カーテン越しの朝日がカーマインの瞼を撫でる。  
網膜で検知された光のシグナルは、即座に意識を覚醒させた。  
機械めいた無駄のない仕草で、カーマインはベッドから上半身を起こす。  
「思い出した」  
「・・・・・・何?」  
隣の黒は、寝ぼけ眼で答えた。  
「髪、切ってくれ」  
 
覚醒したばかりの意識で、惰眠にしがみ付く黒をカーマインは冷静に評価した。  
激しい寝癖のついた頭に半目、口元には涎のあとが残るだらしなさ。  
 
―――駄犬だな。  
 
駄犬は、めんどくさい、と言いたそうな小さな唸り声を挙げると、引き寄せた毛布にくるまった。  
 
―――昨日はほとんど寝てないんだよ。  
 
黒のそんな言葉などお構いなしに、カーマインは  
毛布にくるまった格好のまま黒をベッドの下に蹴り落とした。  
 
「お前、昨日の夜、約束しただろ。代わりに、私の都合に1回付き合うって」  
 
うう、と鈍いうめき声。  
 
―――昨日の夜、寝入った私の身体をさんざん貪った、その対価にさ。  
 
取りきれない疲れも寝不足も知ったことではない。  
こいつの自業自得だ。  
無理やり黒を毛布から引き剥がすと、窓を全開にし、部屋に陽光の輝きと朝の冷気を招き入れる。  
単純だが、こいつを起こすのはこれが一番合理的だ。  
 
ふと振り返ると、姿鏡に写る赤毛の女と目があった。  
 
病人でもないのに不健康な色合いの肌の、胸元まで伸びる長い赤髪。  
覆うのは、贔屓目に見ても豊かとはいえない乳房。  
静脈の浮き上がった皮膚は冷気に身震いし、羽を毟られた鶏のそれと大差ない。  
目脂のたまった瞳をこすってみても、その貧相さは変わらなかった。  
 
表情。  
 
意識の鋭さとは無縁な、寝起きでなくても締りのない顔。  
ぼけっとした寝起き直後のその顔は、寝起きでなくてもこんなもの。  
 
だが、こんな風にまでだらしなくなったのはいつの頃からだったか。  
 
この街に居ついた頃。  
この街に居ついてあの任務についた頃。  
この街に居ついてあの任務のためにあいつと同棲するようになった頃。  
 
ああ、そうだ。  
 
あいつと同棲し始めてからだ。  
そして、その頃からだったかな。  
 
髪を伸ばし始めたのは。  
 
―――今度、また今度と引き延ばしているうちにこうなってしまった。  
 
 
視線をずらすと、ベッドから蹴り落とされたにも関わらず黒はまだ寝ていた。  
 
・・・高めの柔らかなカーペットが問題だったか?  
 
それでも流石に寒いらしい。  
今度は脱げた服をかき集めて、駄犬は猫みたいに丸まった。  
近寄って覗き込もうとすると、鬱陶しげな顔をして衣類に頭をうずめた。  
すると、覆いきれなかったむき出しの黒の肌に、何故か目がいく。  
 
