「どうぞ。なんだか散らかってて恥ずかしいけど」  
「え、あ、いや・・・そんなことないと思う。そ、その・・・綺麗な部屋だよ」  
 何やら嬉しそうにはにかむななかに対して、義之は誰が見ても明らかなほどガチガチに緊張しなが  
ら、やっとのことでそれだけを返した。  
 ななかはそんな義之に微笑を浮かべ、黙って彼の手を掴むと、部屋に置いてあるテーブルまで連れ  
て行った。  
「えっと・・・とりあえずこの辺で楽にしててね。私は何か飲み物でも持ってくるから」  
「え・・・あ、うん。ありがとう」  
「あははっ・・・もう、そんなに固くならないでよ。なんだか私まで変に緊張しちゃうじゃない」  
 連れて行かれたテーブルの傍で、相変わらず木偶の坊のように立ち尽くす義之を見て、今度は声を  
上げてななかが笑う。  
 朗らかで、透き通るような・・・彼がどれだけ聞こうとも飽きることのない美声が部屋全体に響く。  
 それで少しは緊張が解れたのか、義之は幾分リラックスした表情を浮かべると腰を下ろした。  
 
「それじゃ、ちょっとだけ待っててね。あっ、私がいないからって、変な所漁っちゃダメだよ!」  
「へ、変なところって・・・・・・」  
「そう、例えば・・・・・・私の箪笥とかかな?」  
「箪・・・なっ!?」  
「あはは、ウソだって。冗談冗談。それじゃ、少し待っててね!」  
 見る見るうちに、先程の比ではないほどにその顔を紅潮させる義之。そんな彼にぺろりと小さく舌  
を出してみせると、ななかは笑いながら部屋から出て行った。  
 
 
 
 廊下を駆ける軽やかな足音が徐々に小さくなっていき、それと同時に先程とは打って変わった静寂  
が訪れる。  
「ここが・・・ななかの部屋か・・・・・・」  
 自身が連れてこられた部屋、ななかの自室を改めてじっくり見回す義之。  
 その部屋は彼女の言葉とは裏腹に綺麗に片付いており、少なくとも雑誌やら勉強道具やらが占拠し  
ている彼のそれとは比べるべくもないほど、掃除の行き届いた清潔感に溢れる部屋だった。  
 が、だからと言って、それは生活感のない、無機的な潔白さというわけではなかった。  
 本棚に並べられた少女向けの雑誌や漫画。それに兎や熊といったぬいぐるみ。窓際に置かれている  
観葉植物も、丁寧に世話されているのか艶々した緑を浮かべている。  
 それらを見るだけで、持ち主がここでの生活を楽しんでいるということは想像に難くない。  
 部屋全体にうっすら漂っているのは、ななかの匂いだろうか。  
 彼の姉妹が時折付ける香水にも似た、甘く芳しい匂いが彼の鼻腔を微かに刺激している。  
 
 
 と、その時だった。  
 義之は徐に立ち上がると、その匂いが一際強く感じられるベッドにまるで引き寄せられるように近  
づいていく。  
 朝は急いでいたのか、シーツや布団が若干乱れたままのそこに飛び込みたいという衝動が一瞬彼を  
襲う。  
 だが、それよりも枕元のスタンド台に置かれた一枚の写真が、義之の意識を先程から強く惹きつけ  
ていた。  
「これって・・・・・・その・・・俺、だよな・・・・・・」  
 手にとってまざまざと見てみる。  
 そこに写っているのはカメラに向って笑う自分の姿と・・・・・・その隣で頬を朱に染めながら、寄り添  
うようにして幸せそうな笑みを浮かべるななかの姿だった。  
 
 着ている服がお互い体操服であることや、写真に写る周囲の風景を見て、ようやく義之はそれが春  
季体育祭の時に撮られた写真であることに気付いた。  
「うわ、懐かしいな・・・・・・この時はまだななかとは普通の友達だったんだよな・・・・・・」  
 自分の写真を枕元に飾られていたことの恥ずかしさと嬉しさをごちゃ混ぜにしながら、義之は久し  
ぶりに思い出された当時の光景を懐かしむ。  
「確かこの少し前くらいからななかと俺は仲良くなりだして・・・・・・バンドもやったり、皆で遊びに出  
かけたり、色々話をしたりしたっけ。それで―――――」  
 少し前に呼び出されて・・・ななかが告白してくれたんだよな。  
 と、写真の中で微笑むななかを見ながら、義之は感慨深げに呟いた。  
 
