「で、話って何かな、由夢ちゃん?」
平日の昼前、屋上には二人の少女が対峙していた。
その内の一人は困ったような、けれども親しみの表情を浮かべているのに対し、
もう一方はまるで射殺すような険しい表情をしていた。
いつもならこの時間帯はまだ授業中のはずであり、二人がここにいるのは明らかにおかしい。
けれども別に二人して授業をサボったわけではない。
答えは至極簡単。今日は学校に着くと直ぐに緊急集会が開かれ、顔面蒼白といった様子の学院長が二言三言話し、
慌しく教室に押し込められると担任たちが(内容を所々伏せながら)説明して、
生徒たちは結局1時間ほどで全員帰らされたからである。
「・・・白河さんのことについてです」
切りつけるように少女、由夢が吐き棄てる。
そこにはいつもの親しげな様子は微塵もない。
ただ対峙する姉の瞳だけを一瞬たりとも逃さないよう、じっと見詰め・・・否、睨みつけている。
「うん、聞いたよ・・・本当にお気の毒にね」
「っ、白々しい!!」
表情を曇らせると、沈んだ声でそう答える音姫に、由夢はそれまで必死に抑えてきた感情を爆発させた。
瞳を大きく吊り上げ、端正な顔を歪ませて叫ぶ姿からは、いつもの子猫のような無邪気さは完全に消えていた。
しかし、それでももう一度冷静な自分を取り繕う気はしなかった。
「『お気の毒』? 嘘ばっかり! お姉ちゃんが白川さんのことをどう思っていたか、私が知らないとでも思っていたの!?」
その言葉を聞いたとき・・・音姫がそれまで浮かべていた笑みも困惑も悲しみも、全てがすっと消えた。
一瞬の空白の後、音姫は再び微笑を貼り付けると、
「それで、由夢ちゃんは何が言いたいのかな?」
「まだ惚ける気ですか? それじゃ言います。お姉ちゃん、昨晩は何処に行ったんですか?」
「・・・・・・」
「いえ、もっとはっきり言いましょうか。白河さんを殺したのはお姉ちゃんですね?」
言葉が温度を持っているなら、今の言葉は文字通り一瞬で周囲のものを凍りつかせるものだった。
少なくとも、目の前の少女には似つかわしくはない台詞によって、完全に音姫の微笑は消え去った。
二人とも言葉を発することなく、屋上が静寂に包まれる。
「図星、ですか」
音姫らしからぬ、まるで能面を髣髴させるように無表情なまま自分を見詰める姉に問う。
「別に弁解はいりません。どうせ何を言っても私は信じられませんから。ただ―――」
「うん、そうだよ。私がやったの」
「なっ!!!」
自然な口調でそう答えた音姫に由夢は絶句した。
物的証拠も、状況証拠すらない。
昨夜遅くに人目を忍んで出て行った、由夢が知っているのはそれだけに過ぎなかったのだ。
音姫が誤魔化そうとすればいくらでも出来る、だから彼女が肯定するわけはないという前提で話をしていたのだが―――
それを、音姫は、自分からあっさりと認めた。
「どうしたの? 自分で言ったのに驚いているの?」
「お姉ちゃん・・・・・・自分が何を言っているのかわかっているの?」
おかしそうにクスクスと笑う音姫を前にして、由夢は呆然と呟いた。
昨晩の行動に加えてここ数日の思いつめた様子、
音姫がななかを見るときに浮かぶ瞳の奥の赤い感情、
加えて今朝の憑き物が落ちたようにすっきりとした表情をしていたことから、彼女が犯人だと直感的に理解はしていた。
だが、それをいざ本人に言われるのとでは衝撃の度合いが違う。
先ほどまでの憤りも、まるで目の前の姉に飲み込まれてしまったかの如く霧散していた。
「どうして・・・」
あまりのショックに思わずそんな言葉が口をつく。
それは愚かな質問だ。
彼女は姉の思いを十分に理解しているし、だからこそ、圧倒的に不足する情報から彼女が凶行に及んだのだ、と推測したのだから。
ならば、この後に続く音姫の言葉はきっと、
「どうして・・・どうして?
