息苦しさに瞼を開くと、目の前に獅子の鬣ような赤毛頭があった。  
 
またか。  
 
目を向けるまでもないが、この後の片付けを思えば確認しないわけにはいかない。  
カーマインの頭を脇に置いてドアに視線をたどらせると、濡れた足跡が一本道を作っていた。  
―――また、ろくに身体を拭かなかったな。  
湯浴みしたままの身体で、こいつがベッドに潜り込むのはもう何度目だろう。  
ふと、血の匂いに気付き、黒は視線をカーマインに戻す。  
 
こいつが珍しく負傷を―――いや。  
 
毛布をめくると、自分の下半身が真っ赤だった。  
更にカーマインの腰元に目をやれば、毛布が赤く染まっている。  
自分の身体が濡れているのは、やはり今回も汗だけのせいではないようだ。  
ふぅ、と軽くため息をつくと、黒はベッドから起き上がった。  
 
「こいつに寝込みを襲われるのは、何度目だろう」  
 
虎が浴槽に飛び込んで水浴びした後は、きっとこんな感じなのだろう。  
掃除の前にせめて身を清めようと、黒が浴室を開けた時の、率直な感想だった。  
 
下着で排水溝を詰まらせ、湯浸しの床に浮かぶ赤毛の一筋。  
返り血を洗った水飛沫が天井を舐め、血色の豹柄模様となったカーテン。  
洗面器と石鹸を捜すと、台所で見つかった。要らなくなったら投げ出す癖はまだ直っていない。  
流しに目をやると、自分の朝食用に作り置きした料理の皿が山と積まれている。  
 
狩りから戻ると湯浴みして。  
食って、盛って、眠る。  
獣のような女だ。  
 
否。  
 
女のような、獣だ。  
 
バスローブ一丁で浴室を片付け終わった黒の、素直な感想である。  
次は、他の部屋中に脱ぎ散らかされたものを拾い集めなければ。  
 
バスローブ。  
バスタオル替わりにされた挙句床に放り出され、もはや濡れ雑巾同然である。  
下着。  
なぜ上と下を別の場所で脱いだのだろう。  
上着。  
よく見ると、アンバーと同じ服だ。  
スキンスーツ。  
そういえば、こいつのサイズはあいつと同じだった。  
ナイフ。  
しかも俺の。また勝手に持ち出したか。  
 
どうにかして獣の暴れ散らかした跡を片付け終わったら、今度は清めた傍から身体を汚した獣本体である。  
何時もの事ではあるが、こういう時いちいち目覚めなくて安心する。獅子も子供も寝ているに限る。  
用意した蒸しタオルは不足することもなく、付着してからそう時間が経っていないおかげか、痕も残らず拭きとれた。  
 
「よし」  
 
新しいバスローブで獣の身体をくるむと、ベッドから安楽椅子に移す。  
あとはベッドから汚れたシーツと毛布を剥がし、洗濯機に押し込むだけだった。  
 
 
 
昏々と。  
滾々と。  
撒いて集めて、また撒いて。  
深く昏く淀んだ水底で、繰り返される記憶の噴水。  
時間の逆巻く、夢の底。  
 
「私が考えているのはね、能力発動中の契約者は、通常の物理法則を中和する、バリアーみたいなものを自身の周囲に発生させているのではないかということだ」  
その奇妙な白髪の老人は、夢見る少年のような無邪気な口調で語り始めた。  
 
上も、下も、横も、一面の白いタイル張り。  
窓もなく扉もない、均質に無機質な壁。  
配線もなく。  
排気孔もなく。  
蛍光灯や電球などの照明設備も一切見当たらない。  
外から光が入るはずもなく。  
内から光が生まれるはずもなく。  
無明であるべき密閉空間が、白色光で満ちていた。  
 