 
 
 そうして回想に浸り始める義之だったが、しかし、その前に彼は気付くべきだった。  
 写真の中で至福の一時を噛み締める少女。その瞳が映す感情は、決して彼が評したような『普通の  
友達』のものではないということに。  
 記憶の中で彼の隣で微笑む少女。その少女の笑みに込められた意味合いが徐々に、けれど確実に変  
化していたことに。  
 そして何より・・・・・・彼の最も身近にいる二人の少女が、遥かに昔から彼女と同じ視線を送っていた  
ことに。  
 桜内義之はよほど鈍感だったのか、それとも無意識の内にそれらを直視することを避けていたのか  
はわからない。  
 けれどもただ一つ、この時点で言えることが一つあるとすれば。  
 それは、最早手遅れだ―――ということだろう。  
 
 
                      ◆◆  
 
 
 それはほんの一ヵ月ほど前のことだった。  
 まるで燃えているかのような夕焼けが美しい放課後。  
 バンドの練習が急に取り止めになった(渉にななかが頼み込んでそうしてもらったことを義之は後  
から知った)とななかが伝えに来て、そのついでに一緒に帰ろうと誘われた。  
 普段ならば彼の登下校の際には、隣にぴったりと音姫か由夢が張り付いていたのだろう。  
 その時に、それがいくら仲の良い友人とはいえ女子と歩いているのを見られれば、途端に二人の機  
嫌は急降下することになる。  
 だが、その日は義之がバンドの練習で遅くまで学校に残ることを知っていたので、二人が誘いにや  
ってくることはなかった。  
 そのため義之は特に悩むこともなく、二つ返事で了承したのだった。  
 
 
 
 帰り道。普段は饒舌な彼女だったが、その日は殆ど喋らず、ただ思いつめた顔付きで義之の隣を歩  
いていた。  
 沈黙に耐え切れずに義之が何か話題をふっても、「うん・・・・・・」や「そうなんだ・・・」とだけ返され、  
それ以上会話が続くことはなかった。  
 その代わりにギュッと、見えない不安から逃れるかのように、義之の手が絡めとられるように握り  
締められる。  
 いつも通りの音姫顔負けのスキンシップだったが、その表情は相変わらず硬い。  
(もしかしてななか怒ってんのかな? 俺何かななかに嫌われるようなことしたっけ・・・・・・?)  
 そんな彼女に戸惑い、困惑して義之が内心そう呟いたときだった。  
「違うっ、そうじゃないの!! わたっ、私怒ってなんかないし、義之くんのこと絶対に嫌ってなん  
かいないよ!?」  
 突然物凄い勢いで顔を上げたかと思うと、ななかが早口でそう叫んだ。  
 訳がわからず目を丸くさせている義之に詰め寄るようにして、必死に言葉を連ねるななか。  
「えっ、一体何のこ―――」  
「義之くんが悪いんじゃないの! ごめんなさいっ、わ、私のせいで、嫌な思いさせちゃってごめん  
なさい! ごめんなさい! お願いだから・・・私のこと嫌わないで・・・・・・!!」  
 
 先程までの静寂が嘘のように、何度も何度も謝りつづけるななか。  
 義之には彼女の豹変の理由も、そもそも彼女が何に対して謝っているのかさえ理解できなかった。  
 だが、それでも何とか落ち着かせようとななかの肩に手を置き、  
「大丈夫だよ、ななか。俺はななかのこと好きだから。それにななかが俺のこと嫌ってないってこと  
も知ってるよ」  
 と、幼子に言い聞かせるように、はっきりと口にする。  
「ほ・・・本当に・・・・・・?」  
 その言葉が一体どれ程の効果を持っていたのか。  
 あれ程まで何かに怯え、思い詰めた表情を浮かべていた彼女は、義之のその言葉だけで様子を劇的  
に変化させていた。  
 未だに固さは残すものの先程の恐慌は完全に姿を潜め、その代わりに、その顔には僅かながらの喜  
悦が滲み出ていた。  
「私のこと好きって・・・・・・その、本当に・・・・・・?」  
「え・・・あ、ああ。嘘じゃないよ」  
 
