遠くで鐘の鳴る音が聞こえる。  
橙色の光を放つ篝火の傍、崩れた壁に凭れながらオスカーは仄暗い空を見上げる。  
固く組まれた腕を人差し指でとんとんと叩く、小さな金属音は肌を撫でる冷たい空気に溶けていく。  
黒い森の庭とはよく言ったもので、目覚ましの鐘のある古い教会からさほど離れていないにも関わらず、ここは太陽の光が差し込むことは無く、病的な青白い月が欝然とした森の梢を照らすばかりだ。  
雲を撫でるように、鮮やかな緑の光が空を舞う。  
ほう、とオスカーは溜息を吐く、あれが噂に聞く月光蝶かと遥か頭上の古い石造りの塔に留まる光に暫し見入る。  
ゆったりと翅を休める神秘の生き物は、人工物でありながらこの不可思議な森に溶け込み、絵画の様に美しい。  
舞い散る淡い光は苛立った心を幾分か鎮めてはくれたものの、結局は何の解決にもなりはせず。  
「どうしたものか…。」  
深い溜息を吐く、下げられた視線の先には燃える炎と同胞の骨、そしてそれを繋ぎとめるねじくれた剣。  
何れは自分もこうなるのだろうかと頭の隅でちらりと考えて、胸の奥底から湧き出る不快な感情に思わず突き刺さった剣を引き抜き投げ捨ててしまいたいという衝動に駆られる。  
「…っ、は…。」  
思わず肩を跳ね上げ大きく息を吐く、破壊衝動は一先ず押さえつけられたが、酷く後味の悪い感情はいまだ腹の中でのた打ち回っている。  
篝火は不死人の命だ、不用意に失う訳にはいかない。  
だが、とオスカーは組んだままの腕に力を込める。  
悪意に満ちたこの世界で、もう何度も死を味わい絶望に呑まれ、血まみれになりながら這いずって此処まで来た。  
それでも死というものへの恐怖は決して消えず、寧ろ一層増していくばかりだ。  
何時か、必ず自分は亡者となり人として死ぬこともできぬまま彷徨い続けることになる。  
そうして、目に付く者全てに襲い掛かり喰らい付き、何れ動くこともできなくなり人知れず風化していくのだ。  
兜の内側で固く瞼を閉ざす、これが夢であればよいのにと考えて、しかし自嘲の意味を以って唇をくっと吊り上げる。  
早く終わればいいと何処かで思っている自分がいる、刃に貫かれ眠ったまま世界に幕が下りればいいのに、と。  
だけどそれでは駄目なのだ、これが夢ならばきっと『彼女』も夢になってしまう。  
悪意が恋人のように擦り寄ってくるこの世界では、出逢った人達が次に会う時には既に亡者であったり、問答無用で刃を向けてくることも珍しい事ではない。  
そんな油断できない人間関係ばかりの世界では互いに無関心でいることが身を守る手段の一つではあったのだが、それでも『彼女』は今となっては多分出逢ったその時からだろう、自分からずかずかと此方の領域に踏み込んで来て、当たり前のように言葉を交わし、そして笑うのだ。  
この悲劇だらけの世界で得た初めて心を許せる友人を、夢だなどと思いたくはない。  
小さく溜息をもう一度、暗い場所にいるせいか自然と思考も闇に引っ張られてしまう。  
サーコートの刺繍が赤い光に照らされて瞬く、伝承に有る日緋色金とはこの様な色彩なのだろうか。  
瞳の奥がちりちりと疼く、呪いの証が蠢く感覚に、オスカーは再度人差し指で組んだままの腕をこつこつと叩いた。  
銀の鎧は月明かりと篝火の間で玉虫色に光る、曲面をなぞる淡い緑の光沢は空を舞う燐粉の色に似ている。  
できれば何かに縋り付きたかった、何時だって思考の隅から消えない恐怖を、誰かに預けてしまいたかった。  
それでも独りで歩かなければならない、伸ばされた手に縋り付く事はきっと許されない。  
何故なら、とオスカーは顔を伏せる、自分は既に自らの使命を故も知らない他人に押し付けてしまっている。  
当の本人は寧ろ目的ができたと張切ってはいたが、それでも使命が与えた苦痛はどれほど彼女を蝕んだだろうか。  
