2月5日(土)  
 
━━カリカリカリ。  
・・・・ぺらっ  
静かな部屋に筆記音とページを開く音が染み渡る。  
なんてことは無い、よくある勉強風景だ。  
「うーん」  
これは俺━━桜内義之のうなり声。  
何せ普段、家で勉強何ぞしない性質なのでなれない勉強に四苦八苦しているところだ。  
「・・・・うーん」  
俺の向かいでかわいいうなり声が上がった。  
これは雪村杏━━おれの恋人であり、大切な家族の一人━━の声である。  
杏も、慣れない勉強に戸惑っているところなのだ。  
しかし、いまの杏の格好は目のやり場に困る。  
何せ寝巻き代わりの長袖一枚に下着だけなのだ。  
そりゃ、今日の勉強はなるべく楽な格好で、とは言いましたけどね。俺もジャージだし。  
しかし、その格好は逆に楽すぎて、変な気分になってしまいそうですよ、杏さん。  
・・・・などと考えていると、ふと杏がこっちを向いた  
「なぁに?義之」  
「い、いや、なんでもないよ」  
と、変な気分を追い払ってもう一度ノートに目を落とす。  
「義之」  
ん?  
「寝巻き姿の女の子が一生懸命悩みながら勉強する姿って、萌え?」  
ぺちっ  
「・・・・いたい・・・」  
軽くつっ込んでおこう。  
「変な事いってるんじゃないの、ただでさえやばいんだから、俺たち」  
そう、そうなのだ、実はこの勉強会は来るべき学年末試験に向けて行われているのである  
どうしてそんなことになったのかは4日前に遡る・・・・。  
 
4日前 2月1日(火)  
 
この前の土曜日、俺のことをを含めいろいろ忘れていた杏が俺との思い出を思い出してから3日目。  
再び大切な人と一緒にいられるという嬉しさをかみ締めつつ学園に登校していた。  
「おーす、義之」  
「おはよう、義之、杏」  
「杏ちゃん・義之、おはよう。」  
茜・小恋・渉と校門付近で合流しつつこちらも挨拶する。  
「・・おはよ」杏もちょっと遅れて挨拶。  
杏が俺のことを忘れていた時期に関しては、杏が疲れていたということでみなに納得してもらった。  
まぁ、こんな日常でも戻ってくると気持ちがいいもんだ。  
「そういえばさー」  
小恋が何か思い出したように  
「もうすぐ学年末試験だっけ」  
「げ」  
「うっわー、このタイミングでそれを言うかよ小恋」  
あからさまにいやな顔をして渉がぼやいた。  
「小恋ちゃーん、今それを言わなくても・・・・・」  
茜までもが小恋に対して文句を言った。  
「だってー、もう来週だよー?そりゃ気にもなるってー」  
確かに小恋の言うことももっともだ。  
「けど、今から何をしようが何も変わらないのでは・・・・・・」  
と、小恋に対して言ってみたが  
「けどなんか、少しはあがいてみたいじゃない。そりゃ杏みたいに記憶力よければいいけどさ・・・」  
と、話を振られた杏を見てみる  
・・・・ん?なんか気難しい顔をしている。なんか悩み事か?  
「ねー杏」  
杏は何か考えたまま、反応しない。  
「杏ってばー」  
「・・・・・あ、ごめん、よく聞いてなかった」  
しかし、反応は鈍いものだった  
「あれ?杏、まだ疲れてるのか?」  
渉が心配そうに聞いてきた  
「ううん、そういうのじゃないんだけど・・・」  
「ありゃー?杏ちゃん、もしかして義之と試験終わったら何しよーとか考えてなかった?」  
ちょっと杏が困ったようにこっちを向くとそのまま顔を赤らめて俺の腕に寄って来た。  
「うわーこんな朝から見せ付けてやがりますよ!?」  
「うわーうわーうわー」  
そのまま冷やかされつつ、教室に向かったのだった。  
 