決まっているじゃない、それはあの女が弟くんを誑かす悪い虫・・・ううん、最低の病原菌だったからよ。
あの女に弟くんはすっかり感染してしまった。私は何度も、何度も何度も弟くんに警告したわ。
あの女はやめなさい、あれは弟くんを唆す類のモノなの、弟くんは純真だからわからないかもしれないけど、
世の中にはお姉ちゃんや由夢ちゃんみたいな女の子ばかりじゃないのよって・・・・・・弟くんは優しいもの、そんなことは私が誰よりも知っている。
だからたとえどんなに汚らわしいものでも、擦り寄ってくるものを邪険には出来ないって。
そういうところ私は全然嫌いじゃないし、弟くんのそういう優しいところは大好き。
でもね、世の中には人の純粋な気持ちや行為を利用する悪い人もいるの。あの女はまさにそう。
あんなふうに自分の容姿を利用しながら色気を振りまいて、回りの男に媚を売って、挙句に何も知らない弟くんにまで魔の手を伸ばす。
あの女に関ってから弟くんは夜遅くに帰ることも多くなったし、生活習慣も乱れがちだし・・・・・・
ううん、そんな些細なことより、何よりも、何よりも大切な『家族』である私たちに対して全く感心を払ってくれなくなっちゃった。
おかしいよねぇ、私たちは姉弟なんだよ? だったらきっと赤の他人なんかよりもずっと強い絆で結ばれるべきだよね。
心は勿論、体だって―――だけど、あの女がいたから、弟くんは正気に戻れなかったんだよ。」
溢れ出す言葉からは、彼女の小さな身体の何処にこれほどのものが隠れていたのかと思うほどの憎悪が込められていた。
ああ、そうだ。どうして気付けなかったのだろうか。
姉はいつも自宅に来るななかに対して負の感情を抱いていた。
普段から生徒会長として人前に立つ彼女だ、自分の感情を隠すことにも長けているだろう。
そうして心の奥底に隠された感情には義之も、当人のななかも気付かず、
由夢自身も姉は単に弟離れが出来ないだけなのだろう、と不可解な感情―――不快感―――と共にそう納得していた。
「それで、白河さんを・・・」
「そうだよ。弟くんのことで話したいことがあるって言ってね、昨日公園に来てもらったんだ。
それでね、ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てたんだよ。
うふふ・・・学園のアイドルって、やっぱり歌が上手かったんだね。
私びっくりしちゃったよ〜。穴の開いた喉からヒューヒューって音で、器用だよねぇ。
ふふ・・・まぁ、言葉にはなっていなかったけどね」
心底楽しそうに笑う音姫から一歩下がる。
目の前の少女はどう考えても正常ではないし、実際に人が一人死んでいる。
恐怖に駆られもう一歩下がろうとした由夢に対して、
「ねぇ、由夢ちゃんも嬉しいでしょ?」
上げかけた足が硬直する。
ユメチャンモウレシイデショ?
意味がわからない。どういった論理の飛躍でそうなるのか。自分がそんなことを望んでいたとでも言うのだろうか。
勘違いも甚だしい。
ありもしない、ただの妄想だと笑い飛ばそうとして・・・そうして、初めて自分の表情が引きつっていることに気がついた。
「な・・・何言ってるの? 私はお姉ちゃんなんかとは違う。
兄さんが誰と付き合おうが私には関係ないし、白河さんが憎いなんて思ったことはないし、し、死んで欲しいなんて私は思わなかったし、
お姉ちゃんみたいに―――」
「嘘」
矢継ぎ早に繰り出される言葉が、姉の一言で一蹴された。
音姫は一歩前に出、いつもの優しく全てを見透かすような微笑と共に由夢を見詰める。
「由夢ちゃんさっき言ったよね。『お姉ちゃんが白川さんのことをどう思っていたか、私が知らないとでも思っていたの』って。
それは私も一緒だよ。ねぇ、どうして由夢ちゃんだけが簡単に私の本当の気持ちに気付けたのかわかる?
それはね、由夢ちゃんも心の底では私と同じ思いだったからなんだよ」
「違う、私は、違う・・・・・・」
「違わないよ。
それじゃ聞くけど、由夢ちゃん弟くんとあの女が一緒にいるときに本当に何も思わなかったの?あの女が疎ましくはなかったの?
