散ってしまった花弁は、もう二度と、この眼前に咲き誇ることはない。  
「……先輩、先輩」  
わかっている、つもりである。  
「お──い、先輩……」  
……だが、どうしても、どうしても、そのことを認められない。  
「先輩……」  
この様を見たら、あいつは、どんな顔をするだろうか。やはり、笑われてしまうだろうか。  
「……」  
 
無言の時が刹那、美春と純一の間を支配する。  
「ん……?」  
呼びかけを止め急に押し黙った美春に驚いた純一は、目を見開いて傍らの美春の顔を覗き込むと、その美春の表情は少し、翳が差しているように見えた。  
「……美春……?」  
「先輩……」  
「何だよ?」  
「また、暁美ちゃんのことを、思い出してたんですね」  
 
「……」  
今度は、純一が押し黙る。  
 
中司暁美とは初めは友達からの付き合いであったのに、いつの間にかその絆は純一にとってかけがえのないものになっていた。  
その華奢で覚束ない足取りも、多少のことにも顔を赤らめる恥ずかしがり屋ぶりも、全てが純一の腕の中で、一際目映い光を放っていた。  
面倒臭がりの純一が、この娘のためなら何も厭うまい と思う程、そして、この絆が恒久のものであればいいのに と思う程、ある人を愛おしいと思えたのは、暁美が初めてであった。  
 
しかし、その想いは同じく恒久にこの島で栄華を誇ると思われた桜の花と、そして暁美の魂の灯火と共に、純一の眼前で散った。  
それは今思えば、あっけない 程に、一瞬で散った。  
 
「しっかりして下さいよ、先輩!」  
その出来事を未だ認められない純一を支えようとしたのは、かつて純一と暁美との橋渡し役となった美春であった。  
「先輩がそんな正気の欠片もない様子だったら、暁美ちゃんも悲しみますよ!」  
「っく……わ、わかってるよ」  
「わかってるなら、そんな暗い顔しませんって!」  
「……」  
それでもなお、いじけてばかりいる純一に、  
「んもうしょうがないなあ先輩は。しょうがないからこの美春が先輩とお付き合いしてあげますよ!」  
美春は、一息に言った。  
「は?」  
「……今の先輩は、誰かがお側にいてあげなきゃダメダメみたいですからね〜」  
「……勝手にしろ」  
 
こうして、純一と美春は付き合うことになったのだが、純一の表情は、未だ暗いままであった。  
 
押し黙る純一に、美春は溜息をつく。  
「はーあ……、いい加減立ち直らないと、暁美ちゃんも枕を高くして眠れませんよ……」  
そう少し嫌味混じりに言った美春は、純一の様子がおかしいことに気づいた。  
幾分か俯きがちで、なにかに苛立っているように、その眉間には皺が刻まれている。  
「…………っせ……」  
「はい?」  
純一の一言が聞き取れず、いや、信じられなかった美春は、呆気にとられた表情で純一を見た。  
「な、何です?」  
とぼけるかのような美春の態度に、純一は舌を打ち、きっ と美春の方に向きかえり、  
「…………うっせえ」  
「……え」  
「五月蠅えよ、お前」  
そう言って純一は、凍りつくような視線で美春を睨んだ。  
その眼差しに、美春は震えた。こんな純一を見たのは、生まれて初めてである。  
「え、え……」  
「だからいちいち俺が暁美がどうしたこうしたって五月蠅えんだよ、お前は」  
純一の容赦のない言葉に、美春は怯え、言いようのない孤独にたじろぐ。  
「だ、だって、美春は……」  
「お前が俺の彼女だろうと何だろうと、これとお前とは関係ねえだろ。いちいち口挟んでくんな」  
そう言い捨てると純一は、美春を置いて、足早にその場を去る。  
美春はただ、その後ろ姿を見守るしかできなかった。  
「そんな……」  
 
そのまま自室に戻った純一は、苛立ち混じりに鞄を放り捨てると、そのままベッドに倒れ込むようにして横になった。  
『──五月蠅えよ、お前──』  
純一は先の己の言動を悔いる。美春には、言い過ぎてしまった。  
『──いい加減立ち直らないと、暁美ちゃんも枕を高くして眠れませんよ──』  
美春の言っていることは全て、疑うところなど微塵もない真実だ。正直耳が痛い。  
だがそれは、全て自分のことを案じているが故の言葉である。そうして自分のことを気にかけてくれる美春の気持ちは、とても嬉しい。  
「……」  
しかし、やはりどうしても、暁美のことを思い出さずにはいられない。  
「……」  
 
実は、あの日のことは全て幻覚で、明日になれば  
『先輩、先輩……』  
ひょっこり暁美が自分のところに、何事もなかったかのように現れ、  
『私のこと、ずっと忘れないでいてくれたんですね。嬉しい……』  
その鈍い足を必死にばたつかせて、自分の腕の中に飛び込んできて、  
『逢いたかった……! もう私、何処にも行きませんから……ずっと一緒ですよ……』  
そうして二人は、以前に増して強い絆と想いで結ばれる──  
 
