「―――あれ?」
颯姫がその事に気付いたのは、背後の自動ドアが心地よい冷房の吐息を遮った直後のことだった。
忘れてもすぐ目に付くよう、右手に握りしめられたメモ用紙。左手には今まさにそのメモに従い購入した食材や文具類が詰め込まれたビニール袋。
それは特段珍しいこともない、いつもの颯姫の買い物風景だ。
そして右手の内容と左手の内容を再度見比べて、間違いなく達成したことを確認するのもいつもの手順。
しかし。
用の尽きたメモをズボンのポケットへ、それから念のためにと遣いやった……その手が胸元で空を切る段になって、颯姫は一瞬何が起きたのか分からぬような顔で首を傾げた。
「……?」
あるはずがない感触、いや“有るはず”が“無い”感触を得て、戸惑うようにその場所を見下ろす颯姫。
そこには今朝自分が選び身に着けたのであろう小さく花柄の入ったシャツが、自身の慎ましやかな膨らみに押し上げられるように存在して―――それだけしかなかった。
「あれ?」
その光景をやはり暫し受け取り損ねてから、やがて颯姫はおずおずと右手を背へ、首元へと伸ばす。
だが、触れるのはやはりただ背の感触、首の感触だけだ。手に馴染んだビニールカバーの感触も、同じく触れ慣れた紐の感触もない。
「あれ……?」
三度目の、多分に緊張を孕んだ疑問を口にして、ようやく颯姫は自身に起こっている危機を自覚する。
つまり―――自身の記憶たる手帳が、この胸元に無いという―――その事実を。
★
「どうしよう……」
三十分後、神狩屋への帰路についている颯姫の口からは、重々しい消沈の溜め息が零れていた。
結局、自分が落としてしまったらしい手帳は見つからなかった。買い物をしたスーパーの中は全て辿ってみた。レジやサービスコーナーにも問い合わせてみた。しかしそれで手帳が戻ってくることは無く、そしてここまでの道にもやはりそれは無かった。
もう視界には神狩屋の店構えが映っている。当然そこまでの道も。目的の落下物が無いことは明白だ。
また一つ希望を断たれ、颯姫は再び陰鬱な吐息をついた。
どこで落としたのか、全く思い当たる節がない。
自分にとって余りにも当たり前の存在であるが故に、事細かにその存在を確認していなかった事が悔やまれた。
午前中神狩屋にいた時も、買い物への道中や買い物の最中でも、着けていたと言われればそういう気がしたし、逆に落とした後であったとしてもそうおかしいことだとは感じられなかった。
もとより今日は提げていなかったという可能性を一応は考えてみたが、今朝それを首に掛けたことだけは間違いなく覚えていた。
今日の全てを鮮明に思い出せる訳ではないから、例えば朝食を食べたのだろう時間帯だとか買い物に出た辺りの時間帯だとか、つまりは既に蟲に食べられてしまった記憶の中で自ら外したという可能性は無くはない。
けれどそれにしたって、記憶の中で就寝時以外はずした覚えが無い点を考えると、その可能性も極々低いと言わざるを得なかった。
きっと、もう覚えていないどこかで落としたか、もう誰かが拾ってしまったのだろう。
……願わくは、最後の希望である『神狩屋にいる間に落とした』という可能性であって欲しい。そう思うしかなかった。
★★
「ただいま帰りました……」
解放されているにもかかわらずやや薄暗い店の入り口に踏み込んで、颯姫は戻ったことを告げる。それは誰かが居る居ないとは関係なく、帰宅の際いつも行っている挨拶。ただ今日に限ってその調子が沈んでいるのは、ある意味仕方のないことだった。
僅かな確率に縋るよう床に視線を這わせながら、店の奥―――小さなカウンターやテーブルセットなどが備えられた応接スペースへと踏み込んだ颯姫は、そこで。
