「久しぶり。ノーベンバー11。」
ちょっと驚いた。また会えるなんて思ってもみなかったから。
「フェブラリーに会いたい。」
「もちろん、」
私は彼に近づいた。すると仄かに彼の付けてるフレグランスが香ってきた。
あの頃と何一つ変わらない、何度も嗅いだ思い出が甦ってくる。
本当に懐かしい。
「彼女もそれを望んでいる」
そのまま口付けを交わす。
久しぶりの彼とのキスは甘くて芳しかった。
その当時私は契約者でも何でもない、単なるごく普通の人間だった。
「紹介する。今日から私の専属秘書を務めてくれるブリタだ。暫くは君からも面倒見てやって欲しい。
ブリタ、彼は私の部下のノーベンバー11。MI6最高のエージェントだ。」
ディケイドと呼ばれている人間が私を一人の男に紹介した。
ふーん、この人がねえ。
金髪碧眼、精悍な顔立ち。白いスーツを卒なく着こなしている。ルックスは結構私好みだ。
「初めまして。これから宜しくお願いします。」
「初めまして、ブリタ嬢。お会いできて光栄です。
慣れるまで大変でしょうが、分からないことがあればどうぞ遠慮なく仰って下さい。
私で宜しければ尽力致します。」
目の前の男は私に恭しく礼をした。なかなか女の扱いに長けてそうだ。
何となく胡散臭い感じはするけど、まあ、合格レベルってとこね。いつも通り引っ掛けて退屈凌ぎに使おうかな。
「ありがとうございます。そう言って頂けて嬉しいですわ。」
「ノーベンバー、ボスから伝言をお預かりしています。――――――――――――――」
「分かりました。どうもありがとう。・・・ところで仕事も大分慣れたみたいだね。
良かった。何よりです。」
「あなたがいつも丁寧に教えて下さるからですわ。」
「ご冗談を。私はただ少し手伝わせて頂いたまでですよ。
あなたの日頃の積み重ね、ということなのでしょう。」
即座に私を立てるような表現をする。
知り合ったときも思ったが、本当に人の扱いに慣れてる感じだ、この男。
「まあ、お上手ですのね。」
「いいや、本当だよ。」
「それなら、」
私は切り出した。
これはチャンスだ。逃せば後なかなか巡ってこないだろう。
「一緒に祝って下さらない?」
彼は一瞬呆気に取られたような表情をしたが、すぐさまいつもの余裕たっぷりの態度に戻った。そして、可笑しそうに吹き出した。
「・・そんなに面白いこと申し上げましたかしら?」
私にとっては割といつものことなんだけど。
「はははっ。ご気分を悪くされたのなら失礼。女性の方から誘われたのは初めてだったものですから。
いいでしょう、私の行きつけのバーがあります。宜しければ帰りに行きませんか?」
「ええ、喜んで」
「ここだ。」
中心街を抜けて路地裏に入った先。
彼が案内してくれたのはひっそりとした、隠れ家のような店だった。
看板も一応あるが、申し訳程度であまり目立ってない。
「さあどうぞ、お嬢様。」
彼が扉を開けてくれる。私は礼を言うと店内へ入った。
まだそんなに遅い時間じゃない為か客も疎らで、バーテンダーも氷を砕いてる最中だった。
「やあ。こんばんは、マスター」
「いらっしゃいませ。・・・・ジャック!久しぶりだね。調子はどうだい?」
初老の身なりの整ったバーテンダーが笑顔で彼に話しかける。
「上々だよ」
「それは良かった。今日はお連れの方も一緒か。ゆっくりしてってくれよ。」
「ありがとう」
二人で和やかに話してる。会話の感じからすると気が置けない仲のようだ。
偽名を使ってまで・・そんなにここが気に入ってるのか。
ああ、そうだった。ノーベンバー11、ってのも本名な訳無かった。
ま、彼の本当の名前なんてどうでもいいけど。彼は彼だし。
ちょっとした会話を終えると、他にも席は空いているにも拘らず、彼は迷うことなくカウンターの壁側一番奥の席を選んだ。
なるほど、ここが彼の指定席らしい。
「何になさいますか?」
席に着くと先程のバーテンダーが私に声を掛ける。
「そうね・・・・、ブルーマンデーを頂くわ。」
「かしこまりました。お待ち下さい。」
彼が私を冷やかす様に言う。
「ブルーマンデーか。どうやら我々は君を憂鬱にさせてしまっていたようだな。
すまなかった。」
「うふふっ。いいえ、最高の環境で働かせて頂いてるのだと常々思っていましたわ。」
