最初に仕掛けてきたのは葉月の方だった。
一仕事終えたと気の抜け切った顔をしている鎮目の腕を掴んで、すたすたと歩き始めた。
戦闘を終えた葉月の対価なのだと鎮目も特に抵抗はしなかった。
ただ、さっさと終わらせるために人目も何もはばからず無造作に顔をつかんで口付けをしてくるいつものやり方と違うのが、少々不思議だっただけだ。
「一つ確認していい?」
僅かに離れた唇の隙間から漏れる遠慮がちな問いかけを黙殺すると、葉月は乱暴に鎮目のベルトに手を掛けた。
「ちょ、待てよ。なんかすっごく合理的でない現象を目の当たりにしてる気がするんだけど!」
ビルとビルの狭間、どうにか路地と呼べる狭く薄暗い空間に、鎮目の素っ頓狂な声が反響した。
葉月は、ぬっと鎮目を睨みつける。
「うるさい」
「や、うるさいじゃなくてさ。なにしてんの?葉月は女が好きな人じゃなかったっけ?」
ストレートな鎮目の問いかけに、葉月は本気で嫌そうに眉間に皺を寄せるが、否定も肯定もその薄い唇から発せられることはなかった。
ただ、次の言葉をつむごうと開きかけた鎮目の唇を塞いだだけだった。
深いが押し付けるだけの機械的な対価として行われる口付けとは何かが違う。いつもより、幾分熱を感じる口付け。
鎮目は、目を見開いた。
眼前に、葉月の色素の薄い瞳がある。
契約者らしく常に冷めた視線を投げかけるそれの奥に、鎮目は、微かな潤みを見つけた。
そろり、と、鎮目の手が動く。
鎮目の予想が外れていなければ、多分、手痛いしっぺ返しを食らうことはない。
鎮目は、葉月の腰にそっと片腕を回して抱き寄せた。
葉月の体は、予想よりずっと抵抗なく鎮目の腕の中に納まった。
無抵抗に腕の中に収まり口付けを続ける葉月の様子に、鎮目は予想が当たっていると確信した。
葉月は、欲情している。
本来であるなら、葉月の欲望の対象は女性だったではないだろうか。
だからこそ、通常とは言いがたい性癖の鎮目とチームを組むことになったはずだ。
お互いが性欲の対象になりえないから、男女の間で起きがちなトラブルを回避しやすい。
契約者であるから一応非合理なことは及ばないのが通常だが、リスクのパーセンテージを限りなくゼロに近づけるに越したことはない。そういう意味では、葉月と鎮目はよくできたチームだったはずだ。
実は、鎮目自身は好みが少々変わっているとはいっても、女性と性交できないわけでもない。むしろ、据え膳は美味しくいただける。
しかし、この据え膳には毒が盛られているのではないだろうか。
ちらりと脳裏を掠めた考えに、鎮目は、内心で笑う。毒入りの据え膳も、中々に乙ではないか。
葉月の唇を開かせようと軽く舌を這わせた。
「……ふ、ぅ」
微かに、葉月の唇から息が漏れる。
その普段からは想像できないほの甘い吐息に、自分の体が男として反応するのを感じた鎮目は、小さく苦笑をもらした。
「中学生かっつーの……」
鎮目の小さなボヤキを聞きとがめた葉月が、口付けを中断して顔を上げた。
目顔で何か問題があるかと問いかけてきたが、鎮目は、肩を竦めただけで答えなかった。
「問題があるなら先に言え。わたしも不本意だ」
「不本意なら、何でこんなことするのさ」
不機嫌そうな葉月に、鎮目は当然の問いかけをした。
誘ってきたのは葉月の方だったし、明らかに彼女には欲情の兆候があった。いまだに彼女の手はベルトのバックルを掴んだままで、それなりに深い口付けもした。これでは不本意と言われるのは、葉月の性癖を加味したとしても理不尽だ。
「……男を知らぬ小娘といわれた」
ぼそ、と、葉月が呟くように答えた。
その白皙の面には、微かに悔しげな表情が浮かんでいる。
鎮目は思わず天を仰いだ。
誰に言われたかは知らないが、それなりに悔しかったのだろう。一番手近で後腐れのない男と済ませてしまおうと思うくらいには。
不本意ながら鎮目は確かに適任だ。
「それに、女という性別を持つ以上ある程度男に反応する部分もあるらしい。多少の興味を持つくらいならいっそ一度経験してみたら気が済むのではないかと言うのも理由の一つだ」
要するに生理現象の一つと言うわけだ。性的な嗜好云々はともかく、常に命の危険に晒される現場において生殖を求める本能が欲情の正体というわけだ。
「耀子ちゃんで済ませろよ……」
鎮目が天を仰いだまま脱力したようにいうと、葉月はむっと眉を寄せた。
「耀子にはそんな醜いものはついていない」
色々あるだろ道具とかといいかけたが、鎮目は、口を閉じた。要するに、鎮目自身がその道具の一環と言うわけだ。口に出していったらちょっと泣きたくなるに違いない。
「問題がないなら、さっさと済ませるぞ」
鎮目の沈黙を肯定的に捕らえたのか強引にベルトを外そうとする葉月の手を、鎮目はがっちりと掴んだ。
「なんだ、まだ何かあるのか」
「ああ、大問題だね」
不満げな葉月に、鎮目は輪をかけて不満げな顔をずいっと近づけた。
「お前な、俺に付き合ってほしけりゃもうちょっとマシな誘い方覚えろよ」
葉月は、鎮目の言葉にきょとんと瞬きをした。
「……は?」
「今日のお前じゃ不合格だっつってんの」
「なにが不合格…っ」
不合格と言う言葉が不服だと反駁しかける葉月を、鎮目はブッブーっと遮った。
「今日の口説き文句じゃ俺は付き合わないからな」
「別に付き合ってくれと口説いた覚えはない」
「じゃあ、他所当たれよ。俺だって頼んだ覚えはない」
珍しく鎮目の言葉に反論ができずに、葉月は口をつぐんだ。
正直葉月にとって、鎮目以外の男は面倒すぎるのだろう。彼女自身が心底男性を求めているわけではない。万が一にも相手に本気になられたりしたら、厄介だ。
その点、鎮目であれば心配はない。それこそ合理的な判断だ。
「下らないことにこだわるな、非合理的だ」
「非合理的なもんか。ちんぽが勃たなきゃそれこそ役に立たないんだからしょうがないだろ」
「ち…っ!」
わざとらしいくらいあからさまな表現に絶句する葉月に、鎮目は大きく溜息をついた。
「とにかく今日はここでお開き」
そう言うと、鎮目は、葉月の手を離して踵を返した。
背後から追いかける気配も、止める声もない。さすがに少々刺激的過ぎたかと思わないでもないが、鎮目のがっかり具合からしたらかわいいものだ。
その上、普段色気なんてまったく漂わせていないし興味もない同僚に、中学生よろしく反応した自分の情けなさときたら。
まったくもってついていない。
その日何度目になるかわからない溜息をついて、鎮目は、家に帰ったらこ●も店長の編集ビデオでもじっくり鑑賞することにしようと心に決めた。