きっかけは、ほんの些細な会話だった。
『神狩屋』を訪れた時槻雪乃の手には、普段の通学用の鞄とは異なる荷物があった。
「わあ……もしかしてそれ、チョコレートの材料ですか?」
目ざとく見つけた田上颯姫がたずねると、雪乃は不機嫌そうに言った。
「こんな物を喜ぶ人間の気が知れないわね」
雪乃が普段よりも辛辣な態度で颯姫にあたるのには理由があった。
バレンタインデーなどというものは、雪乃は自分に無縁なイベントだと思っていた。
一週間以上前からバレンタイン一色に染まっている街を見ても、意識することはない。
少なくとも、数日前まではそうだった。
その日、神狩屋と蒼衣が揃っている時に颯姫が余計なことを言ったのだ。
「なんだか楽しそうですよね。そうだ、雪乃さん。一緒にチョコレートを作りませんか?」
雪乃は当然その場で拒絶した。
そんなイベントに夢中になってしまうのでは、怪物には程遠いと感じたためだ。
颯姫の感情は理解した上で、雪乃は拒絶した。
しかし、颯姫の発言に二人の男は口元を綻ばせた。
「やっぱり女の子だね。料理を教えてあげられたらと常々思っていたんだ。いい機会だと思うよ」
「うん。僕も賛成だよ。手伝うことは出来ないけれど……応援してる」
そこから先は会話に加わることさえしなかったのだが、それが失敗だった。
雪乃が参加しない間に、前日に『神狩屋』で作ることが決まり、雪乃が手伝うことになっていた。
もちろん当人の承諾はなかったのだが、夢見子の世話に関するメモに混ざって壁に張り紙がされていたのだ。
『二月十三日。雪乃さんとチョコを作る』
その紙を剥がすことは簡単だった。
それでも雪乃がそうしなかったのは、罪悪感があったためだ。
記憶の不安定な少女が必死に覚えていようとした努力である、一枚のメモ。
それを平気で破り捨てられるほど、雪乃は冷酷な怪物になりきれてはいなかった。
かくして、雪乃にとっての悪夢は現実となる。
「――そろそろかき混ぜるのは終わりね。颯姫ちゃん、型の準備は出来てる?」
「ばっちりですよ。私の分の星型も、雪乃さんの分のハート型も用意できてます」
「……悪いけれど、使う型を交換してもらえる?」
額に手を当てた雪乃が最後まで言い終える前に、店の入り口から声が聞こえてきた。
「すいません。鹿狩さーん。判子かサインをお願いします」
宅配便だった。送り主の名前は四野田笑美。
開封した小包の中には、おそらくチョコレートが納まっているであろう箱が二つと手紙が入っていた。
「以前、応援に行ったロッジの世話役の人ね」
雪乃は嫌な思い出を封じ込めながら、鋏を使う保持者の顔を頭に浮かべた。
彼女は飲食店の経営者だ。普通の料理では自分たちに勝ち目がないだろうと雪乃は悟った。
「少し無難に作りすぎたわね。そろそろ独自色を出していこうかしら」
「え、でも……。私は初心者ですし、今から手を加えるのはやめたほうが……」
「失敗したって許してくれるわよ。むしろ、白野君ならアレンジした失敗作のほうが喜ぶんじゃないかしら」
『ふふ……そうね。〈アリス〉はきっと喜ぶわ。普段のあなたがやるような失敗程度なら』
調理場の片隅で二人を見守っていた風乃は、楽しそうに呟いた。
『素敵な〈泡禍〉ね。〈アリス〉は食べてくれるのかしら?』
かくして、蒼衣にとっての夢は悪夢へと変貌した。
「ええっと。こっちが颯姫ちゃんの作ったほうかな」
バレンタイン当日。完成したチョコレート二種類は二人からという名目で同時に渡された。
蒼衣は、赤色の包装紙で包まれた箱を開けるとそう呟いた。
「あたりです。すごいですね白野さん」
颯姫は自然な笑顔でそう言ったが、蒼衣のほうは引きつった笑い顔を見せることしか出来なかった。
蒼衣が先に選んだチョコレートは〈食害〉付きだった。
「颯姫ちゃん。この赤いのって……」
「あ、それですか。最近読んだ漫画に『私を食べて』という台詞があって、ちょっと真似してみたんですよ」
颯姫は両頬に手を添えながら、わずかに赤らめて言った。
たしかに断章も本人の一部には違いないのだろう。
だが、小さな赤い蟲が蠢く姿は蒼衣の食欲を大きく削ぎ落とし、チョコを持つ手を震えさせた。
「おいしい……うん。おいしいよ……味は問題ないんだ……味はね」
「本当ですか? 良かった。そうそう、断章の〈効果〉で最近の嫌な記憶を一つ消せるようにしたんですよ」
蒼衣は悩む。それならばこのチョコレートに関する記憶を消そうか。
それとも、後に控えているもう一つの〈悪夢〉のために〈効果〉は残しておくべきだろうか。
ふと蒼衣が神狩屋に目をやると、彼は無心にチョコを食べ続けていた。
そこに感情は読み取れず、ただ目の前の悪夢を消し去ろうと口を動かしているようだった。
『――悪いのは おなかの中へ』
鬼気迫るものを感じ、寒気がした。
神狩屋の前にチョコレートを差し出せば、誰の物かも気に留めずに口にするのではないかと蒼衣は思った。
だが、雪乃が見ている前でそんな事をするわけにはいかない。
蒼衣はモスグリーンの包み紙を丁寧に開けると、目を瞑ってかけらの一つを口に入れた。
味はわからない。恐怖で舌の感覚は麻痺していた。
硬い物なのか、軟らかい物なのか。それすらも判断がつかなかった。
この黒い塊を食べきればバレンタインは終わるのだと、蒼衣は自分に言い聞かせながら咀嚼する。
呼吸ができずに涙が出た。異物を食べることはこんなにも辛く、苦しいことだったのだ。
「おいし、かったよ。雪乃さん」
どうにか食べ終えた蒼衣は、味覚が死んだままの状態で雪乃に言った。
おいしかった。そういう音を出すことが出来た。
「……そんな風には見えないわね。不味かったと言いたそうな顔をしてるわ」
表情の伴わない蒼衣の言葉は誰かに信じてもらえるはずがなかった。
自分すら騙せていない欺瞞。
雪乃にとっては不満が残る反応のはずだ。
だが、何故か雪乃は勝ち誇った顔になると、再び口を開いた。
「四野田さんの腕前も大したことないのね。安心して白野君。二つ失敗作が続いても、まだ私がいるわ」
雪乃が何を言っているのか、しばらく蒼衣には理解できなかった。
自分がいま食べたものは何だ?
感情を消し、感覚を殺して飲み込んだ物は誰が作ったチョコレートだった?
〈食害〉で消されていく二作目の味が、心地よい甘さだったことに今頃気づいた。
蒼衣が〈保持者〉でさえなければ〈効果〉は完全に働き、この味を感じることはなかったはずだ。
これからの出来事を忘れさせてくれる甘さは、すぐに消えた。
「白野君。このチョコレートは私の手作りよ。……〈あげるわ〉」
蒼衣に黒い箱が手渡される。
箱の中に希望が残されている事はまずありえない。
それでも普通の人間であろうとする蒼衣には、女の子から貰ったチョコを拒絶することなど出来なかった。
三木目先生がやってきた。
はなしは、おしまい。