物語はどこから始まって、どこで終わりを迎えるのだろう。  
錆付いた思考はばらばらに砕けた言葉を幾つも蒼穹に浮かべては、ちぐはぐに繋ぎ合わされた電気信号の一瞬の煌きの向こうへと押しやってしまうだけだ。  
オスカーは小さな金属音をたて、崩れた天井から差し込む光を見上げた。  
精巧だが派手過ぎない金の刺繍の施された青いサーコートは、どれほどの時の間此処に淀んでいたのか判らぬ緑色の水に裾を濡らし、不死人の灰や埃にまみれ所々が黄土色に変色している。  
荒い呼吸が傷だらけの銀色の兜の隙間から漏れる音だけが、朽ちかけた石造りの建物の古い空気の中に溶けていく。  
小さく身じろぎをして、全身に走る激痛にオスカーは眉根を寄せてくぐもった声を上げる。  
既に纏った鎧の重みですら命を削り取っていく枷となっていたが、それでも握り締めた剣と盾を手放せないのは騎士としてのプライドなのか、それとも散々彼が味わった世界の悪意に毒されたためか、生憎オスカーにそれを知る手段などない。  
 
ただ彼は知っていた、これから起こるであろう事、自らの運命と成すべき事を。  
遠くでデーモンの唸り声が響く、一拍遅れて金属製の扉の閉まる音。  
ここに落ちるまでにできる限り痛めつけておいたが、それでも『今は』そうするよりないだろう、オスカーは小さくため息を吐く。  
小さく動く度に痛む肉体に内心で悪態を吐き、遠くからこちらへと近づいてくる足音に耳を澄ます。  
かちゃかちゃと金属と革の擦れる音、石畳を蹴り重たそうに歩く足音は、思い描いた通りに歪み外れた鉄格子のすぐ傍でぴたりと止まる。  
感じる気配に目を向ける気は無い、壊れかけた体が酷く重いからという理由ではない。  
反応がない事で興味が失せたのか、それとも会話を諦めたか、気配はすぐに階段へと足を進め、広場へと続く赤い鉄の扉を開けに向かったようだった。  
ほんの僅かな間、再びの静寂がオスカーの耳を劈いたが、重たそうな足音が階段を登り再び此方へとやって来る。  
カン、カン、と数回壁を叩く音、ほんの少し視線を其方に向けて見るが、離れていく気配に小さく息を吐き瞳を閉じる。  
と、ガラガラという重い何かが転がる音と小さな悲鳴、そして壁の崩れる轟音が不死院に響く。  
壁を突き破った所々赤錆びた鉄球と、もうもうと舞い上がる砂煙に小さく首を揺すりほんの少し唇の端を吊り上げる、やっぱり轢かれたか。  
遠くで金属のぶつかる音と擦れた声が留まっていた空気を揺るがした、乱暴に扉を揺する音と聊か不機嫌そうな足音が壁に開いた穴から鼓膜を震わせる。  
近づいてくる金属と布の擦れる音は、用心しているのだろうかその穴の手前で立ち止まり、そろりと様子を伺うように盾を構えた姿を現した。  
 
パチパチと音を立てて燃える小さな炎の暖かな光を背負った姿は輪郭だけが赤っぽく輝くだけだが、それでもオスカーはそれが待ち人であると確信していた。  
強度を増すために溝を付けられた板金の鎧を纏った、干からびた肌の恐らくは女性だろう華奢な体の『誰か』は、オスカーの姿を確認するとゆっくりと歩み寄る。  
革のブーツは汚れた水を吸い、体を覆う革と鎖帷子と板金は傷み、錆び、そして真新しい血で汚れている。  
オスカー自身の装備よりは鎖帷子やサーコートや板金が少ない分聊か軽いだろう鎧は、それでも女性には重過ぎるのだろう。  
重い足取りの女はオスカーのすぐ傍まで歩み寄ると、屈み込んで介抱するようにオスカーの胸に優しく手を置いた。  
落ち窪み亡者へと近づいた干からびた女の瞳を覗く、思考回路の壊れた亡者とは違う、黒い眼孔の奥に知性と感情の光が僅かに感じられ、オスカーは兜の下で小さく安堵の笑みを浮かべ、一度呼吸を整えると徐に口を開いた。  
 