 両手に走る僅かな痛み。  
 ななかはこれまでにないほど強く義之の手を握ると、幾分落ち着いた様子でそう訊ねる。  
 そのあまりに唐突で激しい変化に困惑しながらも、正直な気持ちを義之は告げる。  
 その答えを聞いた瞬間、ななかは大きく安堵の溜息を吐いた。  
「そっか・・・そっか・・・・・・良かった・・・・・・」  
 義之の手を固く握り締めたまま、再びその顔を傾ける。義之の手を掴む彼女のそれは、じっとりと  
汗ばんでいた。  
 そうして暫く沈黙が続いた後、ポツリと「義之くん・・・」とななかが呟いた。そこから何度か逡巡  
する素振りをみせると、やがて意を決したかのように口を開く。  
「義之くん・・・・・・少し、付いてきてほしいの。義之くんに伝えたいことがあるから」  
 
 
 
「えっ・・・・・・な、ななか・・・・・・今、何て・・・・・・?」  
 義之がななかに連れて行かれたのは、枯れない桜の樹がある広場だった。  
 もう直ぐ冬になるというのに今尚その樹は桜吹雪を撒き散らし、広場に長く影を落としている。  
 その場所で、そびえる樹を背にした白河ななかに・・・・・・義之は告白された。  
 別に聞こえていないわけではなかった。ただ、信じられなかった。  
 感情より先に、まずその事実が理解できなかった。  
 彼にしてみれば自分は一介の男子生徒で、人から貶されるほどではないが、これといった特徴もな  
い、いたって平凡な学生だ。  
 一方白河ななかといえば、学園で誰もが認める有数の美少女であり、数々の男たちを魅了してきな  
がらも、誰一人として手に入れられなかった高嶺の花だ。  
 確かに彼は白河ななかとは仲が良いが、それもあくまで友達の延長線上だと考えていたのだから。  
 尤も、義之もななかを女として意識したことがないわけではない。  
 はじめは単にその美しさへの憧れにも近かった。だが、友人として交流を深める度、容姿だけでな  
くその明るさや優しさ、同性の妬みにも負けない強さに内心惹かれていった。  
 ただ、彼女の評価に対してあまりにも自分が釣り合わないように思え、告白するというところまで  
は踏み込めず、無意識にブレーキをかけていたのだ。  
 
 そんな義之に、ななかは表情を堅く強張らせ、緊張のあまり微かに震える手をギュッと握り締める  
と、大きく深呼吸した後に真剣な眼差しで、  
「義之くん・・・私、白河ななかはあなたが好きです。私と付き合って下さい」  
 そう、先程と寸分変わらぬ科白をもう一度はっきり口にした。  
 
(何で自分が?)  
(ななかだったら他に相応しい男がいるんじゃないんだろうか?)  
(この後に笑顔で、冗談だよ義之くん! とかないよな・・・・・・)  
 などと、瞬時に様々な思いが義之の脳裏をよぎる。  
 告白が嬉しかったことは間違いない。  
 義之もななかに対しては単なる友達以上に意識した感情を抱いていたのだし。何よりも、彼女ほど  
の美少女に好意を抱かれ、告白されて喜ばない男などおそらくいまい。  
 けれど、義之が彼女の告白を聞いて、まず感じたのは、  
「その、さ・・・・・・本当に俺なんかでいいの?」  
 という、彼にとっては至極当然の疑問だった。  
 