どこだろう。  
 
一か所だけ、白で覆われていない壁。  
投影装置も音響装置もないのに、白色の壁に映し出され流れ出る映像と音。  
その映像の中に、奇妙な白髪の老人はいた。  
 
「例えば、加速能力者なんてのがいるけどね、あれ、物理的に考えてどれだけの負荷が身体にかかるか知ってるかい?」  
 
知らない。  
 
「たとえばマッハ3の速さで走る場合、空気との摩擦熱で体表面は500度にまで加熱されているはずなんだよ」  
 
だが、心当たりはある。  
 
「それに彼らは一瞬で加速する。加速時間を仮に0.1秒とするなら、ええと・・・脳にかかる圧迫は1.5トン!」  
 
恐らくは、天国門を囲う外壁に設けられた研究施設のどこか。  
 
「人体の許容Gとかいうレベルをとっくに超えてるよ。だが彼らは生きている。能力を使った瞬間、即死したりなんかしていない」  
 
ここが完璧に密閉されているならば、かえって脱出し易い。  
 
「尤も、それをバリアーと呼ぶにはあまりにも防御性がないけどね。能力発動中に外からの攻撃で殺されてるし」  
 
こういうことがあるから、対価の支払い猶予が長いと助かる。  
 
「いやしかし・・・ひょっとして、能力を発動中の契約者というのは、それ自体が、一種の、小さなゲートのような存在なのかな?」  
 
翡翠色の瞳に、紅い輝きが映えた。  
 
瞬間、四方の壁面が均等な立方体に切り分けられ、無数のブロックとなって弾け飛んだ。  
室外が真空と化し、密閉された空間は急膨張した大気に内側から破裂させられたのだ。  
入口さえ無かった密室は、気体浸透性ブロックとファイバー埋設型光透過ブロックにまで分解され吹き散らされた。  
 
逆巻く大気の奔流が大地を砕き、土砂と石礫に変えて天高く舞い上げる。  
無数の重厚なコンクリート塊が、発泡スチロールと見紛う軽やかさで渦を巻き、空の穴に落ちてゆく。  
周囲の質量という質量、体積という体積が、煽られ砕かれ、空色の空櫃に吸い上げられては消えていった。  
だが、カーマインの髪は微風に吹かれるほども揺るがなかった。  
 
現実を形作るモノ全てが崩壊する夢のような光景の中で、かすかな匂いが鼻孔をくすぐる。  
 
黒。  
 
黒の、背中。  
 
夢から覚めると、安楽椅子の上だった。  
カーマインの目の前には、背を向けて台所に立つ黒の姿があった。  
 
そして、調理中の油炒めの匂い。  
 
「・・・もう少し待て。二人分だと時間がかかる」  
黒は、振り返りもせずにそう言った。  
 
料理を山と盛られた皿が食卓に並べられる。  
ただし、黒が十皿に対し、カーマインは一皿。  
「・・・食べられるか?」  
問いかけた黒に、カーマインは、こくん、と小さく頷いた。  
 
以前、黒はカーマインの携帯食がどんなものか齧ってみたことがあったが、どれも酷い味だった。  
中でも酷いのが、栄養素を配合した、ゼラチンを思わせるチューブ式の固形水。  
 
機械燃料のようだ、と思った。  
 
時折忘れそうになるが、食事というのはただ栄養を補充する行為ではない。  
休息行為でもあると、アンバーは言っていた。  
食事は、他人の為ではなく、自分のためにする原初の行動なのだ、と。  
『私が一番目を光らせてるのはね、部下が無理をして燃え尽きること。―――食事くらいは、ゆっくりしてね』  
そう言う彼女自身が、この携帯食をよく口にして激務をこなしていたのが随分と皮肉で、少しおかしかった。  
一口で水分と栄養を同時補給できる代物だが、暫くこれを食べ付けると、脳が欲していても消化器官が拒絶するらしい。  
だから、服用後はまず病人食のような食事でなければならないのだが―――  
 