「おお…君は…、亡者じゃあないんだな…。」  
よかった、漸く搾り出した声は力なく水面に落ちていく。  
びくりと女の肩が震える、驚いたように虚ろな瞳がオスカーの顔を見つめた。  
「…私は、もうダメだ。…もうすぐ死ぬ。」  
死ねばもう、正気を保てない、そう言ったオスカーに女は酷くうろたえた様に息を呑んだ。  
それは不死となった者の末路、不死としての死を意味している、女にもそれがどういうことかは理解できるはずだ。  
崩れた瓦礫に凭れていた背中にそっと手が当てられる、抱き起こそうというのだろうか、しかし生憎壊れかけた体は言うことを聞かない。  
励ますように背中に回された手がとんとんと優しく叩いてくれるが、正直こうして声を上げるのもやっとの状態で、そして今その優しさは酷く心の奥底を引っ掻いてしまうものなので、緩く首を横に振ってその手を制止してしまう。  
「…だから、君に、願いがある…。」  
胸に掛かる鎧の重みが酷く呼吸を圧迫するので、どうしても途切れ途切れになる言葉をどうにかして搾り出す。  
逼迫した喘ぎが紡ぐ言葉の邪魔をして酷くもどかしい。  
「…同じ不死の身だ…観念して、聞いてくれよ…」  
言葉を発する度に痛む体は、水の詰まった袋のように酷く重い。  
折れた骨や傷付いた内臓が悲鳴を上げている。  
傷付いた体の奥底から搾り出すように呟かれた言葉に女がはっきりと頷いたのを確認して、オスカーは伝えるべきことを口にする。  
力ない声はまるでうわ言のようで、女がはっきりと聞き取れたかは正直言って判らない。  
だが、くすんだ銀の女の板金の鎧に移る己の姿を視界の端に映し、それでも全てを伝えるとオスカーは力なく笑った。  
「…よく、聞いてくれた…これで、希望をもって、死ねるよ…。」  
自嘲の色を含んだ言葉に、女の腕に僅かに力が込められる。  
干からびた唇が固く結ばれるのを、霞む視界でオスカーは捕らえた。  
だが、すぐに女は俯くと力なくオスカーの体を壁に凭れかけさせ、悲しげな表情のままゆっくりと立ち上がる。  
そうだ、それでいい、女にはどうすることもできやしない。  
 
「…ああ、それと…これも、君に託しておこう…」  
女が介抱するのを諦めたことを確認してから、腰の革製のポーチから緑色の瓶と鍵を取り出し受け渡す。  
それが何かを理解した女は困惑した表情を浮かべる、どうして?と暖かなオレンジ色の光とオスカーの顔を交互に見やる女にオスカーは何も答えない。  
無駄なのだ、命の火を受け止める器がひび割れてしまった以上、いくら注いでもあふれ出てしまう一方なのだ。  
だから、もはやそれは不要なのだ、女がそこまで理解したかは定かではないが、それでも女がそれをしまうのを見届けると、安堵したようにオスカーは息を吐いた。  
「…じゃあ、もう、さよならだ…」  
伝えるべきことは伝えたと、オスカーは別れの言葉を紡ぐ。  
体は酷く重く、呼吸をするのさえ億劫で、そしてなぜだか酷く寒い。  
女が身じろぎをしたのは小さな金属音でわかった。  
「…死んだ後、君を襲いたくはない…いってくれ…」  
消え入りそうに呟いた言葉に、女は唇を一層強くかみ締めると、俯いたままゆっくりと踵を返し元来た方へ歩いていく。  
銀色の板金に小さな火の赤い光が映りこみ、黄昏のように金と赤に染まる背中が酷く美しく見えた。  
「…ありがとうな。」  
小さく投げかけられた言葉にびくりと女の肩が震える、水音を響かせて女がゆっくりと振り返る。  
だがそれ以上言葉が紡がれることもなく、再び女はゆっくりと歩き出す。  
足音が離れていくのを確認すると、オスカーは酷く重い腕をゆっくりと持ち上げる。  
祝福の施された美しい剣が握られている、ぼろぼろの革の手甲は引き攣ったように震えている。  
そっと左手を柄に添え、装飾の施された切先を自らに向けると、一度大きく息を吸い、一息に胸に突き立てた。  
搾り出された最後の力は、固い鎧ごと肉体を貫き、傷口から命が流れ出ていくのをオスカーは厭にはっきりと感じとった。  
だが不思議と恐れはない、散々味わったはずの死というものには、本能的に付き纏い決して慣れることはなかったのだが。  
朽ちかけた体では痛めつけるだけで精一杯だったが、彼女ならばあのデーモンを打ち倒し先に進むことができるはずだ。  
それにあのいけ好かない騎士たちが天井から順路に戻るまで、まだ随分と余裕がある。  
きっと、彼女はあの呪われた地で、不死の使命を知るだろう。  
それは希望ではない、確信だった。  
貫かれた脊椎のでたらめな信号がオスカーの体を跳ね上げさせたが、両足はすでにそれを支えるだけの力は無く、流れ出た血と汚水の混じった淀みに膝をつく。  
走る激痛と急速に狭くなっていく視界の先で、物音に気付いて引き返したらしい女が自分に駆け寄るのが見えた。  
重くて息苦しいので好きではないが、兜を被っていてよかったとオスカーは苦笑する。  
両目からあふれ出る熱い物を、女に見られずに済んだから。  
伸ばされた腕は届かない、触れる一歩手前でオスカーの体は霧となって散っていく。  
意識は冷たく暗い世界に沈んでいく、恐らくこれが『始まり』で『終わり』なのだ。  
遠い昔の記憶がふと頭を過ぎる、あの時も確か君は…。  
悲しみの記憶とともに笑いあった懐かしい光景が瞳の裏に浮かんでは消えていき、オスカーは小さく微笑んだ。  
そう、これでよかったのだ、君は何も知らないままでいい。  
そうして、オスカーは心が縦にひび割れる音を聞いた。  
 
