DCU 杏シナリオ脳内補完  
杏シナリオ「ありがとう」序盤から  
 
「じゃあな、元気でやれよ」  
俺は踵を返した  
これで心残りはない。  
あとは振り返らずに帰るだけだ。  
 
(さようなら、杏――)  
 
心の中でそう呟くと、俺は歩き始めた。  
一歩、二歩……どんどん足を進める。  
 
まだ杏は俺の後姿を見送っているだろうか?  
そんな淡い期待に一瞬、振り返りそうになったけれど、  
我慢して前に進む。  
そう、前に――。  
二度と振り返らないように  
 
バカ――。泣くな、俺  
零れそうになる涙を必死の思いでこらえて  
また一歩前に進む  
「…っ」  
背後で少女が息を飲む気配を感じながら  
 
別離の為の一歩一歩を  
折れそうになりながら  
潰れそうになりながら  
鉛のように重たいその足を  
俺は踏み出して  
 
――目の前が暗い  
予感は――あった。  
これは確信に近い  
多分、今度意識を無くしたら  
      
俺はもう「戻ってはこれない」のだろう  
 
いいさ  
それでいい  
それでもいい  
俺がいなくなって  
杏を苦しめるモノがこの世から消えて  
それで杏が幸せに生きていけるなら、それでも――いい。  
 
だからせめて  
彼女の視界から消えるまではがんばらなくっちゃ  
その思いだけで踏み出す足に力をこめる  
 
 
もうどのくらい歩いたろう  
杏は家に戻っただろうか  
「あのまま突っ立ってたら風邪ひいちまうからな」  
早く戻って風呂に入って寝てくれるといいなと  
誕生日の今日  
見る夢が幸せなものだといいな、と。  
そんなことを考えるだけで俺は笑顔になれた  
 
ふと、  
 
朦朧とする意識の片隅で俺の耳が音を捕らえた  
――何かが近づいてくる  
規則的な音が近づいてくるのが聞こえる  
あれは何の音だろうか  
足――音。だ  
 
誰の?  
 
忘れるはずもない  
あの懐かしいリズム  
間隔が早いのは身長が低いのでコンパスがそもそも短いんだ  
小さな体で懸命に走っている  
ああ、そうだ  
何度も何度も聞いた  
 
学校の廊下で、夕暮れの校門で、商店街で  
俺を見つけるとその無表情だった顔をぱっと輝かせて  
小走りに駆け寄ってくる  
花のような女の子  
 
毒舌で冷酷で計画的で  
計算高くて抜け目がなくてそのくせ小心で  
いつも周りを気遣っていた  
俺が一番好きな女の子  
 
ぽす。っと  
背中に軽い衝撃を感じる  
背後から回される小さな手  
 
「あ…んず?」  
 
振り向くと杏が俺を抱きしめていた。  
 
俺を引き止めるように  
俺の行く手を遮るように  
俺の前にいるものから俺を守ってくれているように  
 
なんのことはない。  
もう何kmも歩いたつもりだったのに  
俺の足は杏の家の門から10mも離れちゃいなかったようだ  
 
「……も………から…」  
「え…?」  
「…が…を忘れても…私…は…っ」  
「……杏」  
「私が…を忘れて…も私は…が好きだから…っ」  
 
わすれないで。と  
 
あの日、彼女と交わした約束の言葉  
でも俺の名前だけはどうやっても出ない  
こぼれてしまってもう杏の中に俺はいないから  
知らない人の名前が出るわけが――ない。  
 
「いいんだ…杏…」  
「もう、俺の事なんかで苦しまなくて…いい」  
「私も……が好きだから…っ!」  
 
酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせて  
喉元まででかかったその言葉を振り絞ろうとして  
杏が喘ぐ  
 
「杏っ!」  
 
たまらず振り向いてしまう  
つい怒鳴ってしまった  
 
もう俺の目は焦点すらあやしいのに  
小さな手を握り締めて  
瞳に一杯涙をためて  
その言葉をなんとか外に出そうと  
音にしようと  
「言葉」にしようとして  
強く俺を見つめる少女の顔が映る  
 
何度やめさせようとしても  
その度にいやいやをする子供のように  
必死にその言葉を振り絞ろうとして  
俺の腕の中でうずくまる  
 
「…ゅ…が…好き…だから…っ」  
 
血を――吐くのかと思った  
 
「いいんだ杏!もういいっ!」  
 
ごめん  
幸せにしてあげたかったのに  
家族になりたかったのに  
がんばるって決めたのに  
約束破ってばっかりでごめん  
 
「…ゆ…き…が好きだから」  
 
こらえ切れなくて抱きしめた  
俺のありったけで、強く、強く――。  
 
――杏が  
今の自分の全てとを引き換えにするように叫ぶ  
 
「よし…ゆきが…好き……だから…っ!」  
 
「杏…っ!」  
 
「義之……っ!」  
 
ぴしり。と  
その瞬間世界の輪郭が揃う  
俺の視界がクリアになる  
何かに赦されたような  
その時  
 
おかえり。と  
 
誰かの声が聞こえた気がした  
 
「義之!義之!義之ぃ…!」  
 
目の前で  
少女が俺にしがみついて  
俺の名前を連呼する  
涙で顔をぐしゃぐしゃにして 
俺を呼んでくれている  
 
二度と忘れないように  
この言葉さえ忘れなければ他の何を失くしても構わないのだとばかりに  
この言葉だけで自分の中が一杯になってしまえばいいのに、と。  
そう願うように少女は俺の名を呼び続ける  
 
「義之!義之!……ぅわぁぁぁぁぁぁあぁっ…」  
 
「杏!杏!杏!…ありがとう…っ」  
 
気がつくと俺も泣いていた  
 
2人で雪の中で抱き合った  
2人で雪の中キスを交わした  
2人の唇は冷え切っていたけれど  
この世にこれ以上暖かいものなんてないと思った  
 
二度と失くしてしまわないように  
俺たちはきつくきつく――、お互いを繋いだ  
 
 
 
もう、だいじょうぶだよ。と  
 
誰かが俺の頭を優しくなでていく  
その感触をかすかに感じながら  
 
 
俺たちはいつまでも  
互いの名前だけを呼びあって泣いた――。  
 
 

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