 だが、義之にとっては当然の疑問を口にした瞬間、ななかはとんでもないとばかりに血相を変えて  
義之に詰め寄った。  
「私はっ! 私は・・・義之くんじゃないとダメなの!! 私は義之くんが好きっ、誰よりも大好  
き!! 義之くん以外の人なんて他の誰も要らない!!  
私は、桜内義之くんとお付き合い・・・したいの・・・・・・」  
 義之の腕を掴んだまま、急速に恥ずかしくなったのか、最後には消え入りそうな声になりつつも、  
彼女は自分の押さえきれない気持ちを伝える。  
 その勢いに押され思わず下がろうとする義之だったが、ななかが逃がさないというように、掴んだ  
両手に力を込める。  
 
「あ・・・あの、その・・・俺は」  
「義之くん!」  
 何か口にしようと、必死に次に続く言葉を探していた義之の言葉をななかが遮る。  
 先程よりも更に、もはや射す西日と大差ないほどにその顔は赤く染まっていた。  
「じゃあ・・・・・・私の気持ち、見せてあげるよ」  
 と掴んでいた手を離すと、そのまま義之の首の後ろに回し―――躊躇いなくその唇を合わせた。  
 ありったけの勇気を振り絞り、一世一代の特攻を果たした少女を誰が笑えるだろうか。  
 たとえ、傍から見れば、一方は緊張のあまり泣き出しそうな表情で、かたや一方はポカンとした表  
情のまま口付けるシュールな光景であっても。  
 更に、伸び上がるように勢いよくキスしようとした為、唇が合わさるというよりも正面衝突したと  
いった方が正しくても。  
 
「好き、なの・・・義之くん・・・・・・私・・・義之くんが誰より好きなの・・・・・・」  
 正直、義之は未だ混乱しており、気持ちの整理など全くついていなかった。  
 だが、それでも勇気を出して告白どころか、自分からキスまでしてくれた少女に自分も精一杯応え  
ようと、懸命に声を振り絞る。  
「その、ななか・・・俺はさ―――――」  
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
 びくりと体を震わせ、期待と不安の入り混じった表情でななかが義之を見上げる。  
 義之はその視線を正面から受け止め、自分の心を、素直な気持ちを言葉にしていく。  
「俺はななかに比べたら何のとりえもないし、正直恋人として釣り合うかどうかわからない。  
でも―――」  
 
「俺もななかのことが誰より好きだから。だから俺の方こそ・・・お願いします・・・」  
 
 数秒の沈黙の後、義之の言葉が染み渡ると共に、徐々にその表情を歓喜の色に染めていくななか。  
「義之・・・くん・・・・・・本当に、本当にいいの!?」  
「いいのって・・・さっきななかも言ってようにさ、俺もななか以外の人じゃ嫌なんだ」  
「義之くん・・・」  
「好きだよ、ななか。それにごめんな。俺の方から告白してあげなくて」  
「っ・・・う・・・ぐずっ、ううん、そんなの、いいよ・・・・・・っく、嬉しい、嬉しいよ、義之くん!!!」  
 これまでで最も眩しい笑顔を浮かべながら、ボロボロ涙を流して義之の胸に飛び込むななか。  
 義之はそれをしっかりと抱きとめ、彼自身も次第に胸の奥から湧き出てくる喜びに身を震わせた。  
 
 そして夕暮れの中、長く長く伸びた影がもう一度重なった。  
 
 
                      ◆◆  
 
 
「こらっ。何してるのかな、義之くん?」  
「うわあっっ!!」  
 いきなり背後からかけられた声に、悲鳴を上げ、文字通り飛び上がるほどに仰天する義之。  
 どくどくと早鐘を打つ心臓を押さえて振り向けば、そこにはにっこり微笑むななかの姿があった。  
「び・・・びっくりした・・・・・・人が悪いぞ、ななか。いるんならいるって言ってくれよ」  
「あはははっ、ごめんね、義之くん。義之くんがあんまりにも気付いてくれなかったから、つい」  
 そう言うと、よほどその時の表情がおかしかったのか、再びななかはクスクス笑い出した。  
 