きつく唇を噛み締める、蒼白い月に嘲笑われているようで、オスカーはそっと寒い色の空から目を逸らした。  
自然と肩が小刻みに震える、篝火は目の前で燃えているというのに此処は酷く寒い。  
オスカーは歯を食いしばる、自然と眉間に力が入りこめかみの辺りが少し攣った。  
 
「…?」  
不意に聞こえてくる草木の擦れる音に、オスカーは伏せていた顔を上げる。  
小さな金属音が革のポーチのずれる音と混じって橙色の光に溶ける。  
かさかさという音はこの森に潜む人の形をした木の魔物の足音だろうか。  
肌を撫でる空気が僅かに震えている。  
聴覚だけをそちらに向け、オスカーは凭れた壁に体重をかける。  
木の魔物が近くを歩き回るのは別段珍しいことではない、篝火から離れる理由もなければ襲われたところで大した脅威でもない。  
じっと耳を澄ませ、音の聞こえる方角を突き止めようと集中する、しかし乾いた音はすぐに遠ざかり、篝火の爆ぜる音が小さく響くのみとなる。  
行ったか、と小さく息を吐く、気晴らしにもう一度美しい生き物に目を向けようとして、今度は違う音が近づいてくるのに気付いた。  
「オスカー!」  
不意にかけられた声に思わず肩が跳ねる、愛剣を収めた鞘がかちゃりと控えめな音を立てた。  
まさかこんな場所で声を掛けられようとは、声の主に心当たりの有るオスカーは小さく息を吐き、首だけをそちらに向ける。  
「これは、何時ぶりだろうな…。」  
君が無事でよかった、そう言葉を発そうとして、思わずオスカーは一度視線を戻した上で身を捩って声の主を凝視する。  
ああ、予想外の事態に遭遇した場合本当に人は思わず二度身してしまうものなのだな、などと考えてしまった。  
「…えぇと、暫く見ない間にその、随分大胆なイメチェン?をしたんだな。」  
あまり女性をまじまじと見つめるのは良くない事だとわかってはいるが、こればかりは許されるだろう。  
どういうわけかあるはずのないロックオンカーソルが見える気がする。  
兜の下で思いっきり顔が引き攣るのを感じて、オスカーは付き合いの長い重い相方に感謝した。  
声を掛けてきたのは、今し方考えていたオスカーの友人その人だった。  
それは予想の範囲内であった、自衛の為に不用意に他人と接触するのを避けていたオスカーの名前を知っている人物はそうはいない、ましてやこんな場所にやってきて声を掛ける人など彼女以外に考えられない。  
問題は、いつもの騎士装備ではなく今彼女の身に着けている防具が、非常に厭な経験を思い出させる代物だということだ。  
「ハベルの装備か、うん、似合うと思うよ君は筋力が必要な武器を好んでいるようだし強靭は必要だからな。」  
思わず早口で喋ってしまう、篝火の光に照らされて佇む岩のようなハベルの鎧を纏った彼女の姿は妙に威圧感があった。  
此処に来る前に通った不死街の塔で盾ごと磨り潰されそうになったのを思い出す、後ろが壁でなければロックオンしたまま後ずさりしていたことだろう。  
オスカーの心情に気付いたかは判らないが、女は盛大に溜息を吐く、不機嫌そうな声が重い兜の隙間から聞こえてくる。  
「別に、今亡者だから着てるだけよ。」  
クレイモアを担いだまま女は篝火の傍までゆっくりと歩み寄る、灰色の装甲が擦れてざりざりと音をたてている。  
湿った土を窪ませながらどすどすと重い足音が響く、岩でできた鎧は恐らく彼女自身よりも重いだろう。  
「亡者だから?そんなに気にすることなのか?」  
腕を組んだ姿勢を崩さず篝火の傍に座る女に視線を向け、オスカーは首を傾げた。  
呪われたロードランでは亡者の姿は日常的に目にするもので、殆どが理性を失くしているとはいえ幾人かは人の心のまま留まっている。  
それどころか明らかに生身であっても襲い掛かってくる者もいるわけで、もはや姿が亡者だとか生者だとか考えるだけ無駄な気がして仕方がないと思うのだが。  