「―――ああ、おかえり颯姫ちゃん。買い物行ってたんだ?」
隣のイスに夢見子を侍らせながら、やや眉間に皺を寄せるように本やノートと向かい合っていた蒼衣に出迎えられることになった。
「し、白野さん……こんにちは。来てたんですね」
やや虚を突かれる形になり、僅かに吃(ども)りを含んだ声で応える颯姫。
「うん。多分颯姫ちゃんがここ出てそんなに経ってない頃だと思うんだけど……ごめんね、勝手に上がらせてもらって。颯姫ちゃんも神狩屋さんも居なかったからさ」
「いいえ、大丈夫です。むしろ……」
申し訳なさそうな蒼衣に首を振ってそれから、蒼衣が来たことに釣られ起き出してきたらしい、左腕に『不思議の国のアリス』のウサギを抱き、右手で蒼衣の左袖を掴んでいる夢見子を見て、
「助かったくらいです」
颯姫は肯定を込めて微笑んだ。
「そっか。なんか起こしちゃった気もするんだけど。……ああ、颯姫ちゃんそれ―――」
安堵したような様子で頭を掻いた蒼衣は、颯姫の手に掛かった袋に改めて気付いて、手伝うと言うように腰を上げかけ―――左腕を引っ張られる感覚に、中腰のまま動作を中断する。
反射的に視線を流すと、どこかぼんやりとした意思の薄い瞳と、それに比べれば遙かに強力な意思を持って自身を繋ぎ止めんとする小さな手。
夢見子の無言の主張に折れた蒼衣は、ずり落ちるように腰を下ろした。
「……ごめん」
居心地悪そうな視線で颯姫に謝罪を入れる。
「ふふ、すぐそこですから」
微笑ましく首を振り、颯姫は荷物をカウンター奥へ。冷蔵の必要な物だけ手早く冷蔵庫へ入れて、残りはまとめて表からは見えない陰に置く。
颯姫自身がどこかに置き分けてしまうと、どこへ置いたか忘れた場合に困るからだ。今はそもそも手帳が無いが、普段でも流石にそのような事まで微細に記すことはない。必然生まれた習慣だった。
それから水道脇に貼り付けられた『帰宅したら手を洗い、うがいをする!』の張り紙の文面に倣うよう、それらをこなす。確か用心の為にと付けられたこの紙と文面だが、果たしてどんな経緯だったのか……。手帳を失くした今、それを思い出す術はない。
些細な疑問を、そして知らず取りこぼされた一つの記憶への認識を……しかし颯姫はもはや僅かな感慨すらなく打ち払い、タオルで拭った手をそのまま洗い場の上、食器棚へと伸ばした。
ささやかに置かれた食器類から冷飲料用のグラスを三つ、先ほど冷蔵庫から取り出していたプラスティックの容器から茶を注ぐ。
「ありがとう」
コポコポと涼しげな音に惹かれたように顔を上げた蒼衣から、感謝の言葉。
いかな風通しの良い室内とはいっても、やはり真夏場だけに暑かったのだろう。よく見ればその額にはうっすらと汗が、そして言葉には心遣いへの感謝だけではなく救済に対しての安堵も滲んでいた。
「ふふっ、いえ。……白野さん、氷は要りますか?」
「いや、要らないよ」
「わかりました」
役に立てたと快く笑って、蒼衣の注文通り氷は入れずに満たしたグラスを小振りなお盆の上へ乗せる。コースター三枚を一緒に乗せてテーブルへ。
もう一度告げられた礼に迎えられながらコースターとグラスを並べると、待ちきれなかったように蒼衣が手を伸ばした。遠慮がちに、だがその欲求を表現するように幾度か、気持ちの良くなるような嚥下の音が響く。
「……助かったよ」
中身を目減りさせたグラスを置きながら、気恥ずかしさを隠すように蒼衣の声。
「正直、ちょっと喉乾いてたから」
「暑いですもんね。次からは……我慢なんてせず、好きなだけ飲んじゃって下さい。白野さんなら構わないと思います」
