もう夕方だよ。もうみんな帰ってる」
えっ と朝倉は目を見開いて、周りを見渡し、私の時計を覗き込む。そして今の今まで机に沈めていた半身を起こすと、あぁー……っと伸びをし、後悔したふうに首をすくめた。
「あ゛ー、寝ちまったあ……ああ、明日のテストどうしよ、これじゃ減給どころか補習じゃんか……」
「自業自得だね」
ケラケラと笑う私に、朝倉は眉をしかめてみせると、今度はなにかを残念がるような顔をする。
「くそ、結局あれも夢かあ……ちくしょー」
「夢?」
「ああ、さっきすっげえいい夢見てたんだよなあ、ああくそ、口惜しい」
「えっ、何それ、気になる。教えてよ」
何気ない口調で非常に引っかかることを言う朝倉に、私は思わず身を乗り出して尋ねていた。
「おわっ……え、何で?」
「いいじゃないか、そんな言い方されたら気になるんだからさ。ねえ、教えろよ」
催促する私に根負けしたか、朝倉は
「ん…………」
と、どこか必死な形相であれこれ考え込む仕草を見せた後、
「……あれ、……ああ悪りい、憶えてないわ」
といって、目の前の問題集やらを鞄にしまい始めた。
「ハァ? 憶えてないって、それなら何でいい夢ってわかるんだよ」
「だからー、夢の内容とかは憶えてないけど、いい夢見てたってのは確実ってこと……ただの夢なんだから、工藤にゃ関係ねえべさ」
「ふぅーん……」
朝倉の態度には、何か引っかかるものがある。
「もしかしたらその夢、朝倉の好きな女の子とキ……よろしくする夢じゃないの?」
「……ん? 工藤、何か言ったか?」
「ううん、何にも」
だが別段気にすることではあるまいと思い、私も帰り支度を始めることにした。
まもなく図書館の閉館時間である午後5時となり、私達は二人並んで、図書館を出た。
「なあ工藤、聞いていいか?」
「何?」
「俺、どんくらい寝てた?」
「さあ。俺はずっと勉強してたから」
「そーでっか。んじゃさ、図書館出る時に近くの席の奴らが何かこっち見てヒソヒソ言ってなかったか?」
「ふーん、知らないなあ。何でだろうな?」
「そうかい……あー、補習になったらやだな、かったりいな……あ、そいや工藤お前、昼頃まで気分悪そうだったのに、今は落ち着いてんな」
「え、そう?」
「何かいつになく気分も良さそうだし……俺が寝てる間に、何かいいことでもあったか?」
「ああ、強いていえば横でかったりーだの何だの五月蠅かったのが途中から無くなったくらいかな」
「あんですって!? 工藤何かお前、昼までとキャラ変わってねえか!?」
「ハハハ……」
ずっと、ドキドキはしているものの、今の私にはこの和気藹々とした状況を楽しむ余裕があった。
まだ嘘をついたまんまだけど。まだ目を見て好きだと言えたワケじゃないけど。
この人に全てを晒せる日も、そう遠い日じゃない気がする。
先程の苦悩は難解なものだったけれど、その答えはとても明快なものだったように。
いつか、二人もっと近くで、こんな雰囲気の中で、『好き』だと言えたらいいな。
了