寧ろ女性が堂々と胡坐をかいて座ることを気にした方がいいだろう、オスカーは頭の中で呟いた。  
女は首を少し曲げてオスカーを見たが何かを言うでもなく不機嫌そうに深い溜息を吐くばかりで、どう話を切り出せばいいのか多少の居心地の悪さに小さく身じろぎをする。  
背中に当たるごつごつとした石の感触は正直心地良いとは言えない。  
女の隣に座って話を続けたいところだが、あからさまに不機嫌な様子では近づくのは躊躇われた。  
今日は随分と虫の居所が悪いらしい。  
如何ともし難い状況に眉間のしわを深くしていると、不意に女が口を開いた。  
 
「この顔を笑う奴がいるの、貴方と違ってね。」  
ふう、と聞こえるように息を吐く女の言葉は吐き捨てるように篝火の向こうに投げられた。  
赤みを帯びた黄色い光が、ごつごつとした装甲の表面の細かな凹凸をはっきりと浮かび上がらせている。  
「諦めて座り込んでるだけの奴や、いるかもわかんない女神に縋ってるだけの小悪党に言われたってどうってことないんだけどさ。」  
不貞腐れたように呟く女に、はあ、とオスカーは気のない返事をする。  
女はうんざりしたと言わんばかりに大きな手甲を着けた右手をひらひらと振る、無骨な岩肌に巻きつけられた金具が光を反射するので、オスカーの鎧もリズムに合わせてちかちかと瞬いた。  
「下手に生身に戻ると色々面倒だから、戻らない間はこれを着てるのよ、本来なら亡者の方が気楽でいいんだけど。」  
あんな奴らに笑われるのは癪なの、不機嫌そうにそう言う女に苦笑する。  
火継ぎの祭祀場の篝火で幾度か彼女と会話したことがあるが、彼女が立ち去った後、背後に腰掛けていた鎖を編んだ鎧の退廃的な雰囲気の男に小声で爆発しろという物騒な言葉を投げかけられたのを思い出した。  
特に彼と言葉を交わしたわけでもないので、何故そんな言葉をかけられたのかは未だに判らないが。  
「まあ、私の場合は初めて会った時君は亡者の姿だったからというのがあるからな。」  
組んでいた腕を解きひらひらと振り返す、訝しげに女は首をかしげてそれを見つめた。  
大きな兜の隙間から、真っ直ぐな視線がブルーのサーコートを射抜いている。  
「ん?どうした?」  
女が余りに自分を見つめるので、オスカーは何か失言でもしたかと心の奥で冷や汗をかく。  
首周りに僅かに残るこげ茶色の外套の切れ端を留めている鎖がちゃりちゃりと控えめな音をたてるのが、ひんやりとした森の中に厭に響く。  
女は少しの間兜の奥からオスカーを見つめていたが、やがて視線を篝火に戻し大きく息を吐いた。  
落胆とも呆れとも取れる女の様子にオスカーは密かに首を傾げた、兜越しでお互いの表情は見えないまま沈黙が流れていく。  
「別になんでもない。」  
少し拗ねた様な声で女は呟くと燃える篝火に手を翳す、黒い精が篝火に吸い込まれ、女の体が淡く光る。  
生身を取り戻した女の鎧が僅かに膨らむ、岩のような鎧は体を自然と大きく見せるが、それでもオスカーは華奢な体だと感じた。  
軽々とツヴァイヘンダーやクレイモアを片手で振り回す女は、決してひ弱ではないことは理解しているのだが。  
女は三度火に黒い精を注ぎ込む、人間性を取り込む度屍の上で踊る炎は勢いを増していく。  
注ぎ火の秘儀を手に入れたのか、とオスカーは内心関心した、白教の連中が躍起になって探しているものであるということは聞いていたが、体よく不死となった厄介者を追い払う口実程度にしか思ってはいなかった。  
燃え盛る炎を見つめていると女がゆっくりと此方を向く、どうかしたのかと問う前に気まずそうに女が口を開いた。  
「着替えるから、あっち向いてて。」  
女は木箱からいつも着ている騎士の鎧を取り出していた、オスカーはああ、と小さく返事する。  