 
その日の昼休み  
 
 
「・・・・うーん、そういうことか・・・・」  
「そういうこと」  
昼になって杉並や渉と購買でも行こうとしたところで杏に呼び止めれられた。  
どうやら、弁当を作ってきたらしいのだが、二人きりで食べたいというの言われるまま屋上に来た。  
・・・・こりゃ、また奴らに冷やかされるな。  
しかし、今日は弁当は二人きりになる手段だったらしい。  
屋上に来て、弁当を食べながら杏が話をはじめた。  
「・・・・義之のことを思い出したのはいいけど、そのほかの忘れたことを思い出せないの。」  
との事。要するに、桜が散ってから失われた記憶力がまったく戻っていないらしい。  
「けど、それはそれでいいんじゃないか?大事なことは忘れていないんだろう?」  
と、不躾ながら聞いてみた。これで大切な人の記憶まで飛んでいたら由々しき問題だ。  
「うん、それは大丈夫だった。お婆ちゃんの事とかは覚えているし、みんなの事も忘れていなかった」  
「・・・よかった、それはほっとしたよ」  
心の底から安堵した、これで皆の事や大切なお婆ちゃんの事まで忘れていたら  
 
神はいないのか、  
 
そう叫んでいただろう。  
「ただ・・・今まで覚えていた勉強に関することや、読んだ本の事、見てきたことを大体忘れちゃってるみたい。」  
「それは、ちょっと大変かもな・・・・」  
これは大変だろう、何せ本当の杏は物を覚えるのに人の2倍の時間がかかるのだ。  
こればっかりはどうにもフォローができな・・・・ってちょっと待て。  
「杏、もしや・・・・学年末テストの範囲も?」  
杏はぽっと顔を赤くして  
「義之・・・・・どじっ娘って、萌え?」  
「いや、それどじっ娘ちがうし。」  
つまり、朝の釈然としない表情は学年末テストのことを思い出し、記憶が飛んだついでに範囲のこともすっかり忘れてしまい、  
その対策をどうするかで悩んでいた・・・・ということだそうだ。  
そこから話が進み、たまには無駄なあがきをしてみるかということになって、  
週末に一夜漬けのテスト勉強をすることになった。  
そこから、いろいろと手を尽くして範囲を調べて何とか週末に勉強ができるところまでは持っていくことができた。  
 
その途中で杉並にもいろいろ貸しを作ってしまった。  
「まぁ、いいだろう、だがこの借りはいずれ近い時期に返させて貰うとしよう。  
 なぁに気にするな、雪村には迷惑はかけないようにしてやる。」  
・・・・杉並、いったい何をする気だ。頼むからお手柔らかにしてくれ。  
 
そして、今現在、杏の家で勉強会をやっているという状況まで戻ってくるのだ。  
 
 
さて、単に勉強会をやるといってもいろいろ準備が必要だった。  
まずひとつは出題範囲を調べること。これは先ほど述べた通り、みんなに聞きまくって何とかなった。  
もうひとつはその範囲を記録しているノートが必要だった。  
しかし、これには心当たりがあった。  
 
━2月4日(金)  
「そういやさ、杏、確かノートとってなかったか」  
杏は記憶力がある時にもノートをとっていたが、それは授業を受けている姿勢を受けるため  
・・・・と、本人は言っていた。ただ、なんにしろあれば有難いと思った。  
へ?俺がノート取ってないのかって?んな野暮なこと聞くな。  
「・・・・んー」  
杏は少し考えてから  
「一応はとっていたけど・・・・・使えるかどうかわからないよ?」  
「一応でも、あれば助かるよ」  
また少し考えてから。  
「わかった、探しておく。」  
と、言っていたのだが・・・・・  
 