どつん、背後で鈍い音がして、階段を登ろうとした足が止まる。  
急いで引き返すと、先ほどの騎士が今まさに消えて行くところだった。  
胸に突きたてられた刃に目が引き付けられる、水飛沫を上げながら重い足取りで、それでも目いっぱいの速さで駆け寄る。  
汚れ、褪せてなお鮮やかなブルーのサーコートが紅く染まり、差し込む陽光が斑に染まった金の刺繍を照らしている。  
鎧ごと体を貫いた剣は、柄も刃も流れ出た血に染まりながら銀色の光を眩しいくらいに放ち、消えていく命のように、それは紋章を刻んだ盾の表面を撫でた。  
赤と、青と、金と、そして銀の色彩は瞬き一つ分の時間を瞳に焼付け、錆び色の景色に溶けていく。  
なんて残酷で、悲しくて、美しい景色なのだろう。  
目一杯伸ばした指先が触れようとしたその時、騎士の体は掻き消えた。  
どうして、なんで、そんな言葉ばかりが女の頭を過ぎる、倒れる体を受け止めようとしていた腕は、力なく宙を彷徨った。  
残されたのは火の爆ぜる小さな音と天井から差し込む光、そして立ち尽くす騎士の鎧を纏った不死の女ただ一人だった。  
 
崩れた天井から差し込む光は、いったいどれほどの間同じ角度でこの場所を照らしていたのだろう。  
そして、どれほどの間此処に自分は縛り付けられているのだろうか。  
ひび割れた心は酷く曖昧な時間軸の中でアンフィスバエナの様に留まり続ける。  
此処で自分は全てを諦め、そして酷い出来の戯曲に自ら幕を下ろした。  
それは不出来な役者への、世界からの罵倒なのだろうか。  
干からびた体はコントロールを失い、壊れていく世界の中で何もできないままただ此処に立ち尽くしている。  
錆付いた空気は酷く埃っぽいが、もはや呼吸すら必要としないこの体にはむしろそれが有難かった。  
好き好んで此処に足を踏み入れる生者などそうそういるはずもなく、酷く渇きを訴え続けるこの朽ちた体が生暖かい液体に満ち溢れた何かに喰らいつく恐れはないに等しい。  
ぬかるんだ緑色の水が染込んだブーツの履き心地の悪さは既に気にならなくなっていた。  
サーコートのどす黒い染みが今し方付いたものであれば良かったものを、などと考える。  
考えて、ああ、やはり自分は既に亡者なのだなとすとんと納得した。  
血に汚れた剣を強く握り締める、革の手甲は指の関節部分が破れ、切り口は毛羽立ってしまっている。  
時の止まった不死院に風が吹く、亡者はほんの少し首を持ち上げて切取られた空を見た。  
羽音が聞こえる、ああ、時が動き出す。  
亡者は干からびた唇をきつく結ぶ、いつか聞いた足音がやって来る。  
どうして此処へ戻って来たのだろうか、それ程此処には大切な何かがあるのだろうか。  
理由など知ることは決してないだろうし、その必要も恐らくないだろう。  
ただ餓えた体は夕食を終えた後の鍋底の焦げ付きのようにこびり付いた意識と裏腹、新鮮なソウルの匂いに惹かれ足音に向かって歩き出す。  
淀みの底の緑色の汚泥がかき回され、変色した革にこびり付いた。  
くすんだ銀の肩当から、裾の解れたサーコートから、踏み出す度に砂埃が舞う。  
金属と革の擦れる音がする、崩れた壁を潜ったならば、もうすぐ其処にいるのだろう。  
ああ、全くこの世界には救いなどなくて、黄昏色の悲しみが不死人の灰に降り積もっていくばかりだ  
 
