「見当違いなのはわかっています。」  
警視庁公安部外事四課課長・霧原未咲は、いかにも不機嫌そうな顔で言った。  
「その割には、納得いかない、と言いたげに見えますが?」  
金髪の白人は笑顔で返した。  
喫茶店の屋外テーブルで向かい合って座るのは、イギリス外交官ジャック・サイモン。  
またの名を、ノーベンバー11。  
 
お互いハヴォックに関する案件で、細々とした事務処理を終えた後だった。  
 
でも、と霧原は口にした。  
「どうしても私には、彼女に敵意や殺意があったとは思えない・・・殺す必要があったとは思えないのです」  
「そのお優しい心中お察しします。しかしながら、彼女がわずかでも殺意を持った時点で、我々はもうチェックメイトなのです。即座にアイスパウダーにされていたんですよ」  
私の前で、彼はかき氷の山を崩しながら言った。  
 
しゃくしゃく。べしゃり。  
 
スプーンで弄んでいた氷片の塊が卓上にこぼれ落ち、つぶれる。  
――彼女の能力がどんなものか、もっと詳しく御説明しましょうか。  
 
サングラスに隠れた眼光が、鋭くなった気がした。  
「任意の場所に真空を作る事、と聞いていますが」  
「その通り。しかし真空空間というのはただ空気が無いというだけではありません。摂氏マイナス二百度でもなかなか凍らない、血液すら凍る絶対零度の空間です。」  
 
――うう、冷たい。これが日本の風物詩ですか。  
 
彼は頭を軽く叩いた。  
・・・真面目に相手をして貰えているのだろうか、私は。  
 
―――私はいつだって真面目です。  
自分の心を見透かしたような返事に、少し驚いた。  
 
「そして超低気圧だ。副次発生した巨大竜巻がミキサーと化し、すべてを飲み込み粉砕する。犠牲者が数百から数千というのは、辛うじて区別可能な肉片から割り出せた死体の数なんですよ。」  
 
―――勿論、その百倍以上の行方不明者がいるわけですがね。  
 
形を保っていた氷片が、一気に溶けた。  
純白のテーブルクロスの上に、赤いシロップがじわりと染みを作り、溶けながら広がっていく。  
――あの検死写真の血痕にそっくりだ。  
荒事や修羅場は見慣れているはずなのに、なぜか記憶の中の写真にぞくりとした。  
心を落ち着かせようと、私はアイスコーヒーに口を付ける。余計鳥肌が立った。  
 
しゃりしゃりしゃりしゃりしゃり。  
 
ほら、あんな風に―――彼は屋台のかき氷器を指さす。  
くるくると回る氷が、ぱらぱらと塵に変わっていた。  
 
ぱらぱらぱらぱら。  
砂時計の中で、ゆっくりと落ちる。  
覚め切らぬ微睡みの中、黒は思う。  
 
落ちた砂は戻らない。  
 
赤い砂に重なって映る、朱の自分。  
夕日が紅く染め上げたガラスの檻を、止め処なく滑り落ちる緋色。  
 
―――過去も契約もどうでもいい。自分のことだけ考えていろ―――  
 
嵐の中、震えて走る緋色の女に、自分はそう言った。  
なら、それなら  
 
ぎぃ。  
 
誰だ。  
 
「・・・・・・銀。」  
臙脂色に染まった部屋に、銀色の人形が入ってきた。  
 
『計画が少し変更になった』  
『ターゲット二人、俺が消すだけで済みそうにないのか』  
『死体の数が少しだけ増える。ほんの二万人』  
 
『自分の子供だろ』  
『私の子供だから、高く売れるんじゃないか』  
 
『それで、この金で何を買ってくればいい』  
『五、六人用意してくれ。釣りはやる』  
 
『・・・あいつの能力で動けなくしたのか』  
『ナイフとバスルーム、借りるぞ。少し生臭くなるが』  
 
『洗濯機、使わせてくれ。服のこと忘れていた』  
『何処に干す気だ。それに、・・・・吸い殻も』  
『五月蠅かったか。なら今度は喉から切ろう』  
『・・・もういい。釣りで服を買っておいた』  
 
 
『・・・私が人並みに生きたいと言ったら、驚くか?』  
 
「驚いた」  
黒は呟く。  
「・・・さっきの寝言の相手は、誰だ。」  
 
緋色の女はびくり、と震えた。  
「仕事で殺した子供か。血を啜った子供か。・・・それとも、おまえの」  
唇を唇で塞がれ、視界が突然赤に変わる。  
れんげが手を離れ、米粒が落ちる。見えないが。  
 
がたり、という音がした。  
ああ、テーブルが倒れる。まだ残っているのに。  
 
ばたっ。  
痛い。  
 
床の上で、緋色が黒に重なった。  
 
ぬちゃり。  
銀の舌が黒の口内をまさぐる。  
 
――下手だ。  
黒は唇を離し、自分に覆い被さる銀の上体を持ち上げる。  
銀色の人形が言葉を紡いだ。  
「『どうしてそう思った?』」  
 
・・・・・・・・・。  
 
「・・・・・・『まるで子供をあやすような声色だったからだ』」  
 
「『そうか。・・・私だって、男に温もりを求めるか弱い女なんだぞ』」  
「『何処が』」  
「『いじわる』」  
「『不気味だ。盛った憶えはない。用意はしていたが』」  
「『・・・どうして信じてくれないの?』」  
「『頭でも打ったか。自分を信じてくれる相手がまだいると思うのか』」  
「『なんで?私は黒を裏切らなかった。黒も私を裏切らなかった。』」  
「『他に何十万人裏切った』」  
 
少し困ったような顔をして、人形は首を傾げた。  
 
「『じゃあ・・・もう、おまえの子供、売らないから』」  
「『・・・・・・・・・・・・・』」  
「『赤ちゃん、たべないし、すてない。だから、わたしもすてないで』」  
「『他人様の子供にも手を出さないと、約束できるか』」  
「『・・・がんばる。だから、・・・おとうさんになってくれる?』」  
人形は自分の手を取る。  
下腹部を、慈しむように撫でた。  
 
人形劇はこれくらいでいいだろう。  
閉幕のベルはとっくに鳴り終わっているのだし。  
見ていたのか。・・・あの子のときも。  
 
黒は身体を起こした。  
「もういい。気持ちだけ受け取っておく。帰れ」  
銀色の人形は首を横に振る。  
「わたしは、ない。あのひとの」  
ぱらり。  
束ねていた銀髪がほどける。  
 
空は緋色から藍色に。  
藍から黒に。  
黒から闇に。  
でも、銀髪は緋色に染まったまま。  
紫水晶の瞳に、翡翠が混ざった気がした。  
「さいごの、ことば」  
 
人形の右手が、自分の頬をゆっくりと撫でる。  
「『死にたくない。お前と生きたい』」  
人形の柔らかな唇。  
「・・・俺でよければ」  
黒は、緋色の人形をそっと抱き寄せた。  
 
 

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