閉鎖された天文部国立天文台、かつてドールシステムのあった場所。  
施設に明りの灯らない夜のこの場所は、周囲の喧騒から確実に隔離された場所だった。  
ふらりとやってきて自分を驚かした鎮目を背後に、彼女は無言で車を駐車させているところに向かっていた。  
問題なのは先ほど訪ねた天文台施設がかなり奥まった場所にあり、車で乗り付けた場所からだいぶ遠くまだ数分かかりそうな事くらいか。  
「未咲ちゃ〜ん、ついでに俺も乗せてってくんねえかな?」  
後ろから聞こえてくる間延びした声を無視したかったが、この男、無視していれば何を言い出すかわからない。  
「一体どうやって、ここまで?」  
「タクシー。 帰りは乗せてもらうつもりだったから、もう帰した」  
正直嘘くさかった。が、もう会話が終わってしまった。 どこまで乗るつもりなのだろうか? あまり遠い所だと、面倒だ。 携帯を取り出して時刻の確認をすると、ちょうど20時を少し回ったところだった。  
「それで、どこまで乗せていけばいいんだ?」  
「駅まで」  
「駅? JRと京王線が最寄りになるが・・・どちらに?」  
「ああ、ならJR。 親切だねぇ、一応どっちの駅かは聞いてくれるんだ」  
「適当な所で降ろすわけにもいかないだろう?」  
急いでいた足を止め、立ち止まって振りかえる。  
呆れてしまう。 そこまで嫌がらせをするつもりはない。 あとでネチネチ言われるのが関の山だ。 そう未咲は思った。  
ただ、先ほどから気にかかることはある。  
なぜ、この男はあのように言ったのだろうか? ”上の人間が考えていることを知りたい”と。  
「鎮目、・・・なぜさっきあんなことを言った? なぜ知りたいと思う?」  
「ん?」  
「上の人間の考えてることを、何故お前が知る必要がある? 本心か? それとも別の意図が?」  
しばしの沈黙。 それを破ったのは鎮目。  
夜の闇のせいでよく見えないが、いつもの通りニヤついているようだった。  
「知りたいものを知りたいと言って何が悪い? それとも、ナニ? 俺のこと、どっかのスパイだと思ってるワケ?」  
思ってもみない反論が返ってきた。 そしてその声音は少し怒気を含んでいるかのようで、流石の未咲も困惑した。  
「そんな、そういう意味では・・・。 あの、心証を害してしまったのなら、申し訳ない。 それは謝る・・・」  
 
お? 想像以上に驚いてるし、慌てふためいているような・・・  
危ない、危ない。 これだから勘の鋭いヤツは困る。 言い当てられる前にわざと言ってやってみたが、さてどうしたものか?  
ああ、そうだ、これを逆手に取ってやろうか? 話の矛先を変えたいし・・・  
 
鎮目は近くですまなそうに顔をうつむかせ、静かにたたずんでいる未咲に目をやると彼女に数歩近づき、口元を邪悪に吊り上げた。  
「だいたい、スパイはあんたの方なんじゃないの? わかってるんだぜ・・・」  
乱暴に彼女の肩をつかみ、低い声で耳元に囁いてやった。  
弾かれるようにその手を振りはらい、すばやく後ろに未咲は退く。 その瞳はあまりの驚愕によって見開かれていた。  
「なっ!? どういうことだ!」  
ふふん、と鼻で笑いながら男は歩み寄ってきた。  
「さっき言ったろ? 資料を漁りまくって、挙句の果てにはこんなところに。 明らかに誰かと会うつもりだった。 違うか?」  
「ち、違う。 誤解だ!」  
「本当に?」  
 
確かに、ここに来ればマダム・オレイユという女情報屋に会えるような気がしていた。   
結局、彼女がここに来ることはなかった。 結果的にはそれで良かったようだ。  
もしここで彼女と接触している様子を鎮目に目撃されたとしたら、言い訳はできないだろう。  
彼の言うスパイ疑惑は確定してしまい、私は裏切り者として消されてしまうに違いない。   
例えそれが鎮目の身勝手な誤解であったとしても。  
 