カーマインは右の人差し指を舐めて、黒のうなじをなぞってみた。  
 
ぞぞっ。  
 
 
不思議だ。  
なぞられているのは黒のはずなのに、自分もむず痒くなってくる。  
 
今度はむき出しの背中。  
肩甲骨から、脇腹へ向けて、人差し指と中指でレールを描くようになぞった  
 
ぞぞぞぞっ。  
 
何故だか、その反応を繰り返したくなった。  
人差し指と中指と、薬指を舐めて、脊椎に沿って三本線を引いてみようと手を  
 
「やめろ」  
 
突然湧いた拒絶の言葉と平手は、頬を強かに打った。  
 
「・・・身体を洗ってから、切ってやる」  
 
黒は身体を起こすと、即座に視線の先のバスルームへ向かった。  
頬を赤く染めたカーマインの視線は、黒の背中だった。  
 
姿鏡に映る少女の微笑みを見たものは、誰もいなかった。  
 
「切った後にした方が、合理的だと思うが」  
バスルームからの呼び掛けに、黒は答えない。  
「なぁ、返事くらいしたらどうだ」  
 
返事はキッチンの調理音だけだった。  
包丁と俎板のリズムが水の滴下音を切り分ける。  
石鹸の匂いに、はぜた肉汁の匂いが忍びこむ。  
 
「・・・朝っぱらから、その据えた体臭を嗅ぎながら切るのが合理的か?」  
 
やっと返事が来た。  
 
「先走りすぎだ。それに朝飯くらい食わせろ」  
 
遅すぎる上に、声色には愛想も無い。  
 
鏡に映る赤毛の女は、ドライヤーで無頓着に髪を乾かしていた。  
ドライヤーを手にするたびに、カーマインは思う。  
 
――――長い髪ほど不合理なものはない。  
 
邪魔だし。  
暑いし。  
乾かすのに時間がかかるし。  
 
ドライヤーのスイッチを入れてから切るまで、そう長くはない時間、  
頭の中に沸いては消える不毛な感慨を、合理的思考で梳る。  
 
髪が伸びる早さは、月に約1.2センチだという。  
1日0.4ミリ、1年15センチ。  
長い時間で長い髪。  
長い髪。  
女。  
シンボル。  
社会的意義。  
相手に与える心象。  
イメージ。  
女のイメージ。  
女のパターン。  
妹。  
恋人。  
姉。  
母。  
不可解。  
理解。  
理解の手間。  
手入れの手間。  
 
メリット。  
デメリット。  
 
何故今まで切らなかったのか。  
 
―――どうして髪を伸ばしているのか。  
 
um r  
 
いつも、その根元に辿り着く前に、乾き終わった。  
今日も、その根元に辿り着く前に、乾き終わった。  
 
鏡を離れる前に、じっと覗き込む。  
 
―――そういえば、  
 
 
アンバーは、もっと長かったな。  
 
 
「おい!いつまで入ってる気だ!!」  
 
―――気の早い奴。  
毎度毎度、あれだけの量をすぐに食べつくす早さにも驚かされる。  
 
「もう上がってる。すぐにいく」  
 
ドライヤーと、櫛と、もはや解く必要のなくなった問いは、いつも通りに置かれていった。  
 
 
「本当なら、今の時間にはもう荷造りを終えているはずだった」  
恨みごと混じりに、黒は散髪道具を片づけ始めた。  
切り落とした髪はもちろん、カーマインに纏わせた散髪用のケープに  
ハサミ、櫛、ドライヤーも袋にまとめると、更に段ボールに箱詰めた。  
取出したマジックで『処分品』と書くと、アンバーに指示されていた業者に電話をかけた。  
 
「今日、出る。片づけてくれ。指示役に一人残す」  
 
徹底して物証を残さないための、アンバーの息がかった清掃・引越し業者だ。  
組織専属で仕事をこなす業者だが、作業員が来てもいないのに部屋が片付いただの、物音なくビル十棟消えただの、  
怪奇現象めいた噂からして、恐らくは契約者の能力を商売に転用した会社なのだろう。  
アンバーが興した会社は他にも、病院から葬儀屋まで多岐にわたり、数十社を超える。  
アンバー自身は『会社を興したい人に組織経由で人材と資金を提供しただけ』と言っていたが、  
それでもその人材を選別し、適材適所を絵に描いたように実現できる慧眼は並大抵のものではない。  
 
黒とカーマインは、アンバーが興した民間軍事会社の一つに明後日から務めることになる。  
そして今日は、本当に久しぶりにアンバーに会える。  
一分でも一秒でも早くアンバーに会いたい。  
そのためにも、日頃から急な移動に対処できるよう片づける物を最小限にしているとはいえ、  
黒はさっさとここを引き払う作業を終わらせたかったのだが、  
 
