もう何日位経つのか。筋肉も落ちた気がする。今、日差しのある所に出れば、多分その眩しさに気絶してしまうだろう。
命の危機は逆に感じられない。曲がりなりにも俺を大事にしてくれる人が、俺の自由を奪ったのだから。
そろそろ感覚として解って来た。あの人が来る時間が。
音姉が来る時間が。
「おはよう。弟くん」
何がこの人をこんな風にしたのか。今の言葉だけなら普通の日常なのに。
俺は返事が出来ない。こんな魔法など聞いた事が無かったが、信じるしか無いのだろう。口が聞けなくなる魔法…正確には発声出来ない魔法だ。俺の口からは息しか漏らせない様になっている。
「ご飯の時間だよ」
両手の自由さえ許されていない俺の食事は、音姉の…
「お姉ちゃんが食べさせてあげるね…」
口を通して摂らされる。甘い口腔。夢にまで見た感覚は今複雑に、俺の舌へと伝わった。
「誰も見てないんだから恥ずかしがらなくても良いんだよ…私も好きなだけ弟くんと…」
食事が終われば、少しの間音姉は俺の胸に体を預けて、俺が返事が出来ないのを解っていて、話し掛けてくる。
一人で涙ぐみながら。
「弟くんと愛し合いたいよ…気持ち良い事も沢山して…ギュッとしてもらいたいよ…」
今ここで叫べたら、枷を引きちぎれたら俺は望む事をしてやるのに。
そのたびに俺も心の何処かで涙を流す。
この生活になって知ることの出来た唯一の事は、俺が恥ずかしさから音姉を傷付けていた事と、その時の音姉の傷が信じられない程深かった事。
「弟くんは他の娘が好きなんだ…だから私の側から離れちゃいけないの…私を好きじゃなくても…こうしたら一緒に居られるもの…」
誰でも良い。俺が償罪をする。だからこの絶望の輪廻を止めてくれ。
俺の本当に大好きな人に罪は無いから、止めてくれ。そしてこの人と抱き合わせてくれ。好きと言わせてくれ。泣かせないでくれ。悲しませないでくれ…
「由夢…」
「にい…さん…やっぱりお姉ちゃんが!」
「待ってくれ!音姉は悪く無いんだ!」
由夢が偶然この場所を見つけて、日に当たった瞬間、魔法は解けた。暗闇の中に俺を置いていたのはこれが理由だったのか。
あの中では音姉の体だけが、温もりだった。あれは歪でも愛だったと、俺は信じてる。
「由夢、伝言を頼めるか?」
「でも…こんな酷いコト…」
「それも全部清算したいんだ。今夜、俺の部屋に来る様に伝えてくれ。頼む」
渋々ながら首を縦に振った由夢を見送った後、俺は家に戻った。
それから数時間後。由夢からの電話。
「お姉ちゃん…いきなり飛び出しちゃって…」
気が付くと雪の振る中を走り出していた。欠片程の体力と、夜間で殆ど役に立たない視力を振り絞って。本当初音島中を走り回った後やっと気がつく。
「桜の木…」
呟いた瞬間にはもう駆け出し、頬まで凍りそうな肌の痛みに耐えながらそこを目指した。
木の幹に、人影。信じられなかった。
横に綺麗に畳まれた制服。木の幹に体をもたれさせている白さは、音姉の肌の白さだった。
この寒さの中では命に関わる姿。
駆け寄った時にはもう、閉じかけていた瞳。
厚着して走ったのが幸か不幸か、俺はそれで音姉の体を包み込んだ。震える唇からは確かに零れていた。
「ごめんね…弟くん…」
瞳の輝きは涙だった。こんな時にだけ正気になる音姉を、許せなかった。
「大好きだったんだ…小さい頃から弟くんのお嫁さんになるのが夢だった…」
生気の無くなって行くその体を俺は、俺自身の体が冷たくなる……まで抱き続けた。