暑い。  
呼吸するだけで煮え湯を飲まされるような感覚に陥る。  
額から沸いて出た汗がつうっと、黒の頬をなぞった。  
この国は湿度も高い。  
冷却効果を果たすべき汗も、周囲の大気からして沸き立っていては如何ともし難いらしい。  
ほんの数分前、熱帯地特有のスコールが冷やし潤した大気は、やはり熱帯地特有の刺すよ  
うな陽光に飲み干された。  
大黒班期の太陽によって玲瓏な雫は既に茹だる蒸気となり、鼻と喉から肺腑に潜り込む。  
気休めのつもりで口にした水筒の中身は生ぬるく、気休めになっていない。  
飲むたびに不快感が増すだけなので、一口だけで背嚢に戻した。  
 
この密林に潜伏した敵と交戦するうちにはぐれた仲間――アンバーと白――を捜して今日  
で三日目になる。  
「・・・・・・もう限界か?」  
不意に、密林の奥へと先行するカーマインがこちらを振り向く。  
「いや」  
黒は出来る限り言葉の抑揚を伏せ、呼吸の乱れを整えたつもりだったが、顔には疲労が色  
濃く出ていた。汗と同じで、そういうのを知られるのは鬱陶しい。  
誤魔化すように、リストバンドで頬から額へと顔を拭った。  
 
「お前こそ平気なのか。一昨日からずっと・・・・・・50時間以上寝てないだろう?」  
「別に」  
返す言葉の淡泊さと同じで、カーマインの顔には微塵の疲労も見られない。  
男の自分が先に限界を迎えるとは、捜索初日には思いもしなかった。  
眼前に立つ少女の身体を、黒は凝視した。  
抱き締めれば折れてしまいそうなほど華奢な肩に、枯れ木のようにか細い腕。  
辛うじて女と判る程度の、豊満さとは無縁の身体に、腕と取り違えない程度の太さしかも  
たない足。  
およそ体力勝負にはからきし向いていない造り。  
この短身痩躯の何処にそんな体力があるのか。  
「・・・・・・さっきから何処を見ている?この暑さの中で欲情できるとは大した獣だな」  
ひと瞬きの間に、鼻息も届きそうなくらいの距離まで近づけられたカーマインの顔。  
黒に申し開きをする暇も与えず、顔と入れ替わりに拳が鼻先を強かに打った。  
 
正午を過ぎた辺り、二人と最後の連絡が取れた場所に着いた。  
鬱蒼と繁る木々の波が突然途絶え、急に視界が開ける。  
「相変わらず、この世の終わりみたいな景色だ」  
「そうしたのはお前だ」  
 
遮る物が何一つ無い、荒涼とした平原が延々と続いていた。  
カーマインの能力が全てを破壊し尽くしたのだ。  
築かれた敵の橋頭堡を周囲の地形ごと粉砕し、残ったのは地の赤と空の青。  
極彩色の世界。  
ふと、数日前のカーマインの言葉が黒の脳裏をよぎる。  
『私の力はまだ成長途中なんだよ』  
ここの殲滅任務で見せた力はいつものそれとは違っていた。  
ランセルノプト放射光の輝きが映えた瞬間、空間が血色に染まり、巨大な黒球が周囲を飲  
み込んだ後は瓦礫すら残っていなかった。  
あの時アンバーは『周囲に赤方偏移を引き起こし光波をも消失させた真空』、とか言っていた。  
難解な用語が多く、あまり理解出来なかった。  
わかった事は、今でも十分に化け物じみた力が、さらに化けたのだということだ。  
 
「いつもより少しだけ、力んでみたんだ」  
背嚢から一冊の本を取り出すと、カーマインは黒に投げ渡す。  
「熱力学・・・・・・赤外輻射・・・・・・核断熱消磁?」  
パラパラと本をめくり目次に目を通すと、黒は投げ返した。  
「おまえにそんな学があったのか」  
「アンバーの受け売りだ。学のある女でないと、学のない女には偽装できない、ってさ」  
本を背嚢にしまうとカーマインは煙草を取り出した。  
黒に火を求めるが、首を横に振られる。  
キャラクターを演じる必要も無いのに煙草を吸う。前はそんな嗜好など無かったのに。  
黒は不思議だった。  
最近、カーマインの仕草や挙動の一つ一つに驚かされることが多い。  
喫煙もその一つだが、まともな食事をするようになったことが一番驚いた。  
以前は錠剤やアンプル等、料理とすら呼べない代物で済ますことが少なくなかった。  
本人曰く栄養価に問題は無いらしいが、契約者には食欲がないのかとさえ思った。  
そんな女が、最近になって突然、自分の食事を横から取って食う。  
しかも上手いだの不味いだの言ってくる。水と薬しか味わったことの無さそうな舌で。  
契約者のくせに、まるで人間みたいな――――いや、  
 