冬の寒空の下、額ににじみ出てくる冷や汗に悪寒を感じながら、未咲は現状を打破する策はないものかと思案する。  
気がつくと、肩にかけていたバッグに鎮目の手が伸びてきていた。  
「その鞄の中身、改めさせてもらっていいかな?」  
「・・・ああ、それは構わない。 ただ、この暗さだ。 何が入ってるのかさえ見えないんじゃないのか?」  
ふとその手の動きが止まる。  
「それもそうか・・・じゃあ、明るい所に出たら見せてもらうよ」  
「わかった・・・」  
再び沈黙が訪れる。 そこには歩きだした二人の靴音と、冷たい風の音だけが響き渡っていた。  
「本当に他のヤツと通じてないのか?」  
突然声がする。 まだ尋問は終わっていなかった。  
「それは本当。 ただ、ここに来たかっただけで・・・」  
「来たかっただけって、そんなの信じられるわけねーだろ! じゃあ、スパイじゃないって証拠はどこにあんの?」  
この男、突拍子もないことを言う。 本当にそれ以上の理由などないというのに。  
「証拠? もともとそんなもの・・・無いものを出せるわけがないだろ! 無茶苦茶だぞ!」  
「じゃあ、どうやって身の潔白を証明すんの?」  
「それは・・・」  
どうすれば良いだろうか? 未咲は言いよどむ。   
相変わらず、鎮目は困惑している未咲の様子を見てニヤニヤとしている。  
 
もちろんスクイーザーに掛ける。で良いんだけど・・・もう少したたみかけてみるか? おまえを俺の手駒にしてやるよ。   
何かあっても、全てこの女のせいにしてやれば良い。  
「あんた、自分が何も教えてもらえない理由、わかる?」  
立ち止まり、未咲は横に並んで歩いている鎮目を見た。  
「理由?」  
「そう。 あんた、何のためにウチに来たんだっけ?」  
「BK201を、追うため」  
「そうだったな。 そんなあんたにいきなり全ての情報を開示してみろ、即トンズラ決め込むかもしれないし、実はウチに来る前にヨソと通じていて、  
こっちの情報をダダ漏れにされる・・・ってのも美味しくないよな」  
あからさまに自分を疑い、信用をしていない言葉を連ねる鎮目を未咲は睨みつけるが、立場が違う以上  
この男の合理的判断によって導き出された正論なのかもしれない。 そう思わざるを得なかった。  
「課長はどうだか知らねーけど、葉月も耀子もあんたのことどれだけ信用してるんだか」  
耀子と聞いて、未咲は思わずギクリとした。 先日の潜水艦内での会話が脳裏をよぎり、めまいを覚える。   
『私を味方と思わない方が良いと思います』彼女はあの時、微笑を浮かべて確かにそう言った。   
あれはこの鎮目の言葉通りの意味なのだろうか? この男の戯言と思っていたが、呼び起された記憶にショックを隠しきれない。   
傍で見ていても未咲がうろたえているのが簡単にわかる。  
顔をうつむかせて完全に沈黙してしまった彼女を確認すると、鎮目は思った以上の効果があったと内心ほくそ笑む。  
「ひょっとして、もう誰かに何か言われた?」  
動揺し冷静な判断力を失いかけている彼女は、その問いに答えてしまう。 いつもなら決して口にはしないはずのことを。  
「自分を味方と思うな、と・・・耀子が・・・」  
「耀子が? 意外だな・・・」  
 
