「食事のあとに、身体を重ねる・・・5年前にもこんな事があったかな」  
赤毛の女の呟きに、装備を確認していた黒髪の男が手を止める。  
「南米の・・・記憶か?何か思い出せたのか?ゲートに近づかずに済むなら、それに越した事はない。」  
「そう焦るな。ちょっと待て・・・」  
赤毛の女は口元に手を当てる。  
黒髪の男は真剣そのものの表情で、赤毛の女の顔を見た。  
「あの時の記憶でなくてもいい。空白になる直前までの記憶を、思い出せそうにないか」  
「・・・思い出した。金返せ。」  
 
 
5年前の南米。  
あれが起こる前。  
偵察任務か何かか、理由までは思い出せないが、ある街で、私とお前は行動を共にした。  
それで、私は食欲は無かったが、お前と屋台で夕食を一緒にとった時だ。  
「金、貸してくれ」  
「え?」  
「財布を忘れたらしい。」  
「・・・・・・・・・・この皿の山を払えと?」  
「頼む」  
「・・・・・・・・・・」  
「頼む」  
「・・・・・仕方ない。すぐに返せよ。」  
「親父、あと20皿大盛りで追加」  
「奢らせた上まだ食う気か!?」  
 
その後、お前は眉一つ動かさずに、いけしゃあしゃあとこう言ったんだよな。  
 
「ろくに食べてもないのに財布が一気に軽くなった。金が無いなんてのは、注文する前に気付け」  
「いや、店に入る前から気付いてたんだけどな」  
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
「どうした、ナイフなんか取り出して。たかが飯代ぐらいで感情的になるな。契約者らしくもない。こんなの契約者同士じゃ序の口だと聞いてるが」  
「知ってるのはそれだけか。じゃあ契約者は刺すのに躊躇が無い事も教えておこう」  
 
「逃げるな」  
赤毛の女は、自分に背を向けドアノブに手をかけようとする黒髪の男の肩を掴む。  
身体をこちらに向き直させるが、顔はまだ自分の方を向いていない。  
両手で顔をつかみ、無理矢理自分に向けさせた。  
男の顔は、少し赤みがかっている。  
「目を逸らすな」  
新しい悪戯を見つけた子供のような、無邪気さと意地悪さを含んだ笑みで、黒髪の男の顔を見つめる。  
「でも、その後に挿されたのは私だったし」  
黒髪の男は、表情こそ平静だが顔はさらに赤くなった。  
赤毛の女から、今にもけらけらという嗤い声が聞こえてきそうな気がした。  
「ホテルに戻ったら、お前、頭金として身体で払おうとか言い出した。娼婦の私を抱いといて頭金だぞ?逆だ逆。金取るのは私の方だ。単にお前が抱きたかっただけだろ。そんな奴に抱かれる私も私だけど。しかも他の奴に聞いたら、お前、あの任務後すぐに転属とかいうし」  
「・・・もう何も思い出さなくていい・・・」  
「そうか。ならもっと思い出したくなってきたな」  
 
「本当に行っていいのか。お前は、能力を取り戻したいわけではないのだろう。」  
黒髪の男は、カウンター上に置いたワイヤーギミックを調整しながら赤毛の女に聞いた。  
「まあ、な・・・・・・」  
赤毛の女は、ガラス棚の新しいワインボトルに手を伸ばしながら答えた。  
「でも、お前には必要なんだろう。私の記憶が。」  
反対側のカウンターで、ボトルとグラスを並べ、栓抜きを取り出す。  
「思い出せたところで、有益な情報とは限らない。最悪の場合、お前がただ力を戻すだけで終わることもあり得る。・・・リスクに比べて、支払う対価が大きすぎる」  
「合理的だ。が、他人の身を案じるなんて、契約者の考え方ではないな」  
赤毛の女は、新しいボトルの栓を開けようとするが、上手くいかない。  
栓抜きを回す右手に力が入らないのだ。  
黒髪の男が、カウンター越しに女の右手を両掌で包み込む。  
「・・・すまなかった」  
「そんな詫びより、さっさとコルクを抜いてくれ。契約者らしい合理的な判断を頼む」  
ばつが悪いような表情で、黒髪の男はボトルを開けた。  
 