「そうだね、どうしようもない時には甘えることにするよ。とはいっても、どっちにしたって今日は……」
シャープペンシル、グラスと経由させた右手を今度は夢見子の頭にやって、蒼衣が苦笑する。最近とみに蒼衣に懐きだした夢見子は、髪を梳くように撫でられるそんな感触に、心地よさそうに僅か目を細めている。
「……」
無言での否定に、颯姫も同じく内心で同意する。自身そう言いはしたものの、それが今日に限ったものではなく、以降でさえも実際にそんな機会は訪れない気がした。
颯姫も神狩屋もいない中で蒼衣だけがここにいるという状況自体、稀と言えば稀だが、仮にあったとして……果たしてそんな時に、夢見子が彼を離してくれるだろうか? 最近の彼女を見ていると、否応なくそう思わされてしまう。
それでも場合によっては、力の関係上蒼衣だって振り切ることはするだろうが、たかが喉の渇きを理由に蒼衣がそれを行うようには思えなかった。
「……かもしれませんね」
プクリと湧き上がった極々僅かなわだかまりを発言に隠した溜め息へ託し、苦笑に変える。中途半端だと嘆くのはいくら何でも自嘲的に過ぎるだろうと、心で首を振る。
ただその事に関しては、颯姫自身は気付いていないだけで、実の所、今交わしているどこか通じ合うような笑みなどは、立派にそんな特権の一つではあるのだが。
流石にそこまでの機微を察する事は出来ず、蒼衣は通常のまま苦い笑みを終えて再びペンを手に取る。
そして本達と向き合う作業へ戻ろうとして……思い出したかのように顔を上げた。
「そう言えば、颯姫ちゃん……外で何かあった?」
「―――え?」
「いや、なんとなく帰ってきた時の様子が変だったから」
刹那問われる理由に思い至れず聞き返した颯姫に、蒼衣は直感だけに頼る自信なげな確認で答える。
蒼衣にとってはまさに、帰ってきた時に颯姫がどこか沈んでいるような気がしたという曖昧な理由からの問いかけでしかなかったからだ。
しかし。
「……! そうでしたっ!」
事実、その時の颯姫の落ち込みは本物で、その原因が外出の最中に起こったのかという蒼衣の問いも、偶然とはいえ正鵠を得た仮定。
食い荒らされたのではなく、純粋に忘れていた―――その証拠に蒼衣の言葉で“思い出した”颯姫は、事の重大さを表すような大声を上げた。
「私、手帳をどこかに落としてしまったらしいんです!」
「えっ? 手帳って―――あれ、言われてみれば……」
そこにない事を今初めて意識したらしく、蒼衣が驚きを浮かべる。
その反応に颯姫は、自分の描く可能性を低く見積もり直しながら、それでも一応はと。
「白野さんは……知りませんよね? やっぱり」
微かな期待と多少の危惧を込めて訊ねた。
本音では、蒼衣の口から『知っている』という言葉よりも『知らない』という言葉が返ってきてほしい―――それは、そんな問いだった。
見つからなければ困る。けれど、彼に見つけられることは、多分もっと困る。
普通は、拾った手帳の中身の確認くらいはするだろう。そうと知って覗くような事はしなくとも、普段自分が肌身離さず持っているが故にそれとは確信できず。あるいは、それであると確認する為に、改められる可能性もある。
とかく、その内容が拾得者の目に触れる危険性は高い。
それが、かつてのように、ただ事実の羅列が並んでいるだけの手帳であったならば別に構わなかった。
だけど“もう駄目”だ。なぜなら……今や、あれら手帳は、単なる備忘録ではなくなっているのだから。
誰かに読まれては、そして何よりも彼に読まれるのは、その……困るのだ。記憶だけではなく想いによっても綴られた第二の心とも呼ぶべきそれを覗かれることは、颯姫にとって耐え難き羞恥だった。
