『力をつかえ』
いや。殺すのはいや。
『5キロ四方、全員殺せ。お前なら出来る』
赤ちゃん、食べたくなんかない。それに、おまえも
『言っただろう。自分のことだけ考えろ。俺も対価もどうでもいい』
おまえは、おまえだけは、いや。
緋色の女は、そう言って泣き崩れた。
普通、契約能力というのは、その効果範囲が認知可能な空間までであるものが殆どだ。
だから、契約者は、せいぜい目に映る範囲の相手しか殺せない。
どれだけ強力な契約者でも。
だが
緋色の女だけは、別だった。
当たり前だが、音もなく背後に忍び寄られたら、契約者でも何一つ出来ずに殺される。
契約者は、鋼の皮膚を持つわけでも、不死に等しい回復力をもつわけでもない。
所詮、生身なのだ。
だから
あの女でも死んでしまうのか。
「そんなに強くても、死んでしまうのかい」
黄から志保子と呼ばれた女は、俯き加減で黒に尋ねた。
「ああ、死んでしまった。・・・おかしな話だ。生きたいなら、殺したほうがいいのに」
黒は、女に聞いてみた。こんな事を聞ける相手は滅多にいないから。
「あんたに聞いてみたいことがある。―――合理的になるから、人を殺すのか」
僅かばかりの、間。
女は答えた。素地を曝した契約者特有の、冷ややかな語調で。
「・・・殺人は、突発的な激情に駆られた動機が一番多い。殺しは感情の産物さ。合理的に考えるなら、普通、殺人なんて割に合わない。でもね」
突然、契約者ではなく、人間の声に戻った。
生身の女の声だ。
揺れる心がそのまま言葉を羽織った、そんな声だった。
「その人は感情的になったから、殺せなかった」
黒は、苛立ちとも悔悟ともつかない何かを滲ませた声で返す。
「感情的になったばっかりに、あいつは死んでしまった」
くっくっ。
「ホント、おかしな話さね」
女は、他人事を自嘲的に笑った。
でも
「その人の気持ち、あたしはわかるよ。痛いくらいにね」
底の無い何かが、女の瞳に満ちる。
「あたしね、対価が・・・罪悪感が、どんどん軽く感じるようになってきてるんだ。もっと言うと、慣れてきてる」
だから、わかるんだ。その女の気持ち。
「このままだと、何かのはずみであの人を殺しても、何も感じないようになってしまうかも知れない」
底の見えない、黒よりも深い闇色。
だが、そんなモノにこの女が沈む必要はない。あいつと夫婦になろうとしている女が。
何より、沈ませたくない。
「あんたは、ただ組織の駒として利用されてただけだろう。そんな風になったのも、元はといえば」
「他人様を一方的に誹れるほど、綺麗な身体の女じゃないんだよ。私は」
けらけらけら。
「売女が夢を見ようなんて、烏滸がましいじゃないか」
「・・・だそうだ、黄。お前、愛されてんなぁ〜」
茶化し半分の猫の声が、スピーカーから車内に響いた。
どういうルートか知らないが、猫お得意の回線ハッキングだろう。
「暇だなお前・・・事態はそれどころじゃねーだろ!」
だが、小気味よかった。
志保子。
お前の話を聞けて。
猫介よばわりしていたが、流石は契約者。抜け目がねぇ。
盗聴器か録音機、そういった類のモノを黒に仕込んでいたのだろう。
「まぁそういうな。お互い、これが最期の言葉かもしれねーし」
にゃはは。
呑気な猫の声。
「軽ィ声で重すぎる事を言ってくれんなぁ。ま、正気の沙汰とは思えないことをやるのは、俺も同じだがよ」
腹に鉛玉をくらい、何台もの追跡車に追われていたのに、痛みも緊張も一気に緩んだ。
組織のエージェント達がやってくる。
「わりぃな、オヤジ一人しかいなくてよ」
爆弾の起爆ボタンを、押した。