雨が降っている。昨日からずっと、振り続けている。
灰色の重厚な雨雲から降り続ける雨は、収まる気配も見せず、それどころかますます激しさを増し
ていく。
湿っぽい、じめじめした陰鬱な空気が体中に纏わり付くのを肌で感じる。湿気のせいか、妙にべた
つく前髪を少し乱暴に払い除けた。
雨の日というのは人の心にも同じように暗雲をもたらし、憂鬱の雨を降らせるそうだ。
私こと、朝倉音姫もそれには同感である。
それにしても―――――本当に気が滅入りそう。
もっとも、私の心を沈ませているのは雨のせいでもなければ、先程からちらちらとこちらに向けら
れる好奇の視線や囁き声の類でもない(それはそれで鬱陶しくはあったけど)。
更に加えるなら、私のそれは、昨日よりももっと前からのものだ。
その原因は先に上げた人たちの大多数にも想像がついているのだろうし、そしてその予想はおそら
く当たっている。
・・・別に驚くことじゃない。
桜内義之に可愛い彼女ができたということ。
私が、以前は親しげに言葉を交わしていた彼をずっと避け続けていること。
この昼休み、生徒会室ではなく―――もう生徒会室で彼を待つ必要はなくなったのだから―――自
分の教室でお弁当を広げていること。
そしてまことしやかに囁かれる噂・・・・・・私が最愛の弟に振られたという噂は、少々噂好きの女の子
なら誰でも知っていることなのだから。
深い溜息と共に落とした視線に私の右手が映る。
手には・・・二週間前、弟の恋人を打った感触が今尚鮮やかにこびり付いていた
「―――え? ・・・い、今、なんて言ったのかな、小恋ちゃん?」
あはは・・・と乾いた笑みを作りながら聞き返す。震えそうになる唇を懸命に抑えて、何とか笑みの
形をとることだけは成功した。
ぎこちない微笑の裏では自分の聞き間違いであることをただただ祈って。
「音姫先輩・・・・・・その、ちょっとお話いいですか?」
一週間前、彼女―――月島小恋に私は呼び出された。
放課後の人気のない校舎裏。遠くで聞こえる運動部の掛け声と二人の息遣いの他には聞こえる音は
何もない。
しんと静まりかえるその場はまるで学園ドラマでよくある告白シーンそのもので、思わず彼女には
そっちの気でもあったのかと、馬鹿な心配をしたのを覚えている。
―――今から考えれば、その場で彼女に愛の告白でもされた方がまだ百倍はマシだったけど。
「・・・・・・なさい・・・私・・・之・・・てるの―――」
再度繰り返そうとして、彼女の声が掠れた。
私の親友と違い、元来小恋ちゃんは気弱でおどおどしていて、小動物みたいな印象を持たせる可憐
な女の子だったと思う。
実際、彼女もおそらく私以上に恐かったのだと思う。身を震わせ、今にも泣き出しそうな表情を浮
かべている彼女は、私の記憶通りの女の子だった。
普段の彼女ならとても耐え切れないであろうほど張り詰めた空気。
それでも―――彼女は逃げなかった。一歩も退かなかった。
その時の小恋ちゃんは両手をギュッと握り締めて、瞳には力強い想いを込めて私から一度も眼を逸
らすことなく、じっと真正面から見詰めていた。
そこで、悟ってしまった。
さっき私が耳にしたのは聞き間違いなんかじゃないって。
そして―――この先を聞いてしまったら、私は心から後悔することになるって。
「今まで黙っててごめんなさい・・・」
やめて・・・お願い!! その先は言わないで!
「私は・・・」
嫌っ、嫌嫌嫌・・・! なんでもするから、それだけはやめてよ!!
他のことなら何でも言うこと聞くからっ! だから私の だけはやめて!!!
「義之と・・・」
お願いだからもうやめて・・・・・・!!
やだ、やめてよ・・・・・・・やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてえええ―――――!!!
