「!? お、音姉・・・・・・」  
 真っ暗な居間の電気のスイッチを入れた瞬間、彼はそれ以上一言も発することができなかった。  
 ぱちんという軽い音とともに灯った蛍光灯の人工的な光に映し出されたのは、彼があれほどまでに  
心配していた音姫と由夢の姿だ。  
 由夢は畳の上ですうすうと穏やかな寝息を立てている。上にかけられているのは音姫の上着だろう  
か。何にせよ、その姿は至って健康そのもので、彼が心配していたような危険とは無縁のようであ  
った。  
 音姫にしても同じ。机の前に座ったままで微動だにしないものの、どこか怪我をしていたりという  
様子はない。  
 
 ああ、つまりあれか、ただの杞憂だったってことか・・・・・・  
 
 彼は安堵のあまり深く溜息を吐き、同時に、一気に脱力して崩れようとする身体を慌てて支えよう  
と足を一歩踏み出す。  
 そして、  
 
 ドン―――  
 
 突然畳を鳴らすそんな無遠慮な足音に、それまでぴくりともしなかった音姫が、突然その顔をぐる  
りと彼に向けた。  
 まるでその音でスイッチが入り、そこで初めて桜内義之という存在に気が付いたかのように。  
「・・・・・・・・・・・・」  
「あ、その・・・ただいま。音・・・ねえ・・・・・・?」  
 意図せずして語尾が疑問を含む。  
 そう、音姫の顔を初めて正面から見た義之の胸に生じたのはただ一つの、単純な疑問だった。  
 
 即ち―――そこにいる人物は一体ダレなのだろう・・・?  
 
 
 テーブルの上に載ったままのラッピングされた料理の数々を見たところ、どうも二人で帰りを待っ  
ていてくれたらしい。  
 義之は最初、音姫が座ったままこちらを向かず、口もきいてくれないのは、遅くなった自分に怒っ  
ているからだと思っていた。  
 だが今の彼女はどうだ?  
 何の感情も浮かんでいない、ただ怖ろしいほどに暗く濁った両の瞳が義之を捉えている。  
 ずっと昔、まだ自分も音姫も幼かった頃に向けられた全てを拒絶するような瞳でさえ、この人形の  
ように無機的なそれと比べれば、どれ程可愛らしく人間らしかっただろうか・・・!  
 
 
 ぐにゃり、と空気が歪む。  
 それと同時に、義之はつい先程まで忘れていた懐かしい感覚を味わっていた。  
 この家に足を踏み入れたときから感じていた正体不明の恐怖を―――強く、とても強く。  
 
 
「料理・・・冷めちゃったね」  
 ふいに、音姫の口からそんな言葉が零れる。その表情と同じく、そこからは自分への怒りも非難も  
感じられなかった。空虚な言葉とはこういうことをいうのだろう。音姫にとってそんなことに感心が  
ないことは明らかだった。  
「あ、ああ・・・ごめんな音姉・・・」  
 案の定、義之の謝罪に対して何の反応も見せない。ただ静かに彼を見つめるのみだった。  
 
 
 だが、すぐに彼は理解する。目の前の姉が本当に無感情だというわけではないことを。  
 人間は自分の限界以上に強烈な、またはあまりに様々な感情(ストレス)を抱えてしまうと、逆に  
そういったものを一切消してしまうか、もしくは一時的に封じ込めてしまう。心理学において、それ  
は人間に備わる防衛本能の一種でもあると言われている。  
 無論義之にそのような知識があったわけではない。  
 ただ、長年姉弟として過ごしてきた感覚が告げるのだ。音姫の中で抑え殺されている、まるで卵の  
ように、殻一枚隔てたところにあるナニカの存在を。  
 そして薄々勘付いていた。それこそが、正体不明の恐怖の原因なのだと。  
 
 
「それでね、弟くん・・・・・・」  
 
 
 突然だった。  
 あれほど頑なに張り付いていた能面の表情がびきりと壊れた。にこり、と音姫の貌が微笑みの形を  
とる。いつもと同じ、見慣れていたはずの、彼が大好きなその微笑みはとても寒々しい。  
 同時に、彼女が笑みを浮かべたその瞬間、抑え付けられていたモノが一気に溢れ出て自分の頬をざ  
わざわと撫で上げるおぞましい錯覚を義之は感じていた。  
 