複雑な感情のまま視線を傾ける颯姫に、しかし蒼衣は困ったように首を振ると。
「……ごめん、見てない」
あっさりと颯姫の危惧を否定した。
「そう、ですか……」
多分の安堵と僅かな落胆が、溜め息としてこぼれる。
その仕草を純粋な気落ちと勘違いしたのかもしれない。
蒼衣は気遣うように心持ち声の調子を下げると、颯姫へ重ねるように問いかけた。
「落としたのは神狩屋(ここ)? それとも外で?」
場合によっては、手を貸すということなのだろう。
「わかりません。ただ、外の方は、通った所は一応全部探したつもりなんですけど……」
「見つからなかったんだ?」
「はい」
「そっか……じゃあ、神狩屋にあるのかもしれないね。店(こっち)はともかく住居(むこう)は僕も見てないし」
「そうですね。探してみます」
「それじゃ僕も―――」
と、やはり腰を浮かしかけた蒼衣へ。
「いえ、大した広さじゃありませんから。大丈夫です。それよりも夢見子ちゃんと一緒に居てあげてください」
その心遣いには感謝しながら、けれど颯姫は伸ばされたその手を遮るように遠慮を示す。
蒼衣に見つけられることが同様の理由により好ましくない以上、彼の手を借りる利点は皆無と言ってよかった。むしろ、蒼衣が進行中の作業や、傍らの少女の事を顧みるに、この場合手を借りないことこそ正解といえるだろう。
「……わかった。もし何かあったら、その時は呼んでくれたらいいから」
対象が手帳であることを考慮した訳ではないのだろうが、それもそうかと納得してそう言うに留めた蒼衣へ、「はい!」と感謝を含んだ頷きを残して、颯姫は奥への扉に手を掛けた。
★★★
再び、手帳の探索が始まった。
まず自室。もちろん、そこに至るまでの廊下にも目を光らせる。たどり着いた後はデスクの上、抽斗の中、床に落ちていないか。無ければ念を入れてベッドの下、過去のメモ帳達が納められた段ボールまで覗いてみる。
次はリビング。テーブル辺りから見てゆき、ソファー、本棚には流石に無い。ついでとキッチン付近に足を運んでみる。とシンクの前、落下物が視界に飛び込んできて一瞬ドキリとするが、「……なんだ、メモの紙が落ちてただけですね」。ここにも無かった。
またも可能性の文字が掠れてきたことを自覚しながら、夢見子の部屋に向かう。もしかしたら世話の時に、と抱いた淡い希望は……しかしドアを開いて暫し、さほど時間も掛けずに否定されてしまった。
最後に洗面所とお手洗い、滅多に人が立ち入ることなど無い客室までもを検めてみたが、やはりそんな場所にあるはずもなく。
一部屋を残し、神狩屋の中を全て探し終えてしまった。
ちなみに最後の一部屋とは言わずもがな家主『鹿狩雅孝』の自室であるが、颯姫はそこを調べようとは思わなかった。
一つはその部屋に自身が入ることは極めて稀であること。
加えて、神狩屋の寝室件書斎であるその部屋は日常に対して不精である彼の性格を端的に示すかのように知識と興味達によって荒廃しており、足の踏み場もない状況。うずたかく積まれたそれらによって下手をすれば危険さえ伴うのだ。
更に万が一にも崩してしまった際の労力等々も加味すれば、その領域を捜索対象から除外することはむしろ当然の帰結だと言えた。
とはいえ。それをもって、颯姫の手帳の紛失が確定的になってしまった。
例えばどこかしらで誰かが拾ってくれて、奇跡的にその内容から颯姫に当たりを付け、しかもここに届けてくれる……そんな確率は、おそらく万や億でさえも表しきれまい。可能性で言えば、立派に『無い』に分類されるだろう。
あのメモ帳がもう自分の手に戻らないことを前提に、ならどうするべきか……?