「付き合っています。彼のこと・・・・・・義之のこと大好きだから」
そこから先の事はよく覚えてない。
泣き崩れたのかもしれないし、取り乱して訳のわからないことを口走っていた気もする。
ただ、一つだけ。霞がかかったようにはっきりしない記憶の中で、一つだけ鮮明に焼きついている
光景があった。
私の弟くんを汚したの?
一体どんな流れでそんなことを訊ねたのかはわからないけれど、とにかく私は小恋ちゃんにそう問
いただした。
彼女は私に何かを言おうとして口を開きかけ―――結局、黙って首を縦に振った。
その瞬間、私は彼女の頬を全力で張りとばしていた。初めて本気で人に暴力を振るった。
彼女は逃げも防ぎもせず、それをただじっと耐えるようにして受け入れた。まるで、自分がその
痛みを受けるのは当然だと言わんばかりに。
そのあまりに堂々とした態度に、私はより一層惨めになった。
その後逃げるようにしてその場を走り去り、家に着いた私は崩れるようにして眠った。これは全部
悪い夢で、目が覚めれば全部元通りなんだと必死に言い聞かせながら。
けれど、目が覚めた私がまず一番に感じたのは熱さ。
彼女の頬を打ったときの、じんじんするような熱さだった。
そこでようやく認めたくなかった現実を理解して―――私は初めて、自分の意志で涙した。
翌日、私は一縷の望みをかけて弟くんに直接問いただしてみた。
でも・・・・・・結局は私の無様な足掻きに終ってしまったのだけれど。
いつもの通学路、弟くんは全てを私に話してくれた。
弟くんは私に黙っていたことを謝ってくれた―――――私は謝るくらいならどうして私を選んで
くれなかったの、と詰め寄るのを必死で抑えた。
弟くんは私に小恋ちゃんのことを話してくれた。―――――私はその間無理に笑顔を浮かべていた。
弟くんは私に二人を祝福してくれるかと聞いてきた―――――私は俯いたまま、震える声で「うん」
とだけ呟いた。
弟くんは私に「音姉も喜んでくれて嬉しいよ」と笑ってくれた―――――私は弟くんに微笑み返そ
うとして・・・・・・・・・・・・とうとう溢れ出る涙を止めることができなくなった。
一度堤防が壊れてしまえば、もう抑える術はなかった。
「わたっ、わたし、好きなの! おとうとくんっ、好きなのに・・・・・・!!」
私はそこが通学路であることも忘れ、泣きながら弟くんの胸に抱きついて、馬鹿みたいに同じ台詞
だけ繰り返していた。
弟くんからすれば訳がわからないという思いでいっぱいだったと思う。さっきまで普通に話してい
た相手が、いきなり泣き出して好き好きと訴えてくるのだから。
けれど、私の様子から大体のことを察したのだろう(普段鈍感なくせに・・・・・・気付いて欲しくない
ことには弟くんは鋭い。本当に・・・ずるい)。弟くんは私を落ち着かせるように軽く腕に力を込め――
―はっきりと、「俺は小恋が好きだから・・・ごめん・・・・・・」と口にした。
その時弟くんがどんな表情を浮かべていたのかはわからない。もしかしたら・・・いや、きっとひど
く申し訳なさそうな表情を浮かべていたのだろう。
最後まで優しい弟くんが、私はとても憎かった。
―――それが、私の長い初恋が終った瞬間だった。
それから弟くんとはまともに会話をしていない。
弟くんは何度か話しかけようとしてくれたのに、その度に私が意識的に避けているからだった。そ
れどころか、時には無視したことさえあった。
そして、これは私のせいなのだけれど、由夢ちゃんとの関係も随分冷えてしまった。
「それで兄さんが本当に幸せなら、しょうがないですよ」
未練がましい私と違い、そう潔く身を引く彼女に反発して、とても酷いことを言ってしまった。
あの時もしも・・・もしも私が冷静だったなら、由夢ちゃんが両目に涙を湛え、絞り出すようにして
そう答えたことに気付けたのに・・・・・・
由夢ちゃんの想いがどれだけ真剣なものだったかってことくらい、考えれた筈なのに・・・・・・