2月5日(土)朝  
その日、勉強道具とその他いろいろをもって杏の家までやってきた。  
「うわ・・・・」  
杏の部屋に入り、最初の言葉がこれだった。  
いや、家にきたら杏が寝巻き姿のままだったというのもあるが、もっと驚くのはノートだった。  
確かにノートはあったが、その量が多量だったのだ。  
「・・・・・なんか、こっちが考える以上にあったな・・・」  
その量、ざっと一年分。  
「うん・・・探していて私もあきれちゃった。」  
と、杏本人も苦笑い。  
「けど、これで後は範囲と参考書とか付き合わせれば何とかなるんじゃないか?」  
少しほっとした  
「けどね義之、これ見て。」  
と、杏がおもむろにノートをひとつ取り出した、  
「ん?何か問題でもあるのか?」  
中を見てみると、確かに黒板に書かれたとおりのことが書かれているらしかった、実に簡潔なノートだ。  
・・・・待て、「書かれていた通りのことが書かれていた」?  
「・・・・あのね、私、黒板に書かれていたことをそのまま書いてたみたいなの」  
と、しゅんと下を向いて杏がつぶやいた。  
「記憶力があるうちの私ってノートはただ書くだけのものみたいだったから、」  
つまり、本来だったらノートの記録に対して個人の解釈や、教師の口頭での注釈みたいなものをつけるところを、  
何もつけていなかった。  
「で、黒板のコピーになってしまったと。」  
「・・・・・うん、何をやってたんだろう、私・・・・・」  
あー、そうやって部屋の隅で落ち込まないでください。それはある意味しょうがないんだから。  
落ち込む杏をやさしくあやしつつ、1時間たってようやく勉強会を始めることができた。  
 
2月5日(土)昼(冒頭の時間軸に戻る)  
 
相変わらず二人の勉強する音だけがしている部屋。  
しかし、範囲を拾いながらの勉強がこれだけ面倒だとは・・・・・・・  
まぁ、ろくに授業を受けていなかったというのもあるが、それよりも1年分のノートから範囲を拾い出し、  
なおかつ自分が消化しやすいように噛み砕いていくというのは、なかなかに骨が折れる作業だ。  
もう一度杏のほうを見てみると  
「・・・・んー」  
やはり慣れない勉強なのか、うまく進んでいないようだった。  
よく見ると少し疲れている?そりゃ確かに朝からずっと勉強だから疲れるといえば疲れるが、少し疲れすぎ・・・?  
「・・・・ん?なぁに?義之」  
こちらに気づいた杏が声をかけてきた  
「いや、なんだか杏が疲れてるかなー・・・と思ってさ」  
するときょとんとした顔で  
「私が?」  
いや、あなた以外に誰がいるんですか。  
「んー、そういえばそうかもしれない。」  
と、ちょっと思い出したように言った。  
「あ、やっぱりノート探すので疲れちゃった?」  
と、身近な原因を挙げてみたが、  
「んー・・・・もっとほかに原因がある気がする。」  
と、杏が少し考え始めた、しかしほかに原因ってなんだ?  
「あ」  
と、声を上げた刹那  
く〜  
何だ今の音は。  
「・・・・よしゆきー、おなかすいた・・・・・」  
と、杏が顔を赤くしていた。そういえばもうお昼か。  
「わかった、休憩もかねてお昼にしよう」  
「・・・・ん」  
と、少し微笑みつつ答える杏。あー、わかったから抱きしめたくなるような笑顔を向けないでください。  
 