 
「・・・ねえ、こんな時間まで、どこに、行ってたのかな?」  
 ナニカ、の真っ黒な触手が義之に絡みついた。  
 
 ななかの家に泊まると決めたとき、その質問を予想しなかったわけではないし、それに対する返答  
も一応考えていた。  
 この潔癖な姉に、まさか「ななかの家に泊まりこんでセックスしていました」などと言えるはずも  
なかったからだ。  
「・・・杉並と、渉と一緒だったんだ。あいつらから飯を食いに行こうなんて言うから怪しいと思って  
たら、どうやらまた下らない思い付きに俺を付き合わせるつもりでさ。結局ちょっとだけ・・・っての  
が長引いて、ついさっき杉並の家から何とか帰らせてもらっ―――」  
 
 
「嘘」  
 
 
「嘘だよね、それ」  
 疑っているとかではなく、はっきりと確信をもって嘘だ、と断言される。単に当たり前のことを言  
っているようなその口調に、義之は二の句が継げなくなった。  
 
 
 音姉がすっと立ち上がる。口元にはずっと笑みを浮かべたままで。ゆっくりと歩いてくる。ゆっく  
り、ゆっくり、まるで焦らすみたいに。  
 パキリと音がした。携帯電話・・・いや携帯電話の残骸だ。音姉が踏んだらしい。あちこちに散らば  
っている。  
「ね?」  
 綺麗好きな音姉が片付けもせずそのままとは意外だ。少し親近感が湧くと言ったら怒られるだろう  
か。  
「ほら」  
 しかしあの惨状を見る限り、ちょっと落としたというわけでもないだろう。  
「やっぱり」  
 かなりの力を加えないことにはああいった状態にはならない。  
「部屋中に」  
 野球選手のようにユニフォームと帽子を身につけ、携帯電話を振りかぶって投げつけたり、バット  
で打ち据える音姉と由夢を想像する。  
「噎せかえるくらい」  
 予想外にちぐはぐな光景に噴出しそうになる。二人には悪いが、どう見てもスポーツ選手という柄  
ではない。  
「匂いがする」  
 ああもうなんだ、さっきから気になるんだよ。そんな風に途切れ途切れに話されたらわからないじ  
ゃないか。もっとはっきり―――  
 
 
「―――――ね? 弟くんから、あの女の匂いがするよ・・・・・・」  
 
 
 絶句する義之を尻目に音姫はくすくすと笑い続ける。まるで推理物のドラマで犯人を見事当ててみ  
せたときのようだ。はい、その通り。犯人はあなたです桜内さん。証拠はですね、あなたの身体に被  
害者の体臭が付着しているからですよ。  
「今もそう。体中から・・・・・・弟くん、ご飯の前にお風呂に入ってきたほうがいいね。でないと匂いが  
家中に移っちゃう」  
 心底不快なのだろう。鼻の頭に皺を寄せ、匂いを我慢するようにしながらも愛しげに頬を撫でる。  
 それがまるで自分の匂いの上塗りをしているようで、そんな彼女を少し薄気味悪く思った。  
 
 
「でも、もうこんなことないものね? 弟くんがこの匂いを家にもって帰ってくることは二度と、そ  
う、二度とない。ね・・・そうよね、弟くん?」  
 頬を撫でていた手を首筋に伸ばしながら、音姫が言い含めるように義之に尋ねた。  
 相変わらず表情に変化は見られないが、その瞳は先程までとは違い乞い縋るような色を帯びていた。  
 もしかしたら、ここで頷いておけばいつもの日常に戻れるのかもしれない。そんな確信は義之の中  
に確かにあった。  
 だが、義之は度し難い朴念仁であるとはいえ、音姫の言葉の真意がわからないほどの馬鹿ではない。  
 理由はわからないが、姉ははっきりと「白河ななかとの関係を切れ」と言ってきているのだ。  
 それは・・・それだけは、いくら姉の言葉でも頷くわけにはいかなかった。  
 
 
「弟くん・・・?」  
 いつまで経っても返事をしない弟に、僅かな苛立ちを込めて音姫は再度尋ねた。何故即答してくれ  
ないのか? そんな思いを込めて。  
 そしてたっぷりと間を置いた後、  
「ごめん、俺、ななかのことが本気で好きだから・・・・・・それはできないよ」  
 申し訳なさそうな、けれどはっきりとした答えが返ってきた。  
 