それなのに、私は、
「そう・・・随分とあっさりしてるのね、由夢ちゃん。でもそれで諦めがつくなんて・・・・・・なんだ、由
夢ちゃんの気持ちって所詮そんなものだったのね」
そんな嘲りで返してしまったのだから。
チャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げる。
同時に教室に生徒たちが次々と戻ってき始める。私はただそれを黙って見詰めている。
雨はまだ止まない。
暗い暗い灰色の世界で、私は一人ぼっちだった。
放課後。
私は結局学校に残って今日も生徒会の仕事をすることにした。
ここ最近は遅くまで学校に残っていることが多い。別にそんなにたくさんの仕事があるわけではな
かったけど、それでも無理矢理探した。
そのまま家に帰る気にもなれず、かといってどこか行く当てがあるわけでもない私には、学校は時
間を潰すのに一番都合のいい場所だった。
勿論、本来は生徒会の集まりなどなかったので私以外の役員は誰もいない。
だけど・・・それは私にとって丁度よかった。
こうして一人で仕事に没頭している間は、何も余計なことを考えずに済むから。
「よいしょっ・・・!」
コピーした大量の用紙を抱えて歩く。非力な私にとっては持ち上げるだけでも精一杯なのに、更に
これを生徒会まで運ぶというのはとんでもない大仕事だ。
いつも男の子がやってくれる仕事がこんなにも大変だったなんて・・・・・・今度お礼を言っておこう
と心に誓う。
そんなことを考えながら、酔っ払ったみたいに廊下をふらふら蛇行していく。
我ながら危なっかしくてしょうがないとは思ったけれど、どうせ校内に残っている人はいないから、
と安心していた面もあった。
それが災いしたのかもしれない。
「うおっ!?」
「え? きゃっ!!」
危ないと思ったときにはもう手遅れだった。
廊下の曲がり角、ただでさえ足元のおぼつかないのに、更に考え事をしていて上の空だった私は、
いきなり現れた人物を避けきれずそのまま正面衝突してしまう。
体重の差か、向こうはよろめいただけで済んだのに、私はそのまま弾き飛ばされてしまう。と同時
に、持っていたプリントがあちこちにばら撒かれた。
「いたた・・・あっ、その・・・ごめんなさい」
「あつつ・・・あぁいや、俺は大丈夫。そっちこそ・・・・・・って、音姫先輩!?」
驚いたといった感じの聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのは私がよく見知った人物だ
った。
「・・・渉くん?」
板橋渉くん。弟くんの友人で、私や由夢ちゃんとも一緒に遊んだこともある後輩の男の子。
今はあまり知っている人、特に弟くんの知り合いと接したくなかった。
噂について根掘り葉掘り聞かれるのも嫌だったけど、何より、弟くんやみんなと一緒に楽しく遊ん
でいたころの記憶が呼び起こされるのが辛かったから。
「・・・・・・ごめんなさいね、ちょっとぼうっとしていて。もう大丈夫だから」
助け起こそうとする彼の手をやんわりと断り、そんな言葉で意識的に会話を終らす。そして私はい
つもの表情を浮かべながら手早くプリントを集めていった。
「その・・・ありがとう、渉くん。助かったわ」
「あはは〜。いやいや、これくらい全然大したことないっすよ音姫先輩! 何なら後十往復くらい出
来ますから!」
「え、えっと・・・今日のはこれでもう終わりだから、それはまた次の機会にね」
生徒会室で、随分軽くなったプリントを机に置きながらそうお礼を言う。
あの後。プリントを拾うのを手伝ってくれた渉くんは、その量を見ると迷わず私の手から半分以上
プリントの束を奪い取った。
そんなことをしなくてもいいと断ったけれど、「ちょっと重いものでも持ちたい気分になったんで
すよ〜」と軽く笑いながら歩き出す。
その言い回しや気遣いの仕方が何だか弟くんみたいで・・・・・・寂しさが込み上げてきたけど、ほんの