「……ああ、もうっ!!」  
そんな三文芝居のような馬鹿馬鹿しいシチュエーションの再会を、もしかしたら、もしかしたら──と追い求める気持ちが、今の純一の中に根強く絡みついていた。  
「……くそっ…………」  
わかっている。そんなこと、ありはしないと。  
「……何で……何でだよ、暁美…………」  
純一は、枕にその顔を埋める。脆弱な自分に、情けない自分に、純一はますます苛立った。  
 
純一が目をさますと、窓から眩しい光が差し込んでくるのを感じる。慌てた純一が枕元の時計を見ると、その針は七時半を指していた。  
「うわ、やっべ」  
いそいで朝の支度を済ませ、飛び出すように家を出た純一は、玄関の前で美春が待っているのを見つける。  
「あ、美春……待っててくれたのか?」  
「あ……はい」  
昨日の純一の言葉を気にしてか、美春の表情は俯きがちでいつもの勢いが感じられず、何処となしか怯えているように見えた。  
「あ……あのさ」  
「はい?」  
「……悪かったな、昨日は」  
「……」  
美春は、言葉を返さない。純一は、なおも言葉を続ける。  
「俺、言い過ぎたよ、あの……」  
「何のこと、ですか?」  
突然の、美春のその言葉に、純一は驚き戸惑った。言いようのない不安が、純一を覆う。  
「……な、何のこと って……、ほら、あれだよ、あの……」  
「何のことかわかりませんけど、気にしなくていいですよ。さ、早く学校へ行きましょう」  
そう言って袖を引っ張る美春に、純一はこれ以上詮索することができなかった。  
「……」  
そのまま無言で、二人は通学路を往く。  
『何のこと、ですか?』  
歩きながらも純一は、先の美春の言葉が引っかかっていた。いくら美春でも昨日のことを忘れているとは思えない。それに今朝から様子もおかしい。  
気を遣って、有耶無耶にしようとしてくれているのだろうか。しかしそれは、純一の望むところではなかった。やはりあのことは、きちんと謝っておきたい。  
「あ、あのさ、みは……」  
そう言って振り返ると、その横に美春の姿がない。  
慌てた純一が後ろを仰ぎ見ると、ずっと後ろの方で美春が、亀のような歩幅で純一を追いかけていた。  
「ま、待って下さいよう、先輩」  
「み、美春、おいおい……」  
まるで……と言いかけて、純一ははっとした。  
「……おい、足でも、挫いてんのか?」  
「い、いえ、そんなことありません。これがいつもの私の歩調ですよ」  
純一は、その美春の様子を前に、目の前にちらつく影を、必死に頭の中で否定した。  
『まさか……そんなわけは……』  
 
午前中、純一はずっと、美春のことを考えていた。  
朝のあの振る舞いに、どうしても、あのことを連想せずにはいられない。  
『そんなわけない。第一、外見は美春じゃないか……』  
しかし、どうも納得がいかぬまま時は過ぎ、昼休みを迎える。  
それでもまだ、机に伏せったまま微動だにせず、物思いに耽っていた純一に、  
「おい、朝倉」  
突然、杉並が声をかけた。  
「ん、何だよ」  
「今日のお前、いつになく考え込むような様子じゃないか。珍しい」  
「……俺だって毎日脳天気に生きてる訳じゃねえよ」  
「ほう……しかし、今日もハニーとランチか。おめでたいな」  
美春と付き合うようになってからというもの、美春は毎日純一の居る教室のほうまでやってきて、純一を昼御飯に誘うようになっていた。  
「奢らせようとしてんだよ……で、通ならどういうランチタイムを過ごすんだ?」  
「素人にはお勧めできんな」  
「け、どうせ俺は牛丼安売りにゃ一家総出で乗り込む小市民ですよ」  
「ところで、その肝心のお前のハニーの姿が見えないな?」  
そう言われて、純一ははっとする。確かにいつもならもう今ぐらいの時間、既にここにいる頃である。  
「気になるのなら、様子を見に行ってやったらどうだ? もしかしたら道半ばで悪漢に絡まれて、お前の助けを待っているかもしれんぞ?」  
「アホか」  
来たら来たで飯奢れだのバナナ買ってくれだの鬱陶しいが、来ないなら来ないでどうも落ち着かない。第一、今日の美春の様子がおかしいのも気がかりだった。  
「……かったりい……」  
 