以外と言いながらも実際には、情報どうも。 と思っている。 あともう少しズタズタに切り裂いてやろう。   
そして、最後に甘い言葉を囁いてやろうか? そうすれば、この女は落ちる。  
再びへらへらとした表情を作り、大胆にも肩に腕を回す。  
「曲りなりにも非合法なコトする所に入って来ちゃってんだよ? 覚悟は出来てるんだろうね、未咲ちゃん?」  
「覚悟?」  
「ポッケに隠し持ってる拳銃は、お飾りじゃないよな? 自分の身を守るためだけでもない。   
ターゲットを殺すためにそのトリガー引けるかってこと」  
「殺す・・・? 私が、人を、殺す?」  
「そう。 あんたの意志で、その手でさ、確実に逝けるよう頭にタマぶち込んでやればいい。   
大丈夫だって、何も感じないさ。 あ〜でも、それは俺が契約者だからかな?」  
突きつけられたのは非情な現実。 おもわず自分の両方の手の平をじっと見つめる未咲。ただ、それは闇夜の暗さでよく見えてはいない。  
肩に回した腕越しに、未咲の体が小刻みに震えているのがわかる。 そして、更に追い詰める。  
「それとも自分は高みの見物で、汚い仕事は契約者の俺たちにやらせるつもり?   
そうそう、もし俺たちに守ってもらおうって腹なら、裏方にいてもらいたいな。   
あんたが下手に動いてこっちの足手まといになるとしたら、相当メンドーだし」  
鎮目は肩に回した腕をズルズルと降ろすと、彼女の腰を抱いて自分の体に引き寄せる。そして自分は半歩下がり、後ろから両腕で包み込むようにわざと優しく抱きしめた。 そして囁く。  
「なあ、もう逃げられねぇんだよ。 運が良ければMEで記憶の消去と改竄・・・、悪けりゃ俺たちの誰かがあんたを消さなきゃならない。 頼むから俺にそんな悲しいこと、させないでくれる?」  
二人はそのまま押し黙る。 ほんの数分間がもっと長い時のように流れていく。   
「私は・・・しない。 そんなこと、しないし・・・あなたたちにも、させない」  
「はぁ?」  
未咲が鎮目の腕をつかみ腰から引きはがそうとしてみると、簡単に逃れることができた。 そしてそのまま2、3歩進むと、改めて鎮目に向きなおる。 彼女は瞳に力を取り戻していた。  
「ありがとう、あなたのおかげで目が覚めた。 決めた。 私はあなたたちを争いのための道具になんてしたくない。 誰かの命を奪うことだってさせたりはしない」  
彼女の突然の宣言に、鎮目は度肝を抜く。 どうして、こういうことになるのか? まったく理解が追いつかない。  
「ちょっ・・・おいおい待てよ、何を言ってる?」  
「私は人間と契約者の共存を願っていた。 BK201も、あの時彼も同じ道を選んでくれたと思っていた。   
だから、それを確かめたくて三号機関に私はやってきた。 彼に少しでも近づけると思って・・・。   
なら、それを示さなければいけない。   
そのためには、あなたたち契約者を争いのための道具にはしない。   
いいえ、させない。 だから頼む、私を信じてほしい」  
彼女はいつもより早口でまくしたてる。 この状況は想定外だった。   
どう行動すべきか? これについて合理的に判断するための材料が自分にはない。   
思考が停止し行動不能に陥る。出来たことと言えば思わずガシガシと頭を掻き乱す事だけだった。  
「あ〜? え〜とナニ、共存?・・・結構スイーツなヤツだったんだな、お前・・・てか、もうおっせーよ。   
俺たちがロシアで何してきたと思ってんだ!」  
「ロシア? 一体あそこで何が起こったんだ?」  
あっという間に食いついてきた。 この復活の早さは一体何なのか? 超前向きな性格って事?   
鎮目は大きくため息をついた。  
「はあああ、俺、この流れでどうしてそういう答えが出てくるのか、良くわかんないんだけど?」  
要求した問いに対する答えはない。 そう判断すると、茫然と突っ立っている鎮目を置いて未咲は先に歩き出してしまう。  
「行こう、ここにはもう用はない」  
「そもそも未咲ちゃんでしょ? ここに来たの」  
全く食えない女だ。 とは言え、話の矛先が変わったことは良しとするか、思惑から外れたのは残念だけど。   
そう心の中で呟いて、彼女のあとに続く。   
二人を乗せてポルシェ911は走り出し、街の喧騒の中へと戻って行った。  
 