少しだけ、そこには嬉しさもあった気がする。
・・・・・・もっとも、今の彼(デレデレした表情でぐっと腕に力こぶを作って見せてくれている)は似
ても似つかないのだけど。
もっとちゃんとしてれば、綺麗な顔をしてるんだから女の子にはモテると思うんだけどなぁ・・・・・・
「あ、それじゃ・・・ここまで運んでくれればもう大丈夫だから―――」
「それにしても音姫先輩だけに仕事を押し付けるとは・・・ったく、生徒会の奴ら何考えてんだか」
「えっ、あの、それは私が勝手にやってるだ―――」
「あぁ、そうだ! 俺今日は暇なんすよ。バンドの練習もないし。ってわけで、俺手伝いますよ、音
姫先輩!!」
「私はそんなこと―――」
「あ、とりあえず椅子一つ借りますね。それじゃ、ちゃきちゃき始めましょう、音姫先輩!」
そんなやり取り(彼が一方的にまくし立てただけだったけど)の後、渉くんは勝手に椅子に座って
しまう。
あははと笑いながらも「帰りませんよ?」と無言のまま態度で示す彼と睨みあう十数秒。
その長い沈黙を破ったのは、
「はぁ・・・・・・じゃあこれをホッチキスで留めていって」
「了解っす!」
呆れたように呟いた私の敗北宣言だった。
「これはどこです?」
「あ、それはこっちに・・・で、終ったらその表を―――」
私の予想に反して(というのは彼に失礼かもしれないけど)、渉くんは特にふざけることもなく、
真面目に手伝ってくれた。
途中二三言葉を交わす他は無駄口をたたくこともなく、黙々と言われたことをこなしていく渉くん。
私も会話を楽しむ気は起こらなかったので、ただ黙って自分の仕事をしていた。
ただ、その静寂が辛いとは思わなかった。一人で仕事をしている時とほとんど変わらないようだけ
ど、でもどこか違う。
(丁度まゆきと一緒に仕事をするときはこんな感じだったかしら)
お互い何も言わなくても、沈黙で会話する。そんな不思議な感覚を私は彼と感じていた。
「ん・・・もうこんなに片付いたのか。いやぁ〜やっぱ二人でやると早い早い」
渉くんがからからと笑いながらパチンとホッチキスを鳴らす。彼の言葉通り、私が夜までたっぷり
時間を使って終らせるはずだったプリントの山は随分少なくなっていた。
この分なら、きっと予想よりもずっと早く片付いてしまうだろう。
「えぇ・・・そうね。渉くんのおかげよ、ありがとう」
嫌味にならないよう極力平静を装って微笑む。
別におかしいところはないはず。いつもと同じ・・・私が何百、何千回と浮かべてきたいつもの笑顔。
でも―――
「そんなに・・・帰りたくないですか?」
「・・・・・・え?」
彼がポツリと零した一言に、多分、私の笑みは凍りついてしまった。
パチン・・・
パチン・・・
パチン・・・
咄嗟に言葉が出せずに硬直している私を尻目に、渉くんはさっきと変わらず、一定の間隔をおいて
ただ黙々と紙を留めていく。
「あ・・・あはは、そんなことないよ。渉くんもおかしなこと言うね」
「あいつが―――」
パチン・・・
「え?」
「義之が心配してましたよ?」
パチンッ!
言い終えると同時に顔を上げ、真っ直ぐに私を見つめる渉くん。
最後の音は、乾いた部屋に一際強く響いたように感じた。
「・・・・・・で、何? 弟くんに様子を見てこいとでも言われたの?」
私は不機嫌さを隠しもせず、突き放すようにそう言った。
私も馬鹿じゃない。今の言葉から、渉くんがどういう目的で来たのかも大体の想像はつく。
それに対して、彼を責めるつもりはない。自分の親友が悩んでいれば、私だって相談に乗るだろう
し、何とかしてあげたいとは思うだろう。今回のように、親友のために行動することもあるだろう(た
とえもう少し上手いやり方を取るであろうにせよ)。
けど違う。私が彼に対して憤りを感じているのはそんなことじゃない。
(じゃあ何? 私の手伝いをしてくれるって言ったのも、全部弟くんに言われたからだったの!?)