一応、美春がいつも辿ってくるであろうルートをなぞりながら、純一は美春の教室へ向かった。  
「ちょっとごめんよ……」  
教室の入り口をくぐると、美春がいた。しかし何か、やはりいつもと様子が違う。美春は席に座ったまま俯いて、何か手作業に勤しんでいる。  
その美春の意外な様子に、どうも声をかけそびれた純一に、  
「あ、朝倉先輩」  
美春の友人が声をかけた。その顔は少し、にやけて見える。  
「おい……美春は……?」  
「それが……」  
その友人に促されるまま、純一は美春の近くに寄ってみる。そこで美春の手元を見て、思わず純一は目を丸くした。  
美春が、編み物をしているのだ。  
「こんな美春を見たのは、生まれて初めてですよ……こんな様子でPDAでネットしてたことはありましたけど、まさか、編み物なんて……ねえ?」  
「……」  
言葉を失っていた純一は、ふと、顔を上げた美春と目があった。美春は驚いた顔をして、その頬を赤らめる。  
「あ、朝倉先輩。いたんですか……? それなら、話しかけてくれてもいいのに……」  
「……え、あ、ああ……悪い」  
「ん〜、何処となしか美春、しおらしくなっちゃったなあ……?」  
赤い顔をして純一を見上げている美春に、友人が悪戯っぽい声で話しかけた。  
「そ、そんなことないよ……私は普段通りだよ……」  
「編み物といい、やっぱ美春も女の子なんだねえ……?もう、朝倉先輩も罪なお方だ!」  
「お、おいおい……」  
美春だけでなく純一までからかってくるその娘を純一が宥めていると、美春は、  
「編み物は、ずっと前からやってるよ……」  
と、俯きがちに言って、また編み針を動かしはじめた。  
「へ〜、そうなんだ。意外……」  
興味深そうに頷くその友人をよそに、純一はますます美春の変貌に戸惑った。美春とは幼い頃からの付き合いだが、美春が編み物をやっているところに出会ったことなどない。  
 
「美春、ちょっと待ってろ」  
そう言って純一は、足早に駆け出す。  
皆の視線をかいくぐって学校を抜け出し、近くのコンビニに駆け込む。  
そしてそこでバナナを一本買って、大急ぎで美春の元に戻ってきた。  
 
「ハァ、ハァ……」  
「ど、どうしたんですか、先輩?そんなに息切らして……大丈夫ですか?」  
息の荒い純一を気遣う美春に答えることなく、純一はバナナを差し出す。  
「へ?」  
「ほら……あの、その…昨日の詫びだ。食えよ」  
「へえ、先輩自らバナナを買ってあげるなんて……よかったね、美春?」  
しかし、やはり、美春はおかしいままであった。  
普段の美春なら、鞄に隠し持っていてもそれを嗅ぎつけ、食わせろとねだるほどバナナには目がないのだが、今日の美春は、手を伸ばす仕草すら見せない。ただきょとんとして、その眼前のバナナを見据えるだけである。  
「美春、おい、美春……?」  
「あ、私にくれるんですね。ありがとうございます……あとで味わって食べます」  
美春はバナナを受け取ると、机に掛けてある鞄に入れて、また編み物をはじめた。その様子に、先程までにやついていた友人も唖然とする。  
純一は、眼前の美春が、美春に見えなくなる感覚に襲われていた。  
そしてそのかわりに目の前にちらつく像が、ますます濃くなっていくのを、抑えられなかった。  
 
それからずっと、美春の様子はおかしいままであった。  
相変わらず、亀のような歩幅。風に靡けばそのまま飛んでいきそうな、華奢な足取り。  
人と接する態度も、今までの人懐っこい感覚が消え、何処となしかはにかみがちなものである。  
休み時間、前まで美春が好んでいた話題をふられても乗ってこず、ひたすら編み物に励む。  
何よりも好んでいたバナナを、たとえ目の前に山盛りに積まれても、目の色一つ変えないでいる。  
 
やがて他の者達は、ある“噂”を口々に言伝しはじめ、「まさか……」と首をひねった。しかし日を重ねるごとに少しずつ、その噂は真実味を帯びてくる。  
そして、純一はここ数日というもの、まともに美春の顔を見られないでいた。  
目を合わせれば、絶対、あの名を呼んでしまいそうになるからだ。  
 
「おい、朝倉」  
「……何だ」  
放課後、そそくさと帰るようになっていた純一に杉並が、いつになく真剣な表情で声を掛けた。  
「お前のハニーのあの噂、聞いたか」  
「知らねえよ」  
「何でも、前にその娘と仲の良かったっていう……」  
「知らねえっつってんだろ!!」  
いらぬ詮索をかける杉並を、純一は息を荒げて振り払う。杉並の目に、その純一の表情は、まるで鷲に追われ続ける小兎のもののように映った。  
「……朝倉」  
「…………知らねえ……」  
杉並は純一のその焦燥ぶりを察し、先の純一の苛立つ仕草に怯むことなく、  
「まあ、今はそれでもいいかもしれんが、あの子がお前のハニーである以上、いずれ避けては通れんぞ」  
背を向ける純一に、諭すように言った。  
「……」  
純一はそれに応えずに、逃げるようにその場を離れる。これ以上、杉並に真実めいた言葉を言われたくなかった。  
 
家に戻った純一が、またいつもの如く苛立ちを抑えながらベッドに伏せっていると、  
『ピンポ──ン、ピンポ──ン、ピンポ──ン……』  
玄関のチャイムの音が、家中に鳴り響いた。  
『ピンポ──ン、ピンポ──ン、ピンポ──ン、ピンポ──ン、ピンポ──ン……』  
延々と鳴り響き続けるその音に、純一はやり過ごすことが不可能であると悟り、渋々その身を起こすと、インターホンを取る。  
 
