未だに音夢の蔑んだ眼差しが脳裏から離れない。
体操服を学校に置き忘れて帰った俺は、帰ってから音夢にしつこいくらい嫌みを言われた。
『体操服は洗うのに時間がかかるから、その日のうちに持って帰ってくるように』だとか、『そんな風にだらしがないから女の子にモテないんです』だとか。
女の子にモテないことぐらい、俺が一番よく分かっている。
『短所も含めて俺の全てを好きになってくれるような人が、俺の理想の女性だ』とおどけてみせたら、辞書を投げられた。
そんな音夢から逃げるように家を飛び出してきたのだが、することもないので体操服を取りに行くことにする。
あのとき、音夢は何かを言いかけていたが、一体何だったんだろうか?
夕暮れ、放課後の校舎、校庭から聞こえる運動部の掛け声と吹奏楽部の演奏が寂寥感をつのらせる。
それなりの時間なので教室付近には人影が見当たらないのが、余計に寂しく感じる。
さっさと用事を済ませようと、戸に手をかける。
「はぁ……、ふぁ…」
戸を開こうとした矢先、教室の中から何か聞こえてくる。
吹奏楽部の演奏に混じってはっきりと聞こえなかったので、戸を薄く開き中を覗いてみる。
そのまま入っても良かったのだが、出来心や好奇心が芽生えてきた俺には、そっちの方が面白そうだと感じた。
「えっ……」
俺の瞳には、机に恥部を擦りつける工藤の姿が映った。
「あっ……、あ、ああ!」
女の子のような声を出しながら、片手で机の縁を掴み、もう片方の手で顔に何かの布を押し当てて、机の角に何度も恥部を擦りつけている。
可愛い女の子のそんな姿を見れれば、感動で涙を流すかもしれないが、野郎のそんな姿を見てもキモいだけだ。
それでも工藤が絵になるのは、ひとえにあいつが女顔だからだろう。
それにしても、あの工藤が……
クラス内の男子で最もこういうことをしそうにないあいつが、こういうことをするとは、人間って本当に分からないものだ。
俺に見られているとは知らずに必死に机にこすりつけている工藤。
赤く染まった頬。潤んだ虚ろな瞳。
吐息を漏らす口から涎が布に染み、収まりきらない水気が机の上に広がっているのが見える。
正直、俺は何も見なかったことにするべきだった。知らない振りをしていたかった。
でも、できなかった。足が縫いつけられたかのように動かない。ここから離れたかったのに体がまるでいうことをきかない。
扉一枚の向こう側が現実だと思えなかった。
「ふぁぁ…、ああ、朝倉……朝倉くん」
工藤が何度も擦りつけているのは、俺の机。顔に押し当てているのは「朝倉」と刺繍された体操服だった。
きっと、音夢の机と間違えたんだ。
自分にそう言い聞かせる。
――同じ教室で間違えるはずがないのに?――
頭の中に別人のような声が響く。
俺と音夢は同姓だから
――親しくない間柄でもないのに?――
今日も自分の席で工藤たちと談話していたことを無意識に思い出す。
否定する材料が欲しくて思案していたのを、ポケットから鳴り響く音楽で我に返る。
思考が一気に現実に戻り、慌てて携帯を止めようとするけれども焦ってなかなか止められない。
一秒一秒がやけに長く感じられる。
「あ」
それはどちらの声だったのだろう。教室にいた工藤と目が合う。
血の気の失せた青白い顔。その瞳が驚愕から恐怖・絶望へと塗りつぶされる。
「(どうしてそんな顔をするんだよ)」
単に級友に自慰を見られたからだと思いたかった。
「ち、ちがうのっ。朝倉くんっ」
まるで少女のような工藤の声。何も考えたくなかった。
気がつけば俺はどこかへ走り出していた。忘れ物も工藤の声も、そして最後までその存在に気づくことはなかった知り合いの影を置き去りにして……