「お前の期待を裏切るようで悪いが、私は、何も起こらないんじゃないかと踏んでる」  
二本目のボトルを空にし終えて、赤毛の女は言った。  
「だが、パンドラはお前を・・・」  
「パンドラが何を考えてるのか知らないが、力を戻す見込みが半信半疑だから、私をゲートに送ろうとしたんじゃないのか」  
赤毛の女は、棚から三本目のボトルと、グラスを二つ取り出した  
「前に実験体の喪失者をゲートに近づけてみて、そう極端な変化は無かったんじゃないだろうか。でなければ絶対に私を近づけさせないさ。私が力を取り戻したら、十キロ単位で周囲が消し飛ぶんだぞ。最悪の場合、ゲートごと吹き飛ばされたらどうする」  
赤毛の女は、片方のグラスが赤で満ちると、もう一つのグラスにもワインを注ぎはじめた。  
「実際、この国に来てから、体調や精神の変化を何も感じない。」  
先に赤で満たされたグラスを、黒髪の男に手渡す。  
「幾つもの国と海を越えて、それだけ近づいて変化が無かったんだ。今更数キロ近づいたくらいで何がどうなる。それも、隔離壁すら越えるわけでもないのに」  
黒髪の男はグラスをゆらしながら、揺蕩う赤をじっと見た。  
「しかし、契約者があれに近づくと力が暴走すると言われている。」  
思い切って、グラスの中身を一気に飲む。  
「言われているだけではないのか。何より、私は前提条件である契約者ですらない」  
黒髪の男は、意外だった。  
「昔に戻るなら殺してくれとまで言っていたお前が、そこまで楽観的な見方をするとは思わなかった」  
「酔ってるのかな。・・・飲むのは慣れてるんだが」  
――対価を払う前に、いつも強いのを飲んでいたからな――  
まとわりつく何かを払うように、赤い髪を軽く揺らす。  
「楽観論と悲観論は等価だ。だが契約者は基本的に最悪のケースを想定するから、メリットよりリスクを重く見る傾向がある。組織もそんな考えか。・・・なにより今回の件、メリットが何もなくて、リスクしかないからか」  
「組織は、恐らくゲートでお前がすべてを取り戻すと考えている。だから俺に攫わせたんだろう・・・余程記憶と力を取り戻して貰いたくないらしい」  
 
赤毛の女は、ほんのりと桜色に染まった顔で自嘲的に嗤う。  
「すべて?取り戻す?私に持ち物なんて、何も無い。」  
――すべて壊して、ずっと持ってたボトルもいつの間にか無くした――  
「・・・頬が赤いな」  
女の頬が赤いのは、酒のせいだけじゃない。  
また邪険にされるかも知れないと思いながらも、黒髪の男は女の右頬に、そっと左手を伸ばす。  
だが今度は、赤毛の女は満更でもないという表情で、男の手を止めようとはしない。  
――なんだ、お前、それ一杯で酔ったのか?――  
赤毛の女はまた、くすくすと笑った。  
「やっぱり酔っているな、私も。時間が無いのに、お前と身体を重ねようとするくらいだ。・・・取り戻しても、記憶だけではないだろうか。甘いかな」  
 
「それより、私が心配なのはお前の方だ。・・・お前、この後どうするんだ?組織にはまずいられない。」  
「どこかに身を隠すさ」  
「どこかって何処だ?契約者に行くあてなんかあるのか」  
「何とかなる」  
「何が?金は?住む場所は?よしんば仕事が見つかっても、いつ来るかも知れない敵におびえて一生逃げ回るんだぞ。まぁお前なら顔と身体で世渡りできそうだけど・・・現役が言うんだ。間違いない」  
「・・・・・・・・」  
「冗談だ」  
 
「私を連れていかないか。・・・さっきも言ったが、夢の続きが見たい」  
黒髪の男は、少し驚いたような顔をした。  
「ローラの家族と別れて、私の夢は一度覚めてしまった」  
 
――ああ、私がここに来るまでの経緯をお前は知らないんだったな――  
 
「街で買い物をしてたら、妙な連中を見かけることが日毎に多くなった。だから、人目につかないところまでずっと歩いて、捕まってやった。」  
カウンターに並べられた刃物を一つ一つ鞘に収めながら、黒髪の男は聞いた。  
 
「排除しようとは考えなかったのか。能力が無くても、お前ならそれくらい出来ただろう」  
「相手の規模もわからないのに簡単に殺せるか。・・・下手をすれば数カ国を敵に回すかもしれないのに」  
そう言い終えた後、くくっと小さく嗤う。  
「ところが捕まってみたら、そこらの田舎マフィアじゃないか。笑えるよ。全員殺しておけば良かった」  
黒髪の男は、最後の、最も大きなナイフを鞘に収める。  
「なら、どうして逃げ出さなかった」  
「・・・今回は雑魚でも、次はわからない。ローラたちは、私といるだけで危険がつきまとう。案の定、すぐに次が来た」  
 
――でも、そのおかげで変わったお前とも会えた。そして、そんなお前となら――  
赤毛の女は、もう一度男の顔に手を伸ばす。  
 
「夢の続きを見てみたい」  
 
――そんなことが彼女に知れたら、殺されるかもしれないけど――  
 
空になった三本目のボトルが、カウンターから落ちて砕けた。  
 
「時間をかけすぎたな。早く行こう」  
行き先は地獄の門。  
始まりと終わりの場所。  
グラスに残った最後の一滴を飲み終えると、赤の女と黒の男はその場を後にした。  
 
終  
 
 

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