時刻はちょうど正午を回った。  
目の前のノートPCに向かって書類を作っている横から、またあの男が馴れ馴れしく呼びかけてくる。  
「ねえねえ未咲ちゃん、昼メシ行こ」  
「何だ? 今忙しい。 一人で勝手に行け」  
「つれないなぁ。 それ、急ぎじゃないでしょ?」  
作っていた書類は、先の重要物資輸送作戦時に鎮目が破壊したトラックの廃棄申請だった。   
未だに処理が進んでいなかったようで、つい先ほど先方から連絡があった。  
「お前が破壊した輸送車の廃棄申請を、私が代わりに作ってるんだぞ? こんな書類くらい、何でさっさと自分でできないんだ?」  
「だって、まどろっこしいのやりたくねーし。 いいじゃん、代わりにやってくれるんでしょ?」  
そう言いながら、デスクチェアの背もたれを使って背筋を伸ばし、チェアをギシギシと軋ませて遊んでいる。  
「どういう勤務姿勢だ、それは・・・まともな社会人の態度か?」  
その様子を見ているだけで、腹が立ってくる。 もう関わりたくない。 とばかりにPCのモニターに目を向けた。  
葉月はデスクで執務をしていた手を止め、いつもより会話の多い二人を怪訝な顔をしながら、そして静かに観察していた。   
二人が親しそうにしているのがどうも気に食わない。  
「あんたたち、いつの間にそんな仲良くなった? そういえば、今朝は一緒に出勤して来てたっけ」  
毎度遅刻ギリギリで出勤してくる目の前の男が、今日に限って”弥生と一緒”にオフィスに到着した。 どういう風の吹き回しかと訝っていたのだ。  
「おおっ、聞いてくれる? 実はさぁこの前の夜、未咲ちゃんから熱烈に告白されちゃってねぇ」  
チェアから立ち上がりデスクに寄りかかると、ニヤケ顔を葉月に向けて、親指の腹を自分のあごに当ててポーズをとってみる。  
「!!!」  
モニターに向けていた未咲の顔だけがグルっと鎮目に向く。 彼女の表情は固まっていた。  
「告白・・・知らなかった。弥生の好みのタイプが、まさかこんな男だったなんて。 随分マニアックな趣味だな。   
では・・・あの時私の誘いを断ったのは、最初からこいつが気になっていたからか?」  
ふーん。 それで、どこかで一夜を共に明かして仲良く出勤・・・か。 と、今度は硬直しているらしい未咲に視線を流す。  
「えええ〜! お二人の仲がそんなに進展していただなんて、私、ちっとも気がつきませんでしたよ」  
座っていたチェアをものすごい速さで回転させて、更に耀子まで会話に加わってきた。 瞳は興味で爛爛と輝いている。  
「むふ〜。 いやぁもう、真面目な顔して『一緒に生きていきたい』なんて、突然だもん。 流石に驚いちまうって、ねぇ? 未咲ちゃん」  
わざとらしく、未咲にウィンクを送ってくる。   
「ま、まて、何言ってる!? そんなつもりで言ったわけでは・・・」  
一瞬で背筋に悪寒が走る、未咲は勢いよく立ちあがった。  
「ちょっと、鎮目さん。 それって、もう告白じゃなくて・・・・」  
プロポー・・・まで言いかけようとした耀子の言葉を遮るように、未咲が怒声を放つ。  
「お前っ!! ちょっと、来い!!」  
乱暴に鎮目の腕をつかみ取ると、無理やり引っ張って連れ出そうとする。  
「あだだ、もう、乱暴だな〜」  
それに抗うでもなく、彼はそのまま未咲に連れて行かれた。  
「ふーん、弥生。 本気なんだ。 人は見かけによらないな。 BK201一筋だと思ってたけど」  
ドタバタと退室して行く二人の背中を見つめていた葉月は、その様子を彼女が照れ隠しをしているのだろうと解釈した。  
「本当ですね。 でも、お似合いだと思いますよ、あの二人」  
「そうか?」   
あんな変態と弥生が? 釣り合わないだろ? と少し不満げに言葉を返す。  
「取りあえず鎮目さん、喋らなければルックスは申し分ないと思いますし」  
「・・・黙っていられればな」  
ふうっとため息をついて、耀子の方をちらりと見る。  
 
