「イツァーク、なんだいこれ?文学に社会学、哲学、宗教学・・・文系の本ばっかりだね」
この国でよく見かける廉価本だ。
パラパラとめくってみて、本を卓上に戻した。
「ただの暇潰しだ。・・・昔は、これで食べていこうと考えたこともあったが」
対価を綴る手が、ほんの一瞬止まった。
ほんの一瞬だけだったが。
「へぇ、詩を書いたことはなくてもこっち側の学はあるんだ。なんでやめちまったのさ?」
「金にならんし、雇い先も無いからだ」
今、うちの国はそんなに懐が温まってないからな。
「が、契約者になったおかげで就職先がすぐに決まった。有難いこった」
感謝の言葉は、無感情な顔と無感動な声の二重奏だった。
「・・・本当は、イヤだったんだろ?夢破れて」
「何も感じんよ。契約者は。好きも嫌いも、夢もない。・・・あっても無いことにされるしな」
でも、別に困らんだろう?
契約者だから。
「お前もそうだろ、ベルタ」
「・・・そうさね。ホント、あたしらは無駄なく合理的な生き物だ」
不意に、一冊の表紙がベルタの目に入った。
タイトルは
「『バーバ・ヤーガ』・・・魔女?」
「人食いの魔女。子供を取って食う」
ペンキ入れのような、黒塗りの缶。
ぶくり。
泡沫の音。
中から、鈍く、低く、柔らかな音。
何かの鼓動。
・・・胎動。
これは
『対価さ。わたしのな』
緋色の女は、俺にそう言った。
『・・・そうか。なら、この中に入っているのは』
『上からの支給品だ。手頃なサイズだろう?』
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
『毎回苦労してたんだ。なにせ、私が力を使った後は猫の子一匹いなくなってしまうから。用意するのも面倒だし、保管場所にも困る』
『保管、か・・・』
『どうした?』
『なんでもない。地下にいるから、終わったら呼べ』
『・・・俺も、お前と同じか』
『同じさ。渇きの前に、契約者も人間もない』
目の焦点が定まっていなかった。
当然だ。
この過酷な環境では、半日でも干上がるのに。
「無限の死」という意味をもつこの砂漠で、人など砂礫に消える一滴の雫。
だから、
『飲め、黒。とっくに限界を超えてるだろう』
渇きを潤す、それだけのことじゃないか。
『・・・お前のだろう。俺のじゃない』
だから、ただの水と大差ないだろう。
『こんな所で死にたいのか、お前は。妹を残して。あの女を残して』
『・・・勝手に殺すな。飲めばいいんだろう』
そう、それでいい。
ゆっくりと、ゆっくりと手を伸ばす。
1センチが1メートルのように。
1秒が1時間のように。
そして、その手が
かしゃん。
緋色の女は、黒い缶詰を床に放り捨てた。
『もういい。十分だ』
外れた蓋がカラカラと音をたてて周り、カラン、と倒れた。
缶の中には、何も入っていない。
緋色の女は、男が背を預ける石壁の裏に回った。
石畳の砂を払いのけ、石畳に走る細い線に指先を伸ばす。
敷石の一枚を持ち上げた。隠し戸の下は小さな地下倉庫だった。
幾つもの紙箱やプラスチックケースが、隙間無く収められている。
書かれていたのは、『救援物資』『保存食』『水』を意味するであろう言葉と、赤い十字。
送り主からのメッセージと思しき言葉。
『人の子に神の祝福を』
緋色の女は、水の入ったボトルを手渡した。
『・・・わかってたんだろう?』
『いいや』
『ありがとな』
『人間が、どこまで人間なのか知りたくなっただけさ』
一つしかない毛布を二人で共有しながら、隣の男に呟いた。
『わかったのか』
相変わらず、無感動な声だ。人間のくせに。でも、
『十分にわかった。お前は人間なんだな』
私と違って。
『・・・お前は』
肉体を維持できるなら、摂取するモノはなんでもいいんだ。何でも。
『聞くまでもないだろう。乾けば啜り、飢えれば』
言葉が意味を為す前に、女の唇を塞いだ。
『・・・お前が契約者であれなんであれ、今の俺には女にしか見えない』
ランプの光を消した。
「わたしは魔女なの」
仮初めの巣へと走る夜汽車。
黒の膝枕の上で、銀色の少女は呟いた。
『うん、よく似合ってるよキルシーちゃん。まるでお姫様みたいだ』
わたしはおひめさまなんかじゃない。
『先生、もう少し近寄って頂けます?カメラに収まりませんから。キルシーも。もっと側に寄りなさい』
おひめさまは、ほかのおんなのおとこを、ほしいだなんておもわない。
『そしてお隣の国のお姫様と、王子様の結婚式を見届けると、人魚姫は』
『ねぇママ、どうしてにんぎょひめは、そのおんなをころさないの?』
おひめさまは、ひとごろしなんか、かんがえない。
「私は、思ってた」
じゃまならころしてしまえばいい。
そうも思ってた。
だから、わたしは
『気味が悪い』
―――バレたか。
女の動きは猫のように素早い。
柔らかな肌の触れ合いが、たちまち組み手の痛みに取って代わった。
割り込んだ脚は、蟹鋏にでも挟み込まれたようにぴくりとも動かせない。
か細い左腕が大蛇の如く首元を締め上げ、自分の掌からするりと抜け出た右手は、もう頸動脈の横にいる。
星明かりで煌めく刃を、まるで毒牙のように生やして。
―――まさか、自分の得物が自分の首を脅かす事になるとは。
女は全体重をかけて自分と上下を入れ替えた。
影色の砂から夜色の空に、背景がぐるりと回る。
砂のざらりとした感触が剥き出しの背中を舐めた。
垂れ下がる墨染めの緋色髪から覗く、殺人機械の灯火。
それ以上に炯々と輝く、翡翠色の双子星。
『気味が悪いんだよ。昼も夜も、お前が私に優しくするなんて』
―――不気味すぎて、身の危険を覚えるじゃないか。
『・・・演出過剰だったか』
『ああ。頬をひっぱたいて服を毟るほうが、余程お前らしい』
―――依頼されたんだろ?
隠すだけ無駄だな。
『そうだ。南米までに発散させてやれ―――俺が上から聞いてるのはそれだけだ』
『それ、上申したのはアンバーだな』
『え?』
『前の任務、お互い生理前で苛ついてたんだよ。私が感情任せに暴れたら、死体があと二桁は増えるってさ。彼女も派手に殺ってたが』
―――ん、どうした?恋人が、他の女に自分をあてがったのがそんなに不服か?
『私達みたいな殺人機械がヒステリックな感情で動いたら、歯止めが利かなくなるだろ』
機械にもガス抜きが要るんだよ。男でもなんでも使って。
『お、お前ら、揃いも揃って、この――――』
銀色の少女は、繰り返し尋ねた。
伏し目がちに自分を伺いながら。
「私は魔女なの。・・・それでも、仲間?」
仲間。
同類。
・・・あの強かな魔女たちよりは、遙かにマシな部類だ。
「魔女の相手は慣れている。お前など見習いの半人前だ」