颯姫は悩みながら、かといって具体的な何かを思い浮かべられぬまま、ひとまず店の方へ戻る。
カチャリ…と扉を開けばすぐ目の前、雑然とした店内で切り抜かれたように存在する応接スペースの丸テーブルに着いている蒼衣と目が合った。その瞳がやや落ち着かなげなのは、やはり捜索の成果が気になるからなのだろうか。
見ればテーブル上には既にノートや筆記用具などもなく、あるのはただ颯姫が最後に置いていった中身の無くなったグラス達だけだった。蒼衣の方はもう自身の用を済ませ、夢見子の相手をしていたのだろう……と、その手元の絵本から察せられる。
「颯姫ちゃん、どうだった―――」
視認からの条件反射のように、蒼衣は口を開き。
「―――って、見つからなかったみたいだね……」
言い切るより先に、颯姫の表情を読み案じるようにそう言った。
颯姫自身よりも、住居スペース(そこ)そこにある可能性を見い出していたのだろう。その表情には、恐らく颯姫が抱いた以上の落胆が透けている。
「はい……。やっぱりこっちにもありませんでした。多分、道で落としてしまったんだと思います」
「もしかしてページがうまったから仕舞った、とかは……ない?」
「ええ。それも探してみたんですが……」
「うーん。そっかぁ」
そんな蒼衣の表情に謂われない罪悪感を植え付けられながら、颯姫は気落ちを深め、諦めを表すように弱々しく首を振った。
どのみち、どれほど執着しても見つからぬものは見つからない。いくら惜しみ、悔やんでも過去を取り戻すことは出来ないのだ。
そうして長年自身の記憶(およびその関連事)と付き合って生きていく内に、颯姫はすっかりそういった類の諦めの良さを身に着けてしまっていた。今回はただ、その失したモノが些か大きく、幾分危険だっただけの事。
だから仕方がない……そう、もはや手帳の件に見切りを付けようとする颯姫。
そんな颯姫に、しかしある意味颯姫よりも記憶の重大性を知る蒼衣は、ある提案をすべく口を開いた。
「……ねぇ、颯姫ちゃん。諦めるなら仕方ないけど、もし良かったらさ―――作り直すの、手伝おうか?」
「……え?」
それは、颯姫にとって思いも寄らない言葉だった。……いや、それ以上に、思い至れない言葉と言ってしまっても良いほどの言葉だった。蒼衣が言った言葉の意味は理解できても、その発言の内容がよく分からなかったからだ。
戸惑いや驚きをまばたきの回数で表す颯姫に、蒼衣は「だからね、」と提案するように説明する。
「最後の手帳から今日までの出来事とかさ、颯姫ちゃん憶えてる限りを書いてみるのはどうかな? 曖昧な所とか忘れちゃった所も、もしかしたら僕が補完できるかもしれないし」
そう言って、「どう?」と微笑む蒼衣。
颯姫はまず、素直に感心した。やはり自分にはそんな発想はなかったから。颯姫にとっての失った記憶とは、決して戻らないモノの象徴だったから。保つ努力は惜しまず行ってきたけれど、取り戻す努力は無駄とさえ思っていたのだから。
そして次に、素直に感動した。自分さえも諦めた自分の記憶に、蒼衣がここまで言ってくれること、そして考えてくれる事を。自身が自分だけの自分ではないのだと、移ろいやすいこの記憶を含め、自身が皆の一員なのだと言われているように感じられた。
だから颯姫は、素直に頷いた。蒼衣の厚意と、失われるはずの記憶を取り戻せる可能性……その両方へ感じた喜びを、そのまま首の動作に換えた。
「はい! お願いします、蒼衣さん!」
「うん。なら……前のとこれから書く用の、取っておいで。待ってるから」
「分かりました」
「―――ああ、後!」
今度は了承の頷きをして踵を返そうとする颯姫。
そんな颯姫を、しかしなぜか蒼衣が呼び止める。
「はい?」
振り返った颯姫に、蒼衣は困ったような笑みを返しながらその右手をほとんど何も残っていないテーブルの上へ向ける。
そして、今は一輪挿しの小さな花瓶以外で唯一に存在するそれ―――空になった自身のグラスを持ち上げて。
「大したことじゃないんだけど、さ……後でこれ、お代わりもらえると助かるかな? はは……」
呆気にとられる颯姫に向かい、弱々しい笑顔をなぞるような声音でそう言った。
依然、室内は汗を皮膚の裏側で飽和させる程度に暑い。
