美しいソプラノが、無機質で飾り気のない部屋に響いている。
天井に蛍光灯、換気扇に備え付けのベットだけの合理的な住むためだけの部屋
壁に付けられた鏡はマジックミラーを兼ねて、中の様子をうかがえる。
「あれが対価か。風流な対価もあったもんだ」
「音痴じゃなくてよかったな」
白衣の研究者然とした男が壁の向こうで少女の歌声を評していた。
それに対して返す男は身体を筋肉に包まれて、とても学者には見えない。
「エージェントとしての戦闘カキュラムをこなしているって?」
「最低限の戦闘技術は教え込んでいる」
少女の能力はパイロキネシス――発火能力だ。
その攻撃性の高さは戦闘員として申し分ない。
ただし年齢故に潜入捜査には向かないという難点があった。
未成年は行動に制約が多い。学校などの機関に潜入する場合は教員としてエージェントを送り込んだ方がいいのだ。
「アレはモラトリアムから契約者に変化した貴重な実験体でもある。おいそれと外には出せんわな」
折衷案として組織拠点の防衛には使えるという結論だ。もっとも拠点が戦場になることなどそうそうないが。
(いや……UB001が契約者を集めて敵対行動を開始しているという噂もある)
歌声が止んだ。
「研究が終わればエージェントとして世に放つ機会もあるだろう」
「実戦でしか獲れないデータもあるしね」
「契約者の能力など多種多様だ。統計をつくれる程のデータになるとは思えないな」
研究者の口元に下卑た笑みを認めた男は、彼の次の言葉に不快感を覚えた。
「エージェントとなれば男を咥えるのにも慣れておかなきゃならんだろう?」
「……そうだな」
「味見させてくれよ。なんなら俺にやらせてくれ。あれぐらいの頃が一番美味い」
「さっきお前自身が言っただろう。アレは貴重な実験体だ。組織も大事にしている」
反論を許さないように、男は研究者の要求を断った。
「あ、そ……残念」
それで興味が失せたのか、研究者は白衣を翻して部屋を後にした。
「………」
少女――柏木舞はじっと自分の手首を見つめている。
男は彼女の部屋をノックした。
「入るぞ」
「………」
反応はない。だが彼女の教育を任されている彼は部屋の暗証番号を打ち込むと扉を開けた。
「今日の訓練は……」
「覚えてる……」
歌声とは一段低いトーンで彼女はポツリと呟いた。
「私はお父さんが大好きだった……」
男は足を止める。
「小さな私を抱きかかえて、頬ずりするとヒゲが痛かった……」
舞の手首に水滴が落ちた。
「覚えてる……友達がいた。私の事、御飯に誘ってくれた……」
男は再び足を進める。
「覚えてる……私はユカを殺した……」
「契約者は涙を流さない」
舞の手を取り、涙の後を消す。
「お父さんを殺した人……私は殺せなかった」
「契約者は合理的な考え方しかしない。復讐は合理的ではない」
「李さんが殺した……」
「BK201……」
通称黒の死神。彼がマイヤー&ヒルトン社の人間を殺したのは報告書で聞いていた。
「李さんに話した、腕の事。李さんと夜の遊園地で遊んで、屋台で御飯を食べて……」
「そうか」
当時のBK201の任務で田原耕造に接近する過程で、娘である彼女の心証をよくすることもあっただろう。
「やめろって言った。私がお父さんを苦しめた人を殺すのを」
「何?」
報告ではマイヤー&ヒルトン社の人間二名は両方ともBK201が処理していた。
「どうして?」
少女は答えを求めて男に尋ねる。
「……黒に、いや李に会いたいか?」
舞の問いには答えず、男は質問を投げかけた。
「わからない」
「………」
「でも李さんを思い出すと心拍数が上がる」
「それは今のお前には必要のないものだ」
情緒が未完成のまま契約者になった子供は、自分の感情に名前を付けることができない。
それ故に契約者特有の合理的判断の計算が狂うことがままある。
同時に、一般人に紛れ込む際にも不安要素に成りうることを男は知っていた。
「性交渉の経験は?」