 
 恐る恐る顔を上げた義之が見たものはきょとんとした音姫の表情だった。義之の答えに驚いている  
というよりも、義之の言葉が理解できないといった感じである。  
 彼女は暫く頭をフル回転させた後、  
「ふふ・・・うふふふふ・・・・・・もう、大丈夫だよ。私弟くんのことなら何でもわかってるんだからね。  
ふふっ、当たり前じゃない。私は弟くんのお姉さんなんだから。弟くんったら、どうせまた私を驚か  
せようとして、だからそんな冗談言ってるんでしょ?」  
 にこやかに笑い、そう結論づけた。  
 音姫は自分の口元が引きつっていることに気付いていた。それでも彼女は必死で笑い続けた。  
 
 
 だが、そんな彼女の努力も無駄に終った。何故なら、  
「俺は、白河ななかが好きだ。ななかのことを愛―――」  
 そのフレーズを認識した瞬間、彼女は自分の中で臆病な自分や下らない倫理観、これまで演じてい  
た『朝倉音姫』が音をたてて崩れていくのをはっきりと感じたのだから。  
 今まで経験したことのないその開放感をただ一言で表せば―――とても、気持ちよかった。  
 
「ねえ、弟くん・・・どうしてそんなひどい嘘付くのかなぁ?」  
 違う。嘘じゃない。  
 そう答えようとして開いた義之の口から漏れたのは、ぐえっという蛙が潰れたときのような滑稽な  
声だった。  
 反射的に伸ばした手に触れたのは、目の前の姉の腕。男のごつごつした肌とは構造からして違う、  
白く、滑らかで、少し力を入れれば容易に折れてしまいそうなくらいか細い音姫の腕。  
 その両腕が今は万力のような力でギリギリと義之の首を締め上げていた。  
 
 
「あのね、冗談にしても言っていいことと悪いことが世の中にはあるんだよ? 今弟くんが口にした  
のはそういうことなの。そんなの、私は聞きたくないなぁ・・・」  
 今にも絞殺しそうな勢いで首を絞めながらも、その口調はまるで悪戯をした幼児を諭すときのよう  
に穏やかだった。  
 この異常とも思える凶行は教育のつもりなのか、それとも義之の言葉を聞きたくないが故にとった  
行動なのか。それを訊ねようにも、既に義之の喉は呻き声すら出すのが難しいほどに握りつぶされて  
いる。  
 引き剥がそうと本気で腕に力を込めるも、信じられないことに、その細腕はびくとも動かず、無駄  
に酸素と体力を使うだけだった。  
 無意識に立てた爪が音姫の皮膚を突き破り、畳に鮮血を落としても、痛みを感じてすらいないのか、  
その表情は全く変わらない。  
 
 
 だが、この時彼が生まれて初めて目の前の姉に恐怖という感情を抱いていたのは、その行動にでは  
なかった。  
 一瞬も視線を逸らさず自分を見つめる、大きく見開かれたどろりと、まるで底なし沼のように濁っ  
た瞳が怖かった。何の感情も読み取れないのに、唇だけが不自然につり上がった、奇形な微笑が怖か  
った。まるで極寒の地にいるかのように、カタカタカタカタと歯が打ち鳴らされる音を響きわたらせ  
る、歪んだ三日月が怖かった。  
 
 
 何より、幼い頃から慕い続けてきた優しい姉と、目の前の女が同じ朝倉音姫なのだということが怖  
かった。  
 
 
「が、あ・・・ぎぃ―――」  
「ね、弟くん。だからさっきの言葉は今すぐに取り消しなさい。さっきのは全部冗談だったんだよ、  
ごめんね音姉って・・・・・・そうしたらお姉ちゃん怒らないであげるから」  
 苦痛の声を漏らす義之に優しく語りかける音姫。既に意識が朦朧とし始めていた彼の耳に、不思議  
とその声はよく通った。  
「弟くんさえそう言ってくれれば、私も由夢ちゃんも何も見なかった、聞かなかった、知らなかった。  
すぐに元の三人に・・・仲良しで、愛し合ってて、全てが完結していたあの頃に戻れるの。弟くんもそ  
れを望むのなら・・・どうすればいいか、わかるよね?」  
 
 それはとても魅力的な誘惑だった。  
 音姫がいて由夢がいる、あの楽しかった日々が続いてくれる・・・・・・そのためなら自分は何でもする  
だろう。  
 そして今、理由は知らないが、音姉は怒っている。なら・・・それは多分俺が悪いんだ。  
 これまでずっと音姉は正しかったし、いつも俺たちのことを一番に考えてくれた。その音姉が言う  
ことなら、素直に聞くべきだ。  
 なぁ、簡単なことじゃないか。音姉の言うとおりにすればいい。さっきのは嘘だよって言えばいい。  
よくわからないけど、それで音姉が満足してくれて、これからも三人仲良く家族として暮らしていけ  
るのなら十分じゃないか?  
 