あらかじめ買ってきた材料で簡単に昼食を作った。ちなみにチャーハンとスープだ  
それを勉強をしていたところにスペースを作って一緒に食べることにした。  
「・・・・ん、おいし。」  
とりあえず、気に入ってもらえたようで何よりだ。しかし時々手が止まるのはなぜだ?  
「そういえば。」  
「ん?なんだ?唐突に」  
何か不都合でもあったのか?そう思っていると  
「さっきさ、義之に、私が疲れているように見えてるって言われて少し考えたの」  
ほうほう、  
「何か思い当たることがあった?」  
と、気になるので聞き返してみた。  
「うん、もしかしたら授業で疲れてしまったのかも知れない」  
━はい?  
「って、普通、授業って疲れるものじゃないか?」  
一応勉強なんだし、頭も使うのだからそれは疲れるだろう。  
って言っても、俺や渉なんかは授業をまともに受けてるとは言い難いから、  
そこに当てはまるかどうかは疑問だけど。  
「えっと、うまく言えないかもしれないけれど・・・・」  
「まぁ、言ってみろって」  
と、少し考えた顔をした後に杏がしゃべり始めた。  
「私って、記憶力があるうちは黒板を見たり先生の話を聞くだけで授業を覚えられたし、それも理解できたの」  
うんうん  
「なんていうかな・・・・・もともとあった記憶にその新しい知識が上積みされて、  
 さらにその過去の記憶と照らし合わせて、授業全体が理解できてたの。」  
んー、わかったようなわからないような・・・・・  
「で、その力が無くなってからは?」  
どうなったんだ?まさか変なところで影響が出ていなければいいけど・・・・  
「うん、昔の授業の内容がまったく思い出せなくなって、授業がぜんぜん理解できなくなった。」  
あー、そういうことか。何となくわかったような気が。  
「それで、ここのところ、ずーっと理解できない授業ばかりだったから、それで疲れたのかも・・・」  
そりゃつらいな、わからない授業を聞くというのは、ただの苦痛だしな。  
「そうか・・・・確かに疲れるな・・・・・」  
「正直、この勉強だって最後までできるかどうかわからないよ・・・・」  
んー、ちょっと疲れたまり過ぎかな?  
「義之、ごめんね、せっかく私のために考えてくれたのに・・・」  
あ、杏が落ち込んだ、なにか考えないと。まぁとりあえずは。  
「杏、それより飯食べちゃおう。今はあまり考え無いほうがいい。」  
飯も不味くなっちゃうしね。  
「食べたら話聞いてあげるから」  
すると少し杏が明るくなった。  
「うん、ありがとう、義之」  
 
それから飯を食べ終わってかたつけを終えてから、杏を俺の胡坐の上に座らせて話を始めた  
・・・・この方が杏も安心するだろう。  
「で、どれくらい疲れてるの?」  
と、改めて聞いてみた。  
「んー、家では暇があれば寝てたかな?」  
「・・・・それって、ばたんキューじゃないか。」  
そんなに疲れていたのか。  
「だって、ホントにつかれていたんだもん」  
あーそんな状態で勉強なんてしようとしてたのか。  
「それは・・・・」  
ごめん。という前にふとした疑問が浮かんだ。  
「なぁ杏、何でそんな状況で勉強なんかしようと思ったんだ?」  
よくよく考えればそうなのだ、こんな疲れている状況で勉強なぞしてもぜんぜん頭に入らないだろう。  
ましてや風見学園はエスカレーター制、何も学年末試験の結果が悪くても別段影響は無いはずだが・・・  
杏を見ると、なにやら考えている様子だ、もしや杏にもわからないとか?  
「・・・んー、多分怖かったんだと思う」  
開口一番の台詞がこれである、  
「って、何が怖いの?」  
ただ漠然と「怖い」だけでは何が怖いのか分からない。  
「多分、突然変わってしまった自分をみんなに知られるのが怖かったんだと思うの」  
え?え?  
「それはどういう・・・・・」  
「義之は全部知ってるからいいけど、茜や小恋や美夏はまだ私に記憶力があると思ってるんだよ?」  
・・・・・あー大体読めてきた。  
「それどころか、みんなにとっての私って、すべてのことを忘れない女って思ってるんだよ?  
 そんな中で突然『記憶力がなくなりました』って言ったらどんなことになるか・・・・考えるだけで・・・」  
最後のほうは小さな声でつぶやくように言った。  
そうか、そういうことを怖がっていたのか・・・・・  
「杏」  
ん、と顔だけこちらに向けた、その瞬間  
 