「ところで葉月さん、私たちもランチしに行きません?」  
「そうだな、行こうか」  
すっと葉月が立ち上がると、耀子も立ち上がり葉月の指に自分の指をするりと絡ませる。  
「どこ行きましょう?」  
「耀子の行きたい所でいいよ」  
耀子へニコリとほほ笑む。 葉月の温かい笑顔。 耀子は葉月のこんな表情がたまらなく好きだった。 自分だけが知っている、彼女の特別な顔。  
「本当ですか? 嬉しいです!」  
葉月にぴたりと寄りそう。   
そんな耀子を少し不思議そうに思いながら、葉月は彼女のその瞳を見つめた。  
「なんだか、機嫌が良いな耀子。 何かあったのかい?」  
「うふ、いいえ、別に」  
一之瀬さん、絶対葉月さんは渡しませんよ。 代わりに、鎮目さんのこと宜しくお願いしますね。  
部屋から慌ただしく出ていく二人を見つめながら、彼女は内心そう思っていた。  
少なくとも、現段階で自分のライバルはもういない。 と思うとようやく安心が出来た。  
にこやかに談笑しながら、こちらの二人組も昼下がりのオフィス街へ出かけて行った。  
 
オフィスの入っているビルから出て、歓楽街に向かって未咲と鎮目は歩いている。 当然、未咲は先ほどのやり取りを怒っていた。  
「お前っ、何だあれは? 何考えてる!?」  
「いーだろ、どのみち俺たちは組んでるし。 裏でコソコソする手間が省けたってもんだ。 まあ、仲良くしようよ」  
少し先を歩いていた鎮目は、頭の後ろで手を組んでチラリとだけ彼女を見た。  
「そういうことか。 しかし、あれはやりすぎでは? とんでもない誤解が・・・」  
ようやく冷静になる。 すると今度は恥ずかしさがこみ上げて、顔から火が出ているのでは? と思うほど頬が熱くなってきた。  
これからどのように弁明すれば良いのかと、頭の中がぐるぐると空回りする。  
「大丈夫だから、心配すんなって」  
もうすぐ俺はあんたらの前からズラかる。 そうしたら、すぐにでも自然消滅するさ。 と心の中で呟く。  
思いにふけって上の空の未咲にそう声をかけてみたが、どうも彼女の耳には入っていないようだった。  
「ん? へへっ顔赤いぞ。 何だかんだ言ったって、嘘が本当になるって事もあるんじゃない? それと未咲ちゃん。   
共存なんて言うんだったら、当然あっちの方も宜しくな?」  
ひょいとどこかを指さした。  
本当になんて、なるわけがないだろ!   
と心の中で叫びながら彼女がその指の動きにつられてそちらを見てみると、電飾がきらびやかに施されたホテルの看板が目に入った。  
すぐに目をそらし、見るんじゃなかった。 と激しく後悔する。   
思わず想像してしまい、体がゾクリと震える。 それを振り払うかのように頭をブンブンと振ってみた。  
すると、不意に今朝喫茶店で飲食代を立て替えしてやったのを思い出す。 あの時この男がやって来て合流することがなければ、葉月にあんな誤解をされずに済んだはずだ。  
「・・・おい、今朝立て替えてやったパフェ代、返せ。 あと、そういう冗談はやめろ。 洒落にならない」  
話題を変えようと、苦し紛れに代金の請求をしてみた。  
「あ、それ出世払いでって、まったく、無駄に生真面目なんだから・・・。 とりあえず、ここでラーメンでも食おうか?」  
当然、金を返す気など鎮目にはない。 彼女を無視して勝手に店のドアを開け  
「そうだ、俺、引っ張ってこられたせいで財布持って来てないからね」  
それだけ言うと、さっさと店に入ってしまった。  
「私にたかる気か? まったく・・・」  
先が思いやられる。 そう思いながら、未咲も店に入って行った。   
 
彼らのささやかな日常、薄氷のように脆い絆。   
回りだした運命の歯車は、それらを塵のように吹き飛ばし、粉々に打ち砕く。 悲劇の瞬間が訪れるまで、あと数日。  
いつの間にか、終局へのカウントダウンは始まっていた。  
 
<<終>>  
 
 

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