生身に戻ったのなら姿を隠す必要もない、彼女とて若い女性なのだ、男が傍にいては確かに着替えにくいだろう。  
「それじゃあ、私は壁の向こうに行こう。」  
此処は席を外すのが妥当だろうと凭れていた背を離し立ち退こうとするオスカーに、女は小さく首を傾げた。  
「別にそこまでしなくていいわよ、あっち向いててくれれば。」  
先にいたのは貴方だし、女は小さく付け足すと灰色の兜を脱ぎ足元に置く、ごとりと重い音をたてて転がるそれは空洞になって尚不思議な威圧感を放っている。  
問答無用で着替えだす女にオスカーはやれやれと溜息を付き、少しだけ位置をずらして女に背を向けると視線を月光蝶に向けた。  
随分信用されたものだと苦笑する、見つめる暗い空の片隅で、じっと石造りの塔に翅を休める姿は相変わらず美しい。  
火の爆ぜる音と衣擦れと金属の震える音が黒い森に小さく響く。  
篝火の光を鎧が跳ね返すので、空を切取る石の壁は灰と赤に斑に染まっている。  
幻想的な風景の中で、隣にいる誰かの生活音が酷く心地いい。  
衣擦れの音が不意に止んだ、しかしオスカーは巨大な蝶から視線を外しはしない。  
迂闊に振り向いてクレイモアの錆びになるのは勘弁願いたい、故に女の許しを辛抱強く待たねばならなかったが、目の前の風景があまりに美しいので然程苦痛でもないのは幸いだった。  
 
「もういいわよ。」  
漸く掛けられた声にん、と小さく音を発してオスカーは身じろぎをする、鞘とポーチがぶつかって控えめに擦れた音をたてた。  
振り返ればいつも通り下級の騎士の鎧を着けた女の姿があった、いつもと違って少々不機嫌な顔をしていたが。  
「やっぱり君はそれを着ている時が一番君らしいな。」  
少々安堵の色を込めてオスカーは肩を揺らしくつくつと笑う、それが気に食わないのか女は少し頬を膨らませた。  
「どういう意味?」  
苛立ったように女は腰に手を当て、兜越しに瞳を覗こうとでもするようにオスカーの顔を覗き込む。  
勇ましい彼女の時折見せる子供っぽい仕種は正直とても好ましかった。  
サーコートのない彼女の鎧は強く光を反射するので、篝火を背負う女の姿はほんの少し眩しく見える。  
質問に答えずただ小さく笑うばかりのオスカーにうんざりしたように女は唇を尖らせ、視線を逸らして小さく呟く。  
「まぁ、あたしだってオスカーが違う格好してたら誰だかわかんなくなるだろうけどさ。」  
「おい。」  
呟かれた内容に聊か脱力すると同時に篝火が爆ぜる、動作は小さくとも身じろぎに伴う金属音は妙に大きく感じた。  
徐に女はぱたぱたと体についた灰や土を払いながらポーチの位置を直しオスカーの傍に歩み寄る。  
「で、さっきから何を見てるの?」  
再び壁に背を預け腕を組むオスカーの顔を、少しだけ背が低いために見上げるように見つめる女にオスカーはん?と鼻を鳴らす。  
少し幼い顔の不思議そうな瞳は真っ直ぐに此方を見つめている、その奥にちらちらと呪いの炎が揺らぐのを見て、再び疼く瞳を細くする。  
「オスカー、さっきからずっと同じ方ばっかり見てる。此処に来た時も着替えてる時もずっと。」  
そう言って女はぽんぽんとオスカーの胸を左手の甲で叩く、埃を舞い上げながらサーコートがたるむぱすぱすという軽い音が板金の上で踊る。  
女はよくこうして自分の体に触れてくる、故郷ではこういうタイプの女性にあったことがないので最初はとまどったが、もうすっかり慣れてしまった。  
「なんだ、見てたのか。」  
何を観察しているのだか、と肩を竦めたオスカーに女は再度不機嫌そうに眉を顰めた。  
「当たり前でしょ、着替えてるのに。こっち向いたら崖に突き落としてやろうと思ってたもの。」  
さらりと物騒な事を言い放つ女にオスカーは苦笑する、御誂え向きの崖は確かに彼女の背後に広がっている。  