ぺちっ  
 
「あうっ」  
軽くつっ込み、あ、杏が呆然としてる。  
「あーのーな、そんな事くらいで俺たちが杏のこと見捨てると思うか?」  
「思いたくない、思いたくないよ・・・・・けど・・・・」  
「けども何も無いよ。そんなことで見捨ててるんだったら杏が俺のこと忘れてる時点で見限ってるって」  
とりあえず、言って聞かせないとだめだな。このマイナス思考は。  
「・・・・あ、そうか」  
杏がなにか分かったような顔になった。  
「それに、逆にそのほうが皆に親近感が沸くと思うぞ。」  
「けど、それでも不審がられたら・・・・」  
んーどうしようかね・・・・・  
「とりあえず、雪村式記憶術はもうやめた。位言っとけ、そうすれば納得するだろ」  
あ、こっちを向いて唖然としとる。しょうがない、こっちもいい考えが浮かばなかったんだ  
とりあえず照れ隠しにキス  
「・・・・・・!」  
しばらくして唇を離し、安心させるように言葉をかけた  
「だから、心配するな。もし何かあったら俺が何とかしてやるから。」  
杏もやっと安心したのか  
「ありがと・・・よしゆきぃ・・・・・」  
少し涙声になりながらも、ようやく安心した声を出した。  
で、そのまましばらく杏の頭をなでていたら  
「・・・・・すー」  
杏が眠りに落ちてしまった、まぁ疲れていたんだししょうがないか。  
このまま少し休ませよう、で、おきてきたらご飯を作って一緒に食べよう  
ん?試験のこと?杏が最優先だ、知ったことか。  
 
2月16日(水)  
 
「━しかし、こりゃ予想以上にひどいな」  
「・・・・あはははは」  
と、放課後に杏と二人で寄った『花より団子』で改めて帰ってきた学年末試験の結果みてつぶやくと、  
杏が力なく笑った。  
「私だって、ここまでひどくなるとは思わなかったもの・・・・」  
と、今度は諦めにも似た声。確かに予想の範囲をかなり超えて落ちてるしなぁ。  
「けどいいわ、その分、胸の痞えも取れたし」  
ようやく安心したような声。  
・・・・そうなのだ。あの勉強会の日、結局勉強そのものは午前中で止まってしまい、  
後は、杏の悩みをほぐしてあげたり二人でいちゃついたりしたりして、  
夜は・・・・・・なんだ、聞くな。  
という感じで残りの時間を使ってしまったのでそのまま学年末試験に突入してしまい  
結果はご覧の通りというわけだ。  
「義之」  
「ん?何だ?」  
と、ここ1週間の回想をしていると杏が話しかけてきた  
「そんなに私、しゅごかった・・・・?」  
と、顔を赤らめ声を上擦らせつつそんなことを言ってきた、こら・・・  
ぺちっ  
「あう」  
軽く突っ込み  
「そんなこと公衆の面前で言うんじゃないの、まったく・・・・・・・・確かにすごかったけどな」  
うあー、俺もなに言ってるんだ。  
実は試験が終わってすぐにまた杏といちゃついてたり・・・まぁ、してたわけだ  
というかなんか二人してだめだめになってる・・・・・・?  
 
しばらく気恥ずかしさで二人で黙っていたが、授業中のあるやり取りを唐突に思い出した。  
「そういえば、まさかホントに”雪村式暗記術はやめた”っていうとはなぁ・・・・」  
「そういえって言ったの、義之じゃない。」  
杏がちょっとむっとしつつ抗議。  
そう、試験結果が返却されて一喜一憂しているさなかに、杏が”雪村式暗記術はやめたの”  
と皆の前でいってしまったのだ。  
いや、俺としては記憶力が無くなった口実としてそう言っとけば皆が納得するんじゃないか・・・  
と、安直ながら考えてそれを杏に提案しただけだったのだが、  
まさかあそこまでストレートに使ってくるとは・・・・  
「うーん、あそこまでストレートだとは思わなくてさ」  
と、素直に感想を述べた。  
「それに、義之がうまくまとめてくれると思ったから・・・・・・」  
確かに、宣言の後になぜか質問の矛先がこっちに飛んできてしまった。  
まぁ、”杏も変わったんだよ”と、うまくまとめたつもりだったが  
「ほーう、恋は杏ちゃんをこうも変えてしまうのねー」  
と、茜に変な目つきに見られたり  
「義之!おまえ、いつからそんな男になったー!!!」  
と、渉になぜか詰め寄られたりはしたが。というか俺は悪者か何かか。  
「んー、けど、みんな自分で何とかしようと考え始めたから、それはいいと思う」  
と、杏も振り返った  
そう。もうひとつ変わったのは、今まで勉強で杏に頼りきりだった小恋や茜や渉が、  
解らないなら解らないなりに自分で何とかしようとした事だった。  
渉は小恋にわからないなら俺が教えてやるといって苦笑を買っていたが。  
「まぁ、みんな一応納得してくれたから、OKかな?」  
と、そう自分の中で区切りをつけた。  
「うん、ありがと、義之」  
ちゅっ  
・・・・・!!!!  
すばやいキス。というか忘れているかもしれないけど、ここは”花より団子”で、  
ほかの客もいるのに、その中で奇襲ですわよ?奥さん。  
「杏・・・・ホントに遠慮なくなってきてるな」  
「ふふふ・・・・私をこうしたのも義之なんだよ?」  
と、ホントに安心しきった笑顔で言ってくれた。あーもう!  
「こっちがはずい・・・・」  
「・・・・なんか、私も今になって恥ずかしくなってきた・・・・・」  
また二人で黙ってしまった、けどこの雰囲気はいやじゃない。  
感触こそばゆいが、むしろ幸せだ・・・・・。  
 
