――その『少女』は、出逢ったときには既に『経産婦』だった。
ただ“姫”とだけ呼ばれるその有名な少女のことは、彼女がこのロッジに来る前から知っていた。
だから姫がこのロッジに来た理由も、最初から識っては、いた。
姫は、三度の出産を経験したとは思えないほどピュアで、可愛い少女だった。
実年齢は20代らしいが、どうみても10代後半の外見と性格――それが、頭の中に巣食う蟲に凡ての記憶と感情を喰われ続けているせいだと気付くのには、そう時間はかからなかった。
首から下げた手帳を大事に大事に、僅かな記憶と感情を忘れないように繰り返し眺めながら過ごす姫に惹かれるのにも、時間はかからなかった。
「大好きですよ」
姫の言葉は、甘い蜜となって身体に染みていく。
「恥ずかしいですけど……何だか以前にもこうしたことがあった気がします……」
初めての夜、戸惑いながら呟く姫。
姫の記憶の片隅に残っている『誰か』の存在に激しく嫉妬しながら、瑞々しい身体を抱き締める。
「あ……っ、やん」
態度は処女のそれ。しかし身体の反応の端々に見え隠れするのは、かつてこの身体を味わった男たちの影。
その影を自分の存在に置き換えたくて、姫を連日抱き続けた。
蜜月は、長くは続かなかった。
姫のお腹に、新たな命が宿った――毎日抱き合っていれば当然の帰結だが、それは姫との別離れを意味していた。
「男の子かな?女の子かな?」
お腹を撫でながら、幸せそうに微笑む姫。
「この子のことは、毎朝起きても絶対覚えているんです」
覚えていられる――そんな存在を、束の間でも彼女に与えることが出来ただけでも、自分の存在価値はあったのかもしれない。
例え、出産後には忘れてしまう子だとしても。
そして姫が安定期に入り、別離れの日がやってきた。
「おはようございます。今日もこの子は覚えてました。もちろん、あなたも」
いつも通りの朝。いつも通りの姫の第一声。
「今日は『お仕事』があるんです。久しぶりのお仕事みたいです。世話役さんがそう言ってました」
彼女の『仕事』は妊娠が解ってから控えられていた。
食害を使うことで、お腹の子に万一のことが起こらないように。
彼女は、大事な『繭』だから。
だから、仕事と言うのは嘘だ。姫をこのロッジから離すための口実に過ぎない。
そして、姫は二度とこのロッジには還ってこない。
こうなることは最初から解っていたはずだ。
彼女がこのロッジに来た理由……それは、年齢の近い自分との間に子どもを作らせるため。
大切な『食害』の血脈を途切れさせないように。
だが、そんな周囲の思惑とは関係なく、惹かれずにはいられなかった。
子どもと同じく、いずれ彼女の記憶から自分の存在が消えてしまうと解っていても。
風の便りで、彼女が無事に女の子を出産したと聞いた。
姫がいなくなった日常。姫が来る以前に戻っただけ――そうは思えない自分がいる。
彼女が忘れてしまう代わりに、せめて自分は彼女と、彼女の子どものことを憶えていたい。
そんなある日。
世話役から封筒を渡された。
「渡すべきかどうか、かなり迷ったんだけど」
申し訳なさそうな表情を浮かべながら、世話役が言葉を続ける。
「姫の最期の相手である君に、これを持っていて欲しい」
頭の中が真っ白になる。
出産を繰り返しているといずれ『食害』に全身を喰われる――過去の例から導き出された事実。
知っていたはずなのに、姫が元気であることを疑いもしていなかった。
『出産』は無事に終わった。
でも彼女は……。
封筒を開けると、中に手帳が入っていた。
姫がいつも大事に首からぶら下げていた手帳だ。
恐る恐る、手帳を開いてみる。表紙の裏のページには、ひらがなの50音表が貼ってあった。
そして、ノートには毎日の記憶を補う、彼女の文字。
たわいもないことから重大なことまで、雑多に書かれた、記憶の欠片たちに一気に目を通す。
最終ページを見た瞬間、嗚咽が止まらなくなった。
『
★つぎのてちょうにも、ぜったいにかく
わたしのなまえ
たのうえ さつき
たいせつなひと
しらのさん
ゆきのさん
ゆみこちゃん
かがりやさん
:
:
:
』
並んだ「たいせつなひと」の最後には、自分の名前が書いてあった。