声が掛かるのを待っていたのは正解だった、情けないが腕力ではおそらく彼女の方が上だろう。  
「だから向こうに行くって言ったじゃないか…。」  
溜息とともに呟けばうるさいと強く腕を叩かれた、鎧越しなので痛みはないが衝撃で組んでいた腕が解けそうになる。  
さっきから何がしたいのか理解に苦しむが、とりあえず不快ではないので好きにさせようとオスカーは何やら喚いている女から視線を逸らす。  
先ほどまでの鬱々とした感情はお陰で吹き飛んでしまっていた。  
 
「それで話を戻すけど。」  
少しして落ち着きを取り戻したらしい女は、再度オスカーに問いかける。  
「そんなにじっと何を見てたの?」  
こんなとこ何もないじゃない、首を傾げる女にオスカーは小さく笑った、そうして組んだままの腕の人差し指だけをぴんと立てて、暗い空の向こうに見える建物を指差してやる。  
「月光蝶だよ、考え事をしていたら目に入った。」  
相変わらず鮮やかな緑色の光はそこにあった、しかし女は同じ方向を見て、うーんと小さく唸りながら眉を顰める。  
廂のように手を額に当てる仕草がほんの少し可愛いので、オスカーは聞こえないように小さく笑った。  
「うーん、だめ、こっからじゃ建物と木が邪魔で見えない。」  
女はむすっと小さく頬を膨らませた、少しずれた立ち位置が、もしくはほんの少し低い身長が、二人の見える景色を違えたのだろうか。  
「ああ、そこじゃ見えないかもしれないな、ほら。」  
もう少しこっちに来るといい、そう言って手を差し伸べる、しかし女はゆったりと伸ばされたそれを取ろうとはせず、鋭い視線で訝しげに見つめた。  
「何?」  
「ああ、足元に石が散らばってるから蹴躓きそうだと思ったんだが。」  
言われて女は足元を見る、ここは元々壁に隠れた篝火で周囲には古い石造りの建物の名残が見受けられたが、大き目の煉瓦程の石のブロックが確かにごろごろと無造作に転がっている。  
緑がかった灰色のそれらはかつて此処にあった王国の衰退する様を見届けたのだろうか、風化した表面はざらざらとして膝を擦れば布越しであろうとたちまち傷が付いてしまいそうだ。  
しかし女は一層ぶすくれた顔になり、差し出された腕をぱちんと払う。  
「いいわよ別に、子供じゃないんだし!」  
そうしてそっぽを向いてしまうので、瞬き一つ分呆けてから、オスカーは弾かれた腕を顎に添えてさも可笑しそうにくつくつと笑った。  
小刻みに揺れる体に合わせて肩当の表面を赤い光が這い回る。  
子ども扱いしたつもりではないのだが、子供じゃないと言っておきながら女の言動はまさに子供のそれなので、オスカー自身は微笑ましいと感じていたのだが、当の本人にはどうやらそれが面白くないようだった。  
「何よ、馬鹿っ!」  
ぷくりと頬を膨らませる女に、とうとう声を上げてオスカーは笑い出す。  
女は思い切り眉間に皺を寄せると、オスカーの肩をばしばしと音をたてて叩いた。  
「わかったわかった。」  
悪かったよ、オスカーは笑いながら女の頭を兜の上からぽんぽんと叩いた、今度はしっかりと確信しての行動だった、それがわかったのかみるみる女の顔が赤くなる。  
ぷるぷると小刻みに震える小さな肩が篝火に照らされ鎖帷子をちゃらちゃら鳴らす。  
 
「もういいっ!あたしもう行くから!」  
辺りに響く大声をあげ女はオスカーの手を払うと、背中を向けて乱暴に荷物を詰め込み始める、力任せに重い鎧を詰め込まれた貪欲者の烙印がきいきいと錆びた蝶番を軋ませ悲鳴を上げたが、不機嫌な彼女の鬱憤を乱暴に閉められた蓋の音でオスカーに突きつけるよりなかった。  
「なんだ、もう少しゆっくりしていけばいいのに。」  
小さく首を傾げてオスカーは呟くが、女はフン、と鼻を鳴らしてそれに答えた。  