これは少し配慮が足りなかったかと、颯姫は思う。
「そうですね、ごめんなさい。すぐ戻りますから、そしたらすぐ入れますね」
「うん、ありがとう」
それが今すぐでなかった理由は、別に動線的にその方が無駄を省けるからという訳でも、実は蒼衣が後で良いと言ったからという訳でもなく。
ただ、今から始めようという作業への逸りがそれだけ強かっただけのこと。嬉しくて、楽しみで……その最初の一歩を踏み出さずにはいられなかっただけのことだった。
くぐったばかりの扉を再び逆方向に通り抜け。
先に続く廊下へと、ただ歩くよりもかなり走る寄りの速度で。
その足は、先ほど捜索に向かった時よりも速いテンポを刻みつつも。
決して慌ただしさは感じさせず。
主の心境を代弁して、ただ……
リズムを歌い、ステップで奏でるような―――そんな、跳ねるような足音を響かせていた。
★★★★
太陽からの過剰な光や熱の供給を窓や入り口からほどよくだけ受け入れて、明かりなどに頼らずとも何とか薄暗くない店内。表通りはいつものように雑踏とは無縁で、喧噪の巣は遙か遠く。厚かましいのは精々耳に馴染みBGMと化した蝉の声くらいのものか。
そんな日中無防備に開放された場所としては格段に静かな神狩屋で、一つのペン先がカリカリ…と、躍動するように走行音を響かせる。
カラン―――……。
再び飲み切られたグラスの中、気遣いで入れられた氷達が居住まいを正す……そんな音さえはっきりと聞き取れる、応接間。
安らかに過ぎる時間にたゆたいながら、颯姫は穏やかな、けれど絶えず湧き上がる幸せを噛みしめていた。
すぐ隣には、逆隣(さかどなり)で座る夢見子に気を配りながらも颯姫の助力に努める蒼衣の姿。
いつもならもっと離れている、遠慮がちにしか見続けられないその横顔がこんなにも近くにある。ともすればお互いの吐息が混ざり合ってしまいそうなほどの、すぐ側に。
「……あの、この後は?」
「ああそれだったら―――……」
問いかければその声が、優しく応じてくれる。泡禍の一切と関係ない時の蒼衣の声は、颯姫にとっての普段以上に柔らかくて、暖かく感じられる。
記憶を辿るように、あるいは思案するように中空に泳がされる瞳。苦い経験にぶつかり皺を作る眉間。やるせなさを振り払うように伏せた睫毛。いかにその出来事が面白かったか、颯姫が笑ったかを伝えようと振るわれる笑み。そのどれもが颯姫には新鮮な表情達。
意図せずとも幾度となく触れ合う肩。頬を撫でた髪。重なった腕や手。体温。
こんな機会でもなければ自分には中々巡り会えなかったであろう蒼衣たち。
そしてそれらは今、間違いなく自分の為に提供されているのだ。
これを幸せと呼ばず、何と呼ぶのだろう―――。
そう思わずにはいられぬほど、その時間は煌めきに満ちていた。
憶えている限りをペンに託し、足りない所は蒼衣に訊ねて、補ってもらう。
記憶を代弁する蒼衣に魅入るあまり、肝心のその内容を聞き逃してしまう事もあった。
とっておきの想い出を忘れたフリでまた求めてみたり、自身と繋がらぬ過去の自分を羨んでみたりしたことも。
後で想いを綴れるように空けたスペースは、蒼衣への微妙な笑みで誤魔化して。
こんな時間が、すごく楽しいのだと。
少しだけ残念には思いながらも、それでも居なくなった手帳に感謝してしまうくらいに。
幸せだった。
颯姫の心を鮮やかに染めながらも、着実に埋まってゆく白いページたち。
緩やかに、けれど確実に一日を踏破すべく歩みを進める壁に掛かった針二人。
それらが恨めしく思えてしまうくらいに。
終わって欲しくない―――そう、切に願う。
この一瞬が永遠になればと。ずっと、蒼衣が自分の為だけでいてくれるこの時間が続いてくれれば……と。
……けれど。
当然に、それは叶わない願い。
前の日記から今日までを刻む日々の数、蒼衣が帰る時刻までの時の経過、いやもっと……例えば神狩屋の帰宅や雪乃の来着―――そういった終わりは明確に、すぐ先にぶら下がっているのだから。
そして、やはり。
手帳が半分以下にまで空白を減らし、壁時計が夕刻へと片足を踏み入れた頃。
颯姫が恐れた靴音と声が、その主を伴って。
「―――やあ、白野君。来ていたんだね」
終わりを告げにやってきたのだった。
★★★★★