「忙しくなるのに、なんで今日なんだ」  
 
庭先の椅子で、ぼけっと日向ぼっこをしているカーマインに声をかけた。  
 
「・・・・・・・・・・・・」  
 
返事がない。  
黒の位置からは背中しか見えないから、寝ているのかもしれない。  
最近は日差しも穏やかで温かい日が続くから、カーマインは庭先の椅子で眠りこけていることが多々あった。  
 
・・・いや、おかしくないか、何か。  
何かおかしい。  
ずっと前に、確か、  
 
「・・・なあ、なんで私は今日切ろうと思ったんだ?それも朝っぱらから」  
はっきりとしたその言葉は、寝起きではありえなかった。  
「知るか」  
げんなりした顔つきで、黒はため息をついた。  
返事をするならさっさとしろ。  
任務が始まったその日以来、こいつには振り回されっぱなしだ。  
だが、長らく続いたそんな面倒役も今日で終わる。  
思い出しかけたことなどどうでも良くなった。  
すぐに思い出せないのなら、どうせ大したことではなったのだろう。  
「俺は用事があるから先に出るぞ」  
必要な荷造りを手早く終わらせ、黒は振り返ることもなく出て行った。  
 
カーマインは独り庭から戻るとテレビをつけた。勿論、感慨のわかない番組を見るためではない。  
セットしたままのビデオを再生した。  
これまでの実戦過程を後で検討確認するために、ドールに撮らせたものだ。  
 
『庭先で呑気に寝るな。いい的だ』  
映ったのは、無愛想な女が無愛想な声で無愛想に話していたシーンだった。  
『アンジュレーション。腹筋を鍛えるのに踊りは最適だ』  
寝起き早々に踊らされる男の表情になどまるで無頓着な、赤いざんばら髪の女だった。  
 
ああ、そうだ。  
あの頃は、邪魔だと思ったそばから自分で乱暴に切っていたんだ。  
『私の背後に立つな。特に刃物を持って立つな。殺すぞ』  
『音や光を操るタイプは真っ先に始末しろ。効果範囲が恐ろしく広い場合が多いからな』  
『物体操作能力は見た目に惑わされるな。初動が遅いし、本体が操作に気を取られて無防備になりがちだ。さっさと駆け寄って刺すのが』  
 
いつの間にか、早送りボタンを押していた。  
 
女は時が経つにつれて、表情が柔らかくなっていく。  
男は時が経つにつれて、表情が険しくなっていく。  
 
いつの間にか、再生ボタンを押していた。  
 
『ああ。あるな。日本では『キツネの嫁入り』と言うらしい』  
穏やかな、黒の声。  
いつのどんな場面か思い出せなかった。  
映っていた黒は背中姿だけだった。  
 
けれど、わかるのはなぜだ。  
 
不意に、カーマインの頬に生温かい何かが触れた。  
 
不思議に思って指先をそっと触れると、  
 
―――頬が濡れている  
 
 
「・・・?」  
 
空を仰ぎ見るが、雲一つない。  
何より、今自分がいるのは屋内だ。  
 
「???」  
 
『天気雨ね』  
ブラウン管の奥から聞こえる琥珀色の鈴の音。  
 
知っている。  
知っているが。  
 
ポツポツと  
 
ポロポロと  
 
止め処なく。  
 
こんなにも。  
こんなにもはげしくふるものだったか。  
 
『あー・・・そうだ、思い出した。天気雨という現象だな』  
琥珀色と黒色の中に馴染まない、臙脂色の声。  
 
――どうしたんだアンバー、突然に。  
――新しく興した会社に、来て貰いたいのよ、黒。  
 
『他にも言い回しがあったような・・・ええと、・・・この国では、確か、・・・『悪魔の結婚』』  
 
――うん、じゃあその日に迎えに来てね。  
――ああ。必ず迎えに行く。  
 
『じゃあね。また会いましょう』  
琥珀色の鈴が、閉幕のベルを鳴らす。  
 
シャッターを切るように、電気仕掛けの時間は終わった。  
 

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