さて、しばらくして杏がこちらをみてしゃべり始めた。  
「今回ね、記憶力が戻らないまま試験になったけど、最初は怖かったの」  
あー、前も言ってたなそれは。  
「記憶力が戻らないまま試験受けて、とんでもない結果になって  
 みんなから変な目で見られたらどうしようって考えたの」  
またマイナス思考?落ちる前にフォロー入れるか。  
「そうしたら怖くなって何かせずにいられなくなった、と」  
「うん、けど実際やってみて義之の言うとおりだった。みんな今の、  
 本当の私を受け入れてくれたし、私もなんか気が楽になった」  
と、安心したような声、どうやらマイナス思考からの発言では無いようだ。  
「もしこれが義之を思い出さないままだったら、今以上に落ち込んでたかもしれないし  
 ふさぎこんでたかもしれない・・・・・」  
・・・と、ちょっと悲しそうに続けた、まあ、子供のころの疎外感をまた味わうのは  
杏にとっては拷問以外の何者でもないからな。  
「だから、こうやってホントの私を出せたのも全部、義之のおかげなんだよ。」  
と、明るい声に戻って続けた。  
「そうか・・・それはありがとうな。」  
なんか、俺はこのかわいい恋人の頭を撫でずにはいられなかった。  
「えへへ・・・・こういうのを、家族って言うんだろうね」  
そうか・・・そうだよな。自分のことを知っている人がいるから本当の自分を出すことができる。  
そしてその頼る人のフォローをすることでその人が安心して弱くなることができる。  
確かに家族の一つの形かもしれないな。思い出したくない本当の家族よりもこっちのほうがいいかもな・・・  
・・・・はて?そういえば杏の記憶ってどこまでなくなってるのかな?  
うまくいけば思い出したくないことも忘れているんじゃ・・・・・  
「そういやさ、杏」  
「ん?」  
「杏の記憶ってどのくらい無くなってるの?」  
うーん、何せぱっと出の疑問だから、質問が漠然過ぎた・・・・・  
「それってどういう意味?」  
杏が聞き返してきた。  
「や、もしかしたらさ、思い出したくないことも忘れているんじゃないかってさ・・・・・  
  言ってみただけだよ。気分悪くしたらごめん」  
しかし杏は何かを考えはじめた  
「い、いや無理にとは・・・・」  
しかし、次に見た光景はとても悲しいものだった。  
「杏・・・・なんで泣いてるの・・・・」  
 
