「……夜な夜な契約者が集まる店、だと?」  
 その日、霧原未咲は朝一で受信したメールの文面を一読して思わず声をあげた。各々が  
自分のデスクで書類仕事に勤しんでいた部下たちが、揃って顔を上げるのがわかる。  
「課長?」  
 部下を代表してなのか、最年長の松本が声をかける。その声に、未咲は「ああ」とうな  
ずき返す。  
「大塚。このメールの発信元を辿れ。斉藤と河野は店の所在の確認。見つけても中には入  
るな。裏を取るだけだ」  
 未咲の指示に斉藤と河野が部屋を足早に出て行く。その間にメールのヘッダ情報を確認  
した大塚が、口を開いた。  
「発信元は……偽装されていますね。IPアドレスはほとんどが欺瞞なうえ、フリーのメー  
ルサーバから発信されています」  
「……そうか」  
 未咲はうなずく。だがそもそも『契約者』などという単語が文面にある時点で、この  
メールの信憑性は高い。そうでない人間には、そもそもそんな単語が知られているはずも  
ないのだから。  
「どう思いますか、松本さん」  
「ふうむ……。発信者の考えが、いまひとつ読めませんね。我々公安に契約者が集まる場  
所とやらを教えて、一体どんなメリットがあるのか。我々を一網打尽にしたい、というこ  
とは考えにくい。契約者を抱える組織からすれば、曲りなりにも一国の警察権力と真っ向  
から対決するメリットはない」  
「で、でも……契約者の存在を恐れる人間は、たとえどんな組織にでもいるんじゃないで  
すか?」  
「確かにそれはそうだろう。MI6だって一枚岩ではないだろうし、それは各国の諜報機  
関でも同様だろう。だが、しかしだ。だとしても、それを我々に教える理由はなんだ?   
捕らえられて尋問されれば、情報がこちらに渡ってしまう可能性だってある」  
 大塚の問いに、未咲が考えをまとめるように答えた。  
 未咲や松本が考えるとおり、警察組織へ契約者の情報をリークするメリットはない。あ  
るとすれば、敵対組織による妨害工作だろうか。  
「だとすれば、なお更にこの情報の信憑性は高い、ということになりますかな」  
「そうですね……。大塚。斉藤と河野に連絡。店の場所を見つけるだけで良い。あまり近  
づくなと伝えろ」  
「あ、はい!」  
 未咲の指示に、大塚はあわてて通信機のスイッチを入れるのだった。  
 
 
†  †  †  
 
 
 河野が見つけてきた店は、ビルの地下にあるバーだった。  
 店名は『黒』。白地に黒一色で描かれた店名を見据え、未咲はゴクリとつばを飲み込んだ。  
 時間は夜。すでに21時を回っている。繁華街の只中なだけにこの時間でも――いや、  
この時間だからこそ人通りも多い。だがこの店は奥まった路地にあるせいか、まったく周  
囲に人気はなかった。  
 打ちっぱなしのコンクリートで覆われた階段。薄暗いが、明かりが足元を照らすように  
ついていて危険さは感じない。だがその奥に見える鉄のドア。その向こう側にもしも情報  
どおり、契約者がいるのだとしたら――。  
 ゴクリ、と未咲は再び唾を飲み込んだ。  
 
 ◇  
 
「危険です! 課長一人で行くだなんて! じ、自分も行きます!」  
 斉藤が勢い込んで手を上げる。その理由は実に簡単だった。  
 河野が見つけてきた店。それがバーであるとわかると、未咲は自分一人で潜入すると宣  
言したのだ。  
「だめだ。幸いにして目的の場所は普通に開業しているバーらしい。ということは、一見  
の客が入っても問題はないはずだ」  
「だ、だったら自分だって!」  
「お前、バーに行くようなキャラじゃないだろう。斉藤」  
 未咲の淡々とした声に、斉藤が一瞬で萎みこんだ。  
「ですよねえ。斉藤さんって、バーっていうよりは居酒屋ですよね。しかもワタミとか」  
「まーなぁ。一人で唐突にふらりと目についたバーに入る、なんて選択をするようなタイ  
プじゃないもんな。それだったら馴染みのあるチェーン系居酒屋に入るタイプだ」  
「松本さんも居酒屋って感じですけど、行き着けのお店とかありそうですもんね」  
「何も言わなくてもいつもの酒が出されるみたいな?」  
 その後ろで大塚と河野がとどめを刺している。  
「で、ですが課長! その、一人でバーなんて、どんな目にあうか!」  
「……別に、酒を飲むだけだろう。それにあくまで客として様子を見に行くだけだ。ただ  
の客としてな」  
 いまだ喰らいつこうとする斉藤を怪訝そうに見下ろした未咲は、斉藤がなぜそんなにま  
でして反対するのかが理解できない。首を傾げつつ、危険度は低いことを繰り返す。  
「し、しかし!」  
「あー。あれは斉藤さん、課長がナンパされる可能性を危惧してんなぁ」  
「ですよねえ」  
 ひそひそと河野と大塚が頷きあっていることを、未咲も斉藤も知らなかった。  
 そして松本は、ずずず、とお茶を啜るのであった。  
 