 テーブルを見れば、湯気を立てる二人分の紅茶とクッキーなどの茶菓子が置かれている。  
 時間にして僅かに十分ほどのことだったのだろうが、よほど自分は深く回想にはまり込んでいたの  
だな、と義之は微かに苦笑する。  
「でも義之くん。一体何をそんなに夢中で見てたの・・・?」  
 不思議そうな顔をして訊ねるななかに、義之は、これだよと持っていた写真を手渡した。  
 それを見た途端に、あっと小さく声を上げ、気恥ずかしそうに義之を見つめる。  
「これって・・・・・・」  
「うん。ななかが枕元においていた写真。これ見てたら出会ったときのこととか、一緒に遊びにいっ  
たこととか色々思い出してさ」  
「うぅ・・・・・・見られちゃったのか。じゃ、じゃあさっき物凄くニヤニヤしてたのは・・・?」  
「ああ、それ? ななかが俺に告白してくれたときのこと思い出してた。凄く可愛かったな〜って」  
「あうぅ・・・・・・もうやめて〜、謝るから。恥ずかしいよぅ・・・・・・」  
 
 先程のお返しとばかりに意地悪く「俺の写真こんなに大切にしてくれてて嬉しいなぁ」と続ける義  
之に対し、ななかは耳まで真っ赤にしつつ首をイヤイヤさせて恥ずかしさを堪える。  
 結局この二人が腰を落ち着けたのは、これよりもう少し後のことになった。  
 
 
 
「ふぅ・・・・・・でも今日はどうしたの? いきなり家に寄っていかないか、だなんて」  
 ななかが持ってきた紅茶(先程のやり取りで少し冷めてしまっていたが、それでもとても美味しか  
った)を啜りつつ、ふいに義之はずっと疑問に思っていたことを彼女に訊ねた。  
 
 思い出すのは下校途中のこと。  
 義之はななかが掃除を終えるのを待ち、その後二人で手を繋いで帰った。  
 いつも通りの、恋人同士になる前からお馴染みの光景―――といっても、義之がいつも姉や妹に連  
れまわされるためにそうそう機会はなかったが―――だったが、その日はそこからが違った。  
「じゃあ、この辺で。また明日な」  
 お互いの家の別れ道で、そう言ってななかと繋いだ手を解こうとした義之。  
 そんな彼にななかが返した科白は、また明日ねではなく、  
「ね、ねえ義之くん・・・・・・今日、時間あったら・・・その、私の、家に来ないかな・・・・・・?」  
 そんな言葉だった。  
 ななかはごくごく普通に、丁度友人を家に招待するときのように敢えて自然な感じでそう言った。  
 ただし、夕陽のせいか赤らんだ顔を背けるようにして、その代わりに腕に抱きつくようにして体を  
押し付けながら。  
 
 義之ははっと息を呑み、自分の体の腕に押し付けられる柔らかい感触に思わず身を固くする。  
 勿論彼は大部分のところで、これは単純に恋人の家に遊びに行くのだという風に捉えていた。  
 が、それでも自分の男の部分を刺激して止まない、目の前の美少女に対する欲求。そしてこの後の  
展開に対する期待感がなかったかといえば、断じて否である。  
 事実。その途端に彼の手を握っていた彼女は弾かれたように顔を上げると、その表情を瞬く間に悦  
びへと変えていったのだから。  
 ただし、そこに浮かんでいたのはいつもの無邪気な微笑ではなく、見る者が寒気を覚えるほどに妖  
艶な、サキュバスのような笑みではあったが。  
 そして、ななかは彼の明確な返事を聞くことなく、そのまま手を引いて自分の家へと歩き出したの  
だった。  
 
 
 
「え・・・うん。ほら、今日は丁度都合が良かったから」  
「都合が良い・・・・・・?」  
 怪訝な表情で呟く義之に微笑むと、一拍おいてななかが続ける。  
「だってね・・・・・・今日はあの人たちがいないでしょう?」  
 それまで流麗なソプラノだったその声が、僅かに半音下がる。  
 表情も口調もまったくいつものそれと変わりはしなかったが、その瞳は全く笑っていなかった。  
 理由はわからないが、それでもななかがあまり愉快な気分ではないということは何となく義之にも  
わかった。  
「あ、あの人って・・・音姉と由夢のことか・・・?」  
「うん・・・・・・どうしてあの人たちはいつもいつもいつもいつも、私と義之くんが一緒にいると現れる  
んだろうね・・・・・・」  
 カチャリ、とカップが皿に置かれた音が静かに部屋に響く。  
 