 いつの間にか、さっきは呼吸もできないほどに締め付けていた腕の力が緩められている。これなら、  
音姉に謝るくらいなら何とかできそうだ。  
 俺は音姉にごめん、と謝ろうとして―――  
 
 
           『義之くん・・・私、白河ななかはあなたが好きです』  
 
 
 謝ろうとして、絶対に忘れてはいけないものを、ギリギリで思い出すことができた。  
 
「な・・・ぐ、げほっ! ぐ・・・なか、あい・・・てる」  
 咳き込みながら、擦れた声で何とかそれだけを口にする。その言葉に自分のあらゆる想いを込めて。  
 音姫にはそれで全てが伝わったらしい。すっと両目が細められ、瞳が色を失くしていった。  
 そして彼女の腕が再び義之の首を締め上げようとしたときだった。  
 
 
「止めてお姉ちゃんっっ!! もう止めてよ・・・これ以上は、兄さんが死んじゃう・・・!!」  
 一つの影が音姫に走り、ドンッと体当たりするようにして止めに入る。  
 予期せぬ方向からの衝撃に音姫が突き飛ばされる。同時に義之も喉元に絡みついていた両腕から解  
放され、激しく咽返りながらその場に崩れ落ちた。  
 
「ゲホッ・・・ゲホッ!!! ぐ・・・ゆ、め・・・」  
「由夢ちゃん・・・離しなさい!! どうして!? だって弟くんが・・・私たちの弟くんが!」  
 横槍を入れられた音姫は、何故自分の邪魔をするのかと怒りも露に由夢を怒鳴りつける。  
 本当にいいのか、と。このまま自分の兄が他の女のものになるのを認めてしまえるのか、と。  
 音姫も自分の妹の気持ちは十分に理解していたつもりだった。それ故、由夢もまた、それがとても  
許容しがたく、いかなる手段を用いようが奪い返したいと思っている・・・そう信じていたのに。  
 一瞬、音姫は由夢の想いは所詮そんなものだったのかと失望さえ感じた。  
 
 
 その考えが自分の誤りであったと思い直したのは、しがみ付くようにして自分を押さえつける由夢  
の体が、小さく震えていることに気付いたときだった。  
 俯く彼女の口から、搾り出すように言葉が漏れ出る。  
「わかってるっ! 私だって・・・諦めたくないよ・・・でも、仕方ないじゃない・・・! 兄さんは、私た  
ちじゃなくて・・・・・・だったら、今更私たちに何ができるっていうんですか・・・!?」  
「由夢ちゃん・・・・・・」  
 
 
 嗚咽を混じらせながらそう口にする妹を見て、音姫は確信する。  
 ああ、この娘はまだ外しきれてないんだと。常識、倫理、周囲の目、つい先程まで自分も縛られて  
いた鎖に、私の妹はまだがんじがらめにされてもがいている。  
 ・・・・・・外してあげなきゃ。何しろ相手は人の恋人をこっそり盗んでいくような盛りの付いた雌猫だ。  
そんなモノがあっても邪魔なだけ・・・むしろ必要なのは、何が何でも弟くんを話さないという強い想  
いだけなのだから。  
 
 
「そう・・・よくわかったわ、由夢ちゃん」  
 音姫が突然その狂気を収めて、優しい笑みを浮かべてそっと由夢の頭を撫でる。と、やがてゆっく  
りと立ち上がると荒い呼吸を繰り返す義之へと近づいていく。びくりと体を震わせ、再び暴力を振る  
われるのかと身構える義之と、涙目のまま慌てて止めようとする由夢を尻目に、音姫はそのまま黙っ  
て義之の傍を通り過ぎる。  
 そのまま居間の出入り口まで足を進めた音姫は、怪訝な表情を浮かべる義之にくるりと振り返り、  
「ごめんなさい・・・私、どうかしていたみたい。謝って済むことではないけれど・・・弟くんには本当に  
酷いことをしてしまったわ・・・」  
 深々と頭を下げたのだった。  
 そして後日きちんと謝罪はするので、今は少し頭を冷やさせて欲しいと告げ、そのまま由夢を連れ  
て家に帰ってしまった。  
 そのあまりの豹変ぶりに義之は何も言えず、ただ頷くだけが精一杯であった。  
 結局、義之は何が音姫をあのように取り乱させ、何があのような凶行に至らせ、何が彼女を正気に  
戻したのか、何一つ教えられることはなかった。  
 