 ◇  
 
 コンクリートにヒールの音を響かせながら、ドアの前に立つ。  
 未咲は深呼吸を一つして、重いドアを開いた。  
 中は、未咲が想像していた以上に静かだった。落とされた照明。薄暗い店内。ピアノの  
音が小さく響く中、時折グラスがテーブルに置かれる音と、氷がぶつかりあう音がする。  
そして低く抑えられた声は、店の雰囲気を崩さないためのものだろうか。  
 カウンターには、数名の客が座っている。テーブル席にも、何組かの客がいるようだっ  
た。  
 未咲はそれだけを一瞬で確認すると、カウンターへと歩み寄る。空いているストゥール  
に腰かける。  
 目の前にバーテンダーが立ち、低い声で「いらっしゃいませ」と告げた。  
「何かカクテルを……」  
 そう言いながらバーテンダーを見上げた未咲は、そこで言葉を途切れさせてしまう。  
 そこにいたのは、アジア系の顔立ちをした青年だった。  
 少しだけ鋭い顔立ちをした、けれども全体の印象としては少しばかり抜けているような。  
そんな表情をした青年だ。背は高い。均整の取れた体つきが、バーテンダーの衣装越しで  
も見て取れた。呆然とした未咲に、バーテンダーは怪訝そうな顔をして首をかしげた。  
「……何か?」  
「あ、い、いや。カクテルをお願い。あまり強くない奴を」  
「かしこまりました」  
 
 頷いたバーテンダーがカクテルの用意をしている間に、未咲は再び店の中を見回した。  
 カウンターの一番端にあるストゥールの上で、黒猫が一匹丸まっている。  
 そしてそこから一つ空けた席では、居酒屋で競馬新聞片手にビールを飲んでいるのが似  
合いそうな中年の男性が、ショットグラスを煽っていた。  
 そして、そのさらに一つ席を空けた席。未咲と中年男性の間に座っている女性が、こち  
らを見て器用にウィンクをする。  
「……エイプリル!?」  
「ハァイ。奇遇ね、こんな場所で」  
 にこやかな笑みと共に、エイプリル――MI6所属の契約者が、隣に席を移してきた。  
「こちら、スクリュードライバーです。……お知り合いで?」  
 未咲の前にカクテルグラスを置いたバーテンダーが、席をつめて隣に移ったエイプリル  
にたずねる。  
「お仕事でちょっとね。それより私にもおかわり」  
 エイプリルが自分の前に空いたグラスを置くと、琥珀を満たした新しいグラスを置く。  
代わりに空いたグラスを引き取ると、そのまま流しに置いて洗い出した。  
「……いいお店でしょ?」  
「驚きました。失礼ですが、いつからここに?」  
「んー? 最近、かな。こっちに来て、ちょっとしてから」  
 エイプリルはグラスを片手に掲げて、未咲へと向ける。  
 悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女に促され、未咲もグラスを掲げる。  
「乾杯」  
「……か、乾杯」  
 触れるか触れないか。わずかにグラスを触れ合わせたかと思うと、エイプリルはグラス  
の中身を一息に飲み干してしまう。  
「っはぁ……。ちょっと、バーテンさん。お代わり」  
「……あまり飲みすぎると、体に毒ですよ」  
「大丈夫よ。これが対価なんだから」  
「え、エイプリル!?」  
「対価だとしても。肝臓が丈夫になってるわけじゃないでしょう」  
 唖然とする未咲を前に、バーテンダーが諭すように言ってグラスを置いた。  
「え〜。お茶〜?」  
 口を尖らせながらも、あきらめたようにエイプリルはそれをチビチビと飲み始める。  
「……あの、エイプリル?」  
「んー? なーに?」  
「その、対価、とかって」  
 さらっと口にして良い単語なのだろうか。いやしかし、契約者という概念を知らなけれ  
ば、何かの隠語だと思う、のだろうか?  
 だらだらと汗を流しながら、未咲が考え込む。そんな未咲の肩をちょんちょんとつつく  
と、エイプリルは背後のテーブル席を指差した。  
「ほら、あれ」  
「え?」  
 振り返る。  
 テーブル席では、一人の男性が不機嫌そうにタバコをくゆらせていた。明らかにしか  
めっ面でタバコをくわえるその男性を睨みつけている、その対面に座る男性にも未咲は見  
覚えがあった。  
「の、ノーベンバー……11? それにあれは……フランスの!?」  
「言ったでしょ? この店は、契約者が集まるって」  
「へ? あ、ま、まさか、あのメールはあなたが……!?」  
 にんまりと笑うエイプリル。そしてテーブルでは一触即発の気配が漂っている。  
 未咲が動くべきか、と考えていると、エイプリルはそんな彼女に向けて肩をすくめて見  
せた。  
「気にする事はないわよ。ノーベンバーだって、タバコが嫌ならあの席を移れば良いだけ  
なんだから」  
「や、あの……」  
「この店はね、中立地帯なの」  
 