「はい」  
『あの、先輩……』  
純一は喫驚する。インターホンから響いてきたのは、美春の声であった。  
そのまま帰したかった。しかし一応、自分に会いに来てくれている美春をこのまま帰すのも悪いな と思い、玄関に向かうとドアを開け、  
「……寒かったろ。入れよ」  
美春と目を合わさないようにして、美春を居間に促した。  
 
「最近先輩、冷たいですよね。全然一緒にいてくれない」  
居間のソファに腰掛けた美春は、そう切り出した。  
「……」  
純一は俯いて、言葉を返さない。  
「どうしてですか?私何か、先輩を怒らせるような真似しましたか?」  
「そうじゃねえよ」  
「じゃどうして……もしかして先輩、私のあの“噂”が気になっているんですか?」  
「!!」  
いきなり核心をついてくる美春に、純一はたじろぐ。しかし家にあげてしまった以上、逃げることは不可能であった。  
 
「ああ、みんな噂してるな……お前の様子がおかしい、って……まあそりゃ、お前も人間だし、生きてりゃあそりゃあ、不変、ってワケにはいかんだろうさ」  
純一はあからさまに、心にもないことを言い並べはじめた。その態度に、美春は眉をひそめる。  
「……待って下さい」  
「いや、俺もちょっと戸惑ったワケよ……まあそうだよな、美春だって成長するもんな」  
「……待って下さい、『美春が成長した』なんて噂、誰もしてません」  
美春は自分を無視して一方的に言葉を並べ立てる純一を制止して、きっぱりと言った。  
「……ま、お前の場合、成長っぶりがいささか急すぎるワケだよな。あれじゃあ“変貌”だ。いや、まあ、なんだ……その、元々お前はバナナのアホ食いだとかまあいろいろ変わってた部分が多かったし?……」  
なおも美春を無視しようとする純一を、美春は正面から真っ直ぐに見つめて、  
「待って下さい先輩。私、変わってなんかいません」  
はっきりとした口調で、大きな声で言った。  
 
その美春の様子に、純一はますます苛立った。軽くテーブルを蹴飛ばして、乱暴に足を投げ出す。  
「いません、って……そんなわけねえだろ」  
「いませんったらいません。先輩だって、十分知ってるはずです!」  
美春は美春で、自説を頑なに曲げなかった。  
「ハア……?知ってる、だと?俺の知ってる美春はそんなんじゃねえよ……!」  
「いいえ、私は何一つ変わってません……!」  
「んなわきゃねえだろ?」  
「先輩だって、わかってるはずです。どうしてそんな、わからないふりをするんですか?」  
 
「ああ、もうさっきから……何がだよ、クソッ!!」  
純一は己を律せなくなり、掌をテーブルに力一杯叩きつけていた。驚いた美春と思いがけず目が合い、純一の堰はついに切れる。  
「少なくとも前までの美春が、ひょこひょこ歩いたり、編み物したり、果てはバナナをスルーしたりなんてするわけねえだろ!! そんな、まるで暁美みたいな……」  
 
途中まで言いかけて、純一ははっとした。  
 
天枷美春の言動が、先頃亡くなった、中司暁美の言動を丸写ししたものになった。  
 
あれはもしや、美春の体に、暁美の魂が乗り移ったのではないか。  
 
その“噂”を、純一はこれまで意識すまいと、考えるまいとしてきた。  
それを意識してしまえば、自分は目の前の女の子を、天枷美春ではなく、中司暁美として見てしまう。  
暁美が帰ってきてくれた と、脆弱な自分は歓迎してしまう。  
だが、そんなことは、有り得ないのだ。そんな、三文芝居じみた話は。  
 
「……すまん、美春」  
純一はテーブルに両掌をついたまま俯く。美春はソファから立ち上がると、そんな純一の傍に寄って、その顔を覗き込んだ。  
「どうして謝るんですか?」  
「どうしてって……あんな、怒鳴ったりして」  
「構いませんよ」  
「それに……まるで美春を、暁美と思うような……何かその、美春に暁美が乗り移ったみたいに思うようなことを……」  
「そんな暗い顔、しないで下さいよ」  
そして美春は両手で、項垂れていた純一の頬を、正面から掌で、優しく抱く。  
「やっと、認めてくれたっていうのに」  
 
「……え?み、美春?」  
純一は、呆気にとられて、美春の顔を見る。美春は素っ頓狂とした純一の両の目を、しっかと見据えてきた。  
「“噂”は、全部、本当ですよ」  
「な、何言ってんだ、美春?」  
「美春 って呼ぶの、止めてくれませんか。体は美春ちゃんのカタチでしょうけど、中身は違うんですから」  
唖然とする純一に、真っ直ぐにその言葉はぶつかってくる。  
「先輩、私がいなくなってから、ずっとさっきみたいな、暗い顔をしてる」  
未だ解せない様子である純一の、せわしなく瞬いている目を見据えたまま、その目に映る娘は言葉を紡ぎ続けた。  
「美春ちゃんがあれこれ世話を焼いたみたいですけど、美春ちゃんじゃ駄目みたいですね」  
純一の目が大きく開く。声を幾分かうわずらせながら、その言葉は続いた。  
「だから私、美春ちゃんからこの体を借りることにしたんです……先輩がそんな顔をするの、見ていられなかったから……」  
体を心なしか震わせて、最大に膨らんだその想いは、その言葉に乗って、純一に流れ込んでいく。  
「でもそれだけ先輩、私のことを想っていてくれたんですね。嬉しい……!!」  
そして美春の体は、純一の胸の中に投げ込まれた。純一は両の手で、その体を受け止める。  
「また逢いたかったです、朝倉先輩……寂しい思いをさせてごめんなさい。でも、またこうして出会えて、本当に嬉しい……もう私、何処にも行きません。ずっと、ずうっと、一緒ですよ……!!」  
感極まった声でその言葉を終えると、その美春の体はゆっくりと、そして深く純一の胸の中に預けられた。  
 
