ある日、学校帰りの神狩屋に寄ると  
「あれ、神狩屋さんは」  
 店主は不在のようで、蒼衣より先に店に来て席についている雪乃に尋ねる。  
「買い出しに出かけているそうよ。颯姫ちゃんは奥でお茶の用意」  
「そっか」  
 何か話そうかと思ったが、それきり黙りこむ雪乃の横顔を見つめる。  
 いつもの光景だと苦笑して思考を切り替えして、辺りを見回す。  
 なんとはなしに棚にあった置物に手を伸ばした時だった。つるりと足元が滑った。  
「――っ!」  
 床にモップをかけたばかりだったのだろうか。とっさに近くの棚を掴み、転倒をまぬがれた。跳ね上がる心臓を押さえる。  
 しかし棚を掴んだ拍子に展示されている商品を壊したりしたらことだった。気をつけなければ。自戒する。  
「……」  
 何やってるのよ、と言いたげに一部始終を見ていた雪乃の視線に、蒼衣は照れ笑いを浮かべると、  
雪乃は今まで自分が蒼衣を見ていたことに気付いて、その事実を不快に感じたのかむっと眉を寄せる。  
 それを受けて蒼衣は苦笑をした。いつものことだ。  
「!」  
 と、油断した蒼衣の足元がさらに滑った。  
「……!」  
 転倒の寸前、とっさに雪乃が身を乗り出し蒼衣の服の袖を掴んだ。しかし止めること叶わず、  
もんどりうって二人とも床に倒れこむ。  
「いた!」  
 目の前に火花が見えたような衝撃が走り、額をぶつけたと一瞬遅れて認識したあと、柔らかなものが唇に触れた。  
「……」  
 時間からすれば一瞬のこと。  
「…………」  
 このうえなく近い距離にいる雪乃と目が合った。  
「………………っ!」  
 互いの視線が交わったその瞬間、水を打ったかのように思考が戻り――ばっと引き剥がすように離れた。  
 今、自分の唇に触れたのは……雪乃の唇……?  
 そのことに気付いて再度動揺する蒼衣。  
「あ……ご、ごめん!」  
「……っ」  
 とっさに出た謝罪の言葉に、雪乃は何かを言おうとして――しかし何も発せず、  
唇をきゅっと引き締めると、無言で立ち上がる。  
「……本当に、ごめん」  
「うるさい、殺すわよ」  
 蒼衣の謝罪を遮るようにそう切って捨てると、もはや何も聞きたくないとばかりに、  
不機嫌に顔を背ける。  
 これ以上話しかけるなと何よりも如実に語る背中。  
 それを天より高く聳え立つ壁を見るような思いで見ながら、照れているのだろうかと  
考えるのはあまりにも楽天的だろうと思う。  
 ……どうしよう。  
 雪乃が気になる身としては刹那的には幸せかもしれないが、そんな刹那の幸福など  
味わう暇もなく霧散し、重いものが胸を占めた。  
 頭を抱えたい思いで一杯になり、何か手はないかと考えをめぐらせた時だった。  
 
 カタン……!  
 
 音がしたほうに目をやると店の奥に繋がる通路で少女が立ち尽くしていた。  
 両手で持ったお盆に載せられた茶器のカップがかたかたと震えていて今にも取り落とさないか心配だった。  
「……颯姫ちゃん……」  
 颯姫の顔は、何を見たのかと問いただすまでもなく一目瞭然だった。  
 蒼衣はそれを見てこの先の展開を予想し――この上なく嫌な予感で満たされる。  
「……ごめんなさい! ごめんなさい!」  
 開口一番、頭を下げる颯姫。  
「いや、その……」  
「見るつもりはなかったんです!」  
「そうじゃなくて」  
 ここで颯姫に騒がれては事の成り行きがこじれそうで蒼衣は取り繕うとするも、混乱した颯姫は聞いていない。  
「大丈夫です、すぐに忘れちゃいますから!」  
 何が大丈夫なのか。頬を真っ赤に染め、おろおろと恥ずかしげに右往左往する。  
「だからそうじゃないんだ。えーっと」  
 
「――颯姫ちゃん」  
 
 混乱する場の空気を冷たい声が遮った。  
 思わず固まる蒼衣。  
「これは事故なの」  
 雪乃の、この上なく冷たい声。  
「そうよね、白野君」  
「う、うん」  
 念を押されて、少し悲しいがそれが事実なので、同意した。  
「だからあなたが思うようなそういうことではないの」  
 首筋に氷を押し付けるかのような雪乃の声に気圧されてこくこくと頷きかえす颯姫。  
「わかりました……」  
 その凄みでとりあえずはその場の混乱が収まった。  
「えーっと、お茶持ってきますね」  
「いや、お茶ならここに……」  
「お菓子を持ってくるの忘れちゃいました! あははー」  
「……」  
 逃げるように奥に引っ込む颯姫の背中を蒼衣はどこか恨めしい思いで見送った。  
 