 ポツリ、とエイプリルの唇からこぼれた言葉に、未咲の動きが止まった。  
「契約者は合理的な判断をするわ。この店で暴れるのは、その合理的な判断でマイナスな  
行動なのよ。だから、ここでは決して争わない」  
「なぜ……」  
「さあ? 私はただ、美味しいお酒を出してくれるバーテンがいるから気に入ってるだけ  
だけど。ほかの連中には色々あるんでしょ?」  
 肩を竦めて見せたエイプリルに、未咲はじっと考え込む。  
「なぜ私にそれを?」  
「だってお気に入りの店だもの。妙なことをされて潰れても困るじゃない?」  
 この店にいる限り、契約者たちは争わない。だがもしもこの店が潰れてでもしまえば、  
契約者たちは自由に暴れまわるだろう。それは未咲にとっては困る事態であることは間違  
いないわけで。  
「……つまり、見逃せ、と?」  
「というか、別にあたし達は暴れてるわけでもないんだし。いくら公安でも、何もしてな  
い外国人を拘束なんてできやしないでしょ?」  
 お茶の入ったグラスを飲み干すエイプリルに、未咲はぐっと言葉を飲み込んだ。  
 確かにその通りだ。特にノーベンバー11は大使館の人間として入国している。だとす  
るならば、下手をすれば外交特権を使われる可能性すらあるのだ。だとするなら――ここ  
でおとなしくしているというのならば、情報を得るためにもここは重要な場所、というこ  
とになる。  
「それに、バーテンは良い男だし。ね?」  
「……からかわないで下さいよ」  
 グラスを磨いていたバーテンが、困ったように眉を寄せつつ苦笑いを返す。  
 その表情をぼうっと見つめて、未咲は小さくうなずくのだった。  
 
 ◇  
 
 不意にピアノの音が止む。  
 ピアノの前に座っていた銀色の髪の少女がスタスタとカウンターへと歩み寄り、猫と中  
年男の間に座った。  
「お疲れ様」  
 バーテンダーの労いの言葉に、少女は小さく頷く。そんな彼女の前に、コトリと音を立  
てて皿が置かれた。チャーハンと八宝菜だろうか。バーという空間に似つかわしくない中  
華料理の芳香が漂ってくる。  
 少女は黙ってスプーンを手に取ると、チャーハンを口に運び始める。  
「ゆっくり食べろ」  
 そしてバーテンダーの青年は優しげに告げて、彼女の前に冷えたお茶を注いだグラスを  
置くのだった。  
 
「……相変わらずあの子には甘いのよねえ、彼」  
「というか、未成年を夜の店で働かせるのは違法です!」  
「いやいや。別にあの子働いているわけじゃなさそうよ? 時々ピアノを弾くくらいで、  
あとはずっとあそこで彼を待ってるだけなんだから」  
 銀の髪の少女を見つめるバーテンの表情は柔らかい。慈しむような眼差しに、未咲はわ  
ずかに羨望すら抱いてしまう。  
「と、とにかく、未成年がこういうお店にいるということ自体が……!」  
 カラン、と鈴の音をさせてドアが開いた。  
「ブラッディマリー」  
 ふらりと入ってきた細身の赤毛の女は、カウンターの端に座るとそれだけを告げる。  
 バーテンダーがグラスを置く。それからさらにチャーハンを盛った皿を置いた。  
「……ありがと」  
 小さく礼を言う女に首を振って見せて、青年は再びグラスを磨きだす。  
「あの子にだけ?」  
 未咲のつぶやきに、エイプリルは苦笑いを浮かべるのだった。  
 
 

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