ここ最近、カーマインは、黒の料理を勝手に口にしては、吐く。  
 
任務から帰還するたびに、そんなことを何度も繰り返している。  
不合理を厭うはずの契約者なのに。  
吐瀉物を片付けた記憶がまだ鮮明に残っている黒としては、昨晩、血と体液の他に、胃液の匂いが混じって無かったのを感心したくらいである。  
「毎度どういうつもりかは知らないが・・・無理と無茶はするな」  
こくん、とカーマインは再び頷いた。  
 
黒の用意した病人食よりも薄めた粥を、カーマインは一滴ずつ口に運ぶ。  
「新しい仕事が入った」  
霞みを食うような無表情で、カーマインは唐突に告げた。  
「なんだ」  
無機質な黒の返事。  
「物品引き渡しのための潜入。私は研修医、お前は患者に偽装して潜入しろとさ」  
「・・・・・・潜入役、逆の間違いじゃないのか?」  
不健康な色合いの肌に、焦点がどこだか知れない目。  
しかも食ったそばから吐く。  
どう考えても、病人に見えるのはこの女の方である。  
「アンバーからの直接指示」  
「わかった」  
 
 
三日後。  
 
 
非常灯の薄緑の灯りの下、闇から湧くように二つの影が現れた。  
 
「「誰だお前」」  
「「・・・お前か」」  
「俺だ」「私だ」  
 
赤毛のおさげ髪にメガネをかけた、病人じみた顔つきの白衣の女。  
年齢にそぐわないフルベアードの黒髭に、松葉杖をつく男。  
「「・・・似合わん」」  
指定されたある病院の用具室で、黒とカーマインはお互いの正体を確認し終えた。  
 
「二人とも、久しぶりね」  
魔法で突然壁から現れたように、看護婦の姿をしたアンバーが二人の前にいた。  
その背後に隠れるように、もう一人、フードで顔を隠した人物。  
アンバーに促されて前に出てくると、その腕には、二つの大きな包みがあった。  
「・・・すみません、この子たち、少しの間だけ預かって貰えませんか?」  
哀願と安堵を混ぜ合わせたような、女の声だった。  
 
密林を先行する無人戦車が、金網を落とされたゼリーのように切り分けられた。  
 
「なに・・・・がっ!」  
最期の言葉は、喉を貫く白刃に塞がれた。  
男の喉から、血肉の焦げる匂いと命とが堰を切ったように噴き出す。  
 
予定通り、先行する兵器を破壊して前方に注意を引きつけ、隊の最後方から襲い始めた。  
 
誰が人間で誰が契約者なのかはどうでもいい。  
全員、殺すだけなのだから。  
樹上に掛けたワイヤーの張力で一気に敵の頭上に躍り出る。  
 
頬をかすめる不可視の槍。  
脇をすり抜ける振動波。  
契約者の、どれも人知を超えた力だ。  
だが、反応も初動も、人並みで遅すぎる。  
投擲した白刃が口の一つを貫く。  
残るもう一つの口は、自分の口で塞いだ。  
口付けた相手の腹に、白刃を突き立てながら。  
 
ぱちぱちぱち。  
 
壮年の軍人が、木陰から拍手をしながら現れた。  
「ご苦労だったな、生田のお嬢さん」  
「その呼び方は止めてくれ、マクスレイ将軍―――これで、私を雇う気になって頂けただろうか」  
「ああ。面倒だが必要な通過儀礼だ。家という組織を抜けた無名の若者が、一から信用を得るためには」  
 
(・・・裏切り者の始末が、か)  
ありもしない心の奥底で、小さく呟いた。  
 
裏切りという行為は、内部だけで処理するには重すぎる。  
場合によっては、かつての仲間殺しをさせなければならないからだ。  
長期的には大なり小なり、部下の心理的動揺、部隊全体への影響は避けられない。  
ならば『最初から裏切り者などいなかった』ことにするのが、一番合理的だ。  
今ここで斬り殺されたのは『内通者』などではなく、『偵察任務の最中に不運にも命を落とした勇敢なる同志』であり、『今の南米ではありふれた事件の一つ』として処理される。  
結果、部隊全体はなんの傷を負うこともなく、組織は支障なく運営される。  
 