その腕の中の温もりを感じながら、純一は、これまでの記憶を振り返る。  
 
暁美と出会った日のこと。  
暁美に告白され、付き合うようになった日のこと。  
それから、暁美と過ごした、大切な日々のこと。  
そして、暁美を失った日のこと。  
 
・  
・  
・  
 
すべてそれらは今まで色褪せることなく、その中の情景から何から全て、純一の胸の中に残っている、筈であった。  
 
だが、実際はどうだろう。  
こうして、実際に本人に言われなければ、実際にこの腕の中で、この温もりを感じなければ、気づかないなんて。  
 
「結局何も憶えていないじゃないか、俺……馬鹿みてえ」  
純一は、己の耄碌ぶりに、自らのことながら嫌気がさす。  
 
「先輩……?」  
純一の不可解な独り言に、少し困惑した様子のその瞳を、純一は優しく見つめてやる。  
「……ありがとうな」  
その目は純一の眼差しに気づくと、ゆっくりと潤んでくる。  
「はい……」  
 
そうしてまた、二人に暫しの静寂が訪れたかと思うと、純一はその瞳を、先程とは違う目で見つめた。  
「だからもう止めろ、美春」  
 
「えっ……!?」  
突然、純一に暁美の存在を否定されたその娘から、信じられない といった感じの声が漏れ出す。純一は続けた。  
「もういい、止めろ。お前は美春だ。暁美じゃない」  
「まだ、認めてくれないんですか……!? 私は天枷美春じゃなくて、中司暁美です!こうして先輩に、会いに来たんですっ!!」  
「いいや、違う。暁美は、もう死んだ。もうここにはいない」  
「だから、会いに来たって、言ったじゃないですかっ!!こうして、美春ちゃんの体を借りて……!!」  
「その体の中に入っているのは、天枷美春だ。中司暁美じゃない」  
「そんな……どうして、認めてくれないんですか……?」  
頑なに暁美の存在を否定し続ける純一を目の前に、その娘は請うような眼差しで問うた。  
「お前……さっき、『美春ちゃんじゃ駄目みたい』とか、言ってたよな?」  
「ええ、駄目だったじゃないですか。先輩、ずっと落ち込みっぱなしで」  
 
「それだよ」  
その言葉に、純一の目が光った。どこか遠く、ずっと向こうを見据えるような眼差しになる。  
「え……??」  
「本物の、俺が知ってる中司暁美は、そんな……友達を、一番の親友である美春のことを、馬鹿にするようなことは言わない」  
「……!!」  
「それに、友達の体を乗っ取るみたいな、そんな友達を蔑ろにするような真似はしない……いや、あいつは出来ない」  
押し黙ったその娘の瞳に、目頭を歪ませて、必死に何かを堪えている様子の純一が映る。  
「ああ、出来ねえさ……そんなこと、引っ込み思案なあいつが…………」  
 
「……ごめんなさい…………!!」  
それを目の当たりにして、その目の前の体は、自らの中の天枷美春の存在を認めた。  
「でも、でも、美春は、こうするしかなかったんです……っ!」  
そしてその身を、今度は天枷美春として純一の胸に預けながら、美春もその大きな瞳を、いっぱいの涙で満たしはじめる。  
「こうでもしなきゃ……先輩、ずっと、ずっと、沈んでいるまんまなんだと思って…………!!」  
そう言って美春は、堪えきれなくなった感情を、目から口から漏らしはじめる。純一はその腕の中の美春を、先よりも強く、しっかりと抱いた。  
その体は先よりも、ずっと暖かで、眩かった。“生きている”感覚がした。  
「ごめんな、美春……いつも傍にお前がいてくれたって言うのに、全然気づいてやれなくて……」  
そして純一は、未だ嗚咽を漏らす美春の唇を、自らのその唇で、そっと塞ぐ。  
「んっ、ん……」  
その唇で感じる安らぎに、美春は自ら目を閉じ、体の力を抜いて、純一の為すがままになった。  
 
日が暮れ、夜の帳が部屋に差し込みはじめても、二人は暫くの間、離れようとしなかった。今はただ、この温もりを、片時も手放したくなかった。  
やがて久々に、夜空に月の明かりが灯り、その瞬きは、二人だけの世界を照らしだす。  
「先輩……ねぇ……」  
「美春……」  
そして双方に、もっと互いの、表に溢れ出るものだけではなく、もっと奥の奥の温もりが欲しいと思う気持ちが芽生えるのは、必然であった。  
 