引っ張り出した道具を乱暴にポーチにねじこみ上からバンバン叩く、小物が溢れそうな茶色いポーチはぱんぱんに膨れてちゃんと閉まっていない。  
「誰かさんの頼みごとであたしは忙しいの、じゃあね!」  
さっさと荷物を纏めると、女は足早に立ち去ろうとする、しかし疎かになった足元を古い時代から其処にあった文明の名残の小さな欠片がまるで引き止めるように掬い上げたので、小さな悲鳴とともに女の体はバランスを崩しあろうことか崖の方へと傾いた。  
しまった、女は思わず目を固く閉じる。  
不注意による落下はよくあることだが、今回ばかりはさすがに自分でも呆れるしかない。  
急いで詰めたせいできちんと閉じられていなかったポーチから、道具がばらばらと足元にこぼれた。  
修理に使う金色の粉が風に舞い、きらきらと薄い帯を冷たい空気に描く。  
少しだけ強い風が肌を撫でた、ふわりと体が浮く感覚に鳥肌がたつ。  
篝火に戻った後なんと言われるやら、そんなことを考えながら女は落下の衝撃に備えた。  
不意に金属と何かがぶつかる音が衣擦れの乾いた音に混じって近づいてくる。  
瞼を開きそれが何を示すのかを確かめる前に強く右腕を掴まれ、全身が引き寄せられるのを感じた。  
直後全身に軽い衝撃、そして若干の圧迫感と思わず掴んでしまった布の感触。  
ほんの数秒女は目を開くことができなかった、困ったように笑う声が耳の直ぐ傍で聞こえる。  
「だから言ったじゃないか。」  
鎧越しだというのに背中に回された腕が熱く感じるのは何故だろう、ぼんやりと纏まらない思考で女は考える。  
うまく状況を判断できない、否、したくない。  
だが耳元で聞こえる小さな呼吸音が、掴まれたままの右腕が、嫌というほど自分の今の状況を訴え続けている。  
崖に落ちそうになった自分をオスカーが咄嗟に掴んでくれたのだが、勢いに任せて引っ張ったために抱き寄せることになり、そのまま体勢を整えて崖から引き離すために、結果として抱き締めるかたちになってしまったのだと。  
「全く、君は相変わらず危なっかしいな。」  
間に合ってよかった、抱きしめたままオスカーが笑う。  
女は黙りこくったまま指に力を入れる、掴んだ布はオスカーの色褪せた今も鮮やかな青のサーコートだった。  
強く掴んでしまったので、緩やかに弛みを作っていたそれは背中の部分に集められ、くしゃくしゃと皺が寄っている。  
先ほどとは違う震えが女を襲った、密着する体はそれを確実に相手にも伝えてしまうだろう。  
不可抗力で顔を埋めることになってしまったオスカーの胸は汗と埃と篝火の灰の匂いがした、僅かに血の匂いも混じっていたが不思議と不快に思わなかった。  
寧ろ酷く安堵している自分が居る、落下せずにすんだという理由ではなく、直ぐ傍にそれを感じることに。  
動物の本能的な理由から、命がけで戦う男は女を惹きつける匂いがするという話を、女はぼんやりと思い出した。  
「大丈夫か?」  
黙ったまま震えている女にオスカーが問いかける、自分に縋りつくほど怖かったのだろうか。  
硬直したまま反応のない女の背を優しく叩いてやる、不意に俯いていた女の視線がオスカーのそれとぶつかった。  
何か喋るのかと思ったが、女は此方を見つめたまま気まずそうに唇を噛む。  
どうした、そう問いかけようとした瞬間、女はオスカーを力任せに突き飛ばした。  
緩んだ腕から逃れるように女は後ろへ飛び退く、足元の石はそれを邪魔したりはしなかった。  
突然の出来事にオスカーが崩れた体勢を整えようとしている間に、黙ったまま女は駆け出した。  
板金の鎧は浅い溝に沿って赤い光をニ、三度ちらつかせると、暗い森の扉の奥へと消えていく。  
「あ、おいそっちは…!」  
女の向かった先に気付いたオスカーは制止しようと声を掛けたが、走る女の足は止まらない。  