自分でも訳がわからない。そんなどうでもいい事、そんな些細なことに、私は酷く不快にさせられ
ていた。
「違いますよ。今回のは俺の独断です」
睨み付けるように見つめる私から目を逸らさず、渉くんはさらっとそう答える。
その態度に毒気を抜かれた私は少し冷静さを取り戻して訊ねる。
「そう・・・それで、わざわざ退屈な仕事を手伝ってまで、一体何を話したかったのかしら?」
「あいつらのことを、許してやって下さい」
「・・・・・・っ!」
予想していたとはいえ、その言葉に一瞬声が詰まる。反射的に目の前の少年を怒鳴りつけたくなり、
慌てて自制する。
(・・・っ、落ち着きなさい、朝倉音姫! 彼に八つ当たりしてもしょうがないでしょう!?)
「・・・・・・弟くんと小恋ちゃんのこと? 許すも許さないも、姉だからって、弟くんの恋愛にまで口出
しするつもりはないわ。弟くんは小恋ちゃんが好き、そして私は選ばれなかった。ただそれだけよ」
(嘘だ)
そっと自嘲気味に呟いた。
本当にそんなことを思っているわけじゃない。
勿論、今自分で言ったことが全てなんだと、頭ではわかっている。だけど、到底諦め切れなかった。
そんなことできるはずがない。
今まで何年間想い続けてきたのか。
どれだけ強く想い続けてきたのか。
今までどれだけ辛いことがあっても、弟くんがいるから頑張れた。弟くんへの想いが私のことを支
えてきてくれたのだ。
それを・・・(少なくとも私から見れば)いきなり現れた娘に奪われた・・・・・・!!
許せない。許せるわけがない。小恋ちゃんは勿論、弟くんも。
たとえ子供じみた、酷く幼稚な感情だったとしても・・・・・・それを許してしまえば、もう私を支えて
くれるものは何一つなかったのだから。
「・・・・・・あいつは、音姫先輩のことが好きなんですよ」
「っ!?」
長い沈黙を破っていきなり発せられたそれは、私が予想したどんな科白よりも衝撃的だった。
「勿論、月島へのそれとは別もんだけど・・・それでも、あいつは音姫先輩のことが大好きなんすよ。
月島と音姫先輩とどっちが好きなんだって言われても、きっと選べないくらいに」
同時にまぁ単にヘタレなだけとも言えるんだけど、と軽く笑う。
そして溜息を一つ吐き、
「んで・・・・・・もう一つ。あいつは、大好きな女の子が苦しんでいるのを見て、『いずれ時間が癒して
くれる』なんて、そんな風に割り切れるほど器用な奴でもないんすよ」
「・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・それが」
ふるふると唇が震える。
抑えよう、抑えようとしたけど、怒り悲しみ嬉しさ愛しさ憎しみ・・・・・・そんな感情がドロドロと湧
き上がる自分を律することは、もうできなかった。
「それが一体どうしたっていうのよ!!」
バンッ、と思いっきりテーブルを叩きつける。
「だから? だから何!? 今までと同じように、何事もなかったかのように弟くんと接しろってい
うの!? 私の弟くんを奪ったあの女を許せっていうの!? ふざけないでよ!!」
とても冷静でいられなかった。私は今まで溜めに溜めた感情を、まとめて渉くんにぶつけてしまう。
渉くんがただ黙って耐えてくれるのをいいことに、私は更に聞き分けのない子供みたいに声を張り
上げて、彼に無責任な罵声を浴びせ続けてしまう。
「辛いのは、苦しいのは弟くんだけじゃない! 私はその何十倍も・・・あの時からずっと苦しみ続け
てきたのに!」
「それなのにあなたは偉そうなことばかり・・・・・・! 大体あなたに何がわかるっていうのよ!?