純一は美春をソファに横たえると、自らは床に膝をつく。そうして美春の上着に手を伸ばし、それをゆっくりと上にずらした。  
忽ち露わになった美春のそのブラジャーは、あの演技の影響か、かつて純一が美春を抱いた時に見たものよりも、幾分か可愛らしいものであった。  
「変です……か?」  
「いいや。それよかこのまま、大丈夫?寒く……ないか?」  
そう言って純一は、少し不安そうな顔を美春に見せる。なんだかんだ言いながらも人のことを思いやってくれる、幼き日より美春が見てきた純一のその側面を改めて目の当たりにして、美春は少し、嬉しくなった。  
「いえ、平気です。暖房、入れてくれてるし、それに……」  
「それに?」  
「先輩、暖かかった、から」  
そう言って美春は、紅潮した顔で純一を覗き込んだ。その表情は幼き日に純一が幾度か見たことのある、照れた時の美春の顔をしていて、純一は思わずその顔に焚き付けられるように、再度美春の唇を欲してしまっていた。  
「そっか……美春も、暖かい……な」  
唇を離し、そう言いながら純一は、美春のブラジャーをたくし上げるようにずらすと、そこから溢れ出た乳房を手にして優しく包み込んだ。美春の躰はその刺激に敏感に反応し、その熱を強める。  
「ぁん……」  
そのまま捏ねるように愛撫すると、美春は可愛らしく啼き、瞳を切なそうに閉じた。その表情に純一の情熱は更に加速し、愛撫する手を更に強める。  
「ふぁぁ……せ、先ぱぁい……」  
「我慢しなくていいぞ、美春……何か、して欲しいことがあったら、遠慮なく言ってくれ……」  
「じゃ、じゃあ……、続けて……。も、もっと下さい……あ、ぁああ……」  
その美春の声に呼応して、純一は美春の下半身に手を伸ばすと、そのスカートを捲り上げ中のショーツに触れる。その間から指を潜りこませて、既に湿り気を帯びていた美春のそこに、そっと指をなぞらせ、擽るように蠢かせた。  
「……は、っはぁん、ああ、ぃやあ……」  
微睡む美春を確認しつつ、純一は空いた左手で愛撫していた美春の、尖りを見せていた胸の先に口づけ、そのまま啄み始める。  
「ひゃ、せ、先輩……ぃひゃっ、あ……」  
美春はその感触に恍惚としつつ、純一の“愛情”を、一身に感じていた。  
 
やがて純一は、もう堪らない、といった感じの表情をして、ソファの上の美春に跨った。  
「!!」  
美春はどぎまぎするが、純一が何を望んでいるかは解していた。  
「美春……いいか…………?」  
そう言って純一は、美春の瞳を見据えてくる。美春は少し恥ずかしさを覚え、ソファから起きあがると、純一の目を見つめた。  
「ええ……でも、ちょっと、怖いかも……です」  
「美春……」  
「もしかしたら……怖くて、逃げ出しそうになるかも……だから、先輩……」  
そして美春は、今度は自分から、純一と唇を重ね合わせた。そしてその距離のまま、純一の肩をぎゅっと掴む。  
「だから先輩……あの、している時……ですか? その間中はずっと、こうやって、先輩の体温を感じさせていて、くれません……か?」  
そう言いながら、純一の肩を離そうとはしない美春を、初めて見る美春の意外な一面を、純一は可愛いと思った。  
「ああ……もちろんさ。俺だって、そのつもりだ……」  
 
美春が両腿を開かされたのも束の間、すぐにショーツをずらされる。そして純一もズボンを下におろし、猛るかのように天を仰ぐ一物を、美春の目に晒した。  
「じゃあ……。……もし、もう勘弁ってなったらすぐに言えよ。すぐに俺も止めるから……」  
「……はい」  
美春は目を瞑る。そして息を潜めながら、その瞬間をぐっと堪えるように待っていると、やがてゆっくりと、腰の辺りを強く震わせるような感触と共に、純一のものが自らの内へ誘われるのを感じた。  
「ん゛、ぁ、……せ、先輩ぃ……っ!!」  
純一は約束通り、美春の内で己を動かす間、美春の躰の上に横たわるようにその身を密着させ、美春に自らの肩を貸した。  
「ゎはあ…はあん…せ、先輩…あ、ぅあぁん……っ!」  
美春はわななく躰に啼きながら、純一の肩を探り当てると、純一の蠢きをその身に享けている間中、先程よりも強く、その肩を捕まえる。  
まるで肉を削ぎ取るかのように肩を掴んでくる美春に純一は驚き、暫し腰を止めて、美春に向き合った。  
「み、美春、いくらなんでも痛てえって……。俺はちゃあんと、ここにいるからさ……」  
「ご、ごめんなさい……」  
 
そう言いながらも、美春は処女のような顔をして、その手を離そうとはしない。純一はそんな美春に、また口吻る。そして美春の頭を、そっと撫でてやった。  
「な、俺はちゃあんと、ここにいるだろ?」  
「……はい」  
頷く美春ではあったが、まだその表情には怯えがある。純一はそんな美春が、少し腑に落ちなかった。  
「どうしてそんな、怯えるんだ?初めて、ってワケじゃあないのに」  
「……初めてですよ」  
 