そう、杏の目から涙がとめどなく流れていた。  
「・・・・ぐすっ・・・・・えぅ・・・・・・・」  
「ちょっと、杏、大丈夫か?」  
と、声をかけてみるが泣き止まない。やがて  
「あのね、・・・いま、義之に言われてなにを忘れているか・・・思い出そうとしたの」  
「だから、無理に思い出すなよ、つらいだけかもしれないのに・・・・・」  
と、杏がさらに続けた。  
「そうしたらね、お婆ちゃんが無くなってからの一連の出来事を思い出しちゃったの。」  
例の、遺産相続の一件か。  
「そのときの親族の争いとか、私にかけられた言葉とか思い出しちゃって・・・・」  
確か、その当時の子供が受け止めるにはヘビーな話題だったと聞いている。  
それにそのときの杏は記憶力があったのですべて覚えていたはずだ。  
「せっかく記憶力がなくなって、そんなこと忘れられると思ったのに・・・・  
 今言われたら唐突に思い出しちゃって・・・・」  
「杏・・・・・」  
少し自嘲気味に話を続けた。  
「何でだろう、昔は全然平気だった・・・のに、今・・・思い出すと、なんでこんな・・・・」  
とうとう杏が涙声になってなった、そして  
「もう、あんな思いするのはいやだよーーー!!!私をそんな目で見ないでよーーー!!!  
 ・・・・・・よしゆきぃー、よしゆきぃー・・・・!!!」  
とうとう泣き出してしまった。  
そうか、そんなに辛かったんだね。今まで我慢してきたんだね。  
俺は、そっと杏を抱きしめた。  
「杏、今まで辛かったんだね。本当に我慢してきたんだね。」  
「よし・・・・ゆきぃ・・・・」  
あまりうまい言葉が見つからなが、自分なりに言ってみよう。  
これでも、杏の家族を自負しているのだから。  
「けどこれからはそんな辛いことがあったとしても忘れられる。思い出したくないんであれば忘れればいい」  
「・・・・うん・・・・うんっ」  
「もしそんな憂鬱になるようなことがあったとしても、それを上回る幸せで書き換えてやれば良いさ」  
「そんなこと・・・・できるの?」  
杏が不安そうな声で聞き返す。  
「なぁに、いざとなれば小恋や茜や渉や杉並にも手伝ってもらえば良いさ、そうして皆で楽しいことを  
 作っていけば、思い出したくないことなんて忘れちまうよ。」  
「できるかなぁ・・・・」  
「心配するな。人間ってばそういうものだからな。きっとうまくいくよ。」  
「・・・・うんっ」  
ようやく杏の安心した声、しかしこれは一回不の感情を吐き出させないとだめだな・・・・  
「けど杏、今は思いっきり泣いてしまえ」  
え?という感じでこちらを見上げた。  
「・・・いいの?」  
「ああ、杏は今まで我慢しすぎた、いまさら泣いても、誰も責めないよ」  
「・・・よしゆき!よしゆきぃーーーーー!!!」  
そのまま俺の胸にしがみつき、大声で杏は泣いた。  
まるで、今まで溜め込んでいたものを吐き出すように・・・・・。  
 
 
「・・・・とととと」  
杏の足元がおぼついている、すっかり泣き疲れてしまったな。これは。  
「杏?大丈夫か」  
と声を掛けてみた  
「義之・・・・見た目弱弱しい女の子って、萌え?」  
「いやだからしっかり歩きなさいって」  
冗談が言えるほどには回復しているようで安心した。  
さて、あれからのことを説明せねばなるまい。  
『花より団子』で思いっきり泣いた杏、10分ほどしたところで店員さんが布巾を持ってきていた。  
どうやらあまりの杏の泣きっぷりに何かできないかと考えていたらしい  
とりあえず杏が落ち着いてから顔を拭いてやり身だしなみを整えてから時間も時間ということで『花より団子』を後にした。  
で、これからどうしようかと考えていたら  
「義之、今日泊ってもいい?」  
と言い出した。え?明日平日だぞ?と聞き返すと  
「ん、そういうんじゃなくて、今日はぐっすり寝たいの」  
つまりあんなことを思い出した後なので安心して眠りたいということらしい。  
そういうことならと、二つ返事で了承して、現在は夕飯の買い物をした後、俺の家に向かっているところだった。  
「義之、きょうはごめんね」  
「え?なに?唐突に。」  
突然、杏が謝るので何事かと思った。  
「なんか、私のわがままに付き合わてしまって・・・・・」  
ぺちっ  
「あう・・」  
「そういうこと言うんじゃないの。俺たちは『家族』なんだから。」  
「よしゆき・・・・・」  
しかし、表情は穏やかだった  
「うんっ」  
杏の心からの笑顔。  
・・・・・ああ、この顔がもう悲しむことが無いようにしっかりと守っていこう。  
それが恋人として、そして家族として、精一杯できることなのだから・・・・・・  
 
fin  
 

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