人の気持ちも考えず、無責任なことばかり言って!」
―――そこで、初めて彼の表情が変わった。
擦れる声で、搾り出すようにして「わかりますよ・・・・・・」と呟く。
だけど私は、それをただの慰めとだけしか受け取ることができず、
「わかる? わかるですって!? あはっ、あははあははははははははは・・・!!」
「あなたなんて・・・いつもいつもへらへら笑って女の子を追いかけてるだけでしょう!? どうせ、
誰かを本気で好きになったこともないくせに!!」
しん・・・と静まり返る室内。
はぁはぁと荒い呼吸を繰り返す私の耳に、永遠とも思えるほどの静寂の後、
「・・・・・・月島です」
そんな呟きが聞こえてきた。
「・・・・・・?」
最初、私は彼が何を言ったのかわからなかった。正確には、その単語が、その文脈で、どういった
意味を持つのか瞬時に判断できなかったのだ。
じっと俯く彼の表情はわからない。けれど、そんなことを気にする余裕は私には微塵もなかった。
何故なら―――
「月島、小恋です。俺が初めて本気で恋して・・・・・・失恋した相手は」
――――――――え?
呼吸ができない・・・いや、そんなことより、考えないと。
おかしい。それはおかしい。何がおかしいの? え、いや、だって、それは変だ。
目の前の彼はツキシマココに恋をしたといった。
でもその名前はどこかで聞いたことがある気がする。
どこだっけ?
どこだっけ?
どこ・・・・・・ああ、思い出した。サクライヨシユキの恋人だ。
―――あれ? おかしいな・・・おかしい・・・・・・
ああ! ああ、そうか。ここがおかしかったんだ。
そういえば失恋したって言ってたもの!
なんだ、そうだったのか。
つまり、つまりこの人は―――
――――――――あ・・・・・・ああっっっ!!!!!!!!!
この時、私は生まれて初めて、本気で人を殺してやりたいと思った。
「ごめん、んなさ・・・ごめんなさ、ひんっ、ごめんなさい・・・ごめ、っく、なさい・・・・・・」
私は我に返ると同時に床に頭を擦り付け、溢れる涙を拭う間も惜しみ、彼に何度も何度も謝った。
私にはただ謝ることしかできなかったし、彼の気が済むなら、その場で殴りつけられとしても、文
句を言うつもりもなかった。
それでも彼は黙って私を少し強引に起こして、「・・・ありがとう。もう大丈夫」と笑ってみせてくれ
たのだ。
自分の恋敵のためにこうしてこの場に座り、そしてその姉に嘘偽りのない笑顔を向けてくれる。
私には、彼の真意がわからなかった。
今も、彼は私が落ち着くようにと、ただ黙って抱いてくれている。私の身体に触れることより、落
ち着かせることを第一に考えた優しい抱き方。
何故ここまでしてくれるのだろうか? 私には・・・いくら考えてもわからなかった。
例えば私が渉くんと同じ立場だったとして、私は同じことができるだろうか?