違うよね。だって…由夢ちゃんがあの女を見ているときの眼、私にそっくりだったよ」
「う、うるさいっっっ!!!! うるさいうるさいうるさいうるさい、お姉ちゃんはうるさい!
これ以上そんな根拠の無いでたらめ言わないでよ!!!」
これ以上訳のわからない言葉を聞きたくなくて、姉の言葉をかき消すように大声で反論する。
けれど何故だろう。叫べば叫ぶほど、胸の中の不快感と恐怖が高まっていくのは。
姉から逃れたい一心で、その場から駆け出そうとしたとき、
「うん。それじゃ、由夢ちゃんの話も終ったことだし、私は帰るね。この後仕事もあるし」
実にあっさりと音姫は引き下がった。
そのまま何事も無かったかのように(事実音姫にとっては何でもないことだったのだろうが)由夢の傍らを通り過ぎると、
屋上のドアに手を掛けたところで、駆け出そうとした体勢のまま、
それまで一連の展開を呆けたように見つめていた由夢がやっとのことで声を出す。
「・・・どこに、いくの」
「弟くんの家だよ? 言ったじゃない、仕事があるって。
あんな女でも優しい弟くんは悲しんであげてるだろうし、
どんな事情であれ、弟くんが悲しんでいるのならどんなことをしてでも慰めてあげるのがお姉ちゃんの仕事だよ。
由夢ちゃんも一緒に来る?」
「なっ!?」
信じられない。
この姉は自分の弟の恋人を殺害して、何食わぬ顔で慰めるなどと抜かしたのだろうか?
驚きと同時に、それを遥かに上回る怒りと殺意が沸いてくる。
確かに失意の底にいる人間にとって助けは必要だろう、それだけは認めよう。
だが、果たしてそれはこの姉・・・いや、この女の役目なのだろうか?
「私ね、弟くんを誑かすような女は許さない。
弟くんのことは誰よりも、この世界の何よりも好きだし、弟くんだって私のことを愛してくれている。
だからその世界を壊すのなら、たとえ誰であれ容赦はしない。
・・・・・・でもね、由夢ちゃん。由夢ちゃんだけは例外。由夢ちゃんは私と同じ、血を分けたたった一人の妹だもの。
私はね、勿論弟くんのことは大好きだけど、由夢ちゃんだって同じくらい大好きなんだよ? だからもし弟くんが私だけじゃなくて由夢ちゃんを一緒に選んだとしても、私は幸せなんだよ
―――――でも、それも無理だね」
「・・・・・・」
由夢は何も答えない。ただじっと姉を見据える。
そこには先ほどまでに存在した心を見透かされた焦りも、姉への恐怖もない。
あるのは姉への怒りと、頼りない兄を守らなければならないという使命感だけだった。
「渡さない・・・絶対に兄さんはおねえちゃんから守ってみせる」
「ほらね・・・言ったでしょ。まるで、大きな鏡を見てるようだよ・・・・・・」
初めて心の底からの悲しみを呟いて、音姫はその場からゆっくりと姿を消した。
彼女が立ち去ってから後も由夢は姉がいた場所を睨みつけていた。
(守らなきゃ・・・白川さんもいなくなったし、お姉ちゃんには兄さんの傍にいる資格なんて無い。
私が、私だけが・・・この世界でお姉ちゃんから兄さんを守ってあげられるんだ。
お姉ちゃんが傍にいたら兄さんまでおかしくなってしまう。
私だけが兄さんの味方になれるんだ。
私だけがいつまでも兄さんの傍に入れるんだ。私だけが兄さんの―――)
兄の特別になれる。
そう考えたとき、思わず達しそうなほどの悦びが襲った。
もう自分の心を偽らなくてもすむ。
これからは、兄の一番に自分がなっても良い・・・いや、兄のために、そうならなくてはならないのだから。
「あは、あはははは・・・あははははははははははははははははは、あはははははははははははははははははははははははははははははは……………………!!!!!!!!!!!!」
幸せそうに笑い声を上げる少女。
そうして壊れた笑みを浮かべながら歩き出す。向うべき場所は勿論決まっている。
そこには確かに、かつて彼女の姉が浮かべた微笑があった。