「ない」
「二次成長は?」
「向かえている」
男は確認すると、一つ溜息を吐いた。
彼女の特異性の研究は門外漢だが、彼女の育成は一任されている。
研究者には断ったが、彼女を性的に仕込むことも彼の一存で決定できる範囲ではある。
そして男は、舞の相手として研究者は相応しくないと判断しただけの事だ。
「李に会わせてやる」
舞の顔に喜びが浮かんだように見えたのは目の錯覚だろうか。
男はそのことを考えないようにしながら、補足した。
「ただし、初めての任務に成功した後だ」
子供をご褒美で釣ると言えば、随分と日常的な会話だ。
もっとも、その子供がご褒美を貰うためにすることは人殺しだが。
「李に女にしてもらえ。それがお前の二つ目の任務だ」
BK201ならその手の教官としても申し分ない。
(初恋というものにケリを付けなくてはならないのは契約者も人間も同じか……)
愚にも付かない事を思い、自分の気持ちを男は紛らわせた。
少し、BK201に対して嫉妬があることを男も認めてはいる。
男性としての嫉妬ではなく、保護者としての嫉妬だが。
「李さん……」
俯いて任務を反芻する少女を男は寂しげに見下ろした。
「髪、のびているな。暇ができたら切りにいけ」
男は娘を扱いかねる父親のように、そんなアドバイスをした。
.
人の命を殺すのは初めてじゃない。
囚人や裏切り者を差し出され、それを炭にする訓練もこなしてきた。
炎の威力を押さえて周囲まで燃やさないようにコントロールする術も得た。
心拍数が落ちていき、冷静に周りを観測する。
敵が侵入してきてもすぐさま対応し、逆に相手には気取られないように。
(李さん……)
私の足元に見える巨大な鉄の塊。組織の人間は粒子加速器と言っていた。
これを防衛するのが私の任務。初めての任務。
そしてこれが終わると私は李さんとセックスをする任務。
任務? 訓練?
どちらでもいいか。
この任務はよく分からない。ただ命じられたからするだけ。
でも次の任務は待ち遠しい。
この違いはなんだろう?
分からない。
ただ、次は李さんに会えるということが、この初めての任務に対するモチベーションを上げている気がする。
いけない、心拍数が上昇している。
興奮は認識力と判断力を鈍らせる。
囂々と唸る鉄の塊の空間で、私は深呼吸をした。
(……きた)
裸の外国人の女の人と、恰幅のいい男の人。
テレポーテーションの能力?
それは今はどうでもいい、私は二人に照準を合わせて……
「ッ!!」
浮遊感と肋骨が砕ける感覚。
ハンマーでお腹を殴られたみたいに痛い。
空気を圧縮して打ち出したの?
でもどうして?
私が始めからここにいるのを分かっていたかのように、狙いを定めて撃ってきた。
口の中には鉄の味が広がっている。不快だ。
気を失った方が楽かも知れない。合理的に考えて。
いや駄目だ。それは死を意味する。
それにこの任務に失敗したら李さんに会えない。
手に力を込めて身体を支える。
男が装置を破壊しようとしている。
駄目だ。
駄目!
私は李さんと会いたいんだから……
敵に狙いを定めて発火能力を発動する。
そこで腕の力が抜けた。
呻き声と焦げた臭いが遠くから感じる。
ああ……肉の焼ける臭いは嫌い……
思い出すから
ユカを焼いた事、お父さんが死んだ事
でも、これで李さんとまた会えるんだ……
そう思うと、嫌じゃなくなる。
ゴメンね、ユカ、お父さん……酷いよね、そんなのって。
「歌わなきゃ……」
声が出ない。肺に穴が空いてるのかな……
そうか、死ぬんだ、私……
「ヒュー…ヒュー……」
死ぬのに、対価払う必要も無いかな……
でも……歌いたいな。
……There isn't a day I don't think about ……
契約者でも私はお父さんの娘だよね……
契約者でも私はユカの友達だよね……
ねぇ……李さん……
泣かなくていいんだよ
契約者も人間も同じだよ
だってみんな、李さんのこと好きだもん
終わり