その日の音夢は、例によってひどくアンニュイであった。
「お肉が食べたいわ」
頼子を前にそう呟く。
既に物言いからして目上の言葉遣いであり、対等ではなかった。
純一がフリーだった頃はもうすこし思いやりのある人柄だったように思えるのだが、
さくらが純一を虜にしてからというもの、音夢はあまり穏やかならぬ人格へと変わりつつあった。
今の音夢には「マダム」という形容がぴったりだ、と頼子は思っていた。
「どんなお肉でしょう」
「そうね」
頬杖を付く音夢の目はどんよりと濁っている。
「ウィンナーなんてどうかしら」
「まぁ、安上がりだけど美味しそうです」
頼子は脂身をたっぷり含んだソーセージをフライパンでじゅうじゅう焼く光景を思い、ごくりとつばを飲んだ。
階上にある自室の隣辺りの天井をにらみつけた後、音夢は大きくため息をついた。
「そのウィンナーを隣の泥棒猫が独り占めしてるんだわ」
「はぁ」
「許せないと思わない?」
「はい、私もウィンナー食べたいです」
そう答えた瞬間、氷の突風のような一睨みが来て、頼子の背中は思いっ切り逆立った。
頼子はおのれの脳天気さを呪った。
この場合のウィンナーはウィンナーであってウィンナーではない。
女性を見るとはちきれんばかりに大きくなる魔法のウィンナーのことなのだ。
日本語は難しい、次からは確認しないと、と思いながらひたすら縮こまる頼子だった。
息さえはばかられるほどコチコチに固まった頼子の顔がチアノーゼを呈し始めた頃、やっと、音夢の視線が和らいだ。
また、ぼやく。
「あーあ、ウィンナー食べたいなぁ」
「あの、それは、純一様のペニスをくわえ込みたいという遠回しの表現ですか」
そのとたん、醤油差しが猛烈な勢いでぶっ飛んできて、ニコと微笑みかけている頼子の頬をかすめた。
カーペットの床に出来た焦げ茶色の軌道飛跡を見て、頼子はいやあああっっと悲鳴を上げた。
メイドはしっぽのもやい結びに耳毛くすぐりと、およそ理不尽な待遇をされるものと相場が決まっているが、
カーペットをわざと汚すのは非道い虐待だと思った。
泣きながら熱い濡れタオルでぽんぽんとカーペットのシミを叩き出す頼子。
「ああ、ごめんなさいね、頼子。悪気はなかったのよ。ついあなたがはしたないことを言うから驚いてしまって」
「は、はい…こちらこそ申し訳ございませんでした奥様」
「奥様?」
音夢は不思議そうな顔をする。
やばっ、脳内名詞をそのまま口にしてしまった! 頼子は慌てた。
「ええあのその、純一様の奥様には音夢様が相応しいかと」
しどろもどろな言い訳にもかかわらず、生気を無くしがちだった音夢の表情が、一時華やいだ。
「そう。そうね、奥様……そう呼ばれるのも悪くないわ。フフ、奥様、ね」
「はぁ」
「…ああ、忌々しいわ、妾のくせに。とっとと主人を返してくれないかしら」
「……」
堂に入ったマダムぶりに頼子は内心、ため息をつく。だが絨毯という大きな犠牲を払った頼子がおのれの気持ちを表に出すことは最早ない。
忠実に女主人の傍らに立ち、時折自分の方に押し出されるカップに、うやうやしく紅茶を注ぎ続ける。
とても絵になる?午後の紅茶の光景だった。