「はぁ・・・・・・」  
 自室のベッドに横たわる義之は深く溜息を吐く。そこには音姫に対する怒りはない。むしろ彼女に  
対する悲しみと、それ以上の困惑が占めていた。  
 あの後、震える足を押さえつけて訳を訊ねようが無視され、何やら意味深な微笑を浮かべて音姫は  
出て行った。由夢も同様。こちらは悲痛な表情で、一刻も早く義之の傍から離れたがっているかのよ  
うにさえ見えた。そして一人残された義之は居間に用意されていた夕食に手をつける気も起きず、か  
といって興奮しきった脳は眠りに落ちることを許さず、ひたすら終わりのない自問自答を続けていた。  
 自分に一体何の落ち度があったのか。どうしてこうなってしまったのか。自分はどうするべきだっ  
たのか。  
 いくら考えても正解と呼べるものは出なかったが、それでも思考のループを止めることはできなか  
った。  
 そうして何度目かの寝返りをうったときだった。  
 トントントン。  
「・・・・・・っ!!」  
 控えめなノックの音が部屋に響いた。  
 こんな時間に自分の部屋の扉を叩く人物といえば数えるほどしか思いつかない。家主であるさくら  
か純一か・・・それとも朝倉家の姉妹かである。  
 緊張に身を強張らせる彼の耳に届いたのは再び鳴らされる扉の音と―――兄さん、起きていますか  
と弱々しく問いかけてくる声だった。  
 
 
「どうぞ。熱いから気をつけてください」  
「ああ・・・ありがとう」  
 由夢はそう言ったものの、程々の温度に調節されているのだろう。コップを持った手にはそれほど  
の熱さは感じられなかった。こんな時間にお茶なんて飲んだら目が冴えてしまうのではとも思ったが、  
どうせ眠れないのは一緒だと思い直して口をつける。  
 
 ―――――苦い。  
 
 口の中に広がる不自然なほどの苦みに顔をしかめて机に置くのとほぼ同時に、由夢が自分の前にも  
同様に茶を置いて座った。  
 話がある、と思い詰めた表情で部屋を訪ねてきた由夢は何を話すのでもなく、ただじっと彼を見つ  
めていた。まるで獲物が罠にかかるのを待つハンターのように、じっと一挙一動を見ている。  
「・・・・・・あのさ」  
「お茶、折角淹れてきたのに飲んでくれないんですか?」  
「あ、いや・・・」  
 そう言って、義之が飲むのを促すように、自分もコップを取るとズズズと音を立て啜る。  
 どことなく居心地の悪さを感じながらも義之も目の前の茶を口に運ぶ。やはり苦い。首をかしげな  
がらも表情には出さず、我慢して飲む義之に由夢がようやく口を開いた。  
 
 
「兄さんは・・・私たちのことが好きですか?」  
 
 
 義之は困惑していた。  
 その質問の内容ではなく、そんな当たり前のことを何故聞くのだろうということに対してである。  
 当然義之は僅かにも迷うことなく首を縦に振る。  
 
「本当に・・・? 自信を持ってそう言うことができますか?」  
 これも即答する。  
 
「私は兄さんのことが大好きです、愛してます。これは知ってましたか?」  
 少し考えて、これも首を縦に振った。  
 
「私は兄さんとエッチがしたいって思ってます。もうずっと昔から・・・オナニーするときだっていつ  
もオカズは兄さんでした。これは知ってましたか?」  
 義之はこれも頷こうとして・・・・・・盛大に音を立てて茶を噴出した。  
 
「ぶふっ・・・! げほっ・・・!! げ、げほっごほ・・・お、げほっ、お前、何言って―――」  
「だから、さっきから言ってるじゃないですか。私は兄さんのことが大好きです、愛してますって」  
 哀しげに微笑む由夢の姿を見て、そこでようやく、義之は自分と由夢の『好き』の方向性が全く別  
物であることに気付いたのだった。  
「由夢・・・お前・・・」  
「でも・・・兄さんはそうじゃないんですよね。兄さんはあくまでも妹としてしか私を見てくれない。  
兄さんは・・・一人の女の子としての朝倉由夢が好きなわけじゃないんですよね・・・?」  
 