嗜好品を持つ。食事をする。上手い不味い言う。当たり前の事だ。  
変わったのは、俺だ。  
人も人でない者も数多屠ってきた。  
拷問と詐術に躊躇がなくなったのは何時からだったか。  
実戦で己の成長を実感する度に、何かが疼くのを感じた記憶は何時のものか。  
慣れという意識すら摩耗し、喪失感さえ失い、欠落感など何処かに落とした。  
 
契約者は夢など見ないという。  
だが、人間がどれほど夢を見るのか。  
少なくとも俺は、見ていない。  
黒の死神は夢など見ない。  
 
不意に、死神が闇の奥底から囁く事がある。  
妹。唯一まだ失っていない存在。  
その妹の存在だが――  
今、本当に妹が愛おしいか。  
妹を捜すのは、死んでいることを確認するためではないのか。  
夜空に流星を見つける度に、期待と安堵を覚えたことがなかったか。  
無事を確認する度に、失望と絶望が深まるのを感じたことはなかったか。  
『お前さえいなければ』  
と、俺は――――  
 
「おい、黒?」  
幽世の声が現世の声に遮られる。  
不思議そうな顔をしてカーマインがこちらを見ていた。  
過去と疑念をうち切るように、黒は頭を振った。  
 
―――それでも、やはり変わったのは  
 
「身体は大事にしろ。未成年の内なら、まだ止められるだろう?」  
右手で箱をひったくると、黒は自分のポケットに押し込む。  
残った一本も取り上げるべく、カーマインに手を伸ばした。  
「どうした。お前が私を気遣うなんて、明日は天変地異でもおこるんじゃないか」  
怪訝な顔をして、黒は手を退く。  
「・・・・・・そんなに変か?」  
「変だ」  
「変なのはお前の方だと思ったんだがな」  
「え?」  
黒の指摘に、カーマインの意識が一瞬止まった。  
――――やはり、自覚が無い。  
こんな顔を見せることも今までは無かった。  
 
「何故、わざわざ付き合ってくれた?」  
 
ポトン、と女の指先から煙草が足下に落ちる。  
カーマインは言葉の意味がわからなかった。  
否、わかってはいる。  
わかってはいるが、返す言葉が見あたらない。  
 
何故私は此処にいるのだろう?  
 
任務。―――殲滅任務はすでに完遂している。  
捜索。―――そんな任務は無い。  
戦闘で行方不明者が出るのは珍しい事じゃない。  
連日が代理戦争だらけの南米で、捜索に人員を割く暇と余裕など無いのだろう。  
だからそういう時、組織はわざわざ探さない。  
残りを倍動かす。そのほうが能率が良いからだ。  
消えても残っても契約者を使い潰す。  
人間なら問題になることもあるらしいが、人間でないから問題無い。合理的だ。  
最近は少しだけ暇が出来たが、情勢が沈静方向に向かっているからではない。  
嵐の前の静けさであり、再戦争のための小休止に過ぎない。  
貴重な安息の時間を皆自分のために使う中、黒は二人を捜すと言いだした。  
何故探す、と聞いた。  
何故探さない、と返された。  
妹だから、恋人だから、それらしい理由を繕うこともなく、ただそう言った。  
それ以上は何も言わかった。言うだけ不毛な相手だと判っているからだろう。  
荷物を纏め予定を立て、街からこの場所に戻ってきた。  
 
なら私は。  
 
どうしろと上から命令されたわけでも無い。手伝いを頼まれたわけでもない。  
街に残っても暇を持て余すだけだから―――来る理由には不足な気がした。  
敵の残党や罠。無人機械が獲物を待ちかまえる場所に戻る理由には、少し物足りない。  
 
黙考する時間が長すぎたのか、気付くと一層怪訝な顔をして、黒はこちらを見ている。  
致し方ない。  
多分、この答えが今の自分にしっくりくる・・・・・と思う。  
目線を上に泳がせ、横に泳がせ、下に泳がせ、答えた。  
 
「成長途中ということだ。未成年だから」  
右手で煙草を握り潰すと、黒のポケットに押し込む。  
「さ、他を探そう」  
何が?と言いたそうな黒の顔を想像しながら、カーマインは返事を待たずに歩き出した。  
 
 

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