恐らく、目の前の彼女も同じ事を考えたに違いない。  
まだ辛うじて生にしがみ付いていたあの時の不死院で出会った姿ではなく、瑞々しい生命に満ちた、幼さの残る顔立ちの騎士鎧の女。  
酷く狼狽したような、驚愕に見開かれた瞳は直ぐに諦めの色を以って伏せられた。  
女は固く唇を結び剣の柄を握りなおす。  
クレイモア、大剣の中でも軽く扱いやすい細身の刀身は、決別の意を以って亡者に向けられた。  
固く結ばれた紅い唇の隙間から微かに嗚咽が漏れるのを、亡者は兜の奥で確かに聞いた。  
女が悲鳴のような咆哮を上げる、駆け出す足取りは以前よりも聊か速い。  
力任せの斬撃は青い盾に弾かれる、無防備な脇腹に祝福を受けた刃が食い込むが、重い板金に阻まれ致命とはならない。  
女の顔が苦痛に歪む、それは壊れてしまった心をぎりぎりと締め付けたが、男というものは理性よりも本能を優先してしまいがちな生き物であるので、そこばかりはどうしようもない。  
朽ちてしまった肉体は目の前の新鮮なソウルを求め続けていて、そしてとっくにコントロールを失ってしまっている。  
めちゃくちゃに刃を振り回す自身の肉体は、なるほど此処にいる亡者どもと何も変わりはしない。  
どすんと蹴り飛ばされた女の背が古い石の壁にぶつかり、女の口から小さな悲鳴が漏れる。  
追い討ちをかけようとした直剣はこげ茶色の盾に阻まれ、膠着した力は互いの距離を自然と近づけさせる。  
盾の表面に走る大小の傷が光をでたらめに反射する、どれだけの数の悪意を受け止め続けたのだろう。  
肉体は渇きを癒そうと足掻き続けているが、罅割れた意識は女の瞳に釘付けになる。  
噛み締めた歯が割れてしまいそうなほどきつく歯を食いしばる女の瞳は、差し込む光に照らされて心なしか潤んでいるようにも見えた。  
暗い色彩に移りこむ兜越しの赤い光と、吸い込まれるような丸い瞳孔の奥に光る不死の証、亡者は密かに歓喜する。  
ああ、彼女もやはり同じ存在なのだと。  
そして同時にそれが酷く悲しかった、不死人の末路を彼女に突き付けたのが、他でもない自分であるなどと。  
亡者は兜の奥で顔の皮膚を引き攣らせる。  
もう少しだけ互いの体内にちらつく呪いの炎の揺らぐ様を見ていたかったが、そろそろお終いにしよう。  
 
亡者は壊れた自我を揺さぶり、切れてしまった操り糸を手繰り寄せようともがいた。  
自我による再びの統治を恐れるように、肉体はめちゃくちゃに暴れだす。  
無意味な回避行動をとり急に距離を置いた亡者に、女は聊か戸惑いを見せた。  
それでも大剣の柄を握る腕の力を弱めることはなく、革の手甲で顔を拭う。  
噛み締めた唇の涎と、汗と、目尻を僅かに濡らす塩水の混じった液体が薄く糸を引いた。  
ぬらりと光る粘液がほのかに赤いのは、血か、それとも呪いの光に照らされたためかは判らない。  
再び亡者が美しい刃を振りかざす、不自然なまでに遠い軌道を描き金の光が淡くサーコートを照らす。  
緩やかな滅びの歌が聞こえる、一歩早く動いていたのは女。  
塔の描かれた金属の曲面が、刃を持つ手を弾き飛ばす。  
亡者の体が大きく仰け反り、どす黒く汚れ傷付いた胸部が顕わになる。  
それは既に反射だった、この呪われた世界にしがみ付く女にとってはそれこそが生きる術。  
大剣としては細身の刃は厭にすんなりと亡者の胸を貫き、死して尚流れ続ける赤い飛沫に塗れた切先が、青い布を突き破って埃にまみれた空気に震える。  
致命の一撃、読んで名のごとくそれは亡者の消えかけた命に届く一撃だった。  
貫かれながらこれで漸く終われるのだと、亡者は安堵の息を吐く。  
ずるりと引き抜かれる刃の異物感に僅かに肩が震える、壊れてしまった肉体は幸いさほど痛みはない。  
力を失った肉体は膝を付く、肌を撫でるこの感覚は自ら命を絶ったあの時と同じだ。  
このまま蹴り飛ばされ倒れたまま無様に消えていくのだろう、亡者の自分にはお似合いの末路だ。  
干からびた顔の筋肉を引き攣らせるように辛うじて兜の奥で笑みを作る、しかし次に肉体に感じた衝撃は、想像していたものよりはるかに優しかった。  
 