落ち着いた足取りで応接スペースに現れた神狩屋は、その外出がちょっとした所用というにはいささか長いものだったとのだと一目で分かるような手荷物を携えていた。
よく見れば服装も普段のくたびれたベストやよれよれのシャツとは違い、その元々の上質さに頼れば辛うじて余所行きと言えなくもないモノに変わっている。
……惜しむらくは、その気遣いが頭髪の寝癖にまで回せなかった所為でほとんど台無しになってしまっている所だろうか。
「―――はい。今日は何もない事は分かっていたんですが……自分の方にも何もなくて。だから、気分転換もかねてお邪魔させてもらいました。神狩屋さんの方は? 騎士団(オーダー)絡みですか?」
「そうだね。不定期だけど定例の報告会……まぁ、みたいなモノかな。こちらから何かを報告すると言うよりも、どちらかというと、全国的なロッジの動向なんかの情報を収集する事が主(おも)だと言えそうだけど」
「……そんなのあったんですか?」
「そう頻繁にある訳じゃないよ。それに言ったように不定期だからね。そうだなぁ、君が来てからまだ三度目だって言えば、おおよその察しは付くかな?」
「はあ……」
「それでも以前よりはペースが速いからね。昔なら、年に一度あれば多いくらいだったから」
蒼衣と他愛ない会話を交わしながら、神狩屋は応接間を掠めるように横切って、その手に持った骨董じみたアタッシェケースをひとまずカウンターの陰に下ろす。
それから、テーブルに着く二人へ向き直り。
「所で……それは、いったい何をしているんだい?」
少し不思議そうに、少し興味深そうにそう言った。
「……」
「颯姫ちゃんのメモ帳が……その、紛失してしまったようなので、新しく作り直す事にしたんです」
答える事が直接の終わりに繋がる気がして口を噤んだ颯姫に代わって、蒼衣が答えた。
「……え?」
「幸いちょうど新しいメモ帳を颯姫ちゃんが買ってきていましたし、二人でなら、完璧とは言えなくとも少しは代わりのようなものが出来るんじゃないかと思って……―――神狩屋さん?」
そのまま返答を並べる蒼衣の言葉は、しかし、驚きから徐々に苦笑へ変色してゆく神狩屋の表情に勢いを失う。
「白野君、それは……実は偶然じゃないんだよ」
「……?」
神狩屋から移されたように疑問を顔に浮かべた蒼衣へ、そしてしがみつくように紙面へ挑む事に執心している颯姫に向けて、神狩屋は自身の表情の訳を語る。
「だって、颯姫君のメモは使えなくなっただけで失くなった訳じゃないし。その新しいヤツは、まさにその為に買ってきてもらった物なんだから」
「「え?」」
蒼衣と声を合わせて、颯姫の顔が上がる。
颯姫にとっても今の神狩屋の説明は聞き流せないものだった。
「それはどういう……」
「うーん……。颯姫君からは?」
「いえ」
「……だろうね。じゃ、始めから―――」
そう前置いて開始された神狩屋の話、神狩屋がここを出るまでにここで起こった事、そして今に至ったその経緯は……はっきり言うと何てことのない、思わず脱力さえしてしまいそうな代物だった。
原因の片方は些細なもの。
朝食が終わり、その残骸をシンクで始末する颯姫の首元で、紐が力尽きただけ。当然メモは蛇口からのシャワーを存分に浴びてしまい、水ぶくれを患う事になった。
その状態では到底書き込めるはずもなく、また浴びた水量から乾いた後でもそれは怪しく、加えてそのメモ帳の大半が既に使用済みだったこともあり、もうこれはここでお役御免としよう―――そう話が纏まった。
濡れた手帳はひとまず神狩屋のデスクの上に退避させられ、急遽必要になった新しい手帳は昼の買い出しで食材などと一緒に購入される事になった……と。
それだけならば笑い話にもならない些細な出来事。
原因のもう片方は仕方ないもの。
言うまでもなく、その事実を当事者であるはずの少女から奪い去ったとても有用で……とても残酷な断章の存在。
結果は、今この場の様子が全て物語っていた。
もっとも―――。
―――その解釈自体は、各個人により大きく異なった形を成していたのだけれど。
「……そうだったんですか」
何だか肩すかしのような気分を味わいながら、だが蒼衣とて彼女の断章の理不尽さは身に染みて知っているのだ。納得して、了解を返す。