「それは良かった」
何が「良かった」よ。ホント何考えてるんだか分からない。
「お待たせしました。ブルーマンデーです。」
「ありがとう」
目の前に来た、透き通るような水色のカクテルはバーの照明に照らされてキラキラと輝きを放っていた。私はこの色が大好きだ。
そうこうしているうちに、注文も取っていないのに彼の前に何やらグラスが差し出された。
不思議そうにしてる私に彼は言った。
「マティーニだ。私は一杯目は必ずこれと決めているんだ。
シンプルだがその分だけバーテンダーの力量が現れる。マスターの創るマティーニは絶妙だ。」
こだわりがあったのね。
「揃ったことだし乾杯しようか。」
「ええ。」
「「乾杯」」
お互いのグラスが擦れて、かちん、と小気味良い音を立てた。
「こちらの店は長いのですか?」
「ああ。私が・・勤め始めた頃からだからもう随分経つな。」
「そうなんですか。」
一瞬言葉に迷ったようだった。まあ確かに一般人のいる前で「MI6」って言えるわけ無いけど。
「最近は忙しくて行かれなかったが、偶に行くとマスターと遅くまで形而上学的問題について語り合ったものだ。彼も私もそういう話に興味を持っているんだ。」
面白いバーテンダーだろう、と彼は最後に付け加えた。
そうなんだ。単に腕が良いからお気に入り、って訳じゃなかったのね。彼は随分と難しいことが好きみたいだ。胡散臭いと思っているのは変わらないけど、それだけじゃなさそうだ。
私は彼の違った一面を見たような気がした。
ところでさっきから彼の前にはマティーニに始まり、サイドカー、シングル・モルトのストレート、ニコラシカ・・・、と続いてる。
まあよくこんなに飲むもんだわ。それに比べて私はやっと4杯目を飲みかけてるって状況。
またもあっさり飲み干した彼にマスターが次を促した。
「ジャック、次はどうする?」
「ああ、そうだな・・。ギムレットをもらおうか。」
まだ飲むのか。それにしても、こんなに飲んでて全く酔った様子が見当たらないのが不思議だ。彼の中に「酔う」って単語は無いのか。
「お待たせ」
差し出されたグラスの中身を平然と飲むノーベンバー。しかもルックスが良いせいかその姿も本当に様になってる。
ったく、私はそろそろ酔って来てるってのに。いちいち人の心に突っかかってくる男だ。
「私だってちゃんと酔ってるさ」
私の気持ちを見透かしたかの様に言い出すから余計に気に食わない。
酔ってる、って嘘でしょ、絶対。
「ん?そんなに一気に飲んで大丈夫なのか?」
私は面白くなくて、思わずにグラスにたっぷり残ってたマンハッタンを一気に飲み干してしまった。我ながら変な所で負けず嫌いだと思う。
すると、途端に顔が火照ってきた。頭もちょっとクラクラする。身体全体がカーッとなる。
あつい。凄くあつい。
「一気に飲むからだ。飲み易いだろうが考えて飲まないとすぐにもって行かれるぞ」
知ってるわよ。でも、何時までも余裕なアナタが面白くなかったのよ。
やばい、彼の言う通り悪酔いしちゃった…?
「本当に大丈夫か?」
流石に彼が気遣ってくれる。けれど――――――、
「ええ、大丈夫よ」
私の中で今までピン、と張っていた理性という名の糸は既に切れていたのだと思う。
私は飾りの眼鏡を外した。それから上着を脱ぎ、ブラウスのボタンも数個外した。
頭の上の方できっちり纏めていた髪も解く。解放された自慢の金髪は緩やかに畝り私の肩を滑り落ちた。
最早”外の顔“を保つ余裕など欠片も残ってなかった。
「ふうっ」
「・・・・随分と大胆なんだな。」
「仕方ないでしょ。どうしようもなく暑いんだもの。そんなに意外?」
「ああ。普段の真面目な君からは想像もつかなかった。」
「残念、実はこっちの方が素だったりするのよね。ふふふっ、女はね、秘密が多いものなのよ。」
私は彼に目配せした。
私は厄介事が嫌いだ。外では大人しくしてるのが一番なのだ。
「それは知らなかった。覚えておこう。」
嘘でしょ。雰囲気からわかる。私を軽く遇ってるつもりなんでしょうよ。
私がそんな気持ちになってることも知らずにか、彼はグラスを何度か傾けるとふっ、と小さく笑った。
「さしずめ、昼は淑女のように、夜は娼婦のように、と言ったところだな。」
・・・変なヒト。そこで映画で喩える、普通?