* * *  
 
「……」  
 いつもの巡回に出かける。しかし雪乃は無言だった。  
 元より雪乃はお喋り好きというわけではないが、状況が状況なだけに意図的な無視に思えて、蒼衣は焦る。  
「雪乃さん」  
「……」  
 前を行く雪乃に話しかけるも、返るのはやはり無言。  
「そのうがいとかしなくていいのかなって」  
「……?」  
 その言葉に雪乃はようやく振り返り、訝しがる視線で続きを促す。  
「その、あんなことがあったし……口をゆすがないと嫌なんじゃないかって」  
 それを聞いて、雪乃は一瞬呆気に取られたような顔をして、やがてため息でもつきそうに眉を寄せる。  
「……うるさいわね。もうその話題はやめてっていっているの」  
 話題に出すのも嫌ならしい。  
 
『あらあら雪乃、照れているのかしら』  
 
 突如、風乃が現れる。  
 面白いものを嗅ぎつけた猫のような無邪気な嗜虐心に満ちた笑みを浮かべながら。  
「……姉さんは黙っていて」  
 そんな野次馬根性の的に挙げられるのは我慢ならないのだろう。雪乃は不機嫌さを押し殺した眼差しを向ける。  
 しかし雪乃が風乃に勝てた試しはなく、  
『初めて男の子とキスしたというのに。素直じゃない子ね』  
「……!」  
 初めてと聞いて、思わずぎょっとする蒼衣。風乃の挑発に雪乃はもはや不快感を隠そうとせず眉間に険しい皺を寄せる。  
 そんな雪乃の反応に風乃はますます楽しげに声を踊らせる。  
『これが物語ならさしずめお姫様に目覚めを促す王子様のキスといったところかしら?   
 ふふ……偶然も必然も神様の手の上だもの。だとすればこれはどんな物語になるのかしらね』  
「…………黙って」  
 押し殺した雪乃の殺意。  
『頑張ってね、王子様』  
 風乃は蒼衣に微笑むとかき消えた。  
 この状況を楽しみかき回すだけかき回して消えていった風乃を蒼衣は恨めしく思いながら消えた虚空を眺める。  
 
 ややあって。  
「……白野君こそ、いいわけ?」  
 雪乃の言葉に一瞬、考える。風乃が現れる前までの会話の続きだ。それで雪乃が蒼衣に  
気を使っているのだと考え至り、  
「いや、僕は別に……嫌じゃないし」  
「……っ!」  
 後で思えば見当外れなことを言ったように思う。でも蒼衣は後悔しなかった。本心だ。  
 さすがにキスできて嬉しいと言うことまではできなかったけれど。  
「……」  
 その場から歩みを早める雪乃。  
「……雪乃さん?」  
 一瞬見えた横顔、その頬が赤く染まっているような気がしたが、前を行く雪乃の顔をもう一度見ることは出来なかった。  
 
……  
…………  
 
『蒼衣ちゃん、キスしようか』  
 
 ある日いつもの場所で遊んでいたら、葉耶がそんなことを言った。  
 葉耶は早熟な子供だった。だからそんなことを言ったのだろうと思う。  
 好きだからキスをする。蒼衣も葉耶のことが好きだったからそれを抵抗なく受け入れた。  
 別に恥ずかしいことだとは思わなかった。社会的な常識を身に着ける以前の二人だけの  
世界ではそれはおかしなことではないと思ったのだ。  
 葉耶がそういうなら、それは両者の関係では自然なことだと――  
 
「……」  
 今日、事故とはいえ雪乃とあんなことがあっても、葉耶を思い出してしまった。  
 自分がそれだけ葉耶に――自分が見捨てた幼馴染に捕らわれていることを意識する。  
 雪乃を好きだという気持ちに変わりはない。だが、こうして葉耶を思い出すたびに、  
雪乃に対しての裏切りになるのではないかという思いが脳裏をよぎる。  
「……」  
 雪乃は今も怒っているだろうか。  
 気にしているとまた疎ましがられるかと、明日会う時はなるべく普段と変わらないよう  
接するべく心がけようと思うが、今はどうにも頬の熱が引きそうにない。  
 甘くて苦い思いを蒼衣は噛みしめた。  
 
 
 
……  
…………  
 
 雪乃は唇に触れる。  
「……」  
 忌々しさが胸中にこみ上げてくる。  
 ただ、皮膚同士が触れただけだ。そう言い聞かせる。  
 化け物はこんなことは気にしない。こんなことで苦痛も恐怖も感じない。  
 ましてや喜びや幸福などあるはずがない。  
 しかし思い出してそうした穏やかならない浮ついた感情が去来するようで。  
 今もまだその感触が残っているようで、そんなことを気にする自分自身が不快で雪乃は唇を擦った。  
 

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