「うん。そろそろ乾いてると思うから、取ってくるよ」
告げて、部屋に戻るならばということなのだろう、つい今し方床に置いたばかりの鞄を再び手に取って、神狩屋は店の奥へと消えていった。
「ごめんなさい、蒼衣さん。私……」
と、残された沈黙を嫌うように、すぐさま吐き出された言葉。
わざとではなかったとはいえ、結果的に蒼衣に無駄を強いてしまった事を申し訳なく思い、気を落とす颯姫。
「いや、颯姫ちゃんの所為じゃないよ。それに、それを言うなら僕の方こそ、早とちりして無駄なことさせちゃってごめん」
そんな颯姫の言葉をやんわり打ち消し、蒼衣が逆に頭を下げる。
慌てたのは颯姫だ。
「そ、そんなこと―――!」
颯姫にとって今の時間は、無駄どころかひたすらに好ましいモノだったのだから。
その時間が続く事を願い、終わる事を恐ろしく感じるほどに、心から楽しいひと時だったのだから。
蒼衣に感謝こそすれ、謝られるなど筋違いも甚だしかった。
「うん、そっか」
お互いに謝り合うことも滑稽だと、蒼衣が苦笑でその幕を下ろす。
そして出してはいたけれど結局今度は使う事の無かった自身の筆記用具を鞄に収め、反対側の、夢見子の方を構い出す。
その後頭部越しに。
「……まぁでも、良かったよね」
「?」
思い至れないなら首だけ振り返り、視線を通わせて。
「日記、見つかってさ」
「……」
「…………はい。そうですね」
正直に、その事への安堵と、その事を残念に思う気持ちとを一拍に表して、颯姫は頷く。蒼衣の言う通り、これで良かったのだ。と。
失う覚悟をした物は、こうして誤解の事実と共に自分の元へと帰ってきた。
結局失ったものと言えば捜索に当てた僅かな時間だけ。
そして得たモノは―――。
「ありがとうございます、白野さん」
「ん? 手伝ったこと?」
「そう、ですね……」
「―――そういうことにしておきます。えへへ」
足音の先への未練を、今度こそ感謝の言葉で断ち切って、颯姫は笑う。この手と心へ確かに残ったモノ達の暖かさをしっかりと抱きしめて、想いの底から。えへへ…と。
高望みなどしなくとも、今日得たモノは既に至高だったのだから。失った以上の時間と、有り余るほどの想い出と、その証である品までも。
これ以上を望めば罰(ばち)が当たるというものなのだろう。
―――そうだ、明日また新しいメモ帳を買ってこよう。
颯姫はそう決意する。
水に浸かりしわしわになっているだろう前の手帳も、宝物になってしまったこの手帳も、もう使えないのだから。それは自然な結論だった。
その確定事項を、今度は忘れてしまわないように、先ほど台所で拾ったメモ用紙に手控える。
「ふふ」
「どうしたの?」
「いえ、なんでも。ただ……すごく嬉しくて」
「……?」
大切な今日の一日を、この手帳にとっては最後となるページに刻みつけて。
静かに閉じる。
この記憶の行き先は、現実においても、心の中においても、もう決まっている。
よく目の届く、日常というデスクのすぐ目の前に、とっておきの知識や出来事たちと並べるように、飾るのだ。
きっと自分はこれからも、断章によって無数に記憶を喪失していくだろう。
どれだけ自分が手を伸ばしても、その手をすり抜け消えてゆく幾多の記憶があるはずだ。
文章でしか知らぬ、記憶ではなく知識となってしまうモノだって必ずある。
……だけど。
今日の、この日の事だけは。
今までの中でも取り分けて眩しくて、鮮やかな今日のこの時間だけは。
絶対に忘れない。
朝に、昼に、夜に。
目が覚めて最初に、眠りにつく最後に。新しい手帳の一ページ目に必ず、必ず目を通す所には必ず。空白の時間には胸に光景を、本人を前にしては腕や肩に体温と感触を。
絶対に忘れたりなんてしない。……忘れてたまるものか。
それは颯姫の、自身へ掲げる絶対の誓い。
強く、強く。誓いを抱いて颯姫は未来を凝視する。
そこに求めることはただ一つ。願うことはたった一つだけ。
それくらい嬉しかったから。それくらい幸せだったから。
反復して忘れない。反復は苦などではない。それはただの、幸せの反芻なのだから。
だから―――。
そうやって、ずっと。自分は。
何時までも。何ヶ月、何年、何十年先までも。
大切なこの想い出を―――。
―――保守していこうと思った。