「ああ、まぁ・・・・・・なんだかいつもなんだよな。でもあの二人は以前から大体俺と登下校してるし、  
学校でも偶然会うことが多かったから」  
「へぇ・・・・・・偶然、か。面白いね、それ」  
 ななかはこれっぽっちも面白くなさそうな表情で、さもおかしそうに呟くと再度彼に微笑みかけた。  
「あ、あはは・・・で、でも確かに二人が一緒だと自分も来る・・・とか言いそうだよな。まったく、音姉  
も由夢も少し心配性すぎるんだよな。  
少しでも門限に遅れたりすると電話やメールがきたり、俺の友人関係まで心配してきたりとかさ。俺  
ももう子供じゃないっての。  
あぁ。そうだ、聞いてくれよななか。この前だって、昼間に音姉と由夢がやってきたかと思―――」  
「義之くん」  
 先程からずっと、ななかから発せられる微妙な圧迫感から逃れようと早口で言葉を続ける義之。  
 だが、内容がまずかった。  
 義之にとってはともかく、ななかにとって彼の姉妹の名はできれば聞きたくもないものだった。  
 それでなくとも、自分の恋人が目の前で、他の女のことを楽しそうに―――いくら困ってみせても、  
彼の緩んだ表情を見ればそれが形だけであることは誰でも分かる―――話している。  
 そんな光景を見て、愉快に感じるような女はいないだろう。  
 
 凍りつくような声で、自分の話を遮るようにポツリと呟いたななかを見て、義之はようやく自分の  
迂闊さに気が付いた。  
「まだ話の途中だから・・・・・・いいかな?」  
「あ、はい・・・」  
 最早笑みを浮かべることもせず、静かにそう訊ねるななかに、義之は背筋を伸ばし即答した。  
 
「それにね・・・もう一つそれとは別の理由があるんだよ」  
 ななかは立ち上がると、テーブルを回り義之の傍まで移動し、彼の体を後ろから抱きすくめる。  
「えっ、ちょ・・・な、ななかっ!?」  
 突然のことにうろたえ、座ったままで身動ぎする彼の体に細い腕を巻きつけ、逃がさないようにし  
っかりと抱き締める。  
 義之の首筋を擽る荒い息、押し付けられる火照った体、そして背中に押し付けられた胸から感じら  
れる速い鼓動。  
 義之からは彼女の表情は見えないが、もし彼が振り向けば、即座にある少女の姿を思い出したに違  
いない。  
 彼女の浮かべているそれは、彼の記憶に眠る、まだ幼さを残す姉が自身に向けていたものとまさに  
瓜二つだったのだから  
 
「今日家に誰もいないの。お父さんもお母さんも家にいないの。だからね・・・・・・」  
 紅い唇が義之の耳元に近づき、義之くんを誘ったんだ、と囁く。  
「そっ、そそそれって・・・・・・・・・」  
 反射的に疑問の声を上げるが、勿論いくら彼とてその言葉の真意がわからないほど子供ではない。  
 義之の中で強い興奮と期待が、そしてそれと同時に不安や緊張感が一気に膨らみ、背に感じられる  
彼女のものに負けないくらい、心臓が早鐘を打ち出す。  
 告白の時同様、固まったまま立ち上がることもできない義之。そんな彼に「もぅ、可愛いな・・・」  
と小さく呟くと、ななかは正面へと回る。  
 ななかの僅かに潤んだ双眸が義之をしっかりと捉えると、それだけで義之は魅了の魔術にかけられ  
たかのように視線が離せなくなる。  
 