「ふふふっ。何よそれ。『昼顔』の逆じゃない。」
「ははっ。そうだな。しかし君は主婦じゃないから昼間から娼婦にはなれないだろう?」
「そうかしら?」
「ん?」
「今は夜だし、アナタの言ったこと満更じゃないかも。言ったでしょ、女は秘密が多いって・・・・・。」
私は彼の方に向き直って足を組んだ。
「試してみる?」
わざと誘惑するような視線を送る。今までこの視線に堕ちなかった男は居ない。
「・・・ほう。それは是非手合せ願いたいな。」
やっぱり乗ってきた。ここまで来ればもう私のペースも同然だ。
その余裕綽々な態度も今のうちよ。アナタも喰らい尽くしてあげる。
「場所を変えないか?」
「ええ。勿論」
お願いだからちゃんと愉しませてよね。私は今からゾクゾクして堪らなかった。
ホテルのツインルームに着くと私は直ぐさまジャケットを放り投げ、パンプスも脱ぎ捨てた。
抱き合うのに邪魔なだけだから。でも服は着たままにする。
互いの服を脱がせるのもセックスの愉しみだものね。
薄暗い空間の中で私達は互いを見つめ合っていた。
ライトを消してカーテンも閉めた。明かりになるようなものはカーテンの隙間から射し込む月の光だけ。
――――ドクン、ドクン――――
バーを出てからずっと胸の鼓動が速くなってる。指先も細かく震えてしまってる。
もう直ぐこの余裕綽々な男の、段々と余裕無く歪む顔が見られるのかと思うと胸が高鳴ってどうしようもないのだ。
私は奇妙な高揚感に晒されていた。
「どうした?緊張しているようだがまさか初めてという訳ではないだろう?」
彼にはそう見えたらしい。よりによって処女だと思われるとはね。
ってか、どうせ冗談なんだろうけど。無駄に相手にしない方が自分のためだ。折角私のペースになってるんだから。
「まさか。ちょっとさっきから胸がドキドキしてるのよね。大丈夫よ、もう直に治まるだろうし」
何でかは伏せておく。
網に引っ掛かった蝶を見す見す逃してしまうほど私は馬鹿じゃない。
「それより、アナタはちゃんと愉しませてくれるのかしら?」
「ご心配されなくともご満足頂けるのではないかと確信しております、お嬢様」
「そう。期待してるわよ」
まだ余裕あるみたいだけど、もう間もなくね。
焦るな、私。お楽しみは時間をかけて美味しくね・・・?
次の瞬間私達は互いを激しく求め合っていた。まるで獣の様に。ただ衝動に突き動かされるまま動いていた。
咥内を割り入って歯列をなぞり激しく舌を絡ませ合う。
静寂の中に淫らな水音が響く。
「んんっ、ふぁ・・・・はあ・・・・はあん!」
ーーーーやだ。何なの、このヒト。すごく巧い。自分で言うだけある。
「んっ・・・ふぁん!うふ・・・・」
不覚にもキスだけで軽くイきそうになってしまった。何とか持ちこたえたけど、下着が湿ってる感触がする。
やばい、今日明らかにいつもより早い。
「あんっ!んっ・・・。ちょっ、と待っ、て」
私の制止を全く聞かずに彼の手がブラウスのボタンに掛かり、性急に外すと私から取り去った。
未だに酒の抜け切らない身体は外気に晒されてひんやりとした。
彼は唇を私の首筋に滑らせながらスカートの中に大きな手を進入させた。
角ばった指が太股を這い上がって来ると、ストッキングを脱がせた。
そのまま下着に手を伸ばそうとしてたけど――――、
「ふぅん、ダ、メ…よ。まだダメ。」
次から次へと押し寄せてくる快楽の波に必死に抗いながら、私はその手を今度こそ制した。
もう濡れてることがバレたら冷やかされる。
それ以上にさっきから私ばかり脱がされてるのが気に食わない。
「ブリタ」
「焦らないで。夜はまだ長いんだから。今度は私がシテあげる」
私は彼の胸を押し返して離すと、ジャケットとベストを脱がせた。
それからネクタイに手を掛け結び目を解こうとした。
「ああっ、もうっ、焦れったいわねっ!」
けれど、震える手が上手く言うことを聞かず解けなくなってしまった。
何やってるのよ、私。こっち側に引っ張るだけじゃないの。言う事を聞かない自分の手がもどかしい。
普段は好きな、男のネクタイもこの時ばかりは恨めしくさえ思ってしまう。
そんな様子を見兼ねた彼が私の手を遮り、代わりに解いた。それはシュル、っと軽快な音を立て、床に落ちた。
「そんなに焦らなくても良いんじゃないか?夜はまだ長いのだろう?」
「・・・・・っ」
参った。そっくりそのまま返されてしまった。ったく、さっきから調子狂うわね。私は思わず苦虫を噛み潰した。
そしてちょっと気が緩んだ隙に彼は私の左の鎖骨の下にキツく吸い付き紅く痕を残した。
「あんっ…。ちょっとおっ、何すんの、よっ!」
やられた!いつもこれだけは気をつけてたのに。
こんな物つけられると困るのよ。一週間は消えないんだから。
文句の一つでもつけてやろうかと思ってたら、その後彼が発した言葉にそんな気持ちも何もかも全て吹き飛んだ。
「君はどうも火遊びが過ぎるみたいだからな。ちょっと灸を据えておいた。これで暫くは出来ないだろう?」
・・・・えっ、火遊びって!?バレてたの!?