「……? ど、どういう意味だ、それは……?」  
驚く純一に、美春は潤んだ眼差しを、真っ直ぐに純一にぶつける。  
「今思うとあの時はただ、美春は先輩と寝た“だけ”に思うんです」  
口ごもる純一の目の前で、美春の大きな瞳から、また、止めどなく涙が湧き出した。  
「先輩がこうして、美春のことを“愛して”くれるのは、初めての経験です……」  
前に美春が純一と寝たのは『一応、恋人として』という手前のものであったため、その頃まだ暁美の未練にとらわれていた純一の責めは、儀礼的に乗っ取ったものであり、かつ荒かった。  
それ故にその時は、美春は快楽を得はしたものの、今こうして感じられる暖かみを得ることはなかったのである。  
「だから美春、なんか、今先輩がふっといなくなったらどうしようとか、凄く不安になって……」  
純一は、その美春の言葉に反論できなかった。そして、少し嬉しさを感じる。  
「今、俺は……美春を、愛せてるんだな……?」  
「……ええ」  
「それは、どうだ?迷惑とかじゃ……ないか?」  
「そんな!……美春、今、凄く幸せです」  
「美春……」  
「先輩、好きです、大好きです、ずっと大好きです……ずっと、一緒ですよ……!」  
真摯で、嘘偽りなく、そして何より愛おしい。そんな美春の言葉に純一も、今の幸せの尊さを改めてかみしめる。  
「……ああ!」  
 
そうしてまた、純一は美春の内で動き始めた。美春は相変わらず、純一の肩を掴み、腰に足を絡めて、純一を逃がすまいとしてくる。  
「先輩……ぜっ、絶対、離さない……!!先輩も…離しません……よ、ねぇ?」  
純一は最早咎めることをせず、美春のしたいようにさせてやった。  
「ああ……絶対、離すもんかっ、っ……」  
「っあ、あはぅん……せんっ、先輩……好き、好き……!!」  
純一はただひたすら美春を、何物にも代え難い存在を、その身を挺して愛し続けた。  
 
二人は、お互いの更に更に奥の温もりを欲して、今こうして躰を重ね合っている。  
その願いは叶い、その熱すぎるほどに滾るお互いの焦熱に、身を任せることが出来た。  
だが、それに身を焦がせば焦がすほど、その熱は限りなく、うねるように高まっていくことに、二人は気づく。  
そしてそうなればなるほど、もっと欲しい、ずっと感じていたい、と思わずにはいられない。  
そのくらい、それは甘美で、蠱惑的で、美味であった。  
 
しかし、そこまでの刺激に延々と耐えられるほど、人の体は堅くできてはいない。  
「先輩、先輩ぃっ……美春、美春は…………ああっっ!!」  
「み、美春……ああ、俺も、美春…………っ!!!」  
二人は火照り上がった躰と共に、繋がりあったまま、手を取り合って、頂から崩れ落ちた。  
 
二人は息を整えると、二階の純一の部屋に上がって、同じベッドに二人並んで床につく。体が困憊しきって、もう貪りあうことは出来なかったが、お互いを密着しあうことは忘れなかった。  
「先輩……」  
純一の腕を枕にしながら、美春が純一に、にやけた表情で笑いかける。  
「なんだよ……?」  
「もう先輩は、美春のものですからねぇ……?」  
「は、はは、なんだよおい、……なんだそりゃ?」  
「言葉通りですよ。だって美春、先輩に、“膣中出し”されちゃったんですから……っ」  
「ぅえっ!?」  
突然の一言に、純一はむせてしまった。だがそれは、紛れもない事実である。  
「もしもの時は、責任、取って下さいね」  
「い゛、いや、あの、その、天枷君、いきなり突然……」  
「何でそんな顔するんですかぁ〜?美春に先輩『絶対離さない』って、言ってくれたじゃないですかぁ」  
「あ、まあ確かにそうは言ったよ、けどなんだ、あれだ……」  
「でも、たとえあの時外に出されてても、先輩は美春のものですよ?」  
そう言って美春は、狼狽えていた純一の上に跨る。戸惑う純一を見つめながら美春は、自分だけの空間である純一の胸の中に、その頬を預けた。  
「美春?」  
「理由なんていいんです。こうして先輩とお付き合いして、その、いっしょに寝てる……以上、先輩の全ては、美春のものなんです……わかりますか?」  
「わ、わかる……って?」  
「先輩の全て……それこそ、先輩の辛いことも、苦しいことも、哀しいことも、ぜーんぶそれは、美春のもの……ってことですよ? ね?」  
「美春……」  
純一の中に、美春の言葉が染みわたる。暁美の物真似などという、恐らく当人にしてみれば苦行に他なるまいこともして見せた美春のその言葉は、如何ほどにも疑いようのないものであった。  
 