 
 長い長い沈黙。  
 呼吸をすることすら苦痛になるくらいに張り詰めた、痛々しい空気で部屋中が満たされる。  
 義之は自分へ湧き上がる殺意を、両拳を堅く握り締めて必死に抑えた。これほどまでに長く一緒に  
いながら、何故自分は由夢の想いに気付かなかった―――いや、気付こうとしなかったのかと。  
 深い後悔と自責の念に囚われながらも、それでも搾り出すようにして、由夢の問いに対する答えを  
返す。  
 ・・・・・・それがせめてものけじめだと思ったから。  
「すまない・・・俺にはもう好きな人がいるから、だから・・・・・・由夢の気持ちには応えられない」  
 やっぱりといった由夢の表情。その諦めきったような微笑の上を、つっと一筋の涙が通っていった。  
 
 
「わかった・・・ううん、わかってた。えく・・・でも・・・やっぱり兄さんの、っく口から、直接聞かされ  
ると・・・・・・」  
 堪えきれなくなったのか、ポロポロと涙と嗚咽を漏らす由夢。目の前で小さく身を震わせる由夢を  
見ていると、今すぐに由夢の傍に行き、抱き締めてやりたい衝動に襲われる。  
 だが・・・それだけは、絶対にしてはいけないことなのだと、義之は今にも立ち上がりそうな自分を  
無理矢理押さえつけた。  
 その代わり、目の前で涙を零す由夢の姿から目を逸らさず、まるで自身の罪を焼き付けるかのよう  
に、由夢を見つめ続けていた。  
 
 
「・・・・・・ごめんなさい、もう、大丈夫です」  
 真っ赤になった目から涙を拭いながら由夢がそう言った。  
 その姿は痛ましかったが、同時に、そこには何かを吹っ切れたようなある種の清々しさがあった。  
「いきなり夜中に部屋に押しかけて、勝手に泣き出したりしてごめんなさい・・・・・でも、おかげでよ  
うやく諦めがつきました・・・」  
「・・・そっか」  
「はい・・・でも、やっぱりお姉ちゃんが言ったとおりでした。直接兄さんと話してみれば由夢ちゃん  
も諦めがつくよって。今なら、あの時お姉ちゃんが言った意味がよくわかります・・・・・・」  
 本当に・・・と小さく呟き、薄っすらと笑みを浮かべる。  
 その微笑を目にした瞬間、義之は言葉を詰まらせる。ざわ・・・と首筋に何かが這い回るような薄気  
味の悪さを、本能的に義之は感じていた。  
 
 
「由夢・・・その、本当にごめ―――」  
「ごめんなさい」  
 
 
 義之がもう一度謝ろうとしたその瞬間、義之の声に被せるようにして由夢の口から同じ言葉が発せ  
られる。  
「お姉ちゃんの言ったとおり、やっぱり、私は兄さんのことを諦めることなんてできないみたいです  
ね・・・」  
「・・・っ!?」  
 疑問の声を上げようとする前に、ぐらりと義之の体が揺れた。支えようとする腕にも力が入らず、  
ドサッという音をたてながら倒れる義之。由夢はそんな義之を見ても顔色一つ変えず、何が起こった  
のかわからないといった表情で自分を見上げる義之に近づいていく。猛烈な眠気に必死で抵抗するも  
のの、そんな努力も虚しく、両の瞼は抗いがたい力で閉じられていく。  
「やっと効いてきたみたい・・・あ、安心してください。毒なんかじゃないですから」  
 朦朧とする意識の中、義之は楽しそうにそう呟く由夢の声を聞いた。  
「お姉ちゃんの言ったとおり―――ゆっくりお互いの距離を近づけていったり、告白したり、誘惑し  
てみたり・・・そんな正攻法で兄さんを手に入れるのは諦めることにします。ううん・・・むしろ今までそ  
んな綺麗事を言ってたから・・・だから私たちはあんな女に兄さんを盗られちゃったんだ」  
 倒れた義之の頭を膝にのせ、頬にそっと口づける。そこに浮かんだ表情はようやく想い人をその手  
に抱けることへの喜悦、そして恋敵への嘲笑。  
「ふふ・・・・・・でもね、兄さん。私はもう学習しましたから・・・これからは他の女に大事な兄さんを汚  
させたりしませんよ。兄さんは・・・私たちが守ってあげます」  
 
 
 だから・・・今はゆっくり、おやすみなさい。  
 
 
 最後の力を振り絞るようにして瞼をこじ開けた義之の目に映ったのは、姉と同じような微笑を浮か  
べて自分を見つめる由夢の姿だった。  
 
 
 

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