追いかけようと一歩踏み出したその時扉に白い霧が現れ封をしたので、外と内とで二人のいる空間が切り離されてしまった。  
兜の奥でオスカーは舌打ちをする、かちゃかちゃという足音は霧の向こうへ遠ざかってしまった。  
迂闊だった、此処の危険さは十分承知していたというのに。  
指の形に皺の寄ったサーコートを整えようともせず、オスカーは黒い森の入口で立ち尽くしていた。  
 
女は黒い森をひたすら走った、妙に早い鼓動で胸が苦しい。  
小さな水溜りを蹴り、苔むした倒木を飛び越え、突き出た岩を踏みつけ走る、口を開けば大声で叫んでしまいそうだった。  
木の魔物が飛び出して来たが無視をして通り過ぎる、崖っぷちまでたどり着いたところで漸く息が切れて立ち止まる。  
荒い呼吸を繰り返し、額の汗を手甲で拭う、吹き付ける風は冷たいが妙に熱い頬はきっと真っ赤だろう。  
木に背を預けずるずると擦りながらへたり込む、空になったポーチが地面にぶつかりかさりと小さな音をたてた。  
「あ、あはは…、何やってんだろ…。」  
思わず零した言葉は酷く震えていた、抱きしめられた感触はまだ残っている。  
正直、こんなふうに抱きしめられる日が来るとは期待していなかった。  
悔しいが、オスカーは自分の事を異性として意識してくれていないのは承知していた。  
友人だと思ってくれているのはとても嬉しかったし、気の置けない関係でいられるのはとても心地良かった。  
オスカー自身は使命を押し付けたと後悔しているようだったが、きっと彼は気付いていない。  
捕らえられ、何をするでもなく摩耗していく心を抱えて朽ちていく自分の元に現れた騎士の姿は幻のようで、しかしどれほど長い間暗い絶望に沈んでいたかも判らない魂を照らしてくれたのか。  
その後傷付き瀕死になった彼に、生きて欲しいと必死で励ましたことが懐かしい。  
火継ぎの祭祀場で元気な彼と再会した時は心底ほっとした、まさかその後行方を晦ませるとは思ってもみなかったが。  
震える肩を抱きしめる、呼吸は少しずつ治まってきている。  
深く溜息を吐いた、担いでいる木箱に視線を落とす。  
此処に彼が向かったと、とある鍛冶屋から聞いた。  
通り道で顔のないデーモンが邪魔をするので、以前たまたま購入した鍵で開いた見張り塔の扉から此処まで回り道する羽目になったのだが、迷いながら彷徨った森の中で見つけたものがそこにある。  
埋めた顔の直ぐ前に煌く金の刺繍を思い出す、彼の匂いを思い出してまた少しだけ頬が熱くなった。  
石の兵士と木の魔物に囲まれた誰かの亡骸、淡く光る花に照らされる見慣れた服装に背筋が凍った、もしかしたら、と。  
黒い染みの浮いた、切り裂かれぼろぼろになった青いサーコートと、女の物と同じ形だが、しっかりとバイザーの降ろされた少しだけ重い兜を目にして、膝から力が抜けた。  
最悪の想像が頭を過ぎり、同時にこれは彼と決まったわけではないという声が胸の内を這い回った。  
もしかしたら、また自分は取り返しのつかないことをしたのではないのか、とぐるぐる脳内を巡る思考に吐き気を催した。  
呆然とした頭で無意識にそれをかき集め、覚束ない思考と足取りでふらふらと暗い森を彷徨った先で見慣れた背中を見つけたときは心底安堵したものだ。  
真っ先に駆け寄って話をしたかったが、同時に複雑な感情が胸の中を這い回ってもいた、どんな顔をして会えばいいのだろう。  
亡者であると理由を付けてハベルに着替えてから声をかけたのは正解だった、久しぶりに聞く低く穏やかな声は抱えていた不安を拭い去ってくれたので、それ以外の理由に気付かれることのないまま元に戻ることができた。  
もちろん亡者の顔を彼に見られたくないのも事実だった、気にしないと言ってくれたのは嬉しいがこれでも自分は女なのだ、最初に亡者の顔を見られていたのを忘れていたのは正直自分でも痛かったが。  