やっぱり、君は優しいな。  
こんな状況であるのに、そんな風に思ってしまう辺りやはり自分もただの男なのだろう。  
女の呼吸する小さな音がすぐ耳元で聞えるのは女の顔が直ぐ近くにあるからで、それは女が倒れた亡者の体を抱きしめているからで。  
ぼんやりと流れ出る血が女の鎧を汚すのではないかと考える、貫かれた胸から液体が流れ出るどくどくと脈打つ感覚を、二人が密着しているせいか厭にはっきりと感じ取る。  
他人事のように浮かぶなんて事のない思考は、ふと耳に感じた女の嗚咽と鼻を啜る音でかき消された。  
もはや首を其方に向ける余力すらないが、女が泣いているのだということは小刻みに震える体が伝えてくれた。  
ふと女の腰のポーチに視線を落とす、今更ながらどこかの森で見た記憶のある白い花が一輪顔を覗かせているのに気付いた。  
月明かりの下淡く光る花を見ながら談笑したのはいつだったか。  
ああ、そうか、漸く亡者は気が付いた。  
女はこれを手向けに此処に戻って来たのか。  
力なく垂れた腕が、女に預けた胸が、泥水に汚れた足が白い灰となって散っていく。  
身勝手に使命を押し付け身勝手に死に、そして亡者となり命を奪おうとした男に、出逢ってほんの僅かに言葉を交わしただけの男のためにも、君は泣いてくれるんだな。  
亡者は消えていく肉体をどうにか操ろうと足掻いた、その拍子に青い盾が左腕をすり抜けて落ちたが、女はそれに気付きはしない。  
ごめんな、泣かせるつもりはなかったんだ。  
亡者は、オスカーは、お陰で軽くなった左腕を精一杯の力で動かし、かつて女がそうしたように優しく背中を叩く。  
ぎくりと女の背が跳ねた、彼女が抱きしめたまま振り返ろうとしたことは身じろぎと衣擦れの音でわかってしまった。  
やれやれ、自分はつくづく騎士に向いてないなと消えていく思考の片隅でオスカーは苦笑する。  
本当にこれでお終いだというのに、お互いが鎧を身に着けているので体温が感じられないのが少し残念だ、などと考えている自分が少し腹立たしい。  
最後に一度だけ、強く女を抱きしめる、すり抜けるように力を込めた腕は灰となり、光の中に散っていった。  
 
遠くで篝火の燃える音がする、寄りかかる重みはとうに消え失せたというのに、膝を付いたままの体は一向に動こうとしてはくれない。  
じくじくと斬られた傷が痛み出した、散々埃を吸い込んだ咽の奥がひりついて思わず顔を伏せる。  
名も知らぬ騎士の歩いた軌跡を、差し込む光に照らされた緑色の水が描いているのが目に入る。  
それは騎士を看取ったあの場所から続いていて、めちゃくちゃな軌跡を描きながら女の足元で途切れていた。  
ふと胸元に目をやる、流れ出た血を浴びたはずの板金は、照明の火に照らされてほんの僅かに赤っぽく光るだけで、いつもと変わらない銀色のくすんだ金属光沢に古傷を浮かび上がらせるだけだった。  
強く歯を食いしばっても、腹の底から沸く感情ががたがたと下顎を揺さ振るので、言葉にならない嗚咽が涎とともに漏れてしまう。  
力を無くした指先から、少し高い音をたててクレイモアが滑り落ちた。  
襲いたくはないのだと、行ってくれと記憶の中で誰かが言う。  
希望を持って死ねると小さく笑う。  
ありがとうと、投げかける。  
光の中に消えていく、赤と青と金と銀。  
めまぐるしく脳内を走る電気信号の残渣に、隣で笑う誰かの姿が掻き消える。  
再びの邂逅の後、残されたのはやはり女一人だけだった。  
悲痛な慟哭が牢獄に消えていく、誰も語ることのない騎士の存在を、残された青い盾だけが世界に刻んでいた。  
 

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