「何で・・・・・・? どうして、渉くんは・・・」
ようやくまともに喋れるようになっても、私の頭はそんな単純な疑問でいっぱいだった。
さっき私の気持ちがわかるといったのは本当で、渉くんにはそれだけで私が何を疑問に思っている
のかわかったらしく、少し困った表情を浮かべながらぽつりと言った。
「なんで、か・・・・・・うん。まずは義之と俺はお互い正々堂々と戦って、で、その結果俺は選ばれなか
った。それが一つ。後・・・俺は本気で小恋が好きで、あいつが義之の奴を本気で好きなことも、義之
なら小恋を不幸にするようなことはしないってこともわかってるから。これも理由のうちだな」
「・・・・・・」
そこまで言うと、渉くんはふぅ・・・と深く溜息を吐き、まるで私の顔を隠すようにいきなり抱き寄
せた。
「まぁでも・・・・・・やっぱこれだな。細かい理由は他にも色々あるけど、結局のところ、俺はあいつ
らが好きなんすよ」
「・・・好き・・・・・・?」
私を抱く腕に少しだけ力がこもる。
私は彼の表情を少し見てみたい衝動に駆られたけど・・・・・・そのまま大人しく彼の腕に顔を埋めた。
「例えばこれであいつらと永遠にお別れできるかっていったら・・・俺はやっぱり嫌だな。辛いかもし
れないし、後で苦しむのかもしれないけど、それでも・・・俺は義之と、月島と、んでもってななかと
一緒に演奏していきたい。これからも・・・仲間でいたい」
(―――私は、私はどうなのかな? ・・・・・・弟くんのことが『好き』?)
温かな体温を感じながら、静かにそう自問する。
答えは―――とっくに出ていた。ただそれを認めたくないだけだったのだから。
「・・・・・・ありがとう、渉くん」
「・・・どういたしまして、音姫先輩」
顔を埋めたままだから彼の表情は見えないけど、そこにあるのはきっと、私の想い人と・・・・・・うう
ん、想い人だった人と同じ、優しい微笑なんだろうな。
何の根拠もないまま、私はそう確信していた。
「・・・・・・今日は来てくれてありがとう、弟くん」
「うん・・・・・・」
そして今日、私は弟くんをこの場所―――二人の思い出が詰まった桜の樹の下へと呼び出した。
あの時きちんと告白できなかったことと、そして自分の気持ちへのけじめをつけるため。
「私、朝倉音姫は桜内義之が好きです・・・いえ、愛しています」
「・・・・・・」
「だから私と、私と付き合ってください」
「・・・ごめんなさい。俺には、今何者にも代えがたい恋人がいます。俺はその人のことが大好き
で・・・・・・だから、あなたと付き合うことはできません」
風が吹く。私達の間を駆け抜け、桜の大樹を揺らし、無数の花びらをのせ、青空へと消えていった。
その風に後押しされるように、私は最後の言葉を紡ぎだす。
「―――そっか」
「うん」
「・・・あはっ・・・あははは、弟くんに振られちゃったよ」
「・・・・・・ごめん」
「こら! 謝らないの! 小恋ちゃんと付き合ってること、後悔してるの!?」
「・・・・・・いいや」
「だったら・・・胸を張りなさい。こんな美人で器量の良いお姉ちゃんを振ってまで手に入れた彼女さ
んなんだから。ちゃんと大事にしなかったら怒るからね?」
「うん・・・・・・ありがとう」
「っ、はい! じゃあこれでお姉ちゃんの用事はおしまい! 私は一人でお散歩して帰るから、弟く
んは先に帰ってて」
「―――本当にありがとう・・・俺、音姉が俺の姉だってこと、誇りに思ってる」
「・・・・・・あ〜あ! ずっこいなぁ」
「そんな、こと言・・・たら・・・も、もうっ、我ま・・・ひくっできるわけっく・・・ないのに」
唇を噛み締め、次から次へと込み上げる涙を必死に堪えようとする私に、あの時の渉くんとの会話
が蘇る。
『悲しいときは泣けばいいんですよ』
『悲しいときに泣かないことほど、身体に悪いものはないっすから』
『渉くんも泣いたの?』
『・・・・・・ほんのちょっと』
「うっ、ひぐっ―――――う、わああああああああああああああああああ!!!ばかあああおとうと
くん、おとおっくああばかあああ!!うあああああああああん!!!!!」
泣いた。力いっぱい泣いた。声が枯れるまで泣いた。恥も外聞も捨てて、気の済むまでただひたす
ら、泣いて泣いて泣いた。
雨はまだ止まない。
暖かな雨にうたれながら、私はずっと泣いていた。
―――この雨が止んだとき、きっと、空には青空が広がるのだと信じて。