むしろハベルの鎧にドン引きしていたのは意外だった、理由は大体想像がつくとはいえ。  
普段落ち着いた物腰のオスカーが珍しく動揺する姿を思い出し、ほんの少し唇の端を吊り上げる。  
こっちの気持ちも知らないでのんびり篝火にあたっていたり、恐らく無自覚なのだろうが躊躇いもなく伸ばされる優しい腕にほんの少し苛立ってしまった。  
篝火の傍に隣り合って座るその距離で、自然と近づく肩を意識している自分に気付いたのは何時だったか。  
気付いて欲しくて此方が距離を詰めても彼は一向に動じないのに、自分はほんの少し彼に近づかれるだけで心臓が口から飛び出しそうになるのが少し悔しい。  
きっと、着替える時に立ち去ろうとしたのをさりげなく引き止めたことすら気付いていないだろう、見つけた鎧の主が彼でないことはわかっていたが、それでも彼の姿が見えなくなることが不安で仕方がなかった。  
彼が覗き見をするような人でないことは判っていたので着替えそのものに不安はなかった、だから着替えが終わってもほんの少しだけ篝火に照らされる彼の背中を見つめていられた。  
何気なく位置を変えた少しだけ広く見える背中が、吹き込んでくる冷たい風を遮ってくれていたのは女も気がついていた。  
 
彼は優しい、女は溜息を吐く。  
あくまで友人として彼は手を差し延べてくれているのであって、決してそれ以上の感情を持っているわけではない。  
でももしかしたら、などと淡く期待してしまう自分に呆れてしまった。  
肩を抱いたままの腕に力をこめる、偶然とはいえ抱きしめられた時のすっぽりと腕に収まる感覚が記憶に酷く甘かったので、頭に血が昇りそうだったとはいえ彼を突き飛ばしてしまったことを今更残念に思ってしまう。  
助けられたというのに礼の一言も言ってない事を思い出す、後で謝りに行かなければ。  
とりあえず逃げるように此処まで来た以上は先に進もう、女はゆっくりと立ち上がり体の土を払い落とす。  
空っぽのポーチに気が付いたが、幸いエスト瓶は手元にあるので一先ず回収は後回しにすることに決めた。  
クレイモアを担ぎ上げ歩き出す、月の光が刃に踊り足並みに合わせてゆらゆら揺れる。  
かさかさと女を見つけたらしい木の魔物たちが乾いた音をたてて集まるが、力いっぱい振るわれた長い刀身にニ、三体が纏めて薙ぎ払われ、葉を撒き散らしながら吹っ飛んだ。  
残りも薙ぎ払おうと女は距離をとる、助走をつけて勢い良く大剣を振るおうとしたその時、世界の交わる音が女の耳を振るわせた。  
「え、嘘でしょ!?」  
魔物を切り捨てながら女は辺りを見回した、欝蒼とした森は視界が悪く何処に何が潜んでいるのか見当がつかない。  
そうだ今の自分は生身だった、他の世界から侵入してくる連中を警戒しておくべきだったというのに迂闊すぎた。  
女は舌打ちした、今此処でやられるのは非常にまずい、まずすぎる。  
まだ心の準備ができていないというのに、恐らくオスカーがまだ居るだろう篝火に戻されてしまうのは勘弁願いたい。  
女はとりあえず森の奥まで逃げようと駆け出した、しかしそんな願いを侵入して来る連中が知るよしもなく。  
石造りの建物に逃げ込もうとした瞬間、眩しい光が一瞬森を照らしたかと思うと、強烈な青い光が女の背中を直撃した。  
「きゃあぁぁぁっ!」  
ソウルの結晶槍、単発式の魔術の中でもっとも強力な一撃が女を射抜いたのだ、一瞬で女の体力は奪われ肉体が灰となって散っていく。  
遠くに丁寧に腰を折り一礼をする青い霊体の姿があった、以前助けた姫君と同じ冠をしているのだけが辛うじて見える。  
後で覚えてろ、篝火に引き戻されるのを感じながら、女は復讐霊の名前を告罪符に刻み付けた。  
 

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