「そりゃあ美春なんて、出来ることと言えばせいぜいバナナを食べることぐらいですよ? ……けどそれでも、先輩が苦しい思いをしてるのを黙って見てるなんて、出来ませんから……」  
「ああ、わかったよ、もう……」  
純一は、また泣きそうな顔をする美春の頭をそっと撫でる。その感触が心地よかったか、美春は、美春らしい笑顔を見せた。  
「俺はお前のものさ……でもそのかわり、お前も俺のものだぜ?」  
「はい……」  
 
そして二人は、また、その唇を重ね合った。  
 
今日感じきれなかったぶんは、また明日、明後日に感じればいい。  
なぜなら二人、ずっと同じ道を往くと、決めたのだから。  
 
 
翌日、朝。  
「先輩、先輩!!」  
未だ睡夢を貪ろうとする純一を、美春が馬乗りになって起こそうとしていた。  
「んだよ……今日は土曜日なんだから、寝かしてくれよ……」  
「バナナ、食べに連れてって下さい!!」  
「ハァ?」  
「やっぱり美春には、禁バナナ生活は無理なようで……か、体に、き、禁断症状が出そ、う……ううぅ……!」  
そう言って、純一の上で大袈裟に呻いてみせる美春に、純一は呆れる。しかしそれほどまでに好むバナナを数日も断たせた原因は自分にある以上、償いはしてやりたかった。  
「わかった、わかったよ……だからどいてくれ」  
「超特盛りでよろしく!!」  
「わかったから……つうかお前、服着ろよ!」  
 
「準備できました〜」  
音夢の部屋に残っていた服を着た美春が、意気揚々と現れた。  
「ああ、んじゃ、行くか」  
「あ、先輩」  
突然美春が踵を返すと、なにか思い出したかのように、鞄をあさりはじめた。その様子に、純一は意表をつかれる。  
そうしてまた純一の方に向きかえった美春の手には、毛糸のマフラーが握られていた。  
「なんだ、それ?」  
「あの時、私が編んでたやつですよ! ハイ、先輩にあげます」  
あの時といえば、美春が自分を偽っていた時である。純一はそれを受け取るのを躊躇った。  
「い、いいよ、マフラーなんて巻くのかったりいし。そ、それにこれは……」  
「いいじゃないですか。なんにせよ、先輩にあげるつもりで編んでたやつですから。あ、巻いてあげますよ!」  
「い、いいってのに……!」  
結局美春にされるがままに、純一はそのマフラーを巻くことになった。それはふかふかしていて、とても暖かい。  
「うんうん、似合ってる似合ってる……それじゃあ張り切っていきましょ〜。♪今日のバナナは何処のだろ〜……」  
美春は純一の腕を引きながら、軽やかに歌を口ずさみながら、揚々と歩き出す。  
外の空気は昨日までの寒空とは違い、やがて来る春の日を思わせる、優しい陽気を感じられた。  
 
「えーっとぉ……次は、バナナチョコパフェのXLサイズをお願いします〜!」  
「……食い過ぎじゃねえか、美春」  
そうして向かった喫茶店で、オーダーしたバナナ関係のデザートを次々に平らげていく美春に、純一は己の懐具合を気に病んでしまう。  
「そんなことありませんよ。私にとって、バナナは命の源だよ〜」  
「変なこと言ってんじゃねえよ。そもそも……」  
「……ぁっ、このバナナ・オレ…って、新商品? すいませ〜ん、これもお願いします……」  
「シカトかっ!!」  
純一はキレながらも、こうしていつもの美春が戻ったことを、内心喜ばずにはいられなかった。  
そう思うと、このマフラーの感触も、案外悪くない気がする。  
 
二人はその帰り道、島で一番大きい、あの桜の木のところに行ってみた。  
「あ、先輩、見て!」  
美春に誘われるがままに、純一がその木の許に駆け寄ると、  
「ほら、これ!」  
美春が掴んだその枝に、花の蕾が萌え出しているのが見てとれた。  
「ああ……」  
「ほら、これにも、これにも……これ、満開になったら、すっごく綺麗でしょうね……」  
「……ああ!」  
「そしたら、お花見しましょうね。バナナ、いっぱい持って」  
「って、お前は結局バナナかよ……」  
「えへへ、だって……でもお花見は、絶対しましょうね?」  
「ふぅ……ああ、そうだな」  
二人はお互いの顔を見合わせると、笑みを交わしあう。  
そうして二人は、桜の根本に並んで座り込み、ただ何するわけでもなく、二人だけの時を過ごしはじめた。  
 
新しい花が、この桜のように、純一の傍らに芽吹いていた。  
「先輩……」  
 
でもうかうかしていたら、咲いたとしてもまた散ってしまうかもしれない。  
「ん……?」  
 
そんなことはさせたくない、いや、させない。  
「先輩は、美春のものですよ……?」  
 
そのためなら自分は、どんな労苦も厭わない と、純一は固く心に決める。  
「ああ……お前も、俺のものだ……!」  
 
腕の中の花は、それほどまでに愛おしかった。  
 
 
 
そうして微睡む中、純一は少し、疑問にかちあたる。  
編み物などやったことがないはずの美春が、なぜはじめたばかりなのに、ものの数日で、こんな上等なマフラーを編むことが出来たのだろうか と──  
 
了  
 

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