「ねぇ・・・私から・・・・・・言わなきゃ、ダメかな?」  
 甘い声色が義之の脳をドロドロに溶かしていく。  
 理性も思考力も判断力も、見る見るうちにななかの視線に、耳朶を打つ声に、立ち上る甘い匂いに  
奪われる。そして、代わりに体の奥底から男としての原始的な欲求が込み上げてくる。  
 やがて義之が食虫植物に誘われる虫のように、自分を濡れた瞳で見詰める少女に向い、手を伸ばし  
かけた時だった。  
 
 
「っ!!??」  
 びくりと大きく義之の肩が震え、それと同時に、それまで酒に酔っていたかのようだった頭が、一  
瞬にしてクリアになる。  
 その原因は、突然その部屋全体に響き渡るほどの大音量で鳴り響いた、彼の携帯電話だった。  
 全く予想もしていなかった、聞き覚えのあるその着信音に意識を引き戻され、義之は怪訝そうな表  
情でポケットから携帯を取り出した。  
「これって・・・あ、やっぱり音姉か。一体何なん―――」  
「ダメっ!!!!」  
 興を削がれたためか、それまで若干恨めしそうな眼差しで携帯電話を睨みつけていたななか。  
 だが、義之の口から『音姉』という単語が出た瞬間、いきなり悲鳴にも似た叫び声を上げたかと思  
うと、物凄い勢いで驚く彼の手から携帯を奪い取った。  
 そして自らの手の中で未だ震えながら、呼び声を響かせ続ける携帯電話を、まるで仇敵を見つめる  
かのように憎々しげに睨み付け、一片の躊躇いもなくその着信を切ってしまう。  
「えっ・・・!? ななか、何で電話切っちゃうんだよ・・・・・・?」  
 突然の行動の真意が分からず、驚きの声を上げる義之。  
 
 ななかはそんな義之の質問に答えることなく、代わりにドンッと体全体で義之へと飛び込んでいく。  
「うわっ、わ、ちょっ・・・ななか!?」  
 不意打ちで、しかも十分に安定した姿勢ではなかったために、そのまま後ろに倒れこんでしまう。  
 床に倒れる彼の上に彼女が圧し掛かり、丁度押し倒された体勢になる。  
「義之くん・・・・・・好きだよ」  
「ななか・・・いや、それは俺もななかのことは好きだし、その、こういうこともしたくないことはな  
いけど・・・・・・」  
「義之くん・・・今は私のことだけ見ていてほしいな・・・・・・お姉さんのことも、妹さんのことも忘れて、  
義之くんには、私だけを感じていて欲しいな・・・・・・」  
 興奮や恥ずかしさで真っ赤になりながら取り乱す義之とは裏腹に、ななかは熱に浮かされながらも、  
落ち着いた様子でそう告げる。  
 そして、片手をそっと義之の頬に添えると、すっかり紅潮した顔をゆっくりと下ろす。  
「はん・・・義之くん・・・・・・ん、んん、ちゅ、ちゅ・・・・・・」  
 義之の視界の端でななかが携帯の電源を落としてしまう光景が映る。だが、もうそれについて意識  
を裂く余裕など、義之にはなかった。  
 ななかの舌が歯をなぞり、舌をつつき、まるで別の生き物のように義之の口内を蹂躙していく。  
 その今まで味わったことのない感覚を、義之は目を白黒させながらも味わっていた。  
 
「ん・・・ちゅ・・・・・・ぷはぁ・・・はぁ、義之くん・・・・・・すきぃ」  
 息継ぎの為に一度顔を上げれば、細く粘着質な橋が二人の口にかかっている。  
 下にいる義之を蕩けたような眼差しで見詰め、恍惚とした表情でななかはそう呟くと、またすぐさ  
まキスの雨を降らし始めた。  
 義之もそれに抵抗することもなく、自らに降り注ぐななかの唇を受け入れ、堪能し、暫くすると自  
分から求めだしていた。  
 そんな義之を見て、ななかはにこりと幸せそうに微笑み、自らの衣服に手をかけると、一枚一枚、  
ゆっくり脱ぎ捨てていく。  
 最早言葉を発することも忘れて、本能のままに絡み合う二人。この時、彼女の瞳だけが義之に対し  
てこう告げていた。  
 
 
「義之くん、捕まえた・・・・・・」  
 
 
 

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