「物質表面の分子運動活性化―――単純だが売り込みやすい能力だ。その能力の見た目、特にSFオタクの研究局には話が通りやすい。お前のおかげで予算が増えた」  
将軍の賛辞には黙礼で応えた。  
 
だが私自身、単純に考えるなら、剣なんて時代遅れも甚だしい武器だと思う。  
使い手に性能が大きく左右される武器なんて、合理的に考えるなら弱小の部類、もっと言えば粗悪品だ。  
 
―――だが、そんな弱くていつでも処分できる粗悪品だから、私を雇う気になった。  
 
それしかないだろう。  
契約者嫌いで有名なこの男が、そうでもなければ、自分を雇う合理的な理由がない。  
そして、そんな男にでも、自分を売り込まなければならない。  
我を抑えなくなる利益と不利益のバランスを取り損ねた結果、自分はこんな所にいる。  
恐らくは自分の前任者だった者たちの残骸に、ちらと目をやりながら、そう思った。  
 
「で、次のターゲットは?」  
「残念ながら、次の予定は一時見送りになった。やはり警戒されているようだ。対価を常に用意している」  
―――発射キーが二つとも差し込まれた核ミサイルと同じだ、と溜息交じりで言った。  
 
「あの天国門の外壁を輪切りにしたとかいう・・・」  
「そう、ヤツだ。警護に駆り出されていた私の部隊も手酷くやられた。上の総合的な判断として、契約者のガキ一人を始末する対価に、都市一つ失うのは、割に合わん」  
「・・・では、やはり私は」  
「ただ、代わりにお前を鍛え上げることができる。第二の黒の死神、いやそれを超える可能性さえ、お前にはある」  
 
――――それまでお前が生きているかどうかは、天のみぞ知る、だがな。  
 
善悪もなく、奇跡も天罰も信じない契約者なのに。  
何故だか、将軍の呟きが不吉に聞こえた。  
 
西日が降り注ぐ窓辺で、カーマインは二人の幼児をあやしていた。  
子供たちが積み木遊びに飽きたら、今度は絵本を読み聞かせることにしたようだ。  
 
無表情かつ抑揚のない声で。  
 
傍目には、不吉で不気味だ。  
黒は、まともな幼児なら泣き出すと思ったが、その幼児は怯えるそぶりさえ見せなかった。  
まともでない子供―――アンバーが言うには、生まれついての契約者―――だからだろうか。  
しかしもう片方は人間だとも聞いていた。そちらの方も怯えた様子はない。  
『子供の扱いは慣れている』  
『・・・・・・・・・・・そうだな。お前はそうだろうな』  
ふと黒の脳裏をよぎる、何時かの何処かで交わした言葉と、血の匂い。  
自分の目にどう映っているかはともかく、あんなあやし方でも子供には受けがいいのだろうか。  
 
「しかしこの光景はまるで・・・」  
言葉を探しあぐねている黒に、すかさず白が切り返した。  
「親子みたい?」  
「いや。・・・『悪魔』だ。タロットカードの」  
 
黒の顔面に、カーマインの蹴脱いだスリッパが命中した。  
それを見た双子の幼児のうち、男の子の方が口の端を微笑で歪めた。  
 
「子供に似て可愛げのない親ね」  
「逆だ。・・・似ていても可愛くないが、似ていなくても可愛げのないガキだ」  
無表情で、揃って酷い暴言を吐く兄妹である。  
 
「しかし白、お前までわざわざ子守のために回されたのか」  
「・・・まぁ、上の意向でね。少しの間だけ。この子たち、名前はなんていうの?」  
「さぁ?」  
「知らない」  
 
「おしえてあげる!」  
 
もう片方の幼児が、元気いっぱいに声を上げた。  
契約者の弟とは、どうやら気質が正反対のようだ。  
「ええっと、ええと、ボクのなまえは―――――  
 
(終)  
 
 

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