何の前触れも無くそんなこと言うからびっくりした。
どうやって?何処でバレた?いつから?一瞬の内に様々な考えが過ぎったが、私は何とか平静を保った。
「何の話をしているのかしら?」
「人間嘘を付いた時は不自然に相手から視線を逸らし、動きもぎこちなくなる。今の君に正しく当て嵌まることだ。
惚けるつもりらしいが君が不利であることに変わりは無い。
ここは契約者で無くとも合理的に判断したまえ。」
う。隠したつもりでも駄目だったらしい。
この分だと確かに彼のいう通り、白を切り続けても意味が無さそうだ。
私は大人しく投降することにした。
「・・・・アナタいつから分かってたの?」
完璧に表の顔と使い分けられてると思ってたのに。
「かなり早い段階で」
「・・・・私の事知っててバーに連れてったってこと?」
「勿論だ。でもあんなに早く素顔を見せるとは思わなかったけどな。いつもああやって誘ってるのか?」
「・・・・・っ。じゃあ、バーで私の事見て驚いてたのも――――――」
「ああ。全て計算の上だ。諜報部員を甘く見ない方がいい。」
「〜〜〜〜っ」
何なのそれ・・・。
これだけでもかなり堪えたのに更に彼が追い討ちを掛けるように言った。
「それと一箇所訂正がある。『君の視線と動作が不自然だった』のくだりは冗談だ。君に特に変わった様子はなかったよ」
「・・・えっ!」
何よ冗談って・・・・。それって私は自ら彼の敷いた罠に嵌まりに行ったってことじゃないの。
ちょっと、何なのよ。もういきなりの展開に思考が追いて行かない。
相手は私が思ってた以上に手強かったようだ。つまりだ、網に引っ掛かった蝶は私の方だったのだ。
なんだか急に脱力感が襲ってきた。私は思わずその場にへたりこんでしまった。
悔しいけど完敗だ。敵わない。敵うわけが無い。相手は私より一枚も二枚も上手だった。
私をこんな気持ちにさせた男は初めてだ。
でも自分の勘違いに気付いた。彼は胡散臭いんじゃない。私に探りを入れていただけなのだ。
日常の何気ないところから、気付かれないように、さりげなく。
「まあ、それは私からの『教育的指導』だと思って欲しい。」
彼はしゃがんで私に付けた痕を指差しながら言った。
迷惑な指導よ、本当。でも付けられてしまったものは仕方が無い。
こうなったら――――――、
「ホントは束縛するのもされるのも大嫌いなんだけどね」
私は彼のシャツを勢いよく開くと同じ位置に噛み付いて紅い痕を残してやった。
案の定彼は困惑しているようだった。
「・・・君にまで教育される覚えはないんだが」
「これでアナタも私以外と出来無い」
「ははははっ、そういうことか。しかしこれでは指導の意味が無いじゃないか。
実に面白い人間だな、君は」
たとえ敵わなくともこのままだと完全に彼に屈したようで癪だもの。ならば相手にも同じ制約を受けてもらわないと割に合わない。
それに弱みを握られたとはいえ、一度高められた熱はしばらく戻りそうにないし。
彼だって教育的指導とか言ってるけど、ソノ気はあったのだろう。でなきゃそれこそ合理的に考えてここに来ないはずだ。
「ねえ、床でスルつもり?私は嫌よ。痛いし動きにくいし」
「私もここではお断りだ」
「なら話は早いわね。」
二人でベッドに身体を沈めると抱き合いながら再び激しく唇を求め合った。